救いの手

Helping Hand
written by Marica Colpan


二人の警官は、風の抵抗を小さくして機動性を高めるために、バイクの上で前傾姿勢をとった。二人は、午後の車通りの中を縫うように車をかわしながら、スピードを上げて、緊急通報に応えるべく走っていた。この日の空模様は、今にも雨が降り出しそうに薄暗かったが、まだ雨は落ちては来ず、湿気だけが高かった。重傷者が出た事故の通報をが入ったのは、午前中の休憩を取っているときだった。ジョンがコーヒーのカップを持って、テーブルに着いたまさにその時に、パンチが勢い良く扉を開けて叫んだ。
「おい、通報が入ってきたぞ!」
何分も経たないうちに、二人はバイクにまたがると、事故現場に向かって、大急ぎで走り抜けていた。
フランク・パンチョレロは、進路を塞ぐような高速道路の渋滞中で、歯を食いしばり、小さな声で悪態をついている。一分一秒を争い、アドレナリンの濃度が高まってきている今、頭に血が上りやすい性格を押さえつけるのは、ほとんど無理な事だ。わざわざ見るまでも無く、ジョンが直ぐ側につけているのは判っている、ジョンは冷静な職業意識を持って、事故現場に駆けつけることに専念している。この冷静さは、パンチがどうしても身に付けられないものだ。ジョンの冷静さが本当にうらやましかった。どんな状況においても、ジョンはいつでも自分自身をコントロールできているように見える。ジョンの目を覗き込んで、そこに思いやりや心配が静かに潜んでいるのに気づかなければ、冷たい人間だと思ってしまうかもしれない、だが、ジョンを知っている者は、誰もそうは思わない。
パンチはジョンのことを考えながら、懸命に自分を落ち着かせ、待ち受けている仕事に専念させた。ピックアップトラックが対向車線で押しつぶされ、ひしゃげ、屋根を下にひっくり返えっていた。その手前にバイクとライダーが倒れている。ライダーはまったく動かないぐしゃっとした塊となって横たわっていた。青いバンが走行車線を横切って、路肩に止まっていた。運転席側のドアが潰れ、ブレーキが間に合わなかった白い小型のスポーツカーにふさがれている。
互いに役割を熟知している二人は、バイクを路肩に止めると、パンチがピックアップトラックの運転手の状態を確かめに走る一方で、ジョンが状況を中央司令室へと報告した。ジョンの明瞭で、しっかりとした声がハイウェイの反対側まで届いてきた。パンチは明らかに死んでしまっているピックアップトラックの運転手から目をそらした。頭の中から、押しつぶされた頭蓋骨の様子を追い払うと、セメントの路上に横たわっている、バイクのライダーの方へと移動した。パンチは、ジョンが白いスポーツカーに向かっているのを見て、バイクに乗っていた人の横に身を屈めた。脈拍を確かめようとしたが、もはや生きている証は、見つからなかった。慎重に男性の体を仰向けにすると、もう一度望みをかけて、かすかな、それでも、再び脈打たせられるような心拍がないかと確認した。腹部が異様に膨らんでいて、内臓がひどく損傷している事を示していた。この男性は、事故の衝撃の後、程なくして亡くなったのだろう。パンチは頭を振り、立ち上がって、バンに向かって走った。せめて、一人でも生きている人が居て欲しい、しかし、見込みがあるとは思えなかった。
ジョンの方を見ると、白い車の運転者を落ち着かせているところだった、車の中の男性は意識が戻って、車をあきらめさせようとしている警官に抵抗していた。パンチは、バンの助手席側のドアを開けて、体を引き上げるようにして手を伸ばして、運転者の心拍を確かめた。その女性は、まだシートベルトでつながれていたが、ハンドルに覆い被さるようになっていた。運転席側のドアが女性の体のところまで押しやられていて、ドアの内側は、明らかに体に強く当たったようだ。パンチは、そっと、彼女の暗い色の髪をかきあげると、指先を首の横の動脈に押し当てた。
「頼む、脈打ってくれ」
パンチは静かに祈ると、目を閉じて、指先の触感に集中した。かすかに、かなりかすかだったが、不安定な脈を感じたと思った。ハンドルとシートベルトが女性の呼吸を押さえつけていることに気がつき、そっとベルトを外した。女性の体が滑り落ちてきたのを、パンチが胸でしっかりと支えた。頭がパンチのほうへ倒れこんできて、自分が見つめているのは、見覚えのある顔であるのに気がついた。右頬に打撲があり、口の片端からは血が滴り落ちている、だが優しい顔立ちは、高校時代からさほど変わってはいなかった。
パンチは、彼女をしっかりとつかみ、髪の毛の中に顔をうずめると、瞬きをして涙を抑えた。
「しっかりするんだ、エミー」
パンチが囁いた。
「俺がついてるよ」
パンチがもう一度、脈拍を調べると、ありがたいことに僅かにだが脈がしっかりしてきて、呼吸もしっかりしてきた。パンチは、後は救急救命士たちが到着するまでこれ以上動かさない方が良い事を承知しているので、エミーの体を支え、静かに祈りながら、壊れたバンの中に座った。待つことは、決して得意な事ではなかった。窓から、ジョンが怪我をしている男性を助けているのを見つめると、思いがあてど無くさまよい、この場を離れて行った。




パンチの寝室は、物で溢れかえっていた。机の上に置いてある手動式タイプライターは、キーを打つ度にぐらぐらして、崩壊寸前の旧式の物だった。いくらパンチが、力の入れ具合をそろえたとしても何の意味も無い様で、タイプの文字が紙の上を酔っ払ったアリが歩いたように並んでいた。『s』のキーは無くなっていたので、『s』がでてくると、後から手で書き入れられるようにスペースを空けておかなければならなかった。
「フランシス」
母親の声が階段を伝わって上がってきた。
「宿題はまだ出来ていないの?」
「今やってるんだよ」
パンチは叫び返した時に、間違ったキーを叩いてしまった。
「やられてるって感じだな」
小声でブツブツと言った。
「フランシス、遅刻するわよ」
母親が注意した。
「判ってる、判ってるってば」
パンチは最後に数文字打つと、タイプライターから紙を引き抜いた。紙の角が破けて、唸ってしまった。『s』はバスに乗ってからだ。ブルージーンズのジャケットを椅子から掴むと、紙を本の中に突っ込んでから寝室を出て行った。階段を駆け下りて、玄関のドアをぐいっと引っ張って開けると、通りへと飛び出した。
バス停へ走っていくと、ちょうどスクールバスが歩道から離れようとしているところだった。パンチは腕を大きく振りながら、走っていったが、運転手は遅れて来た生徒を探す事よりは、走行車線へ合流する事の方に余念が無かった。パンチはスペイン語で小さな声で罵りながら、学校へ向う道を走り出した。走っていくには二マイルは遠すぎる、だがまた遅刻をする勇気は無かった。校長からかなりはっきりと、これ以上遅刻をしたなら、居残りをさせると言われていた。居残りになれば、仕事に遅れてしまう。車のためにお金を貯めるには、仕事が必要だった。
学校までの中間点を過ぎる頃には、パンチはひどくむっとしていたし、わき腹が痛くなり始めていた。一息入れるのに立ち止まると、時計を見た。このままでは、間に合いそうに無い。パンチは、通行人から身をかわし、郵便受けや電信柱をよけながら、全速力で走り出した。消火栓がどこからとも無く急に現れると、手に持った本の重さの釣り合いを取って、見事に颯爽と飛び越えた。学校のベルがなった時、パンチは二段飛びで階段を駆け上がり、全体重をかけて、体ごとぶつかっていくようにして、ドアを開けた。喘ぐように息をしながら、ホームルームに入って、自分の席に崩れ落ちるようについた。本が床に落ちて、挟んでおいた紙が散らばるのが見えた。あまりに疲れていて、動く気力もなく、ブーツを履いた大きな足が、ちらばった紙をしっかりと踏みつけ、タイプした文字の上に大きな足跡を残すのを眺めていた。
「まだ車が無いのか、パンチョレロ?」
背の高い、痩せたヒスパニックが、パンチにのしかかった。油のようにねちっこい皮肉を言っている。
「なぁ、俺達の仲間になりゃ、今ごろ車ぐらい持ってるのにな」
「お前らの仲間なんかになったら」
パンチが喘ぐように言った。
「今ごろは前科者だよ」
「ああ」
少年がせせら笑った。
「けど、学校に走ってこなくて良いぜ」
パンチが反論する前に、授業の開始を告げるベルがなった。部屋を出て行く前に、紙を床から拾うのに屈まなければならない。ついてないことに、コヨーテを名乗る不良グループのリーダーの前で無様な姿を晒すことになった。ミゲルは片足を上げると、パンチがひっくり返るような強い膝蹴りを食らわせた。パンチは倒れた、まだよろよろしている脚では体を支えきれなかった。
「お前は泥でも食ってりゃ良いのさ、パンチョレロ」
ミゲルが罵った。
「お似合いだぜ」
パンチは怒りがこみ上げてくるのを感じ、拳をきつく握った。ミゲルはわざと足元の紙を踏みにじって、足早に去って行った。目の奥で血がドクドクと脈打つのを感じながら、英語のレポートの残りを集めて、よろよろと立ち上がった。打ちのめされた思いで溜息をつくと、きちんとタイプしてあったオセロに関しての英語のレポートだったはずの埃まみれのくしゃくしゃな紙くずを見た。怒りにかられながらレポートを本の中に押し込むと、授業に出席するのに廊下へと出て行った。
マーテロー先生は、パンチが、学校に走って来たせいでた服装や髪が乱れたままの格好で教室に入ってきた時に、目を上げた。埃だらけのジーンズと、妙な紙を本にくっつけている姿を見て、先生は自分の机の方に来るようにと身振りで示した。
「パンチョレロ君! 今学期中に、もう一度でも課題の提出が遅れたら、落第になって、バスケットボール部もやめさせられることになっているのを忘れたわけじゃないでしょうね」
「課題はここにあります、マーテロー先生」
パンチが溜息をついた。
「でも……」
「でも、は無しです。パンチョレロ君」
先生は、パンチから振り返ると、今日の課題を黒板に書き出した。
「きちんとしたものでなければ、及第点が取れなかったことで、チームからは外されますからね。判ってますね?」
「はい、先生」
パンチはブツブツと返事をすると、席を探しに先生のところから離れた。本を開くと、ぐしゃぐしゃになったレポートの残骸を見た。前の晩からがんばったレポートだった。紙についたほこりを払い、しわを伸ばし平らにして、なんとかレポートらしきものにした。ホッチキスを持っていなかったので、慎重にレポートの表紙を破って、全部が上手く纏まっるようにした。
「エメリーン」
マーテロー先生が、教室の一番前に座っている暗い色の髪の毛をした少女に向かって微笑んだ。
「オセロのレポートを集めてきてちょうだい」
少女は立ち上がると、しとやかに、だまったまま、差し出されるレポートを受け取りながら、席の間を歩いた。エミーがパンチの席に来た頃には、レポートは小奇麗な山になっていた。パンチはエミーのグリーングレイの瞳を見上げ、諦めの溜息をつくと、レポートを手渡した。
「あばよ、バスケットボール部」
独り言を呟いて、指を、濃い暗い色の髪に滑らせた。鉛筆を手にすると、規則的なリズムで机をコツコツとたたき出した。
「あっ……!」
エミーが椅子の脚に躓いて、手にしていたレポートを床にばら撒いてしまった。パンチは、エミーに思いっきり踏まれて、うめき声をあげた。レポートを拾い集めるのを手伝って、それから、自分のレポートをもう一度何とかまとめてから、エミーに手渡した。エミーはレポートを受けとったが、しばらく動かずにいるので、パンチは顔を覗き込んだ。すると、エミーが何か意味ありげにウインクをしてきて、パンチは驚いた。
「マーテロー先生」
エミーが先生に呼びかけた。
「レポートを落としてしまって、それでつい、フランク・パンチョレロのを踏んでしまいました。次の時間に、私がタイプし直してもいいでしょうか?」
エミーは期待して、先生を見た。
「申し訳なくって」
エミーが懇願した。
マーテロー先生はとても心配している少女を見ると、溜息をついた。
「もちろん、いいですよ、エミー。あなたのせいじゃないのは判っていますが、フランシスはあなたの手助けに感謝するはずですよ」
先生はパンチを睨んだ。
「そうでしょ、フランシス?」
「はい、先生」
パンチは自分の幸運が信じられずに、あわてて返事をした。エミーはパンチの方にちょっと振り向いて、先生から顔を隠すようにすると、素早くウインクをしてから教室の前へとレポートを持って急いだ。パンチはエミーを、いったい本当にウインクをしたんだろうか、それとも俺の想像だろうか?とはっきりせずに眺めていた。頭を振ると、本を開いて、直ぐにシェークスピアとの苦闘を始めた。
学校が終わる頃には、パンチはもう、くたくたに疲れていたが、ガソリンスタンドでの仕事が待っていた。上手く行って、静かな夜になってくれれば、やってくる車の間に宿題をやる時間があるかもしれない。ロッカーを思い切り閉めると、きちんとしまっている事を確かめて、鍵をかけた。鍵がかかったのを確認して、向きを変えて急いでドアの外に出ると、英語教師のマーテロー先生と鉢合わせになった。
「パンチョレロ君」
先生が厳しい口調で話し始めた。
パンチは次に来るだろう言葉を思って、目を閉じた。たった今からバスケットボールをやめさせられるのだと信じていた、だが、少なくとも、明日からにしてもらえるんじゃないかと希望は持っていた。パンチは咳払いをした。
「はい、先生」
「あなたのオセロについてのレポートはまったく素晴らしいものだったわと、伝えたかったのよ」
先生は続けた。
パンチは目を開けると、先生の表情に皮肉の印があるに違いないと捜した。驚いた事に、そんなものは無かった。
「ねぇ、フランシス、あなたには潜在的な力があるのが良く判ったわ。ただ、本気で取り組まないから、それを示せないだけなのね。何か、そう何かあなたの想像力をかきたてるきっかけさえ見つけて上げられれば、上手くやれるって思っていたわ」
パンチがじっと見ていると、先生はますます、勢いづいてきて、なんとパンチに微笑みかけたのだ。
「オセロがあなたの気持ちを奮い起こさせるなんて、夢にも思わなかったわ。シェークスピアは刺激的でしょ?」
先生は、なんと興奮で紅潮していた。パンチは、後ずさると瞬きをした。
「この向上の傾向が続いてくれる事を望んでいるわ、しっかりね。良かったら、マクベスに読み進む事もできるわよ。さて、これが用件だったのよ」
パンチはゆっくりと同意するように頷く一方で、レポートの中で何かこんなに先生を興奮させるような事を書いたのかどうか、思い出そうと、頭がくらくらしていた。先生はこの英国詩人の素晴らしさを褒め称えながら、廊下を歩くパンチについてきた。玄関口から外に出ると、ようやく開放されてホッとした。ゆっくりと息を吐き出しながら、校舎の外壁に寄りかかると、やっと安心した。
優しい女性らしいクスクス声が横から聞こえてきた。
「先生、気に入ってくれたみたいね」
パンチが振り向くと、エメリーン・ウェイアンドの顔を真直ぐに見つめた。
「俺、何を書いたか考えようとしているんだ」
正直に答えた。
「うーん……あなたじゃないのよ」
エミリーが微笑んだ。
「私が書いたの。タイプをするのに、あなたが書いたのを読んで、ちょっと書き換えたのよ」
「どんなとこを?」
パンチが先を促した。
「ほとんど全部かしら」
エミリーは穏やかに笑った。
「あなたったら、オセロの核心をすっかりつかみ損なってるんだもの」
パンチが溜息をついた。
「オセロなんて判らないよ。あの男、変な話し方なんだ」
エミーが真剣に笑い出した。
「昔のイギリスでは、あんなふうに話していたのよ」
パンチは疑い深そうにエミーを睨んだ。
「ひとまずは助け出してくれて、感謝すべきなんだろうな」
エミーは真面目になると、傷ついたような表情をした。
「気にしないで。バスケットボールチームのためにしたんだから」
きびすを返すと、校舎の階段を飛ぶように降りて行った。
パンチは心の葛藤を感じながら、エミリーの後を追った。自分がチームを辞めないで済むように助けてくれたのはうれしかった、だけど、笑い者になるのはいやだった。ミゲルが向こうの角に立っているのを見ると、パンチは向きを変えて、ガソリンスタンドへ向かう道へ戻った。また、侮辱的な言葉を交し合うような気分ではなかった。
「おい、パンチ、待てよ!」
リコが後ろから駆け寄ってきた。
「マーテローのババァはお前をチームから外すって?」
「いいや」
パンチは、まだ怒ったままで首を振った。
「転校生の女の、エメリーン・ウェイアンドが俺のレポートを持っていって、全部書き直したんだ。それで、マーテローは俺をオセロが大好きだと思ってるさ。ちきしょう。そんだけだよ」
「じゃぁ、お前まだチームにいられるんだ。良かったじゃないか」
リコが落ち込むはずは無かった。
「じゃぁ、あの子がお前を助けたんだ。すごいじゃん」
パンチがリコを睨みつけた。
「あいつ、いったいどうなってんだ?」
リコが笑顔になった。
「興味あるのかい? 見た目は悪くないよな……優等生だけどな」
「違うよ、興味なんてないよ」
パンチは直ぐに言い訳をした。
「ただ、何で、あいつが今日、自分から『手助け』なんて言い出したのかと思ってさ」
リコが肩をすくめた。
「そりゃ、たぶん、お前に気に入られたかったからだろう。そう思わないのか?」
「俺のタイプじゃないよ」
パンチはにべも無く答えた。
「毎週日曜日には教会に行って、先生の机にりんごを置くようなタイプじゃないか」
「お前がなんと言おうとさ、そうだと思うよ」
リコがパンチに向かって笑った。
「おれ、帰んなきゃ。じゃぁな」
「またな」
パンチはリコがアパートに向かって走っていくのを見ていた。
ガソリンスタンドは、ほんの一ブロック先だった、一分もしないうちにつなぎに着替えていた。タイムカードを時間どおりに入れると、それから机の上を片付けて本を置いた。エミーがパンチの英語の基準点を上げてしまったから、維持するためには真面目に取り組まなければならなくなった。
「間に入ってくれなんて、誰が頼んだってんだ?」
エミーを非難するかのように思った。
「自分の事は自分でやってるってんだ」
本を開いて、オセロの第二幕を見ると、気持ちが沈みこんだ。何がなんだか、さっぱりだ。
客がベルを鳴らしたので、パンチは事務所から出て、ガソリンの給油ポンプへと向かった。真っ赤な車がポンプの間に止まっていた。ミゲルが運転席の窓から乗り出している。
「よぉ、兄ちゃん。満タン、フルサービス」
ミゲルはガムを口の中でパチンと噛み潰すと、パンチョレロに向かって作り笑いをした。
パンチは短気を抑えて、窓を磨く事に集中した。仕事を終えるまで、ミゲルのあざけりや侮辱を無視した。
「五ドルになります、お客さん」
パンチが手を出した。
ミゲルは五ドル札をパンチに手渡すと、それから二十五セント貨を足元に投げた。
「五ドルはガソリン代だ、二十五セントはチップだよ」
ミゲルは鼻で笑った。
パンチは真直ぐと見据えた。
「お気をつけてお出かけを、お客様」
パンチはその場から何とか離れると、二十五セントは路上に残したまま、わざとゆっくりと事務所へと戻って行った。
「チップを忘れてるぜ」
ミゲルがパンチの背中に、変な笑い声を上げながら叫んだ。
「いいや」
パンチは静かに答えた。
「忘れたんじゃないよ」
事務所に戻ると、エミーが机の端に座って、脚をブラブラさせていた。
「お手伝いが必要なんじゃないかと思って」
エミーはあっさりと、そして事務的に言ってのけた。
「別に、いらないよ」
パンチはエミーの言葉をさえぎった。
「これまで自分で何とかしてきたんだ、これからだってやれるさ」
「どうして?」
エミーが直ぐに言い返した。
パンチはエミーの目に涙が浮かんでくるのを見て、自分の態度の悪さをすまなかったと思った。だが、プライドが後へと引かせなかった。
「ただ、君のねらいが知りたいだけだよ」
パンチが答えた。口調が必要以上にきつくなった。
「私の狙いですって?」
エミーが切れた。
「ええ、たぶんもっと上手い方法があるはずよね。あなたには手助けが必要だとおもったし、私はあなたの事がもっと知りたかった。私、こう言うことはとっても苦手なんだと思うわ。教えて、ねぇ? 私のスカートが長すぎるから? 首が長すぎるから? かわいくないから?……」
声が小さく消え入り、涙が頬を流れ出した。エミーは自分の本を掴んで、出口に向かって駆け出した。
パンチは、エミーが後ろ手にドアを勢いよく閉めていくのを、驚いて見つめていた。


パンチとリコは、校庭を取り囲んでいる低い塀に腰掛けて、おしゃべりをしたりくすくす笑ったりしながら、校舎へと入っていく女の子達を眺めていた。
「見ろよ」
リコは物憂げに言った時、ミニスカートを履いた三人の女の子が二人の前を通った、もうこれで三度目だった。リコはパンチを肘で軽くつついた。
「あいつら、俺らに気があるんだぜ」
「あいつらは、遊びたいだけさ、俺はヤダね」
パンチが不機嫌な声で答えた。
「ミゲルのことは忘れちまえよ」
リコがイライラしたように腕を振り回した。
「あんな奴、気にする程の相手じゃないさ」
リコは両腕を上げると、大きな円を描くように動かした。
「いい天気じゃないか」
リコの視線が、三人のミニスカートの少女達が後者に入っていくのを追った。
「それに、女たちも素敵だ」
芝居じみた溜息をついた。
「人生は短いんだぜ、な。花の匂いもたのしまなくちゃ」
「あれ、誰だ?」
歩道の向こうのベンチに腰掛けている、とても魅力的な少女を、あごで刺すようにして示した。少女はパンチに向かって優しく微笑むと、誘うように脚を組んだ。
リコはパンチの視線を追って、ベンチに腰掛けている少女を見た。二人に向かって、親しげに微笑み、脚を揺すらせている。
「シルビアだよ、エメリーンの姉貴だ」
パンチが信じられないといったように、リコを鋭く見た。
「エメリーンて、あの俺のオセロのレポートを書き直したあのエメリーンか?」
疑い深く訊いた。
「そうさ」
リコが笑った。
「あんまり似てないだろう?」
パンチは首を振って、少女を見つめた。
「ああ、似てないな。だけど……」
パンチが何かを言いかけようとしたが、始業のベルが鳴って、会話は途切れた。
「よぉ、パンチョレロ」
パンチは、もうすっかりおなじみになった声に溜息をついた。
「落ちてたつり銭は、拾ったか?」
ミゲルはいやらしく笑って、パンチをあざけった。
「小銭を大事にしなきゃ、九十のジジイになっても車なんて持てないもんな」
パンチは短く息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出し校舎に向かって真直ぐに歩き出した。
「今に見ていろ、学校の外で、あいつをぶちのめしてやる」
心に誓った。
ホームルームに入り、手にもっていた本をドサッと落として、どさりと席についた。前の晩に一生懸命に勉強をした、でもオセロの第二幕に関する宿題の出来がひどいことは判っていた。パンチは考え事に没頭していて、エミーが近づいてくるのに気づかなかった。エミーは整然とタイプされたレポートをパンチの目の前の机に置いた。
「あなたの宿題よ」
そっけなく言うと、急いで立ち去って行った。
戸惑いながら、エミーの後姿を見送ってから、レポートをとりあげて読んでみた。まぎれなく、上出来だった。タイプは完璧だったし、文法もきちんとしていた。パンチが夢にも思わないようなことを、かび臭い英語の中から見い出していた。
「ふん、ずいぶんバスケットボールが好きなんだ」
パンチは思った。
パンチは、イライラしながらガソリンスタンドの古い木製の机の上に、音をたてて本を置いた。給油は確かにパンチの仕事なのは判っている、だけど、二行ごとに読むのを中断されるとなると別の問題だ。帽子を引き下ろしてかぶると、ポケットに手を突っ込んで、給油ポンプへと向かって行った。ミゲルの赤い車が止まっているのを見ると、やる気も無くなった。
「いったい奴は、週に何回給油すれば気が済むんだ?」
イライラと呟いた。車に近づくと、中には誰も乗っていなかった。トイレの扉の方を見ると肩をすくめた。それから、窓拭き用の雑巾を掴むと、ミゲルが戻る前に済ませたいと思いながら、さっさと窓を拭きだした。そうすればミゲルとやりあう時間の節約ができるだろうから。
「いいぞ、パンチョレロ、いやぁ、とぉぉぉぉぉぉぉぉぉってもきれいになってるよ」
背後からせせら笑う声がした。
ゆっくりと息を吐き出しながら、パンチが不良グループのリーダーに対峙しようと振り向くと、目の前には安物の小型の銃があった。パンチはごくりとつばを飲み込むと、無理やりに銃から目をそらし、ミゲルの顔をしっかりと見た。
「仲間に入る最後のチャンスだぜ、パンチョレロ」
ミゲルが当てこするように言った。
ミゲルの向こうに、五、六人に若者達がいて、パンチが見るからにうろたえている様子を、作り笑いをして眺めているのが見えた。パンチはミゲルの顔をじっと見据え直すと、ゆっくりと首を横に振った。震える足のせいで意志と反した事をしでかさないように祈りながら。
ミゲルはいやらしく笑って、ジェームス・ボンドの物真似をしながら銃を構えた。
「愚か者だな、パンチョレロ。威勢はいいが、愚か者だ」
ミゲルは事務所のドアをあごでしゃくって見せた。パンチは目の端でミゲルの手に握られた銃を捕らえたまま、ゆっくりと歩いていった。色んな思いが心の中を抜けていった。次々と、どう対処すれば良いか考えては、思い浮かんだ考えを退けた。気が滅入っていく中で、実行できそうな案など無いに等しかった。勝ち目はミゲルのほうにあった。ミゲルが、手に持っている袋に紙幣を突っ込むようにパンチに指示し、パンチはレジを開けた。心臓が喉まで上がってきて、不満や恐怖を吐き出してしまいそうだった。レジを閉めると、ミゲルがパンチから袋を掴み取って、上着に突っ込んだ。
「なぁ、パンチョレロ、トイレに行かなきゃな。今にもチビリそうな面をしてるぜ」
ミゲルは自分の冗談に笑った、他の連中も神経質そうにあわせて笑った。
「トイレの鍵を取れよ、ガキ」
パンチは壁のフックから鍵を取った。ミゲルは銃を使って、パンチに外に出ろと指示をした。事務所から出る際に、パンチは両腕を高く上げて、できるだけ他の人から見えるようにしてみようとした。しかし、その行動は無駄だった、通りには誰もいなかったのだ。
ミゲルはパンチの前に進み出ると、男子トイレに入るようにと合図した。パンチはこのひどい夜の出来事に身を委ねるように、窮屈な小部屋に入っていった。ミゲルが何かに気をとられていると気がつく前に、突然、怒りでカーっとなるのを感じた。床はじめじめとして、まぎれも無く尿の匂いがしていた。トイレットペーパーが細かくちぎられて床に落ちていて、足元でどろどろとした液体と化していた。便器は汚物でいっぱいで、水洗タンクの取っ手と、便座は壊れていた。ミゲルが冷淡に笑った。
「どうぞ、楽しいご滞在を」
パンチは猛然と、振り返ると不良たちのリーダーを殴り飛ばして、トイレの壁に押し付けた。銃は、その時に体に受けた衝撃で、手元を離れ飛んでいった。この苦痛の根源の腹に拳を押し付けたとき、ミゲルの驚いた顔が、パンチの顔の直ぐ近くにきて、ミゲルの息遣いを頬に感じた。ミゲルは体を折り重ねるようにして汚らしいトイレの床に膝をついた。
「こんちくしょう、パンチョレロ」
ミゲルは喘いで、拳銃を捜した。
「ぶっ殺してやる」
パンチは、拳銃を遠くに蹴り飛ばすと、トイレから抜け出し、ミゲルを閉じ込めたまま鍵をかけた。不良どもが驚きの表情でパンチを見た。互いに一瞬躊躇しているその時に、古い黄色のフォルクスワーゲンがパンチとチンピラたちの間に入ってきた。助手席側のドアが勢い良く開くと、大声がした。
「さぁ、乗って」
パンチはどうしたものか考えながらも、ドアを掴むと、急いで車に身を滑り込ませた。ドライバーはアクセルを踏むと、まだパンチが足を引き入れて、ドアを閉めている間に、ガソリンスタンドから出て行った。車内は狭く、座席シートはどうやら小柄な人に合わせられているようだ。パンチは、体を丸めて、膝をグローブボックスにしっかりと押し付けていた。シートの下に手を伸ばすと、取っ手を引き、すばやく座席を後ろにずらし背もたれを倒して、座席の位置を整えた。ゆっくりと息を吐きながら、救いの主にお礼をしようと振り向いた。
エミーは運転に専念していた。集中している表情で、ガソリンスタンドからできるだけ離れようと懸命になっていた。エミーは道の反対側に車を止めて、フランシス・パンチョレロともう一度話してみるべきかどうか悩んでいたのだった。自分の気持ちと自意識はひどく傷ついていた、だが、パンチに惹かれていた。パンチは自分で選んだ、たった一人の人だ、そう簡単には諦められない。コヨーテの連中がガソリンスタンドに入っていった時に、エミーは警察に連絡して、それから戻ってきて機会を覗っていたのだ。
エミーはロスの街中でわき道に入って速度を落とした。自分の事をただの優等生だと思っている、でもとても魅力的な男性を追いかけてくる刺客との距離を稼ごうとしている。溜息をつくと、見慣れた赤い車が追いついてきていない事を祈って、バックミラーを覗き込んだ。残念な事に、ミラーには赤い車が映っていた。
「奴らは直ぐ後ろにいるぞ」
パンチが言った。
「見えてるわ」
エミーが直ぐに答えた。
「なにか名案があるんだったら、たった今教えて欲しいわ。このワーゲンじゃ、あの人たちの車からは走って逃げ切れないわ」
「学校の向こうのマクドナルドに入るんだ。あいつらは人目につくところでは何もしない」
パンチは振り向くと、心配そうに後ろの窓を見た。
「それであの人たちを止められると思ってるなら、また繰り返しになるわよ」
エミーが鋭く切り返した。
「警官を見つけなきゃ」
「ここはスペイン語を話す人間ばかりの街だぜ、警官なんてみつかりゃ良いけど」
パンチがいやみを言った。
マクドナルドがぼんやりと角に見えてきて、エミーは車を入れるとできるだけ明るい場所に停めた。二人が固唾を飲んでいると赤い車が後ろにやってきて、速度を落とし、静かに通り過ぎていった。不良たちがイライラしながら睨みつけていた。パンチはゆっくりと息を吐くと、ダッシュボードに額を押し付けて目を閉じた。
「ありがとう、エミー、大きな借りが出来たよ」
エミーはパンチを見つめて、返事をする前に皮肉が無いかどうかを確かめた。
「本気で?」
「ああ、本気だよ」
パンチがエミーに向かって微笑んだ。
「何で俺をずっと助けくれるのかはわかんないけど、ありがと」
エミーはぐっとつばを飲み込むと、涙がこみ上げてきて困ってしまった。
「私の事を知って欲しかったの」
エミーが小声で言った。
パンチは微笑んで首を振った。
「どうして? 判らないよ」
「あなたは本当に素敵な男性だって思ったの、それで、あなたに惹かれたの。私はこの先、この地区から離れられないから、せめて自分が好きな人と一緒にいたいの」
エミーはすっかり本格的に泣き出してしまった。抑えきれずに、涙が頬を伝って、Tシャツに落ちた。
パンチは驚いて、エミーを見つめた。
「君は良いところが沢山あるじゃないか。先生とか何か手に職をつけて、ここから出て行けるさ。俺を好きになってくれたのはうれしいよ、でも俺は、俺の人生をここで過ごすつもりは無いんだ」
「あなたは女の子じゃないんですもの」
エミーの声は苦々しかった。
「父は私にはっきり言ったの、もし誰かが大学に行くとしたら、それは兄だって。私のする事は高校を卒業して、結婚して家を出て行く事だって」
「俺、君が俺のために書いてくれたレポートを読んだよ」
パンチが驚いたように首を振った。
「エミー、君は大学にいけるよ」
「この街からヒスパニックの女性がいけるような大学は無いわ、パンチ。ここにあるのは、赤ちゃんと、家事とマクドナルドでの仕事だけなのよ。私の人生がそんな風になったって、やっていけるわ」
エミーは窓の外をマクドナルドの金色のアーチにうっとりさせられたように眺めた。
「……俺と一緒にそうして生きていくんだ、そういうのかい?」
パンチがエミーをじっと見ながら、額にしわを寄せた。
「あなたが好きなの」
エミーがすすり泣いた。
「それに、私の知る限りでは、姉に色目を使わない男性はあなただけだわ。あなたは違うって思ってたの。あなたが私を少し賢くさせたのよ」
パンチは息を吐くと、エミーをしっかりと見つめた。
「エミー、俺、君が本当に好きだよ、頭が良いところも好きだよ。だけど、君は大学に行かなきゃならないって思うんだ。自分の道をみつけるんだ」
「それで」
エミリーは涙がまだ顔を伝っているのとは対照的に、少し不安げだったが笑った。
「あなたにキスはしてもらえないのね」
パンチが体を乗り出して、唇にキスをした。涙の塩辛い味がした。エミーを自分の方に引き寄せると、もっと深く、激しくキスをした。その瞬間、すべてはエミーとキスだけだった。不本意ながら、かなり不本意ながらも、パンチは助手席に体を戻した。しばらくの間、二人は一緒に座って呆然としていた。
「電話を見つけて、警察を呼んだほうがいいな」
パンチが言った。
「ええ」
エミーが賛成した。
「そうしなくちゃね」
それから、エミーは体を乗り出すと、もう一度パンチと唇を重ねた。




鳴り響くサイレンの音を聞いて、パンチの意識が今に戻ったとほぼ同時に、救急車が事故現場に到着した。自分の胸に寄りかかっている怪我をした女性を見下ろすと、優しく微笑み、額にそっとキスをした。
「来たよ、エミー。助けがそこに来たんだよ」
エミーの左手を取ると、薬指に結婚指輪がはめられているのをじっと見た。
「いい人だと良いね、エミー」
パンチは呟いた。
救急救命士がバンのドアを開け、覗き込んだ。
「ここから出せるぞ」
パンチがバンから抜け出ると、救命士が入れ替わってエメリーンの状態を調べ始めた。パンチは顔の涙を振り払って、手袋をはめると、振り向いた。ジョン・ベイカーがパンチをじっと見ていた。
「ひどかったのかい?」
ジョンがバンの方を見て、静かに尋ねた。
「友だちだったんだ」
パンチがためらいがちに微笑んで答えた。
「古い友達なんだ」
救命士がエミーを担架にのせて通り過ぎながら、パンチの背中を叩いた。
「保証は無いけど、でも、大丈夫だよ。良かったら、後で病院に電話すればいい」
ジョンは興味ありげに担架にのせられた女性を見下ろし、それからパンチを見た。溜息をつきながら、手袋をはめた。
「戻る途中で花屋に寄れるぞ」
パンチはジョンに微笑み、それからヘルメットを被るとバイクにまたがった。
「ああ、そうしよう」

― 完 ―


"Helping hand" (c)1998 Marica Colpan. "CHiPs" and its characters cMetro Goldwyn-Mayer, Inc.All rights reserved. No infringement of any copyrights or trademarks is intended or should be inferred. This is a work of fiction, and any similarity to actual persons or events is purely coincidental.
本作品は、2001年3月にMarica Colpanより許可を受けて翻訳したものです。日本語文の権利は当サイト管理人のもんたに有ります。
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もんたのあとがき

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