その釣エサの店は小さいが、さまざまな品物を扱っていて、魚用よりも釣り人用のエサのほうが多く置いてあった。釣りの雑誌、本、ポータブルグリル、缶詰に、アウトドアウェア一式が、ソーダマシーンやスポーツマン目当てに冷蔵庫で冷やされている果物ジュースやアイスティのビンと競い合っている。小さなこの店の、素朴な主は、これを使えば、間違いなくボートに魚が飛び込んでくると、お墨付きのルアーをディスプレイするのに励んでいた。その一方で、地元のうるさい連中が、店の片隅に置かれたテーブルの前に座っていた。論争は、目の前で繰り広げられているチェッカーよりも政治の事だった。ドアに下がっているカウベルが鳴り、ドアが開いて、男達の声が止んだ。
ジョン・ベイカーが満面の笑顔で入ってきた。
「やぁ、みんな。だれが勝っているんだい?」
「こいつさ」
男達がハモって、同時にお互いを指差したので、ジョンはくすくすと笑った。
「判ったよ」
ジョンは笑った。
「やぁ、ウィルソン、家に帰る途中に、冷たい飲み物を買って、さよならを言っていこうと思ってね」
店主はルアーを並べる手を止めて、ジョンに満面の笑みを向けた。
「お前さんが帰ってしまうのは残念だよ。何か釣れたかい?」
「少しね」
ジョンは肩をすくめた。
「平穏と静寂を求めにきたのがメインだから。街は、時々ちょっともてあますからね」
ウィルソンは笑って、頭を掻いた。
「お前さんが言いたい事はわかるよ。ワシも自分があんな騒々しいところで15年間も過ごしたなんて信じられんよ。この店を買ったのが、ワシの人生の中で一番賢かった事さ」
ジョンは店主の体越しに、ルアーのディスプレイを見て、しかめ面をした。
「こんな物、本当はだれも買わないって思っているんだろう?」
ウィルソンは笑って、カウンターに寄りかかった。
「ああ、こりゃ、旅行者向けだよ。あいつらの中には何でも買う奴がいるからな。まったく、ワシの最初の頃は、もう少しで、ヌエ狩りに拡大鏡を買っちまう所だったよ」
「そいつは、すごい。そんな在庫があるなんて知らなかったよ」
ジョンが無邪気を装って答えた。
「夕べ使えたかもしれないな。テントにヌエが入ってきそうだったんだ」
チェッカーをしているテーブルの方から、称賛の笑いが起こった。
「おい、ジョン」
一人の男が調子を合わせた。
「お前が都会人だって言うんだったら、俺はバレリーナだよ」
ジョンも笑いに加わって、ウィルソンの背中を叩いた。
「出て行く前にアイスティを飲んでいこうかな。明日にはロスに戻りたいんだ。そうすれば月曜日に仕事に戻る前に、一日、トラックの手入れに使えるから」
ウィルソンは手を伸ばして冷蔵庫からビンを取り出すと、友人に手渡した。ジョンはポケットの小銭に手をやったが、ウィルソンはそれを断った。
「今回はいいよ。また今度な」
ジョンはお礼の変わりに微笑んで、ビンに口をつけた。
「今朝のコーヒー以来のおいしさだよ」
「お前さんには、料理の出来るかわいい嫁さんが必要だな」
ウィルソンがからかった。
「お前さんが自分で作った物を食べつづけてたら、自殺行為だよ」
「そりゃ言えてる」
ジョンは顔をしかめた。
「料理は得意じゃないよ」
ジョンは、向きを変えて、ドアから出て行った。
「じゃあ、また2,3週間のうちに」
「またな、ジョニー」
ウィルソンはジョンの背中に声をかけた。
「気をつけて帰るんだぞ。スピード違反で州警察に捕まらんようにな」
チェッカーテーブルの周りの男達が温かく笑って、またゲームへと戻った。***** フランク・パンチョレロは目の前にある違反チケットの山を見てうめいた。目的の1枚のチケットを見つけるのには、午後一杯かかりそうだ。しかも、それが終わるまで、外の新鮮な空気と日差しの中に出る事も出来ない。バリクザーがレポーティングルームに入って来ると、この友人の惨めな様子を笑った。
「おまえ、ジョンがいたらなぁ、って思ってるだろう」
「まったくだよ」
パンチはバリクザーに微笑んだ。
「ジョンだったら、正確な日付どころか、何時何分まで、その上、その前後に何をしゃべっていたかだって憶えているだろうさ」
バリクザーはテーブルの上に散らばっている、パンチのポテトチップスを勝手に取った。
「あいつ、どうやって憶えているんだい?」
「知るもんか」
パンチはため息をついた。
「ボニーも良く憶えてるよな」
「ああ」
バリクザーは目を丸くした。
「そうそう。ほどほどの記憶しか持たない俺達は、いやになるよ」
パンチは笑った。
「今日はほどほどにも足りない気分だよ。もし、例のチケットが見つけられなかったら、ギトレアは俺の事を昼飯代わりに食うだろうさ」
パンチは真剣になって、ため息をついた。
「ジョンが早めに戻ってこないかなぁ、でも、あいつはきっとまだ、釣りしてるんだろうな。たった今、あいつが俺をこの山から救い出してくれたらなぁ」
バリクザーがニヤリとした。
「ある意味では、お前達二人とも釣りをしてるんじゃないか。ジョンの方が景色が良いだけさ」***** ジョンはテープの音楽を聞きながら、山道を下っていた。ウィリー・ネルソンの歌が次々と流れてきて、トラックは道を走り、カーブを曲がった。何の前触れも無く、一匹の鹿がジョンの上方の斜面から飛び降りて、トラックのすぐ前に着地した。急ハンドルを切りながら、車の揺れを押さえるのにブレーキを踏んだが、鹿を混乱させ、もう一度車の前に飛び出させただけだった。避けるところも無く、ジョンはその獣をはねてしまった。衝撃でトラックが弧を描いて向きを変え、後ろ向きに山を滑り落ちていった。鹿はボンネットに跳ね上がった。鹿は致命的に傷つき、その最後のあがきでもって、フロントガラスをひずめで蹴破り、ジョンの頭を打った。ジョンは突然、激痛を感じ、そして真っ暗になった。
***** パンチはギトレアの部屋に入ると、チケットを注意深く、きちんとギトレアの前の机の上に置いた。
「ほらね、荷崩れのチケットです」
ギトレアはパンチをきっちりと見て、
「誉めて欲しいのか、パンチ?ジョンなら3時間前に見つけていただろうな」
パンチはにやりと笑って、チケットを軽く叩いた。
「あいつは、今夜あたり、戻ってきますよ。明日はトラックの手入れをするつもりだって、言っていたから。そうこうするうちに、俺は非番ですよ。女の子に電話して、それから……」
「もういい」
ギトレアは両手を上げて、前かがみになった。
「私は聞きたくないよ」
パンチはくすくすと笑って、ドアから出て行った。
「結婚してから長いこと経ちすぎですよ、部長」***** ジョンは何度も目を開けようとした。ジョンは軽いぼんやりとした状態の中にいた、完全には目覚めていないけど、完全には眠ってもいないときのような。頭の中ではっきりとしない時間が過ぎ、意識がゆっくりと、まるでダイバーが湖面に上がってくるように戻ってきたが、手足と関節はまだ眠っている。ジョンは誰かの手が、自分の体に触れ、動かしているのを感じた。屋外で激しい肉体労働をしている男の強烈な匂いがする。その動きはなんとなく、いやな感じがしたので、ジョンは完全に意識が戻るにしたがって感じてきた痛みを無視して、そのままの状態でいる事にした。誰かが自分を見つけてくれた事を、無言で神に感謝するのだけが、努力無しに集中できる事だった。思考は流動的で、しっかりと捕らえたり、考えを纏め上げたり出来るほど続かなかった。時間の感覚も無く、さっきの男が来て、去っていってからどのくらいの時間が過ぎたかも良く判らなかった。ゆっくりと、意識をはっきりさせようと格闘し、すぐにそれを後悔した。そのほんのわずかな動きで、頭に痛みが走ったので、その痛みが退くまで静かに横たわった。目を閉じたまま、ゆっくりと体の状況を確認し始めた。痛みは、頭と腕、それに両足に集中している。ジョンはうめき声を上げて、目を開けることに集中した。
日の光がジョンの目を射り、目を細めた。光は、頭の痛みを自分だけの花火のように爆発させた。ゆれている木の枝がジョンの頭上を覆っていて、上にあるはずの道路を見えなくしている。太陽は、その枝を通して強く照り付けていた。折れた太い枝が、周りの木々に垂れ下がっているのが、トラックがそこを滑り落ちてきたのを示していた。あきらかに、密集した草木が車のスピードを落としたおかげで、かなり穏やかに着地したようだ、さもなければもっと酷かっただろう。トラック自体は、鼻先を前に向けて、山の斜面の柔らかい土のところにあった。ドアの開いた運転席から切れたシートベルトがぶら下がっている。
ジョンはトラックがほんの少し離れたところに有るのに、自分の足が動かせない事に気がついて、パニックに襲われた。両足の上に何か重い物があるような感じがして、動かそうとするのはひどく苦しかった。精一杯、頭の痛みを無視して、ほんの少し動いて下半身の方を見た。あの鹿が首の骨を折って、地面に横たわっているのだが、そいつが、ジョンの両足を磔にしていた。地面は血だらけで、その全部が獣の死体の物ではなかった。深く、長い切り傷が、ジョンの太ももから鹿の下敷きになっているあたりまで広がっていた。右腕が酷く傷ついていて、骨にひびが入っているようだ。
さっきの男を思い出しながら、救助が来ている兆しを森の中に探した。ジョンはまったくひとりだった。体を起こそうと努力してみたが、結果は痛みが闇を連れ戻し、ジョンは森の柔らかな土に倒れこんだ。***** パンチは静かに音楽を流し、もう一度、なべの様子を見た。リンダがもうすぐTVで古い映画を見に来る。パンチは気持ちのいい、ロマンティックな夜の気分になっていた。鏡で身支度を確認して、部屋の様子もさっとチェックした。笑顔になって、ろうそくに火を灯し、後ろに下がって、その効果を惚れ惚れと眺めた。電話が鳴って、パンチが出た。
「もしもし、なんだい?」
「パンチ、私だ、ギトレアだ。話がある」
電話線の向こうの声は疲れているようだった。
「部長」
パンチがおだてるように言った。
「もし、チケットが違ってたって言うんだったら、明日やりますよ。もうすぐ、リンダが来るですよ」
「チケットの事じゃないんだ、パンチ」
考えながら、電話の向こうの声の調子を感じ取った。
「部長、何なんですか?」
「署から電話をもらったばかりなんだ。署に身代金の要求がさっき届いた」
ドアがノックされた。
「ちょっと待ってください、部長。リンダが来た」
パンチは受話器を台に置くと、ドアを開けに行った。リンダが体にぴったりの白い長いドレスを着て、暗い色の髪を肩にゆったりと下ろして、目の前に立っていた。
「さぁ、入って。今、電話中なんだ」
パンチはリンダに暖かな視線を送って、受話器をもう一度持ち上げた。
「身代金の要求だって、部長? 何の?」
「ジョンのだ」
その声は落ち着いていたが、明らかに心配していた。
「ジョンは釣りに行ってるんだ」
パンチは不安に胸を締め付けられながらも、考えた。
「パンチ、手紙はジョンのバッジに巻きつけられていたんだ。バッジは血だらけだ」
パンチは目の前の壁を見つめた。ごくりとつばを飲み込んで瞬きをした。
「どうやって、ジョンのバッジを手に入れたんだろう?」
「もっともな疑問だ、パンチ。我々はその事を調べなくてならない」
「ああ」
パンチはごくりとつばを飲んだ。
「部長?」
「なんだ、パンチ」
「電話してくれてありがとうございました」
パンチは受話器を戻すと、リンダのほうへ向き直った。
「署に行かなくちゃならなくなったんだ、リンダ。わかってくれるかい?」
リンダはパンチのハンサムな顔を見つめ、彼の顔からショックと恐怖を読み取った。
「ええ、行って。デートはまたできるわ」***** FBIの捜査官がパンチとギトレアの間に膝をついてかがみ、駐車場を見渡した。捜査官の きりっとした顔は、緊張し、考え込んでいた。
「相手は素人に違いない」
捜査官は意見を言った。
パンチは舗装の上に座って、しびれた足を伸ばした。
「どうしてそう思うんだ、アンダーソン? こいつは警官の誘拐をしているんだぞ」
パンチはサングラスを外すと、目をこすった。サングラスを取ると、捜査官にはパンチの目の回りに前の晩から作られたクマがあるのを見て取れた。
ギトレアはパンチの肩を強くつかむと、捜査官の方へ注意を向けた。
「奴は現れると思うのか?」
「金が欲しければ現れるだろう。いったん始めたら、抜け出せないさ。奴は悪い場所を選んだな。出入り口が3つしかない。我々はすべてを容易にカバーできる。ここにある全部の車が、カバーするのに備えている。それに、多額な要求だ。5千ドルだ。素人業だよ」
「ジョンを連れ出すには素人ではむりだ」
ギトレアが注意をした。
「ジョンは優秀な警官で自分の身を守るだけの能力がある」
「ああ」
捜査官がため息をついて頷いた。
「そこの部分がどうも腑に落ちないんだ。ベイカーはこの間抜けを上手くさばけたはずなのに」
アンダーソンのトランシーバーにバチバチと通信が入った。
「ひとり、入ってきました」
トランシーバーからの声が囁いた。
「もう一度だ」
パンチは答えた。車の後ろでしゃがみこんだ姿勢に戻り、双眼鏡を街灯にもたせかけた小さな鞄に向けた。
汚いシャツと、破れたジーンズを身に付けた、小柄な、強靭な男が、車を探しているような素振りをしながら、駐車場の中を歩いてきた。例の街灯のところに出くわすと、立ち止まって周りを用心深く見渡した、取り繕った素振りはすべて払いのけられた。男は手を伸ばして鞄をつかむと、出口に向かって駐車場を全速力で走っていった。即座に、駐車場中にサイレンが響き、何のマークもない車が、駐車場を封鎖しながら、男に向かって急発進した。男はパニックになって、警官から身をかわしながら、逃げようと懸命に、車の間を走った。ギトレアは、アドレナリンが全身に送り込まれたのを感じるのと同時に、足のしびれなど忘れて、そして、短距離レースのランナーのように、有利なところへ飛び出した。逃げようとする男の進路をさえぎり、体当たりをして、確実に男を止めた。ギトレアは男を片手で持ち上げると、上半身を近くの車のボンネットに押し倒して、動けないように押さえつけた。
「私の部下はどこだ?」
ギトレアは歯を食いしばって唸った。
「言わないと真っ二つだぞ」
男は金切り声をあげて、ギトレアの押さえ込みの下でもがいた。
「俺、何にもしてないよ。奴はもう死んでたんだよ、本当だよ」
ギトレアの顔色が失せ、指が麻痺した。
「もう死んでいたと言うのはどういう意味だ?」
漠然と、背後にフランク・パンチョレロとフィル・アンダーソンが立っているのに気がついた。パンチの顔は言葉をつむぎだそうと努力していたが、何も出てこなかった。
容疑者はまた別の敵意のある顔を見ながら、つばをごくりと飲んだ。
「俺は、そいつが森の中ですっかりぶっ潰れているのを見つけたんだ。そこら中、血だらけでよ。もう奴には持ち物なんか必要ないだろうと思って、それで、かっぱらったんだ。州はさ、俺なんかよりもっとたくさん、金を持っているだろうって思ってさ……本当だよ、悪意が無かったわけじゃない。ただ、分け前が欲しかったんだよ。ほら、なんかのチャンスだと思って」
男は周りを見渡した。
「そいつはもう何にもいらなかったんだよ。なにも」
ギトレアは男の拘束を解いた、そしてアンダーソン捜査官に手錠をかけさせた。
「どうして、死んでいるって判ったんだ?」
男は当惑した鳥のように瞬きをしてギトレアを見た。
「どういう意味だ?」
「脈はなかったのか?」
ギトレアは男の反応に困惑した。
「脈だって?」
男は間抜けに繰り返した。
「ちぇっ、知らないよ。調べなかったよ」
怒りの声がギトレアの耳に一杯に聞こえて、黄褐色のがっしりとした人影がギトレアを押し分けて、男の喉首を強くつかんだ。ギトレアは容疑者とパンチの間に入って、全力でもって、この激怒している警官を、おびえている男から引き離なさなければならなかった。パンチは容疑者を放し、すすり泣きながら部長の腕の中に倒れこんだ。
「こいつは確かめなかったって、部長。あいつを見つけたのに、助けようともしなかったって」
「聞いたよ、パンチ」
ギトレアはなだめた。
「聞いたよ」
「あいつは生きていたかもしれない!奴が見殺しにしたんだ!」
涙が黒ずんだ顔を流れ落ち、ギトレアの剥き出しの腕に落ちた。
「こん畜生が確かめさえしていたら」
アンダーソンは不快感を露わにして囚人を見た。
「もしも、お前が見つけた時には、ジョン・ベイカーが生きていて、救助を怠って立ち去った事が判ったら、考え直す事無しに、お前をこの男に渡すからな。俺の言っている事がわかるか?」
囚人は勢い良く頷いた。恐怖で目を見開いている。
「ベイカーをどこに置き去りにした?」
「奴は死んでたんだよ、山の上のほうだ。血が、どこもかしこも血だらけだった」
「いつだ?」
「昨日、ほんとだよ、昨日だ」
男はアンダーソンの締め付けの下で震えていた。
アンダーソンは男を睨みつけた。
「正確にはどこなんだ?」
「連れて行くよ。行くってば」
男はパンチにおびえた視線をチラッと向けた。
「あいつも来るのか?」***** パンチはパトカーの中で、ギトレアの隣に座って、道端に何らかの事故の形跡がないかどうか、念入りに見ていた。
「この辺は2回目ですよ、部長」
パンチは苦々しい思いで訴えた。
「あの馬鹿野郎が嘘をついたんだ」
ギトレアは同意して頷いたが、さらに道に目を走らせた。
「さもなければ、間違って憶えていたんだろう」
パンチはごくりとつばを飲み込むと、また道路へ注意を戻した。
「俺、あいつが死んだなんて信じられないんだ、部長」
パンチは頭を激しく振って、視界をはっきりさせようとした。
「いや、信じない。判ったはずだよ、絶対に判ったはずだよ」
ギトレアは車の速度を落として、徐行した。
「お前達は長い事パートナーを組んでいるからな。友人としても長い。お前があっさりと思いを変えて、このことを受け入れるとは期待していないよ。だがな、パンチ、受け入れなくてはならなくなるだろう。仮に、昨日、あの間抜けが見つけたときに、ジョンが生きていたとしても、昨夜、手当ても受けずに今日一日も放置されて、それでも命を取りとめているということは、おそらくないだろうと考えなければ。はっきり判るまでは、極てわずかな可能性を祈っているしかないんだ」
「なおさら、もっと祈らなきゃ。自分であいつの死を確かめて、脈を調べるまで、諦めない。俺がだ、部長。他のだれでもない。俺が」
パンチの声が少しづつ小さくなった。
「俺は、あいつに触れなきゃならないんだよ、部長」
ギトレアは、くたびれたように頭を振った。もう、36時間以上も眠っていないのだ、ギトレアにはそれが堪えてきた。車を路肩に寄せて止めた。
「これ以上は運転できない。代わってくれ」
ギトレアはドアを開けて、車から出た。ゆっくりと、背中の筋肉を緩め、元に戻しながら、しびれた背中を伸ばした。パンチは、反対側から外に出て、車の前の方へと歩いた。突然、パンチが立ち止まった。
「部長!」
ギトレアの頭がすぐに動いて、パンチョレロが指しているところを見た。行く手のカーブに沿ったガードレールの狭い区間が曲がっていた。完全には壊されてはいなかったので、前に通ったときにはすっかり見過ごしていたのだ、しかし、二人が立っているところからの角度からは丘の斜面の下のほうに、最近折られた木の枝が見えた。
二人の男は躍起になって、ガードレールの壊れたところに走り寄り、期待して生い茂った木の枝を通してじっと見下ろした。
「ここだ」
パンチは激高して飛び上がり、道路を下って、降りていく小道を探した。
「ここだと決まったわけじゃないぞ、パンチ」
ギトレアはパンチを落ち着かせようとした、しかし、パンチの意気込みに引きずられ、すぐさま後を追って、下へ降りる道を探していた。
パンチはパトカーに駆け戻ると、長いロープをとって戻ってきた。片方の端を自分の腰に巻きつけ、残りをギトレアに手渡した。
「俺を落とさないで下さいよ」
パンチは土手を滑り降りて行くのに、前に踏み出した。しっかりと支えるためにギトレアの背中に巻きつけたロープが、強く引っ張られた。
「何をしているんだ、パンチ? おかしなことをすると支えきれないぞ」
「すまない、部長。地面がちょっと見えなくなった。木につかまっているんだ」
「戻ってこられるか?」
ギトレアはすぐに気がかりになった。
「もっとましな道具が要るんじゃないか」
「このまま降りていくほうが楽だ。登っていくのには、足がかりがないんだ」
パンチの声がギトレアからは見えない場所から流れてきた。1本の木が揺れて、下がったので、警官がどこで下に降りようと動いているかが判った。
「ロープを外さなきゃならないみたいだ、部長。絡まってきている」
すぐにロープが緩んで、同時に荷重がなくなった。再び木が揺れ動いた。
「なんてことだ、ああ、なんてことなんだ!!」***** ジョンはひとり微笑んでいた。もう長くはないだろう、痛みも渇きも消えるだろう。もう、ほとんど無くなっている。時間は止まって、まぶたを通して漏れて来る太陽の光が暗闇にとって変わった、それは白く輝いてすべてを包んでいるようだった。遠くから、パンチが呼んでいる声が聞こえる。パンチにもう一度会えたら良いだろうけど、光の中で横たわり、ボロボロになった体から痛みが抜け去っていくのはとても気持ちが良かった。大変な一日の仕事を終えた後に、海岸で暖かな砂の上に横たわるのを思い出させた、とても心地よく、とても、穏やかで。もうちょっとだけ、パンチ。
***** パンチは目の前の光景をぞっとして見つめた。なじみのある青いトラックがすっかり壊れて、木にぶら下がり、鼻先を柔らかな腐葉土に突っ込んでいた。死んだ鹿が腐敗臭をさせていて、その死体の周りでハエがぶんぶんと飛び回り、すでに幼虫が孵化している。血が、もと有った所に変色した染みを残して、スポンジ状の地面に染み込んでいた。ジョンだ。パンチは両頬に大量の涙を流しながら、相棒で友人であるジョンを見た。薄茶色の金髪は乾いた血と泥で一杯だった。顔はほとんど判らないほど変わってしまっている。切り傷とあざが顔をすっかり覆っている。鼻は腫れ上がって、片方に傾いていた。右腕は普通の2倍にも腫れ上がって、左の太ももには汚れた深い傷があって、その傷からかなり大量の血が下の地面に流れ出ていっていた。
パンチは鼻をつまんで、鹿をできるだけ相棒から遠ざけた。ジョンに近づいて、パンチは指を、頚動脈にしっかりと置いた。パンチは驚いて、もう一方の手をジョンの胸の上に落とした、それから、鼓動を聞くために耳を押し付けた。
「ジョン!」
パンチはジョンの耳に叫んだ。
「ジョン、俺だ。俺はここにいるぞ、相棒、ここにいるよ。お前を見つけたよ」
「部長」
パンチが今度は声の限りに叫んでいる。
「部長、ジョンは生きてる。助けを呼ばなくっちゃ。生きてるんだ」***** ジョンはゆっくりと目覚め、自分の周りを調べた。ベッドにいる。頭を持ち上げてみようとしたが、痛みが酷く襲ってきただけだった。口はまだ乾いていたけれど、ずっと感じていた激しい渇きは無くなっていたし、消毒薬の匂いが腐敗している鹿の匂いに取って代わっていた。
「死なずに済んだか」
ジョンがかすれた声でそっと言った。
すぐさま、パンチの心配そうな顔が視界に飛び込んできた。
「やぁ、相棒」
パンチは静かに話した。元気者のパンチにしてはあまりにも静か過ぎて、ジョンは笑顔を作ってみせなければならなかった。
「心配かけやがって」
「自分でも心配だったよ」
ジョンがかすれた声で言った。
「もう大丈夫だ。2,3週間は、ちょっとばかりウォールゲームから離れることになるけどな」
パンチは微笑んだ。
「ひょっとすると、お前の腕にギブスがついているうちに、俺がお前を負かせるかもな」
ジョンは微笑んで目を閉じた、ありふれた暗闇だけがあるのを見て安心した。
「はん、まったく」
ジョンは何とか言った。
パンチはジョンの腕に優しく触れた。
「お前は寝てればいいの、俺の勝ちさ」
ジョンは微笑んで、ぐっすりと眠りに落ちていくに任せた。― 完 ―