赤いフォルクスワーゲンが、なにやら長い緑の枝を引きずりながら、フリーウェイをのろのろとやって来る。時折、車線から外れて、タイヤを出っ張りに乗り上げさせたり、路上の穴に突っ込んだりしながらだ。後ろのバンパーには白いヒナギクやらピンクのオウゴンハギ、青いアネモネが茂り、排気ガスのせいでその多くがしおれてうなだれている。度々、小さな土くれを路上に落とすので、その車の走り去った後には奇妙な痕が残っていた。警官のアーテー・グロスマンの目には、その車は、ローズボールのパレードへの参加を断られた車のように見えた。信じられないといった風に首を振ると、路肩に寄せて止めるようにと合図を出しながら、その奇妙な見かけの車の後ろにバイクを寄せた。
アーティはバイクを降りると、チケットフォルダーをサドルバックから取り出して、車へと近づいていった。よく調べてみると、明らかにその花飾りは意図的になされたものではなかった。排気管は泥で詰まり、落ちずに残っていた数本のヒナギクに飾られていた。オウゴンハギはぼろぼろになった根っこを後ろの地面に引きずったままで、バンパーに絡み付いていた。穴と言う穴、裂け目と言う裂け目、全てに青いアネモネとほんの少し野生種のニンジンが散らばっている。アーティは用心深く車に歩み寄った。
アーティは窓を軽くたたいてから、サングラスをはずしてたたむと、安全のためにシャツのポケットに突っ込んだ。窓がゆっくりと下がって行き、若い女性がためらいがちにアーティをじっと見た。
「はい、おまわりさん、何でしょう?」
「運転免許証と登録証を見せてもらえますか」
アーティは礼儀正しく頼んだ。女性が明らかにおびえているのが判ったので、安心させるように微笑みかけた。
その女の子は、まだ若く、十代後半でなければ、おそらく二十代初めと言ったところだろう。暗い色の長い髪を背中に下ろし、鼻から落ちそうな大きなめがねをかけている。
「ええ、もちろんですとも、おまわりさん。私、何かしましたか?」
アーティはもう一度微笑んだ。
「それを訊こうと思っていたんですよ」
優しい口調で言った。
「排気管で植物の栽培をしているように見えるんだけど」
「私がですか?」
女の子は目を大きく見開いて、めがねを押し上げた。
「あっちで路肩の土手に向かってバックした時にそんな風になっちゃったんだと思います」
両手が震えている。
「どうして、土手に向かってバックしたのかな?」
アーティは優しく先を促した。
「Uターンしようとしたんです、間違った入り口に入ってきてしまったから」
涙が今にも零れ落ちそうになっている。
アーティはあまりの事に一瞬口篭もってしまった。
「フリーウェイを降りるには、出口を使わなくてはならないんだよ。Uターンは出来ないんだ」
「それはもう判ったわ」
涙がメガネの下に一旦たまると、小さな川となって頬を伝った。
「あの人、とても酷く失礼だったの」
「あの人?」
「間違った向きに走ろうとした私に、下品なジェスチャーをして怒鳴ったの」
女の子はすすり泣き始めた。
「私、急いで正しい方向にもどして、それで路肩の土手にバックで突っ込んだの。チケットを切るの?」
アーティはため息をつくと、手でチケットホルダーを軽く叩いた。
「僕は君がUターンをしているところは見ていないからね、だからその件で違反チケットは切らないですよ……」
女の子がおびえながらも笑顔を見せた。
「だけど、その使えなくなってしまった排気管への修理チケットは切りますね」
女の子の笑顔が消えた。
「それって、悪い事なの?」
アーティは午後早くの比較的静かなフリーウェイを眺めた。
「車から降りてもらえますか、お嬢さん?」
アーティは一歩さがって、女の子が車から出られるようにすると、彼女を車の後方へと導いた。
「泥が詰まっている様子を御覧なさい」
女の子はうろたえた様子でフォルクスワーゲンの後ろを眺めた。
「まぁ、こんなに酷くなっているなんて知らなかったわ」
「あのね、もしもエンジンからの排気ガスが出て行けなくなるとね、ガスは車の中に戻って来て、一酸化炭素濃度を増やす原因になるんだよ。僕はね、ほんの僅かな泥のせいで、君に統計上の記録の存在になって欲しくないんだよ。以前、こういったケースについて調べたんだけどね、まったく、愉快な統計じゃないね」
アーティはアドバイスをする時にいつも使う、感じの良い声で話した。少し舌足らずな話し方が、より強調された。
女の子が返事をしようとアーティに向き直った時、タイヤのきしむ音に続いて、大きな破裂音が響いた。アーティは、後輪のひとつが分解ばらばらになったバンが自分たちに向かって、左右にゆれながら疾走してくるのを見た。女の子を肩で担いで、ワーゲンの向こうに放ると、自分の体をその上に投げ出した。その直後、アーティの目には自分のバイクがガードレールに跳ね飛ばされ、小さな金属片へとバラバラに壊れながら、スリップして止まったバンの車体の下に入っていく様子が写った。
アーティは自分の体の下にいる女の子の顔を見た。
「大丈夫?」
「ええ、大丈夫です。ありがとうございます」
女の子は穏やかに微笑んだ。先ほどまでの緊張した様子は失われていた。
「命の恩人だわ!」
アーティは立ち上がると、手を貸して、女の子が立ち上がるのを手伝った。
「病院で検査を受けるのに、救急車を呼んだほうがいいかな?」
「いいえ、大丈夫です。本当に、平気です」
衣服を整え、髪を撫で付けながら答えた。恥ずかしそうに微笑みながら、アーティを見上げた。アーティは、ハンドルの陰でショックを受けた表情になっているバンの運転手の方へと向かった。
「大丈夫ですか?」
アーティが尋ねた。
「本当のところ、判らないです」
男が答えた。
「ただ、運転していたら大きな音がして、何もかも突然で、どうしようもなかった」
男は不安げにアーティを見た。
「あなたのことを撥ねてませんよね、ね?」
アーティはため息をついた。
「僕のことはね、でも僕のバイクを撥ね飛ばしてしまったよ」
悲しげな表情で、バンの下からはみ出したバイクの車体の残骸に目をやった。
「あの人、私の命を救ってくれたわ」
アーティの後ろから女の子の声が聞こえてきた。
アーティが振り向くと、女の子がすぐ傍まで来ていた。
「ねぇ、いいかい、お嬢さん……」
「ダフネ、ダフネ・モローです」
ダフネはアーティに向かって笑顔を見せた。
「モローさん」
アーティは仕切りなおしをした。
「どうやら、とりわけ困った事にはチケットフォルダーがちょっと行方不明になってしまったみたいなんだ。君には注意だけにしておくから。排気管に詰まったものをはずして、そして、二度と、決して二度と、高速道路で緊急時以外にUターンをしないでね、それからUターンをするときには、きめられた場所でしてね」
「私にはチケットは切らないの?」
ダフネの声はまるでがっかりしているようだった。
「今日のところはね」
アーティは溜め息をついた。
「こっちにちょっと問題があるからね。気をつけて運転してくださいね」
「また、会えますか?」
ダフネはメガネをずり上げながら訊ねた。
「君が違反をしない限りは……」
アーティは上の空で答えながら、せめて無線が無事であればと、バンの下を眺めていた。
「ねぇ」
ダフネはためらった。それから、声を明るくして言った。
「私の名前と電話番号が必要じゃない?目撃者として」
「いや」
アーティは苦労して唸り声を上げながら腹ばいになると、バンの下にある無線機のマイクに手を伸ばそうとした。
「これは事故で、事件性はないからね。行っていいですよ」
ダフネは、唇をかみ締めると、立ったまま体を揺すった。
「命を救ってくださって、ありがとうございました。本当に、ありがとうございました」
「実際のところ」
アーティは切れてしまった無線機のマイクを、ハンドルの向うから引っ張り出しながら、ぶつくさとこぼした。
「こんな事が起こるような状況に、いつも居るというわけじゃないけどね」
腹ばいの体勢から転がって上半身を起こし、すっかり使い物にならなくなっているマイクを疎ましく眺めていた。
「それじゃ、お気をつけて」
アーティは、バンのドアの助けを借りて、立ち上がった。自分の腹のあたりを軽く叩きながら、やっぱり早急にダイエットが必要だよなぁと内心で思った。それから、バンの運転手に注意を戻した。
「無線なんて積んでないですよね?」
期待せずに訊ねた。
「私が電話ボックスから連絡できますよ」
ダフネが一生懸命に割り込んできた。
「誰に連絡すればいいんですか?」
アーティは振り向くと、くたびれたように微笑んだ。
「ハイウェイパトロールのセントラル支部に電話して、グロスマン巡査がベンチュラ高速南線の10番ランプと11番ランプの間で壊れたバイクを運ぶトレーラーを要請していると伝えて。たすかりますよ、お嬢さん」
「ダフネです。名前はダフネ」
ダフネは興奮して体を弾ませている。
「ありがとう、ダフネ」
アーティは、礼儀正しく応えた。ポケットに手をいれ、サングラスがおさまっているのを探り当てた。引っ張り出して、掛け直して見たが、左のレンズがフレームから外れ、足元の地面に落下して割れた。アーティはため息をつくと、再びバンに寄りかかった。
***
「ジョン」
ジョー・ギトレアは部屋から出てくると、ちょうど廊下を歩いて来た背の高い細身の警官を呼び止めた。
「どこかの女の子がお前さんと話したいと、電話をかけてきているぞ。ああ、君のせいじゃない事はわかっているとも、だが、そういった女の子たちが君に連絡する別の方法を見つけてくれると助かるんだがな」
「女の子たちが探しているのは、いつもパンチの方でしょう」
ジョンが反論をした。
「今回は違うぞ、ジョン。その子はハンサムな金髪の白バイ警官と話がしたいとさ。パンチは金髪じゃないだろう。手短にしてくれよ」
ギトレアは首をかしげて、部屋の中の電話を指し示すと、廊下のメールボックスに向い、それぞれのボックスに色々な書類やメモを入れ始めた。ジョンは肩をすくめると、部屋に入り電話を取った。
数分後、ジョンは笑いながら廊下に戻って来た。
ギトレアは驚いて、ジョンを見上げた。
「早かったな。助かったよ」
「どういたしまして」
ジョンは笑って言った。
「僕が請け負ったのは、アーティへの伝言だけでしたから」
「アーティ?」
ギトレアが踏み出した足が途中で止まった。
「アーサー・グロスマンにか?」
「ええ、そうですよ」
ジョンがギトレアの肩を軽く叩いた。
「ダフネはとても勇敢なグロスマン巡査から電話が欲しいそうですよ。僕だけが、ここの金髪の警官じゃありませんよ、ご存知でしょう」
「アーティだって?」
ギトレアが繰り返した。
「アーティだと」
ギトレアは首を振ると部屋に入っていった。
「アーティか」
ジョン・ベイカーは声を出して笑うと、同僚に伝言を伝えるためにレポーティングルームへと向かっていった。
「なぁ、ハーラン」
アーティがハーランに向かって懇願していた。
「どっかから別なバイクを調達してくれればいいんだよ。ここにいて、また警部補が現れたら、俺、うさぎの餌みたいな生野菜のサラダを食べさせられて、ハムスターのみたいに、ランニングマシーンで走らされちゃうよ」
ハーランは興奮している警官を見上げ、からかうように笑った。
「あなたが逃げ回っている相手は、警部補ですかね、ダフネですかね?」
アーティは全く判らないと言ったような青い瞳で、同僚をじっと見た。
「君が何を言ってるのか、ホントに判らないね。モローさんは単に、俺が彼女の命を救った事を感謝しているだけだよ」
「ふーん」
ハーランは視線を再び机の上の書類に戻した。
「あなたのバイクは明日までは用意できませんよ。次からは、もっとましな場所に止めてくださいね」
「道からは外れてたさ、ガードレールの横だよ、ハーラン。ハイウェイの上で他にどこにましな場所があるのさ」
「そうですねぇ」
ハーランは目の前のノートを閉じた。
「あなたはさしあたり明日までは受付にいるしか有りません。ここには余分なバイクはありませんから。たぶん、今日はもうダフネは電話してきませんよ」
「あの子は本気で俺に気が有るわけじゃないんだよ。統計的に言えば、多くの女性たちが男性に心理的に依存するんだよ、守護者の役割を果たしてもらえたって感じた時にね。フッターは彼の論文でこう……」
「アーティ」
ハーランが割り込んだ。
「お願いだから、受付に戻ってください。私にはまだ沢山仕事があるんですからね」
アーティは深く溜息をついて、ガレージから出て行こうと振り返った。
「俺はただ、あれはただの一時的なのぼせ上がりだって事を言いたかっただけなのに」
「何がただの一時的なのぼせ上がりなんだって?」
廊下の向こうから、パンチの声が聞こえてきた。
「ダフネですよ」
ハーランが答えた。
アーティはきつい眼差しでハーランを睨み付けると、パンチに振り返った。
「モローさんは、俺が彼女の命を救ったってことに、一時的なのぼせ上がりの様なものを感じているのさ」
パンチは白い歯を見せて笑うと、アーティを伺うように首をかしげた。
「それであの花束の説明がつくな」
「どの花束だって?」
アーティが知りたがった。
「お前さんが、受付じゃなくって、ここにきている間に警部補が代わりにサインした花束さ」
パンチがあっさりと答えた。
アーティの目が大きく見開かれると、縺れそうになりながら署の廊下に向かって飛び出して行った。ドアを開けるなり、廊下に滑り込み急いで受け付けへと向かった。自分が着くべき机にたどり着く寸前に、ジョー・ギトレアが部屋から出てきて、「グロスマン!」と怒鳴った。
アーティは立ち止まり、がっくりと全身の力が抜いた。
「はい、部長。なにか?」
柔和な少年の様な表情でもって、上司の方に振り向いた。
「どうにも……こうにも……一体全体どうすれば、君の崇拝者を止められるのかね? 人の話を聞いているのか?」
「部長、チベットにまで聞こえてますよ」
アーティが親切に答えた。
「僕が助長させているわけじゃないですよ。あの子はまだ子供なんですよ」
ギトレアは不満そうにアーティをじっと見た。
「花束は届けてくる、電話を一日に三回も四回もかけてくる、コミッショナーには君の夢見る青い瞳について手紙を書き送ってくるし」
「どうしようもないんですよ」
アーティは説明しようとした。
「ある種のシンドロームがありまして……」
「グロスマン!」
ギトレアが怒鳴った。
「人類の歴史なんぞ聞きたくはない。ただ、その女の子に、署長や私を煩わせないで欲しいだけなんだ。わかったか?」
アーティはため息をついて肩をすくめた。
「何をすれば良いか判っていればそうしてますよ。こんな事は初めてなんですから」
「方法なんてどうでも良いから、実行するんだよ、アーティ」
ギトレアはさっさと体の向きを変えて、部屋へと戻っていった。
アーティはフラフラとドア枠に寄りかかると、大きく息を吐いた。受け付け事務室の真中には、巨大な花束が置かれている。アーティはうめいた。
「どうかしたの、アーティ?」
穏やかな、かすれた西部訛りの話し声が背後から聞こえてきた。
「ダフネの事だよ」
アーティは答えた。振り返るとジョン・ベイカーの笑顔があった。
「あの子、電話も止める気が無いみたいだし、さっきは花束まで届けてくるし」
ジョンは静かに笑って、肩をすくめた。
「あの子は君に恋しているんだよ。君はあの子の白馬に乗った王子様なんだ」
アーティは表情を明るくした。
「なぁ、お前さんならこういう体験もあっただろう。お前ならどうする?」
ジョンは真面目な表情になると、すこしためらってから答えた。
「それぞれの場合で違う物だよ、アーティ。いろんな場合があるんだよ。その子の年齢。その子の気質。経験。二人としてそっくり同じ女性はいないからね。ダフネは大きな事故に遭遇したまだ若い女の子だ」
「そんなことは俺だって判っているよ。判らないのはどうやったら、あの子のすることを止められるかだよ」
アーティが懇願するように言った。
「何かいい方法を授けてくれよ、何でもいいから」
ジョンはアーティの肩を軽く叩いた。
「元気を出さなきゃ。あの子になんて言ってあげればいいかは、いずれ判るよ」
「部長は、今すぐわかって欲しいって」
アーティは溜息をついた。
「この件で相当不機嫌になってるんだから」
ジョンは笑って、言った。
「大丈夫さ」
それから目をくるくると丸くすると、
「アーサー・グロスマンの瞳は、今だかつて見たこと無いほどに夢見るようで」
手紙の一文を引用した。
「きっとコミッショナーは気が変になる寸前だっただろうね」
アーティは唸った。
「思い出させないでくれ」
***
カリフォルニアの日差しが気持ちよく肌にあたっている。受付での勤務と同僚警官たちから延々と繰り返された揶揄から開放されて、ますます気分が良かった。アーティはバイクの上で解放感を味わいながら、街中を通り抜けていく車の流れに続いて走っていた。殆どすることが無い退屈な日だとしても、それでも、アーティにとっては快かった。彼は丸々二日間も、警部補から『へこます』話をされつづけ、ダフネは数え切れないほどの電話をかけてきて、更にはデスクワークに向かわされるのをじっと耐えてきたのだ。それに比べれば、戸外の高速道路で大量の車に囲まれている方が全くもってまっとうなのだ。
何分と経たないうちに、その静けさは砕け散った。アーティの前方を走っていた車が路面の油か何かに滑って、スピンしたのだ。スピンした車の後ろの車は急ブレーキを踏んだが、前の車の後部に突っ込まずに止まる事はもはや不可能だった。キーッと言うブレーキのきしむ音に続いて、金属のあたる音がして、アーティは歯の浮くような不快感を覚えた。車の流れを止めながら、急いで事故現場に向かい、応援の要請をした。
バイクから降りながら、一台目の車の内部の様子を見ると、運転者がハンドルにもたれかっていた。額の深い切り傷からは血が流れている。けが人の心拍と呼吸を確かめると、今度は二台目の車に向かって駆け寄り、運転者の様子を見た。二台目を運転していた女性は、座席に座ったまま、驚きでパチパチと瞬きをしていたが、どうやら怪我は無いようだった。
「大丈夫ですか、奥さん?」
アーティはそう訊ねながらも、素早く後部座席の様子を調べた。
「ええ、ただ震えているだけですわ」
女性はそう答えると、ドアの取っ手に手をかけた。
アーティはそれを阻止した。
「奥さん、もし平気なようでしたら、そのままそこに居て頂けませんか。この車は爆発の危険はありませんし、救急隊員があなたを診てくれるまでは不必要に動かないほうがいいと思いますからね」
女性は目をぱちくりとさせてアーティを見上げ、それからわかったと言う様に頷いた。アーティは頷くと、バイクに駆け戻り、サドルバックから救急セットを取り出した。一台目の車に戻ると、男性の頭に止血用の包帯をあてがった。数分のうちに、サイレンの音が鳴り響き、救急隊の現場への到着を告げた。
アーティは救急隊員を手伝って怪我をした運転者を救急車に搬入すると、救急車の扉をしっかりと閉めた。閉じた扉を軽く叩いて、救急車の運転手に出発して良いと合図すると、腰を下ろして今度はレッカー車の到着を待った。一台の赤いフォルクスワーゲンがアーティの前を通り過ぎた。赤いワーゲンは速度を落とすと、やがて数十メートル先の路肩に停車した。アーティは溜息を付いて、それから腕でもって顔面の汗をぬぐった。それから、ゆっくりとワーゲンに向かって歩いていき、その開いている窓にもたれた。
「こんちには、ダフネ」
アーティは溜息混じりに言った。
「あなたがここで、すばらしい事をなさっているって知ったものだから」
ダフネはほのかに赤面した。
「僕は自分の職務を果たしているだけだよ、ダフネ。これが警官の務めだからね」
アーティが訂正した。
ダフネは鼻にずり落ちたメガネを押し上げて、長い髪をひと房、肩に掛ける様に引っ張った。
「あなたはすばらしい勇者のようだわ」
「僕は勇者なんかじゃないよ。ただの警官なんだよ」
アーティは何とか言い聞かせようとした。
「ねぇ、ダフネ、君は本当にいい子だよ、そして君のことは好きだよ」
ダフネがアーティを微笑んで見つめた。
「君は僕には若すぎるよ」
ダフネはそれを聞いて、がっかりとした。
「私、年の割には大人なのよ」
「ああ、そうだね、でも他の人たちはどう言うかな」
「私、気にしないわ」
ダフネが言い切った。
「僕は気にする」
アーティはそう返した。
「僕にはそういうことが許されない仕事に就いているんだよ」
「あなたの仕事なんて気にしないわ」
ダフネは必死になって反論した。
「本当に、全然気にしないわ」
「ダフネ、君はこれから君の年齢に相応しい人に出会うんだよ、本当さ」
アーティは言葉を続けた。
「君はただ、年上で、君が思うところの刺激的な職業に就いている男性にのぼせ上がっているだけなんだよ。だけど、本当のところは、警官は君の思うような刺激的な職業じゃないんだよ。交通違反のチケットを切ったり、ポイ棄てする人たち注意したり、事故の後片付けをしたりなんだよ」
「私にもう忘れろ、と言いたいの? あなたを愛しているのに」
ダフネは泣くまいと目をしばたたいた。
アーティはため息をつくと、うつむいた。
「あのね、君は僕のことを知らないでしょう。僕は36歳で体重に問題があるような男なんだよ、メル・ギブソンじゃないんだ」
ダフネは本格的に泣き出した。
「気にしないわ。愛してるの」
心優しき警官のアーティは、車の天井に頭をもたれかけた。
「ちがうよ、君は僕のことなんて愛していないんだよ。君は自分の事だけを考えているでしょ。僕は君に電話を止めてくれるように頼まなきゃならない」
ダフネは髪を背中に振り払うと車のエンジンをかけた。
「いつだって、あなたを愛しているわ」
アーティは優しく微笑んだ。
「ダフネ、僕もいつだってこの事は忘れないよ。さぁ、君は君の人生を行きなさい」
アーティが小さな赤い車が去っていくのを見守っていると、車が再び流れ出した。
首を振りながら事故現場に戻り、レッカー車の到着を待った。
***
アーティは手にした手紙を振りながら、ギトレアの部屋に急いでいた。
「部長、私が書いた『のぼせ上がり』についての記事をハイウェイパトロールの次の号に掲載してくれるって。読みたいでしょう?」
「あ、いや、アーティ、私はいいよ。ところで、おそらくその記事には捕捉が必要になるんじゃないかな。どうやらまだ、君の崇拝者はあきらめてないようだぞ」
「どういう意味ですか、部長? もう一週間以上もダフネからは電話も来ていないはずですよ」
「会議室を見て来るんだな」
ギトレアは廊下を指し示した。
ギトレアの部屋を出ると、アーティは会議室に向かって廊下を急いだ。部屋に入っていくと、半ダースほどの警官たちがテーブルを囲んで大きな花束を眺めていた。パンチと喋っていたジョンが視線を上げ、パンチの背中越しにアーティに向かって手を振った。
「ダフネはまだ君をあきらめきってないみたいだね。この花束は君にだって」
ジョンは同情をこめてアーティを見た。
「君がすっかり片付けたと思っていたんだけどね」
アーティはまるでそれが飛び上がって噛み付いてくるとでも思っているかの様に、花束を眺めた。
「俺だってそう思ってたよ」
アーティは手を伸ばして、花束から小さなカードを取る、とまるで爆発物であるかの様に注意深く開いた。六組の瞳は、アーティがそのカードを読んで注意深く畳んでしまう様子を注目していた。
「それで」
パンチがイライラを爆発させた。
「なんて書いてあったんだよ」
「これ、ダフネからじゃないよ」
アーティは全く罪の無さそうな表情で言った。
「じゃぁ、一体誰から?」
ジョンが間髪いれずに訊ねた。
「おぼえているだろう? ダフネと話をしたあの日、事故車の中に女性がいただろう。それで……これはあの女性からだよ」
ジョンが声を立てて笑い出すと、程なくして部屋中の警官たちがそれに倣った。
「ああ、アーティ」
ジョンが喘ぐように言った。
「一輪挿しにしたらいいよ。きっと、稼げるよ」
「実のところ」
アーティは興味深げに花束に目を戻して言った。
「花屋に投資するべきだろうね。新聞に広告を出すのさ、当店は警官や消防士に贈る花束の専門店です、って」
アーティは自分の話題に熱中し始めて、声が興奮の色を帯びてきた。
「これは、すばらしいアイディアだぞ。どうだい、諸君?」
全員が静かに不賛成の意を示すと、アーティの傍から離れて行き、彼だけが部屋の中に立っていた。
「おーぃ、みんなぁ?」
アーティの声が僅かに上ずった。
「これはすばらしい投資のチャンスだって。なぁ、おい、待ってよ!」
アーティは他の仲間の後を追って廊下に出てくると、誰か一人でも立ち止まって、最新の儲け話の案を聞いてくれる人を捕まえようとした。
−完 −
