雑木林で作ってみよう!

林利用技術を習得し里山との関わり方を考えます

期間特別テーマ、オオタカをめぐるつくば、中根金田台地区開発の行方 記載中

体験からわかったこと  里山保全とは環境創造ということ?

中根金田台開発についての話題は別ページに分けます (2009.7.7)

内容を整理します

 里山保全に関する一般的な感想は今まで通りこのページの先に置きます。
   →中根金田台開発の話題についてはこちら

このページの本題に入る前に、中根金田台に関することに少し触れます。

中根金田台のページで言いたいこと、

・「まずは事実を知り、事実に基づいて考えましょう」
・せめて、知ることを拒まないでください。何でも言われたまま信じずに自分でも考えてみてください。

 このページをたずねてくれた方の中には、中根金田台開発やオオタカのことなどを知って興味を抱き、もっと調べてみようと思い立った方が多いことと思います。伝えられている情報にあるように、どちらかといえば開発はけしからん、やめるべきだという意見をお持ちではないかと思います。
 ここでは、伝えられる内容が一方的で偏っていると思うところから、それに補足するべくいろいろ書いています。

 説明無しに書くと誤解も招くのですが、あえていくつか問題提起です。よく考えて欲しいところなのに、決まりきったこととしてさらっと流されてしまうことがたくさんあります。決して常識ではないと思うんですけど・・・。

・自然を守れ、ってそれはどんな自然ですか?

(問題にしているものは人が関わってきた自然なんですが)
・自然を守れ、って誰に対して要求しているんですか?

・森は切ったらもう元に戻らないんですか?

・オオタカは一度いなくなったらもう戻って来ないんですか?

・沿線開発計画は、単に中止できるものですか?
 どのようにおさめるべきか、ってのは考えていきたいです。

・本当に環境を、自然を大事に守りたいと考えていますか?
 自然と関わる暮らし方をするという覚悟はありますか。

・本当に誰もが自然を守りたいと考えているのですか?
 あなたが「私はそう考えている」と言うとしても、それは世論の多数になってますか?

・今の状況を確認して、これから何ができるかな?
 考えることはしたいです。ただ反対と言って済むものではない。

 ここに挙げたことについて「何を言ってるんだ?」と思ったならば、是非とも中根金田台開発の話題ページを見てください。でも、その前にここでもう少し説明させてください。
 これからどのように考えていけばいいのか、そういう議論は大いにしたいところですが、残念ながら意見がかみ合えないようです。開発反対の立場においては、異なる立場の意見を聞くことも知ることもそれ自体が拒否されているようですので議論以前の問題です。そうして偏りをもった、事実誤認ともいえる情報が広く伝わっているようです。マスコミも反対運動につきますから、そんな傾向が拡大します。
 黙っているともう一方の意見があったことすら知られずに終わってしまうので、いろいろ書いているわけです。ここに書くことは、皆さんが初めて聞くような話もあるかもしれませんが、これも一方の事実であると知ってください。よく伝えられている話の中で抜け落ちている部分、あるいは故意に無視されている部分を補足しているつもりです。双方の情報を合わせて判断していただけることを願います。
 他の者の意見も聞きながら、これからどうすればいいか考えたい、考えられるようでありたいです。そういう思考や議論の妨げになっているものが何であるかについても考えてもらいたいです。

 中根金田台関係の詳細は別ページに書きますが、その前に私の立場と意見を簡単に書いておきます。
 雑木林で遊ぶ会というグループの活動として、上境地区の一画(中根金田台開発区域内です)にある雑木林を舞台にもう20年ほど遊ばせてもらっています。遊ぶという日常の関わり方、考え方をもって、実質的には保全活動を行ないながら里山とどういう関わり方ができるかを探り続けてきました。
 この地に開発計画があること、その内容でもめていること、(開発計画の大元である)つくばエクスプレスの建設が決定したこと、(当然それに伴い)中根金田台の開発計画も決定したこと、などの経緯を当然のことながら見てきました。ただ、この会は里山を守ろうという立場の取組みではなく、こういう場所が残ってくれることを願いつつも、現実(開発を前に自然を残せという意見は決して多数派ではない)の状況下で当事者に自然を守れと要求する立場ではないことをわきまえていたつもりでした。いずれ開発が始まるとわかっていた場所で、それでも遊び続けることが我々にできる精一杯のことでした。そんな取組みから何かを変えられるかもしれないという、ほとんどあてのない望みを抱きつつ、そんなつもりでした。
 遊ばせてもらっていた林の地主さんである酒井さんは、開発計画が押し寄せる中でいろいろな立場の方と協力して、計画の見直しを要求して実現させた(開発面積が当初予定の2000haから1500haまでにはなった)り、保健保安林の指定を申請し実現させることによる緑地の保全をはかったり、自然の中に暮らすとも言えるスタイルの町作り提案(これの大規模開発バージョンが今の中根金田台の緑住農計画)を行うなど、いろいろに取り組んできていました。遊ぶ会のメンバーはそんな様を折りある毎に見ていたり、話を聞いたりはしていてそれなりに把握していました。遊ばさせてもらっている雑木林の場や周囲の環境が残って欲しいとは願いながらもそれがままならない状況が進行していることを感じつつ、自然を残せという要求をするのでもなく、酒井さんの取組みを支えるでもなく、ただその場で遊び続けました。自分達の立場ではそれが精一杯と思ってましたから。そして、遊びという関わりを通じてこんな関わり方ができる場があることの大切さを訴えていくこと以上のことはできないと、そうだけれどもそう訴えることを続けていかないといけないと思っていました。
 本当はそのまま黙っていたはずだと思うんです。もちろんいろいろ考えていたことはあったんですけどね、とやかく言える立場ではないし。だけど黙ってはいられない状態が生じました。
 オオタカをめぐって2007年春に工事が中断し、反対運動の中でいろいろなことが言われるようになりました。その意見の中に、事実と異なる非難中傷にあたるとも思えるものが少なくなく、なおかつ反対運動の対話を拒否する姿勢にいたたまれなくなりました。マスコミも偏向している状態で、このままではこちら側(?)の意見を伝える媒体がありません。そんなわけで私が作っていたHPの中で書き始めました。この問題を考えるうえで共有しておいて欲しい情報を述べてきたつもりです。一方で話されていることがあまりにも少なく偏っているものですから、継ぎ足す内容はいっぱいあります。
 中根金田台開発について、是非とも目を通していただきたいです。(2009.7.7、8.1一部変更)


ここから先は、里山保全について考えたこと(一般)の記録です

 雑木林で遊ぶ会の活動を通じて考えたことなど書いていきます。
 実際に行ってきたこと、実践の中で考えさせられたことなどから、これからこうしたい、こうありたいと思うところまであります。

はじめに
初めに言いたいこと 「林を守ろう」ではなく「林と関わろう」と言いたい

里山保全に関わる出来事の記録、コメントなど(一般)
新しい血(?)が必要ではないかな。気楽に関わろうと思える環境が必要だと思うのだが。 2009.10.31 NEW
「里山を守りましょう」と呼びかけているわけではありません。(自分の環境は自分で創り守る。そういう意識と仕組みがあって欲しいと考えてます。) 2009.10.24 NEW
日々雑感。環境は誰かが守ってくれる?政治が面倒みてくれる? 2009.10.18 NEW
「遊び」ってそんなに悪いことかな? 2008.3.10
里山という教材の宝庫を活かすこと、多様な参加呼びかけを考えたい 2007.11.18
当会勉強会・送別会 2006.3.4
当会会合 2006.2.11
里山学習会 2006.1.28

始めに言いたいこと 〜 「林を守ろう」ではなく「林と関わろう」と言いたい

「雑木林で遊びましょう」の意図すること

 工作講習会の企画を始めたそもそもの理由は、雑木林の保全をすすめるために関心をもつ人を増やすためであることは別のところで書きました。ただしその考察過程において、保全がそもそもの目的なのではなく、私たちにとって本来必要な身近な自然との関わりを保つことが本当の目的であるとの考えにたどり着きました。「雑木林で遊ぶ会」の活動を通じて、遊びたいならば遊び続ける必要があること、そうすれば遊びの場を確保できうることを学べたように、自然と関わりたければ関わり続けることが必要で、そのための技術、知識ももたなければならないのだと考えています。
 そんな考えでやっているわけですから、私は「遊ぶ会」でも「工作講習会」でも「雑木林や里山を守ろう」とか「保全しよう」という言葉を使いません。ボランティアをしているつもりもありません。何かのために行動するのではなく、自分は雑木林でこうしたいという関わり方を目指しているつもりですから、「守ろう」と言う代わりに「こんなこと一緒にやってみませんか」というメッセージを掲げることにしています。それが「雑木林で遊ぼう」と呼びかける「遊ぶ会」の原点であるとも考えています。
 「雑木林で遊びましょう」と言っているわけですから、里山の荒廃、消失を気にかけて取り組む人たちから「なんて呑気なことを言っているんだ」といった意見をいただくこともあります。でも、このメッセージを言葉通りに受け止められても、ちょっと困るなと思っています。
 「遊ぶ」と言いながら、いわゆる里山に対する認識や保全活動の意識は皆それぞれにもっているつもりです。実際にやっていることは保全活動そのものです。初めの動機はいろいろな「遊び」にあったにせよ、こういう関わりを続ける中でいろいろ見聞きして考えるようになります。初めにしっかりした考えをもって取り組み始めるわけでなくとも、まずとにかく関わりをもつようになってみて初めていろいろ考えられることってあると思います。雑木林・里山で「こんな遊びって面白くない?」と呼びかけていくことで、関わり始めの入り口を大きく、敷居を低くしていきたい、そういう思いを込めての「遊ぼう」であることをわかって欲しいと考えます。
 さらに言えば「遊び」という言葉の意味にも誤解があるようです。「雑木林で遊ぶ会」が当初から掲げている「自分の責任で自由に遊ぶ」というモットーについて遊びながら考えないではいられません。遊びたければ、それ相応にやらなければならないことがあります。その義務・責任を果たさなければ遊び場所の存続は保証されません。こういうことは、遊ぶという関わりを続けていけば理解できることです。その義務・責任を果たそうとした結果が、いわゆる里山保全活動をやっていることになっているわけですが、出発点は違うものです。そしてこの違いは重要なことだと考えています。

「守る」よりは「創る」、「デザインする」と考えて取り組みたい

 私も、雑木林・里山を保全していかなければいけないという考えからこういった取り組みに関わるようになった者です。しかし、守るために守ろう、そのためにはどのような方策・制度が必要になるか・・・、といった今現実に進んでいる様な展開には限界を感じます。お金もマンパワーも行き詰まってしまいそうです。遠回りだし無理なことのように思えるけど、やはりもう一度、「雑木林でこうしたい」、いや「あれをするために雑木林に行かなきゃ」と思えるような関係を作っていかないといけないのかなと考えるわけです。自分のために関わろうと考えるのですから、関わりの程度に応じて時間なり、労力なり、お金なり負担することは納得できるはずです。自分のための関わりとは、守るための作業ではなく、創造のためのデザインに取り組むことだと考えます。実際にやることはどちらも同じであっても(事実上そうであっても)気持ちの持ち方次第です。そんなデザインも遊びのうちです。
 本音は保全したいということですから、それを前面に掲げて訴えるのが一見わかりやすくて良いのでしょうが、真に実を結ぶものになるためにも遠回りな今までのやり方にこだわりたいです。「遊ぼう」という呼びかけに込める思いがいろいろありますから。

里山保全について考えたこと書いていきます

 平成18年1月28日、上境の雑木林で「里山学習会」が開かれました。つくば市による市民公募で組織される市民環境会議による企画で、このテーマでは一昨年に次いで2回目になります。
 学習会に参加していて、身の回りにある里山はどうなっていくのか、どう関わっていけるのか、あらためて考えさせられました。「作ってみよう」のページにおいても、今まであえて触れずにいたこのテーマを扱う場を作っておかないといけないな、と考えてしまったわけです。いろいろ書き出すとテーマが絞れなくなりそうでためらっていましたが、やはりここに行き着くようです。(2006.2.2、2007.12.24、2008.10.25加筆修正)

里山保全に関わる出来事の記録、コメントなど

新しい血(?)が必要ではないかな。気楽に関わろうと思える環境が必要だと思うのだが。 (2009.10.31) NEW

そっぽを向いてしまっている大勢に来てもらいたい

 書きたいと思いたったので書いておきます。今回はいつも思ってる不満のようなものを出してみます。これは里山との関わり方とされるものについて私が考えている課題。実際には改善しようとしながらかえって変な方向へ向いているように思うんです。
 里山保全運動に喧嘩売ってるみたいなこと書きますが、一度言っておきたかったんですよ。皆同じような賛辞並べて褒めることしかしないから、ちょっと問題提起です。同質の人たちの中にいたら絶対に気付かないことですから、かなりアウトローな里山保全者(?)の私から石を投げてみます。良いことと信じて推進していることのありようについて、ちょっと考えてみませんか。
 
 前回、守るのが目的ではないんだ、と書きました。また、このページの「はじめに」ということで、里山、雑木林に関わる機会を増やすこと、関わるまでの障壁を小さくしたいと考えていることを書きました。本当に折あるごとにそう思います。
 里山をボランティアの力で保全するという取り組みを形式ばったものに作り上げ、あまりにも懸命にこれに進めることはかえって里山に気軽に関わろうという気持ちを持ちうる人たちを疎外していないか?
 現在進める里山保全ボランティアの世界がそもそも少数の関心を持つ人たちの間でのみしか通用せず(仲間内で集まって話している事柄、考え方は外部の人に説明する時には翻訳が必要です)、その人数を増やしているといってもやはり少数派としての内での推移でしかありません。その労力でカバーできる範囲は一体どれだけか、手入れが必要になる里山の内の果たしてどれだけをカバーできているのでしょうか。そんな状態で、「市民の手で里山を守れるんだ」と言われても、理詰めで考えられると「そんな馬鹿な」って相手にされない。そんな感じで皆白けてるって空気を感じます。
 だからといって、もっと保全ボランティアに関心をもってもらおうと勧誘し、どうすれば有効であるかと策を練るのはこの際問題ではありません。そもそもそんなことじゃないんだ。
 里山を守ってあげるためではなくて、自分のために里山に関わろうというより自然な欲求で、様々な形式、レベルでもいい、とにかく里山に関わりをもってもらえることを第一に考えたい。いや、そんな偉そうな話じゃなくて、そもそもそんな関わりを多くの人はもっていたり、もちたいと思っていたんではなかったか。そこに、里山との関わり方のマニュアルみたいなものが出てきてかえってそんな人たちを追いたててしまってきたような気がします。そう思うというだけですが。
 しっかりと正しい知識をもってから里山に触れてもらおう、そのための教育もしないと・・・、という感じの里山教育。いや、いいんじゃないか、最初は勝手に遊んでもらっても。いろいろ原体験をつんでくださいよって。間違いだってあるでしょうよって。それを経て正しいものが身に付きますよって。昔はそうやってたんですよね。里山を再生するために必要なものがあるなら、やっぱりそんな意識の持ち方なのではないかな。
 とにかく多くの人が、どこでも当たり前に、自分が関わるべき身近な里山を意識して関わるようになること、そうすれば里山は再生できる、結果として。すごい楽観的な結論になりました。これだって難しいことですけどね、でも里山保全ボランティアのシステムを作り上げてそれを推進するよりは簡単そうだし、無理がなさそうだ。
 

理系と体育会系がノッテくるような里山活動を見てみたいな

 ちょっと乱暴な表現ですけど、誤解を恐れずにあえて書きます。例外はある(私もそう)にしろ、現在里山保全活動というやつはどうも文系-文化部系が多数といえます。なぜそうなったかということはとりあえず置いておいて、ひとたびその状態ができた時にこれが拡大再生産されてより強固になる様子はひしひしと感じます。感覚が違う人には近寄りがたい空気ができてしまうんです。あるいはちょっとのぞいて呆れてしまうような空気がね。
 理詰めで考えると先が見えてしまうから理系の人間から見るとこんな(守るための)取り組みはとっつきにくい。本当は力仕事が多く腕の振るいようがあるはずなんだけどそういうイメージが出てこないから体育会系には物足りない、というか興味がわかないか。文系-理系、文化部系-体育会系をそれぞれ同じ人数いるとするなら、今の里山保全運動は初めから4分の3の人間を除外してしまっている、とさえ私には感じられます。
 とにかく間口を広げましょうよ。いろんな人が入ってくる時には、許せないような遊び感覚で関わる人もいるかもしれないけど、まだ型にはまりきった保全作業よりましではないかと思う。遊びから始めても後から理解してもらえればいい。いろんな経験や特技、力をもった人たちにおおいに腕をふるってもらいたい。
 気軽に関わってみようかなという雰囲気、環境をいかに作れるかということが課題になるんだろうなと考えてます。

「里山を守りましょう」と呼びかけているわけではありません
 自分の環境は自分で創り守る。そういう意識と仕組みがあって欲しいと考えてます。(2009.10.24) NEW

「雑木林で遊ぶ」の斬新性、これは里山ボランティアだとは考えてません

 気がつけば、里山を守ろう、保全しようという取り組みはあちこちで広がっているようです。確かに増えてるんでしょうけれど、でもよくよく見てみると関わる人数、保全面積などからして極々一部の人たちの取り組みです。個別の里山を守りたいということで集まった人たちの取り組みということで納得しますが、これが衰退する里山環境一般を守るための取り組みであるというのであれば、その将来性が本当にあるのかと疑問です。「市民の手で里山を守る」という取り組みは果たしてうまくいくのか、世の中でさらなる支持を集められるものなのか。
 「里山を守ろう」「ボランティアで里山再生に参加しよう」と言われて興味を示す人はいますしそういう人が増えてるかもしれませんが、でもやっぱり圧倒的に少数の中での推移にすぎません。まだまだ意識が足りないんだと思うのは保全を呼び掛ける人たちの捉え方で、でも実際にはそんな呼び掛けに対してみんな白けてるんだろうなって感じますね、私は。理詰めで考えると里山を守るためにボランティアをしよう、というのはどうも無理がある。守るためのボランティアと考えるとことが大きすぎる。人件費は無償にするとしてもやはりコストがかかることで、従来手をかけていた人たちがやりきれずに投げ出したものの肩代わりなんてできるはずが無い。そう冷静に考えられてしまうと、所詮物好きでやってるだけくらいにしか思われないんですよね、これって。
 
 自分自身が身近な自然への関心から地域の里山保全運動に関わり始めて、最初のうちこそ市民参加による里山保全の可能性を感じましたが、でも何かが違うんです。里山を「守る」ために取り組もうとする取り組みが果たしてうまくいくのだろうかと、何かしっくりしないものを感じてました。
 そんな時にたまたま参加した雑木林で遊ぶ会の取り組み方にとても興味をひかれました。「子供たちを自然の中で遊ばせたい」「そんな場を持ちたい」との思いから始まったという取り組みの様子は、雑木林を守ろうという気負いはなく、いろいろやりたいことに皆めいめいに取り組むのですがそれらの姿が実に自然で違和感無いというのか。それでいて、保全ボランティアがやるように草刈りとかの保全活動はやりますからね、それを目的ではなく手段として。目的はここで遊ぶため、この場を守るために。この関わり方が大事なんだなと思ったんですよ。こんなことができるのか、本当にできるのかって驚きだったんですけれどもね。その後の私のここでの関わり方は、そんな関わり方ができるんだという実証と、その紹介、普及を目指したものでした。その成果はまだまだ全然だめなんですけどね。
 とにかく、雑木林に遊びに来てくれてここはいい場所だとの感想をもたれるような方には、その場が存続するために何が必要であるかを理解していただき「一緒に取り組みましょう」と呼びかけているつもりです。もちろんこの場所に限らず、あちらこちらでそんな関わり方をそれぞれ始めていただいてもいいのだと思います。あちこちで里山環境との関わり方が見直されてくると、それはそんな取り組みへの追い風となって何かとやりやすくなりますから。
 でも、なかなかうまくいかないんですよね。たぶん、先に述べた雑木林で遊ぶ会のコンセプトもうまく継承できていません。やはり時間が経ちまして、取り組み方も徐々に変わってきます。最近はありふれた里山保全団体に限りなく近づいてきたかなとも思うところもあります。
 
 変わってきたことはありますがね、せめてここで言い続けますよ。「里山を守ろう」なんて安っぽいことを訴えてるんじゃありません、「雑木林に遊び関わる」そんな生活があることの必要性とそれに伴う義務への理解を問うています。そういう場は自分の都合に合わせて存在してくれませんから、必要と思えば常に関わり続けて維持しないと手に入らないんです。でも、そんな面倒なことを差し引いてもこれはとても意義があることだと考えてます。だから、そう納得して下されたならぜひ一緒にやってみませんか。
 

ここは日常の暮らしの場。ビジネスモデル?その呪縛から逃れたい。

 保全は目的ではなく手段でしかない、いやあくまでも「結果に過ぎないのだ」とここまでいけば究極ですね。これは見かけ上、昔の雑木林などが必要とされた時代に戻ることになるんでしょう。
 昔に戻ればいいというネガティブ発想は保全活動においてもタブーなのでしょうが、しかし、守りたいと思う里山の保全のためにはやはりそこに日々関わる人の暮らしがあることが必要だというところは避けれないかと思います。その場を必要とする関わりの中で里山環境が始めて維持可能であるのだと。もしそうでなくて、保全のための保全に手をつけるのであればコストがかかりすぎるでしょう。
 いろいろ方法を考えてみても結局は利用する必要があるから存在する、という形に落ち着くしかないのだろうな。
 
 そして、ここで言う利用は商売、事業を意識していません。おそらく利用の部分だけを切り出して単独の事業として成立するものではありません。そこにある日常の関わりの中に取り込まれて少しずつ何らかの足しになって暮らしがより豊かになると、なおかつそんな要素が複数あることから全体で見て始めて意義があるとされるものだろう。例えば、要素の1つとして「遊ぶ会」の本分である「遊び場」を考えたって、商売としての遊び場の最善形態を考えたらそれは雑木林ではなく、また雑木林では全く採算が取れないって判断になるんでしょうから。
 この辺が実は落とし穴かと思うんです。里山が、雑木林がその価値を落としてきた理由として、不得手であるはずの専門性を求められたということがあるでしょう。多様性というか複合性というか、雑雑とした所に持ち味がある雑木林に何かしらの特定分野を選んで勝負しろって言われてもね、そもそもその勝負を受けねばならないことが間違いなんですって。存在意義の次元が違うって突っぱねないといけない。
 燃料革命によって地位を失ったとされる里山だけど、世の中で同時に進んでいたそんな価値観の変化も追い打ちをかけたんでしょうね。雑木林はその多様性こそが持ち味なのだろうし、基本はそこに関わる人の暮らしの中で存在しているということでいいんだと。そういう意識で見守れなかったっていうことが大きな原因であって、それは過去に限らず現在、そして将来においてもそう。
 里山の再生のために里山ビジネスなんてよく言う。生活をベースに発信されるそれらはいいけど、中にはかえって首を絞めるんじゃないかって不安になることもある。なにより、ビジネスベースで成立できないならそんな里山は失格だ、なんて意識を広めることにならなければいいけどね。その勝負は雑木林にとって絶対不利だ。
 

創造的に関わっていきましょうと、そう呼びかけていきたいんです。

 里山との関わり方ってどういうものだろうかと、まずは先例にならっていろいろと踏襲することが必要でしょう。学んで実践して身に付けて、って具合に。
 まずは真似をすることが大事なんですけどね、でもここでも何か引っかかることがあります。どうも里山保全活動がマニュアル化してきているようで、あまり型にはまりたくないんですよね。この型が必ずしも伝統的な里山の営みとも違っているように感じていて、なおさら引っかかる。
 作業の基本は身につけます。里山の在りようについても学ぶでしょう。でもそのくらいまでで後はいろいろ試しつつ関わっていける自由さが欲しいです。とにかくそういう自由を確保できるように意識し続けたいです。まさかとは思いますが、里山活動はこうでなければならないと強く束縛されるようなことが起こらないとも限りませんしね。
 いろいろ新しいことを試したつもりでも、後から振り返れば従来通りの関わり方からちょっとだけ踏み出して進歩したに過ぎないんでしょう。いろいろ挑戦してやっと現状維持なのだと、初めから型通りであればどうなるのかと思います。そもそもそんなつまらなくなりそうなことに人がついて来てくれるかどうか。
 
 遊ぶ会で呼びかけていたこと。「一緒にやりましょう」そして、「あなたが持っている関わり方のアイデア、待ってます」

日々雑感。環境は誰かが守ってくれる?政治が面倒みてくれる?   (2009.10.18) NEW

日常的なありふれた環境と非日常的大自然

 休みの日に高速道路を走ってますと、本当に車が増えましたね。こちらは常磐自動車道でして、今まで年末年始やお盆の頃でもなければ渋滞どころか込んでいるという実感もなかったわけですが、やはり休日1000円効果なのでしょうか。皆遠くへ遊びに行くわけですね。観光地はきっと大賑わい。ということはそれだけ人がいなくなった場所もあるわけですね。
 大学生の時に自然研究会というサークルに入っておりました。対象は専ら植物で真面目に何らかのテーマで取り組むこともあれば、週末にはどこかしらか出かけて散策するといった具合でした。昔は名前通り研究が多かったんだろうけれども、私がいた頃には既に週末散策会の傾向を強めていて毎週のようにどこかしらか出かけてました。そんな風に自然散策する人たちが自然愛好家という受け止め方ですよね、当時も今も一般には。
 この当時、身近な里山、雑木林といった環境に関心を持ち始めていました。非日常的な大自然よりも、日常接するありきたりの環境が重要だろうという考えからです。そんな環境との関わり方を考え、実践したいと地域の里山保全グループの草刈り活動などに参加し始めました。
 遠くに出掛けなくともすぐ近くにこんな場所だってある。そういう場所にも出かけて会として関わってはどうだろうかと提案してみましたが、あまり関心を持たれなかったようで、また参加不参加は個人次第で会として関わるとはいかがかと先輩方から指摘されました(*)。そんなわけで私は個人的に地元の里山に通い続け、結果としてそのサークルから遠ざかりました。その頃から考えてるんですよ、「身近にある里山、雑木林といった環境との関わりを求めることと自然愛護は必ずしも一致しないものだ」ということを。自然を愛でる人たちは、今度はこっち、次はあっちとあちこち愛で歩きながら、ある時お気に入りの所へ出掛けていってその場所が台無しになってしまったことを知って「いい場所だったのにもったいない」と嘆きながら、「ではあっちへ行くか」とまた出かけていく・・・。こういう自然愛好家が増えてくると、気が付いたらどこにも何も残ってなさそうです。当然身近にあるはずの何気ない、特別ではない雑木林なんかは見向きもされてなくてこちらも悲惨な状況になります。
(*:当時は不服にも思いましたが今では正しい判断だったかと思います。最近ではボランティア教育の成果なのか、学生たちがボランティアグループ単位で里山保全活動などに参加することが多くあり好ましいこととされているようですが、・・・これは気持ち悪いと思う。その点当時の先輩方の指摘は正しかったのだと思う。個人の取り組みが連帯して力を発揮するのは理想だと思うが、初めに団体があってそれから内容を決めて行動するって、一体どういうこと。そんなボランティア活動に皆さん肯定意見ばかりなので、私はちょっと石を投げてみる。でもこれは今回の本題ではありませんので今日はここまで。)

 そんなわけで冒頭の話に戻ると、元々地域の何気ない里山に人など来るものではなかったんだけど、休日1000円で皆が遠出するようになるとますますこんな所はさびれてしまうんだろうなって。こういう場所の価値が相対的に下がってしまう。無料になったらどうなってしまうんだろうか。

身近にあるありふれた自然とは生活環境そのものと捉えるべき

 私にとっては身近にあるありふれた自然(厳密にはもはや自然とは呼ばないものでしょうけれども広義に自然と呼んでいいだろうと思う)そんな環境に関心が向きます。どこかにある大自然に赴き、これを堪能、享受する楽しみももちろん好きではありますが、普段の暮らしの中で自分が多くの影響を受けたりまたは自身が働きかけて関わることができるのは身近にありふれた自然の方です。ですからこちらの方に関心が向くのです。
 自分が里山保全に興味を持つようになりできる範囲でのささいな行動を始めたのは学生の頃でした。当時は自然保護とか環境教育とかに関心があったのですが、自分なりにそれらを突き詰めていくとまず足元の環境を見つめなおすべきなんだろうとの結論に至ったわけです。自分の暮らしとは別にあるどこか他所の自然を守ろうと主張したり、年に1回か2回の特別メニューの環境教育が意義があると信じてこれに関わったり、そういう風になれなかったですね、自分は。まず1人1人ができることとは、日常身近にある環境への働き掛けを通じてその環境の維持、創造にいそしむことではないかと。そういうことがもっと大きなどこかの大自然の環境保護に結び付いていけるのだろうなと思うんです。物理的な効果というよりも、意識とか心がけの問題として。自然保護意識につながる原体験は、常日頃、身近に体験するべきものであり、またそうでなければありえないと思うから。
 そうやって関わる身近な自然環境というのはつまり生活環境そのものと言ってもいいんだな。このHPで書いてますからここでいう自然環境はつまり里山、雑木林といったものと理解されると思うのですが、私としては雑木林を自然の一要素として考えるにとどめずにこれを社会の中で相当の役割を持った「場」として再評価したいと、そうできると考えてますので、そう扱えるものとしたうえで「身近な自然環境」≒「自分の生活環境」と考えてみたいです。極端にまとめますと、「雑木林に関わろう」という呼びかけは「自分の暮らし作りに関わろう」という呼びかけと一緒なのだと。これは本当に極端かな…。とにかく身近な自然環境が生活するうえで必要なのだと、そういうことは言いたいです。

 誰にとっても身近に触れ合える自然があるべきだ、との考え方をまじめに突き詰めていきますと、そういう環境がどうしたって無い様な場所に暮らしている多くの人々は困ってしまうことでしょう。実際には都会のど真ん中で生活している人でも自然環境に関心があるとなれば休日に郊外の里山に出掛けて保全活動体験、もっと頑張って山村まで赴いて林業体験などして過ごす方が増えているようです。そんな体験とまでいかないまでもちょっと出かけて自然を愛で歩こうと観光地へ出掛ける人たちも大勢いて、例の1000円高速がそんな傾向を後押しするんでしょう。そんな感じで都会暮らしの人の力で里山を守れたり、地方の経済が潤ったりと、そんな風に評価されたりするんでしょうけれども、本当にそうなのか?
 やはり身近に自分の自然(≒生活)を持っててくださいよ。暮らしている周りにそんなものは無いというのであれば、そんな所で暮らせることに疑問を持ってほしい。そう考えられる雰囲気がもっとあっていいと思うんですよ。フードマイレージとかウッドマイレージとか、そんなイメージの指標をもって評価できるならば、都会に暮らすことの環境負荷は相当大きいはずですから。こんなところでよく生活できるな、これでいいんだろうか、という意識にフィードバックしていける里山体験であってほしいです。

 とにかく身近にある自然環境はそのまま生活環境だと。広義で捉えた「身近な自然環境」の整備に気を使うことは、そのまま自分の生活環境を考えることなのだと、そう捉えていけるようになったらいいなと考えてます。

身近な環境への能動的働きが(自分にとっても制度的にも)できる(許されている)ならば安心できる気がする

 雑木林で遊ぶ会の取り組みとして雑木林に関わりながら考え気付かされたことは、「自然に関わり遊べる環境があることを望むならば常に自然と関わり遊び続けてその場を確保しなければいけない。またそうする限りにおいてそのような場を確保することは可能であるのだ。」ということです。関わり続けるとは大変なことですが、見方によっては最も容易な方法かもしれません。誰かがそんな場を作って用意してくれること期待しても、その場合は費用がとてつもなく高くついたり、そもそもその確実な実現は保障されないでしょうから。自身が手掛けることが一番安上がりで確実。その内容(ソフト)についても自分の意思を反映させうることができますから、この点も重要です。
 雑木林から拡張させていって、日常生活に関わる様々な施設、施策といったものにも同様に考えていいんだろうな。あれこれ考えたり、行動したりしないといけないなんてなると大変ではあるけど、その役得として必要な事柄に自分の意思を反映させつつこれを確実に作り上げていけるっていうのは十分に見合うことだと考えてもいい。
 この辺は抽象的なイメージなんですけど、こういう考え方ができなくなっているというか許されなくなって久しいようで、目の前にある問題についても自分で手をつけられない(考えられない、行動できない、そもそも許されない)ような現代の暮らしの常識から、ちょっと違う世界の可能性を私は雑木林から見つけているつもりです。雑木林という「場」作りから初めてこれをもっと広げていく、内容も範囲もね、って具合に。
 将来が展望できないと不安先行の今の世の中、不安の根源が何なのか単純に割り切って考えると、分業、専門化が悪い方向へ進み過ぎ、どんな問題であれ現場から当事者が引き離されて、専門的立場の者が意思決定し実行することが現場の実情から乖離する度合いがどんどん大きくなることに対するものではないかと私は考えます。ますますずれ幅が大きくなる様を目の前にしながら、ただ何もさせてもらえずに待ってろというんですから不安にならないわけが無い。トップのシステムが変わって意思決定を改めますよと言われてもあまり期待しない、確かに変わりはするようだが実情にあったものになりうるのか。振り子のように大きく揺れ戻ってまたあらん方に向くだけだろうなと。やることの内容が変わるだけで、やってあげよう、決めてあげようの姿勢は変わらないのだし、いやむしろ強まってるのかな?訴えて欲しいことは「何でも面倒見てあげるわけにはいかないから、これは本来皆でそれぞれ考えて行動しないといけないことなんだ」って姿勢のアピール、勇気出してこんなことをいう人たちがいたら支持したいね。
 やってあげるよと言われてそれに甘える風潮を広めるんでなくて、もっと自分でやらないと駄目だぞと、そういって気を引き締めさせてもらえないと困るな。まあ、明日からやれっていわれてもいろいろリハビリが必要でしょうから順序立てていかないと駄目だけどどこかから始めないとね。大変にはなるんだけどきっとそんな暮らしには安心とか希望が持てるのだと思う。

 こんなことを書いてみたのは、高速道路の混雑の他にも思うところがあったからです。
 遊ぶ会が長く関わってきた雑木林とその周辺で開発工事が進行しています。今までの経緯を踏まえたうえで工事実施を前提としての内容検討を求めるのが我々にできることではないか、との主張を別ページに詳しく書いてますが、ここで遭遇する典型的自然保護、開発反対運動の姿勢の中に他人に要求するばかりの人任せ主義の空気をつくづくと感じています。そんな空気が蔓延してるからこんな意見がはびこるのだと、そう思っていたところに1000円高速が追い打ちをかけたんです。個人的には利用者負担で納得してるんで(新規道路を作り続けるかどうかは別問題だろ)それを外すってのはどういう利用意識を我々に持たせようとしているのか不安でもある。便利になったって浮かれ遊んでる場合でもないよって、釘を刺してほしいくらいなのに。本当にやる気かわかりませんが、無料にした時そこにどんな生活があるよう期待されてるんだろうか。

 政権交代に関わる話題としてもう1件書きたい。公共事業、大型工事の見直しを進める新政権に宛てて、先の開発反対運動の方からも当該開発計画中止の要望のようなものを出すべく準備中とも聞きます。この計画には今までになかった新しいコンセプトとそれを実現するために様々な施策を駆使するといった工夫がなされていて、この計画のみならず以降の住まい作りの考え方にも影響する先例になりうるのではないかと期待しています。この計画は関係する者たちが自ら知恵を絞ってたどり着いた1つの答えです。これを中止してくれと求める声に応じて、もしもただの一言で中止の判断が下された時に、元の計画に代わる希望の持てる何かをあてがってもらえるということなのでしょうか。何もできずに待つだけという不安の後に、結局は後々に活かせるものが何も残らないことになりそうで、そうなっては残念です。
 もしもの時には、しっかりと内容を検討され将来に希望が持てる判断が下されることを期待しています。

(追記:現在中根金田台で予定される計画は本来、新政権が好みそうなものではないかというお話を酒井さんからうかがいました。緑住農を含めたこの計画が具体的に出来上がるまでには様々な障害があったようですが、それらは一言で言えば縦割り行政の弊害であったと言えるようです。こういう町づくりを考えたい、とそう思い描いて案を練ろうとしても諸々の権限、制度が絡むなかでその調整が難しいのだと言います。結局実現できなかったアイデアもありました。書いてる私が良く理解していないのでうまく説明できませんが、例えば国交省と農水省、市街化区域と保安林の取り合いなど、現場での最適な判断を阻むものが多くある中でこの中根金田台はずいぶん頑張って1つの答えのようなものを見つけ出したのだと言えます。少なくともその意義は検討されたい。縦割りの弊害打破を掲げる方たちであればなおさらそう願いたい。)

「遊び」ってそんなに悪いことかな?   (2008.3.10)

 2月10日のキノコ植菌企画のおり、雑談の中からちょっと考えさせられる問題提起がありました。
 半年ほど前から常連メンバーに加わっている星野さんの一言「遊ぶ会の名称を変えた方が良いのではないか?」という問いかけが発端でした。遊ぶ会では印象が悪い、「雑木林を愛する会」とすれば興味を寄せる人も増えるのではないかと言うのです。ここで印象が悪いという話には説明が必要です。こんな話が出てきた背景には、今年度市の「つくばスタイル事業」から助成金を受けていくつかの企画を実施できていることから今後も利用できる制度があるなら利用していこうという意見と、自主財源を確保して取り組むべき部分のメリハリはつけていきたい、などの意見を語り合っていた場があったということです。お金がからむ話となって、「遊ぶ会」なんて看板掲げて助成金もらったら納得しない人たちが出てくるよ、ということだったのです。では、愛する会なら納得できるものなのか・・・・などとも思うのですがここでは本題ではありません。とにかく「遊ぶ」ではだめなのかな?
 助成金を受ける他にも、活動内容が評価されるような機会があったとした場合などに「遊ぶ会」の名前は障害になるという指摘が続きました。確かに遊ぶ会と掲げているために、呑気なこと言ってないでもっと真剣に保全について考えなさい、といった有言無言の空気を感じたこともあります。里山保全やボランティアと呼びかければ人がもっと来る(今の私たちのところよりは、ということ。どこでも人手不足ではあるのですが。)こともわかっています。環境問題としての里山への取り組みには関心があるけれど雑木林で遊ぶことでは「何も変えることはできない」と言った人もいました。「遊ぶ」という言葉のために軽んじられているというのは自覚していました。ですが、あえて不都合を招くこともありうるとは考えてもいなかったですね。もしも、遊ぶ会がお金をもらって「何故だ!」という指摘がされたならば、かえっていい機会なのでその場を利用してこちらの主張(この保全ページの冒頭に述べたようなこと)を展開するんだなどと言ってはみたのですが、何かとても残念な気持ちです。
 「遊ぶ」という言葉が軽んじられているのは今はまだ仕方がないでしょう。これから頑張ってその価値を訴えてみます。一方でこれは、守る、愛する、救うといった言葉が評価されていることの裏返しなのだとも考えられるわけですが、どうもこういう大仰な表現の取り組み方はなじめません。
 まあ、他所でどんな風にやっていようが、ここではここのやり方を続けていきたいです。敢えて構えて取り組むわけではない、日常当たり前に関われる姿勢を大事にしたいということなのです。特別な保護活動をしようということには価値をおいていません。今だけ、ここだけなんてことにはならない、普遍的な取り組みを可能にするものとして「遊び」という視点にこだわってみたいです。

里山という教材の宝庫を活かすこと、多様な参加呼びかけを考えたい

   平成19年11月18日  つくばエクスプレス沿線NPO祭りに参加して考えたこと  NPO祭りの記録
 つくばエクスプレス沿線地域で活動するNPO団体、任意団体などが集まり日頃の活動内容を伝える催しがつくばで行われ、雑木林で遊ぶ会も案内パネルの掲示、林の産物で作った作品など展示して参加しました。訪れる人はまばらで、展示を見に来てくれた人も半分は他の出店者(身内)という具合でした。
 季節がら、近隣各地でも収穫祭やら、すぐ隣りでは陶器市やらいろいろな催しもあったようで、皆さんそれぞれ関心のあるところへ行かれるのでしょう。隣りの芝生・・・なのかどこも賑わっているように見えたのでした。特に、近くの施設で開催されていた「つくば市科学フェスティバル」は多くの親子連れが訪れ大盛況のようでした。つくばですから最先端技術の一端に触れることができたり、よく考案された楽しい科学実験などがたくさん用意されていますし、最近はこういう内容のものはどこでも評判のようです。
 NPOとか何かしらの地域活動とされるものはどうも地味で人目を引きにくいのかもしれません。里山保全なんて言うと、難しそうだ、たいへんだ、との思いが先にたつのが普通なのでしょう。わざわざ行ってみようと思うものではなくなってしまうのかもしれません。ただし、そう思われてしまうのは活動をアピールするときに内容を限定してしまっているためかもしれない、とも思うのです。我々の方が壁を作ってしまっているわけです。極端な例として「里山を守ろう」としてしまえば保護に関心のある少人数は集まっても他の多くの人にとっては「あ、これ俺には関係ないや」といきなり却下されてしまいます。元々里山には多様な関わり方があるはずで、呼びかける範囲を広げればそれだけ多くの人に参加してもらえる機会ができるのだと思います。遊ぼうでも、スポーツしようでも、学ぼうでもいいわけです。そのときに抽象的に言うばかりではなく、ある程度具体的なものを示していければいいのでしょう。本来そういう体験は自然に継承されていくものでしょうから、再び関わりかたを取り戻せればあとは勝手に進んでいくので、具体的に示す面倒が必要になるのも初めだけです。
 先述の科学フェスティバルの盛況ぶりをみて、呼びかけるテーマのひとつとして考えさせられたものがものが「里山で考える科学」というものです。科学というと仰々しく思えますので、暮らしの技術とでもしておきましょうか。本来これらは一致するべきだと思うのですが、ここに相違を感じさせられるということが何かおかしいです。ともかく、里山から暮らしの技術を掘り起こし発信していくようなことをテーマに掲げることで科学フェスティバルに出かけた様な人たちの関心を誘えないものでしょうか。
 里山の技術にもいろいろ考えられるでしょうが、個人的に関心をもつのはエネルギー利用という側面です。バイオマス利用はもちろん、そこには広い場があるものですからその空間からいろんな形態のエネルギーをつかみ取ることも考えていけます。何がどのくらいできるものか、そんな模索をしてみることも面白くやりがいがあることだと思います。ここでやることは、技術そのものを追求しようということではなく、今既に使える技術を現場でどう使っていけるかを考えて実践しようということです。自分たちで日常的に技術の使い方を探っていく、そんな実験に取り組む里山の関わり方だってありますよ、とアピールしてみたいです。まずは具体的なものが必要ですね。

 「我々の楽しんで働くべき仕事は、まだまだ眼の前にもたくさんに横たわっております。」
 柳田國男の「火の昔」というお話の中にある私の好きな文句です。昭和のはじめ頃、日本人の生活の歴史について子供向けに書き著されたもので、火や灯りを使ってきた歴史、技術の進歩について描かれています。その終わりの方で、ついには電気という驚くべき発明も最近では為されるようになり世の中にはまだ光となり、熱となるものが隠れて残っているのだ、さらに離島などで暮らす人のためにはもっと考える様になるだろう、として次のように語ります。

 「あるいはこれから後は絶えず吹く強い風、大きく寄せて来る激浪の力を、電気にするような方法も考えなければなりますまい。またそれを小さな漁船などにも貯えて持ってあるく手段も見つけなければなりません。我々の楽しんで働くべき仕事は、まだまだ眼の前にもたくさんに横たわっております。」

 簡潔にして力強い言葉です。昭和18年頃の、子供向けの読み物、それも科学の分野ではないんですよ、これは。今の時代の科学分野のメーセージでさえ、いきなり「地球環境を守ろう」とだけ言って具体的に目指すべきものも、何らかの方向性も示せないようなものでしかないものなのに。
 とにかくこんなメッセージを伝えることもできるような科学教育の取り組みを、里山、雑木林でやってみたいです。
(2008.1.26、 「火の昔」の文章は「柳田國男全集 23」ちくま文庫 から引用した)

金川さん送別会、雑木林作業+講演会+食事会  (安の森、春日公民館、オリザ舎)

 平成18年3月4日  10時〜20時 
 参加者30名くらい 
 4月より京都に移られる金川さんの送別会兼、雑木林学習会を行いました。 →詳細

「雑木林で遊ぶ会」会合 (安の森)


安の森

たき火スペースと枯れ松材

 「来年度以降の安(やすらぎ)の森の関わり方について」
  平成18年2月11日 10時半〜12時
 つくば市島地区にある活動フィールド「安の森」を中心になって手入れしてきた金川さんが今年度いっぱいでつくばを離れることに伴い、来年度以降のことを相談しました。3haに及ぶ雑木林を3、4人で維持してきた場所ですが、金川さんの離脱により大幅な戦力ダウンは避けられません。
 残る人たちでなんとか進めていくにしても、やはりもっと仲間が欲しいなといつもながら思います。いつも紹介している上境の雑木林も含めて、アピールが不足していると感じます。今後、このページにおいてもこの「安の森」の紹介をしていくようにします。

里山学習会(H18/1/28 上境の雑木林)

 平成18年1月28日 10時〜15時、 参加者25名


講演の様子

自由討論

 つくばの市民環境会議が主催する里山学習会が上境の雑木林で開催されました。現場の環境を体感しつつ、里山を学び、これからの里山の姿について考えようという企画でした。
(内容)
1.基調講演「里山の自然を活かす」 
  守山弘 先生(農業工学研究所特別研究員)
 農村、里山の環境とその役割について研究されている守山先生の講演から勉強会が始まりました。守山先生はDush村でも里山を案内する先生として何度か登場しています。ここでも里山と人との関わりについてお話を聞かせていただきました。
講演内容  →詳細
 江戸時代の農学書等の記述から、昔の人々が生活の中で自然から多くのことを学びこれをよく理解していたことがうかがえる。
 自然から学んだ知恵を活かして田畑の害獣防除のための天敵利用の工夫が各地で成された記録がある。身近な例ではキツネによるネズミの駆除があり、キツネを人家付近に招きネズミを追い払うという技術(?)が各地のお稲荷様を中心に展開されていた。
 天敵を活用して農業や日常生活における害鳥の害を減らすことを目標に掲げることにより現代の里山の役割を見直せるのではないだろうか。隣接する集落樹林や社叢林などにフクロウやオオタカなどが定着すれば、スズメ、ヒヨドリ、カラス、キジバト、カケスなどの繁殖を抑制できる効果が期待できる。このような役割を示して里山の生物相保全を訴えていけば広く理解を得やすいと考える。
 その他、里山で培われた様々な知恵や技術、つまり文化を伝える場として里山を捉えていくといい。エコミュージアムといった展開を考えていくのがよいだろう。

2.講演「里山保全についての提言」 雑木林で遊ぶ会 金川氏
 「安の森」を事実上管理している金川さんから体験を踏まえての作業ノウハウが語られた。
 印象に残った言葉は次のメッセージ。
「作業に参加するうえで必要なのは自主性。今度はなにやりましょうか、という姿勢ではなく、今はこれをやらないといけないのだなという意識を持って取り組める環境つくりも必要。行ってみれば今なにが必要なのかわかる、そういうふうにしていきたい。」 私も本当にそう思う。そうしていきたい。

3.講演「里山と関わる暮らしの勧め」 雑木林で遊ぶ会 藤本(私です)
 「雑木林で遊ぶ会」の体験から考えることを話させていただいた。
 私がこの会の活動に初めて出会った時に感じたカルチャーショックについて、そしてそこに感じた重要さというか可能性を話したかったのです。それは「遊び」という関わり方で保全を実行できるのではないかということ。関わりたいという動機を行動力につなげ、「遊びたい」と思うならばそれに伴う義務も当然意識して遂行しなければ遊び場の将来は保障されないというあたりまえの現実から結果的に保全活動ができるのではないかと考えていることを話しました。
 今ではそう言えるけれども、元は普通の里山保全派だった私がこの活動を初めて見た時は異次元の関わり方だと思いましたからこれをカルチャーショックと表現したわけです。自分もそう感じたから、これをもっと多くの人に伝えたい。こういう考え方で楽しみながらやってもいいじゃないか。こうすれば仲間も増やしやすいんではないかな、と。

4.解説「洞峰公園周辺の草花たち」 学園都市の自然と親しむ会 矢作氏
 資料をもとに、最近は見かけられなくなった草花などを紹介され、そのような種の保護も大切との話がされた。

5.午後の部:自由討論
 いろいろ意見が出ました。時間があったら今度書いてみます。