パンチは病院の廊下で腰掛けて、落ち着きなくヘルメットを両手の間で行き来させていた。気持ちを落ち着けようとすればするほど、怒りが込み上げてくる。ゆっくりと長く息を吐きだしながら、鼓動が早くなっているのを感じた。それから、五まで数えながら息を吸うと、もう一度吐き出した。ヘルメットを何度も強く手に打ち付けて、両手がひりひりとしてきている。ヘルメットを横に置くと、両手を強く握り締め、オリーブ色の肌に血管が浮き出る様子を興味深げにじっと眺めた。コツコツと何かを叩くような音が聞こえていたが、その音が、自分が踵で床を蹴りつけている音だということに気が付くのに、ちょっと間がかかった。体をうしろに投げ出すと、両手を腕の下にしっかりと挟み込むように腕を組み、きつく足を組んだ。
診察室の扉が開いて、パンチはバネ仕掛けのように椅子から飛び上がった。
「あいつは大丈夫」
医者が疲れたような笑顔を見せた。
「おまわりさん、それは断言で問いではありませんね」
パンチは親指をベルトに引っ掛けるようにすると、ごくりとつばを飲んだ。
「間違ってますか?」
医者が首を横に振った。
「いいえ、間違ってないですよ。大丈夫。縫うほどでもなかったですしね」医者は手を振り、ベンチを指すと、パンチに座るように勧めた。
「私はここで何人もの警官達を見てきています。本当にたくさんの警官達をね。パートナーがいるって言うことがどんなことが判るなんて、私があなたに言えるような立場ではないのでしょうけど。ロス市警の警官ならば、もっと相応しいんでしょうね、でもここにはいませんから。つまり、その……少し話しませんか?」パンチは腰掛けるようにという医者の誘いを無視した。
「結構です。俺は、辞表を書くんだ。書いてしまってから、ギトレアとジョンに話すんだ。明日になれば、辞表を書く気なんてなくなるのかもしれないけど」
医者がパンチをじっと見た。
「パートナーが怪我をしたと言う以上の事なのですね」「ああ、そうさ」
パンチはむきになって首を振った。
「相当にね」診察室の扉が再び開くと、今度はジョン・ベイカーが廊下に出てきた。
「出られるかい、パンチ?」
パンチはジョンのシャツをじっと見た。血まみれでびりびりに破れた袖にすっかり目が釘付けになった。破れた制服の下から、包帯の白さが目を射した。
ジョンはパンチの視線を追った。
「気にするな、パンチ。こんな事を気に病んで落ち込む事は無いよ」「お前は気にしなきゃ良いさ」
パンチはベンチからヘルメットを掴みあげた。
「なんであんな事になったのか考えてるんだ。俺達は自分達の仕事をしてる、俺達の力の及ぶ限りでやって、それから……」ジョンは警棒をベルトに差し込んだ。
「仕事の一部だよ、パンチ。あの男の事だってわかるよ。今までだって任務中にああ言った人物に会う事はあったよ」
「お前はあの男を殺してない」
パンチが食いしばった歯の間から、一語一語をはっきりと言った。
「お前はあのろくでなしを助けようとしていたんだ」
「あの男もそのつもりだったのさ、パンチ」
ジョンが悲しげに微笑んだ。
「間違いを犯してしまって、おかしな事になってしまったけど、でも出来る限りの事をして、助けようとしていたんだよ」
パンチは相棒を睨みつけた。
「あんなのが助けだって言うんだったら、俺は要らないね」
怒りに満ちた警官は踵を返すと、廊下を外へ向かって大股で歩き出した。
ジョンは医者に向かって感謝の笑顔を向けると、振り返って相棒の後を追った。
「彼は真剣に辞表を書くつもりだと思いますか?」
医者の声がジョンを呼び止めた。
「真剣なんだと思います」
ジョンはごくりとつばを飲み込んだ。
「今日、あの場に彼がいてくれて本当にありがたかったです。辞めて欲しくは無いです」
医者は頷くと診察室へと戻って行った。
*****
パンチは、ジョンを心配する警官達によって繰り返される善意からの質問をさばきながら、署の廊下を大股で歩いた。ジョンは直ぐにギトレアの部屋へ、今日の出来事を話しに向かったが、パンチの方は部長に会うのを必死に避けていた。ジョセフ・ギトレアの口から一つでも誤った言葉がパンチに向けられたら、辞表が出されて、パンチの履歴に問題を残す事になるだろう。パンチは台風のような勢いで、警官達の休憩室へと飛び込んだ。アーティは暗雲がたち込めようとしていることを見て取ると、機会を伺ってドアの外に滑り出て、歩哨よろしく、室内に入ってみようなどと言う勇気のある者を見張っていた。パンチは汚いスペイン語でもって文句を言い、行く手を塞ぐ椅子を蹴りながら、行ったり来たりしていた。ドアが開いた。侵入者を怒鳴りつけようと勢いよく振り向くと、そこにはジョンの姿があった。パンチは相棒に向かって、射すくめるような視線を投げつけると、椅子に体を投げ出す様にして腰をおろし、指で机をコツコツと叩いた。
「この件に関しての報告書を、すぐに書かなきゃならないんだろう?」
ジョンは静かに頷くと、ペンと書類を背後から取り出した。
「三部だ」
ジョンは相棒の隣の席についた。
「事件報告書か、医療報告書か、装備欠損届か、どれがいい?」「『あの男を刑務所に放り込むぞ』報告書にする」
パンチは鉛筆と書類をジョンから受け取ると、強く机に叩きつけた。ジョンが自分の事を見ているのに気づいた時には、書類の空白に必要事項を殴り書きしていた。暗い茶色の瞳と青い瞳が合って、二人は噴き出した。
「そんな書類、有ったかな?」
ジョンが笑いに喘ぎながら言った。
「書類入れには見当たらなかったけど」
パンチが額をテーブルにのせた。
「わかんないよ、でも用意しておくべきだな」
ジョンは笑ったまま鉛筆を取り上げると、事件の事を書き始めた。パンチは椅子に背中をもたれると、ジョンが午後の出来事を報告書に書き込むのを眺めた。報告書なんて書けないよ、パンチは呟いた。あの出来事の半分だって思い出せない。
*****
その日は蒸し暑かった。こんな日は、フランク・パンチョレロはすこしけだるくなり、まさしくただバイクにまたがっているだけといった感じだった。渋滞や違反チケットを時折か書くことさえなかったら、ただハイウェイを走り、心をあてどなくさまよわせる一日となっただろう。パンチの隣でバイクを走らせるジョンは、安定した穏やかなムードであった。二人はバイクのエンジン音を超える大声で喉が痛くなるまで、互いに冗談やちょっとした会話を交わした。
一人の男が道の脇から、土手を転がり落ち、両腕を振り回して出てきた。二人のパトロール警官はバイクをその男の横に寄せた。男の息がかかってきた時、パンチは体をうしろにのけぞらせた。
「まさか車の運転なんてしてないだろうな!」
「お前、マヌケか?」男は明らかに異常に興奮していた。
「俺のダチに助けがいるんだよ。苦しんでるんだよ。奴はちょっとばかし飲みすぎちまってさ、ぶっ倒れたんだ」
ジョンはバイクを降りると、すくっと真直ぐに立ち上がった。
「相棒は、君が本当に車に乗っていないか確認したいんだよ」
男はウンザリとした様子で、金髪のパトロール警官を睨んだ。
「運転なんてしてねぇさ。ダチに助けが要るんだって。無駄口たたいてたいのか、それとも、助けてくれんのか?」
パンチは男の汚らしい服装と、無精ひげを眺めた。
「助けに行くさ。どこにいるんだい?」
明らかに酔っ払っているこの男は、路肩の土手に向かって腕を振った。
「上だ。俺たち、酒を飲みながら車を見てたんだ。ほら、あれだ、だべってたんだよ」
鼻を汚れた袖で拭った。
ジョンは溜め息をつきながら、斜面を眺めた。
「君の名前は?」
「ファーガソン」
ファーガソンは土手を登り始めた。
ジョンはパートナーに向かって眉を片方あげて見せた。
「お気楽な午後は、ここまでだな」応急処置キットをサドルバッグから取り出し、無線機に向かって頷いた。地面に手をついて体を支えながら、ハンモックのようになった草を掴み、岩を足がかりにしながら道を切り開き、両手両足を使って斜面を登り始めた。パンチは、無線で救急車の出動を要請するとジョンの後を追った。充分な距離をおいて、相棒が容易そうに見つけた足場を利用しようとしながら登った。
「なんてことだ」
ジョンの声が土手の頂上から漏れ聞こえてきた。
「ファーガソンさん、あなたのお友達は亡くなっています、どうやら、しばらく前に亡くなったようですよ。おそらくは、あなたが酔いを覚ますのに眠っている間に亡くなったんだと思いますよ」
「ちがう! あんたは奴を助けるんだ。あいつには助けがいるんだよ」
ファーガソンの声は感情的になって、ひび割れていた。
「ファーガソンさん」
ジョンは、いつもなら子供に向かって話し掛けるような落ち着いた明瞭な声で話し掛けた。
「あなたのお友達は、もう僕の手におえるところにはいないんですよ。僕は、担当の人間を呼んで、この人を死体保管所へ運んでもらうようにしなければならないんです」パンチは、土手の頂上がうかがえるところまで体を引き上げた。
ジョンは、どう見ても死んでいる男の傍にいた。男の手足はだらりとだらしなく投げ出されて、本人の嘔吐物の中に浸っているのが見て取れた。その顔色は青白く、もはや灰色と言って良いような状態で、瞳はすでに何も映してはいない。ハエが男のまわりに群がっている。屈強な男でさえも、胃が裏返るような気分を味わうのに充分な光景だ。ジョンは、パンチが頂上に辿り着きあるのを見て、そのまま下がって待機するように、そっと合図を送ってきた。パンチは、一歩手前の足場に足を戻し、待機して様子を眺めた。暑い日差しに、汗が背中を伝って落ちた。足場の不安定な土手を登ってきたせいで、脚がすっかりうずいていた。「ダチを助けろ」
ファーガソンは、地面に横たわった友人を、切迫した様子で指差した。
「お前、おまわりだろ、だったら、助けられるだろ」ジョンは手をベルトのあたりに下ろした。
「この人は死んでるです。僕にできることはもう、何も無いんですよ」
パンチの重みに耐えかねて、足場にしていた岩が崩れ落ちた。パンチは、とっさに近くの低木を掴んで、ハイウェイに落下するのを防いだ。
岩が斜面を転がり落ちる音に、ジョンは、視線を一瞬土手の方へとやった。ファーガソンに目を戻してみると、なんと、その手には小さな銃が握られていた。
「あいつを助けるんだ、今すぐに」
死に物狂いになって、手を震わせながらも、男はジョンの胸に銃を向けて命じた。ジョンは自分の銃に手を伸ばそうとしたが、ファーガソンがそれを鋭く見咎めた。
「お前さんの銃のことは考えない方がいいぜ。銃に手を伸ばそうものなら、撃つからな。俺のダチを助けろ」
「僕を撃ったら、誰の事も助けられなくなるよ」
ジョンはきわめて穏やかに話し掛けた。
「君の友人だけじゃなくてね」
パンチはできるだけ物音を立てずに、土手の尾根に体を引き上げた。土が斜面をサラサラと落ちていく音が、パンチにはなだれの音のように聞こえ、アドレナリンを体中に駆け巡らせながら、鼓動を激しくした。しっかりと地面に立つと、銃を引き抜いてジョンと視線を合わせた。
ジョンはそっと頷くと、半狂乱になっている男に話し掛けつづけた。
「ファーガソンさん、僕のパートナーが直ぐそこまで来ています。あなたが僕を撃ったら、パートナーは喜ばないと思いますよ。さぁ、銃を下ろして」
男の、まだアルコールに犯された頭がゆっくりと働き、言われている事を少しずつ理解しようと努力していた。
「あいつには助けがいるんだよ、だんな……」
パンチは前に進み出ると、男の手首をひねり上げて武器を手放させようと銃を押し下げた。男は叫び声を上げて、銃を手にしたまま体を引いた。土手の尾根の木立に銃声が木霊したのと、パンチが銃を叩き落とそうとねじ伏せたのはほぼ同時だった。パンチは男を地面に押し付けて、背中にひざで押さえつけるようにしてから、しっかりと手錠をかけた。パンチはすすり泣く男をそのまま地面に放置し、拳銃を拾った。
「おい、ジョン、捕まえたぜ」
パンチは少し離れたところに横たわっている死体をいやそうに見た。
「こんな風に酔っ払うなんて、ありだと思うか?」「間違いを犯す人も……いるものさ」
ジョンの痛みをこらえるような声が、パンチの耳をぎこちなく打った。
パンチはくるりと振り返って、パートナーを見た。金髪の警官が腕を押さえて地面に座り込んでいた。指の間から、真っ赤な血が滴り落ちている。
「撃たれたのか?」
ジョンは首を振った。
「ちがう……地面に伏せたときに、酒の空き瓶の上に乗ってしまったんだ。どうやら、連中は、飲み干す端から空き瓶を割っていたようだよ」
目を閉じると、傷を押さえる指に力を入れた。
「大丈夫さ」
パンチはジョンの傍にひざまずいた。
「どれ、見せてみろ」
ジョンは腕にかけていた指の力を抜いて、パンチに傷の様子を見させた。彼の白い肌色が青ざめているのが、日焼けをしているにもかかわらず見て取れた。
「大丈夫だよ、パンチ。どうってこと無いって。バイクに戻って報告を入れよう」
「何てことだよ!」
パンチはパートナーの隣にどっしりと座り込んだ。
「今度は何だ?」
ジョンがパンチをじっと見た。
パンチは手を伸ばして、ジョンの顎を取ると、顔をある方向にゆっくりと向けさせた。ジョンが土手の上まで携えてきた応急処置キットが、尾根に中身を撒き散らせバラバラに砕けていた。
「ああ言うのって、幾ら位するんだ?」
ジョンは目を閉じた。
「装備欠損届は書かなきゃならないくらいはするな」
パンチはうなずいた。
「それは判ってる。ああ、書かなきゃならんだろうさ。だが、幸いなるかな、あれはお前の応急処置キットだ。ギトレアも俺を怒鳴りつけられないさ」ジョンはパンチを睨みつけた。
「ありがたいね、相棒」
パンチが微笑んだ。
「なに、たいしたこと無いさ」
ターナーの低く太い声が尾根に流れてきた。
「大丈夫か?」パンチはターナーを見上げた。
「もうすぐ片付くところだ。あっちの奴さんはそうとも言えないようだがな」
ファーガソンが体を起こそうと足掻いた。
「俺は告訴するぞ。こいつらは、俺の立ちが酔っ払っていたってだけの理由で助けようとしなかったんだ。放置して死なせたんだ」「何だって?」
パンチは跳ね起きた。
「ターナー、その男は、俺たちがここに着いた時には死んでいたんだ」
ジェド・ターナーは目の前の光景を見た。
「お前はジョンを病院に連れて行ってやれ、俺がこの人の訴えを記録しておくから」
「なんてこった!」
パンチは怒りで顔色が土色になった。
「馬鹿げてる」「正規の手続きだよ、パンチ」
ジョンの平静な声は疲れているようだった。
「心配しなくていいさ。どうもこうもならないよ」パンチがファーガソンを睨みつけた。
「この恩知らずの……」
「パンチ!」
ジョンが立ち止まった。
「大丈夫さ」
*****
パンチは手に持った報告書をじっと見た。自分の名前、バッジ番号、日付が一番上の欄に、丁寧に書き込まれていた。その下の大きな記入欄は空白のままで、パンチが報告を書き込むのを待っている状態だった。鉛筆の先をなめると、はっきりとした、大きすぎる筆跡で、欄の中央に一行だけ書き込み、サインを入れた。それから、椅子に深く座りなおすと、両手を頭の後ろに回した。
「終わったよ」
ジョンは驚いて目を上げた。
「気晴らしに俺を負かしたって? 信じられないね」
手を伸ばすと、テーブルからパンチが書いた報告書を取り上げた。
「うーん、パンチ……」
「あん?」
パンチが無邪気を装って眉を上げた。
「もう少し詳しく書いたほうがいいと思うけど」
ジョンは鉛筆をパンチに再度手渡した。
「これが真実さ、真実を余さず、真実のみだ」
パンチは鉛筆をしっかりと机の上に置いた。
「帰るよ」
机を押しやって立ち上がり、体を伸ばすと部屋を出て行った。
ジョンは目の前の報告書をじっと見て、それからもう一度、パートナーが書いた文面を読み直した。
ジョー・ギトレアが部屋に入ってきて、コーヒーを自分のカップに注いだ。
「パンチは、また君に報告書を押し付けていったのかい、え?」ジョンは肩をすくめた。
「パンチが言うには、終わらせたそうですよ」
ギトレアは信じられないといった表情をぱっと浮かべると、机に歩み寄った。
「ファーガソンは、酔いつぶれているのと死んでいるのの区別もできない異常な酔っ払いである」
ギトレアはため息をつくと、コーヒーを啜った。
「君がもう少し隙間を埋めてくれるのを期待しているよ」
ジョンが微笑んだ。
「ええ。だけど、これが辞表じゃなかったのは良かったですよね?」
ギトレアが微笑み返した。
「ああ、そうだな」
― 完 ―
