追憶 (後編)

A Trip Down Memory Lane 
Part II
written by Marica Colpan


明るい室内は活気に満ち、色々なガラクタで埋まっていた。マーシー・ペンダルトンの暮らしの中でいつも出てくるガラクタたちだった。未完成のカンバスがイーゼルに載せられ、部屋の真ん中に置かれていた。絵の具汚れのついたスモックが椅子にかけられ、スケッチブックがしわくちゃな寝具の上に散らばっていた。

ジョンはさっとそのカンバスに目をやると、問題のものかどうかをすばやく確かめた。そこにあったキャンバスに描かれていたのは、小さなテーブルに並べられた本と花の静物画であることに安心して、窓辺に立って庭をじっと見ている女性に注意を向けた。
「やぁ、マーシー」
ジョンの低い囁き声が、部屋一杯に大音量のステレオのように響いた。パンチはその場に立ち会っていて良いものかどうか考えているように、部屋の入り口近くに立ち止まっていた。ジョンが頷きさえすれば、パンチは外に出て行ったが、ジョンもまた、昔の恋人に会うのに、友人に傍にいて欲しいのか、それとも二人きりにして欲しいのかが定かではなかった。

マーシーがゆっくりと振返えると、その顔には微笑を浮かべたままだった。マーシーは固唾を呑み、ほんの僅かにだが下唇を振るわせた。
「ジョン」
マーシーはジョンを見つめたまま、その名を囁いた。
「お元気そうね」
彼女は二人の間の距離を難なく埋めた。

「君もね、マーシー」
ジョンは、世間話をしなかった。するつもりではいたのだ。マーシーはジョンの思い出の中と同じに美しかった。暗い色の髪が小さな額を縁取り、ニンフのような雰囲気を醸し出していた。その美しさに、ジョンはいつもため息をついた。目を閉じて、軽く咳払いをした。
「マーシー、君が描いている絵について聞かなきゃならない事があるんだ」

マーシーが目を輝かせた。
「私の作品を気にかけてくれていたのね」
両腕を体の横に下ろすと、ジョンに近寄り、首に腕を巻きつけた。
「ああ、ジョン、なんて素敵なの。私の青とグレイの習作、好きだったでしょ?あれは、私もずっとお気に入りなのよ。あれが画廊に置いてもらえたなん信じられないわ」
マーシーはジョンを強く抱きしめた。
「あなた、いつも言ってくれていたでしょ、私には才能があるからもう作り話はしなくて良いんだって」
マーシーは一歩下がると、ジョンを真剣に見上げた。
「そう努力し続けるのはとても大変だったわ、ジョン。毎日、毎日をよ。毎日、毎日を、ね、でも私、本当に頑張ってきたわ」

ジョンは腕をだらりと下ろしたままだった。
「僕は、僕を描いた絵の事を言っているんだよ、マーシー。どうしてあの絵を描いたの?」
ジョンはマーシーの落ち着いた茶色の瞳をじっと覗き込んだ。そこに真実があるのならば、見極めようとするかのように。

マーシーは困惑して後退りした。
「あなたの絵ですって?」
マーシーは再び、体の前でしっかりと腕を組んだ。ジョンとの間に壁を作った。
「私……私にはあなたが言っていることが判らないわ」
目をそらし、再び窓の外を見つめた。

ジョンは意図的に前に乗り出し、マーシーの引き寄せて自分に正対させた。マーシーはそっぽを向いた。ジョンは、そっとマーシーの顎をとると、彼女の顔をもう一度自分に向けた。
「マーシー、君は僕の絵を描いたね、それも、ちょっとばかり……露出の高い。どうして?」

「絵を?」
唇が振るえ、目が涙で一杯になった。
「ジョン、私、一生懸命あなたに真実を話しそうとしているのよ。本当に」
涙が頬を伝った。
「私たちが分かれたとき、私、あなたの事しか考えられなかった。スケッチブック一杯にあなたを描いたわ。クローゼットの中に箱一つ一杯に、そんなスケッチブックがあるわ。でも、私、カンバスにあなたを描いたことなんて無い」
マーシーはジョンを引き離すと、再び窓の外を見つめた。
「そうしたかったわ。ああ、本当に、あなたを描きたかった。何もかもすべてを描いて、いつでも見えるところに置いて、何が私をこんなに混乱させてしまったかを思い出せるようにしたかった。でも、できなかった。あなたをカンバスに描くなんて出来なかった。いつだって自分の思いを作品にすることが出来たのに、でも、あなただけはそうできなかった」
マーシーがジョンを振返った。
「あなたは描けないわ。あの時も、そして今も」

ジョンは肩をすくめているパンチをちらりと見た。ジョンは再びマーシーに視線を戻すと、自分に方に引き寄せた。
「本当の事を言ってくれ、マーシー。君に真実を話してもらう必要があるんだ」

「話したわ」
途切れ途切れにすすり泣き、しっかりと握った拳でジョンの胸を叩いた。
「だからあなたとは一緒に居られなかったのよ。あなたが私を信じられないで居る事に耐えられなかったのよ。あなたの事をキャンバスに描いた事なんて無いのよ、ジョン。神に誓って、描いていないわ」

ジョンがマーシーをしっかりと抱きしめると、マーシーは泣いたままジョンの胸にすがった。ジョンはマーシーが落ち着くまで、静かに囁き、背中をやさしく撫でた。
「大丈夫だよ、マーシー。君を信じているから。でもね、ロスの画廊で君の署名のある僕の絵が何枚も飾られているんだよ」

「私、描いてない……描いてない……描いてない……描いてない……」

二人が病院を去ったのは、約一時間後のことだった。ジョンの心の中では「私、描いてない」と言うマーシーの言葉が祈りのように何度も何度も繰り返されていた。

パンチが沈黙を先に破った。
「医者に、俺たちのためにマーシーの部屋から絵を一枚持ち出してもらうように頼んでおいたよ。出来るだろうってさ」
ジョンは驚いてパンチを見た。
「なぜ? マーシーは、描いていないって言っているのに」
パンチは気の毒そうに微笑んだ。
「ああ、お前が前に言ってた通りに、あのお嬢さんは所々、真実性に問題がある。誰かに彼女が描いたとはっきりしている絵と、描いていないと言っているあの絵を比べてもらうのは、お前の為になると思うよ」

ジョンは、本気でマーシーを守りたいと思っているかのように、怒りが全身を駆け巡るのを感じた。ジョンが拳を強く握り締めていると、パンチが手を伸ばし、そっと車のキーを取った。ジョンは相棒を見ると、ため息をついた。
「お前が正しいよ。確認しなければならない」

パンチはにこりと笑って、鍵を空に放り上げて、落ちてくるところを掴んだ。
「お前さんは、俺のやり方を判ってくれると思ってたよ」

*****

ジョンはなり続ける電話の呼び出し音を無視して、シャワーへ向かった。蛇口を全開にし、浴室を蒸気で満たしてからシャワーの下に立った。水圧を調整して、肌にパラパラとつぶになった湯が当たる感じがするようにした。頭を傾け、耳を水で一杯にすると、なり続ける電話の呼び出し音も微かになって気にならなくなった。ジョンは何も考えないようにしながら、暖かな湯に浸って肩の緊張をほぐした。指がひとりでに左足の付け根の傍にある傷跡を辿っていた。

ジョンは突然、目をぱっと開いた。シャワーを止めると水を滴らせたまま、バスルームを走り出た。電話を掴んで、ダイアルを急いで回した。開け放した窓からの風で、ジョンはまだ自分がびしょ濡れなことに気がついた。片手で受話器を耳に押し当てたまま、もう一方の手をクローゼットに思い切り伸ばすと、バスローブを掴んだ。
「早く、出てくれ」
受話器をもう一方の手に持ち返ると、バスローブに袖を通し、身を包んだ。

「ギトレアです」
電話の向こうで部長が名が告げるのが聞こえた。
「部長、間違ってたんですよ」
ジョンは髪が含んだ水分を絞ると、水が背中を流れていった。
「何だって?ジョンか?」
ギトレアの声は電話を通しても大きく響き、電話に注意を向けた。
「ええ、僕です。間違ってたんですよ」
ジョンはベッドに腰を下ろした。
「判った、ちょっと私にもついて行ける様に話してくれ、これじゃ君が何について話してるんだかさっぱり判らないぞ。最初から話してみろ」
ジョンはくすくすと笑った。
「あのギャラリーの絵は、マーシーには描けないんですよ。時期が違ってるんです」
「で、どうしてそういう結論に至ったんだ?」
ギトレアの疑い深い言葉が電話の向こうに聞こえた。
「ボニーが僕だと確信したのは、足の傷跡のせいでしたよね?」
ジョンがイライラと足を踏み鳴らした。
「ああ……それが決定的要素だと思うが、だが、ジョン……」
ギトレアの声音は疑いから思案に変った。
「部長、あの傷が出来たのはマーシーと別れた『後』なんです。傷は思い出せるはずがないんです」
ジョンの声が徐々に小さくなっていった。
「部長?」

「聞いているよ、ジョン」
ギトレアの声には疲れが感じられた。
「それが何か君の助けになるのか、私にはさっぱり判らないよ。誰が描いたんだろうと、君の絵がまだ画廊にかかっている事実にはかわらないし、君自身がモデルをしたのではないことは証明できていないのだから」
「マーシーが真実を話した、ってことなんですよ、部長」
ジョンの声から意気込みが失われた。
「マーシーが僕に嘘をついたんじゃないって、確信したかったんです」
「やり直すか」
ギトレアが、ジョンの口に出さなかった思いに決着をつけた。
「やり直します」
ジョンが静かに答えた。

「今日はもう休め、ジョン。誰が描いたのかを見つけないと、本部長の前で祈るしかなくなるからな」
小さな音がして、電話が切れた。

ジョンは悲しげに電話を見つめて、受話器を戻した。
「祈るしかないか」

シャワーに戻ろうと立ち上がったとき、電話が鳴った。ジョンは電話と暖かい浴室の間で躊躇した。最終的に、しつこいベルの音に軍配が上がり、ジョンは受話器を取り上げた。
「ベイカーです」

「彼女だったよ、ジョン。マーシーが描いたんだ」
パンチの声が電話を伝ってきた。
「いや、違うんだ。マーシーには描けなかったって、さっき判ったんだよ」
ジョンはどっかりと腰を下ろした。
「マーシーは俺の脚の傷を見たことはないんだ」
「マーシーが、何を、いつ見たのかは知らないけどな、ジョン」
パンチの声は彼らしくなく、真剣だった。
「判ってるのは、ここにいる絵画の専門家は法廷でだって証言するだろうってことだよ。例の画廊の絵と、医者がマーシーの部屋から持ってきた静物画は、同じ画家の手によるものだって。こっちに来られるか?」

ジョンは頭を抱えてうつむいたままだった。
「ああ、今、行く」
電話を切るのが必要以上にきつかった。
「うそだ、うそだ、うそだ、うそだ」
バスローブをひき脱ぐと、床に落とした。
「シャワーを浴びてから出よう」

*****



「間違いがないのは確かなんですね」
ジョンはジャケットのポケットに深く手を突っ込み、目の前に居る絵画の鑑定士の顔を探るように見た。

その年配の男はめがねを鼻の上に押し上げると、首を振った。
「間違いはありません、ベイカー巡査。筆使いも色使いも、サインのカーブの部分も同じです。これは同じ画家によるものです」

「ありがとう」
ジョンは深くため息をついた。
「今度こそ、彼女を信じたかっただけなのに」

パンチはそれまでしゃべっていた電話を置いた。
「行こう、相棒。カーターがマーシーの代理人の事務所に捜査令状を持ってくる」

「このことで捜査令状が本当に取れたのか?」
ジョンは首を振った。
「証拠がまったく弱いじゃないか」

「とても弱いな」
パンチが認めた。
「だが、マーシーが、自分で書いた事を否定したのと、ウィリアム氏がここでマーシーが描いた事を証明したのとで、詐欺の可能性が出てきた。判事は、事情を聞くために俺たちが代理人を追いかけるべきだと、同意した」

「俺たち?」
ジョンは相棒の熱意に微笑んだ。

「俺たちにはロス市警のカーター巡査も含まれてるぞ」
パンチが訂正を入れた。
「ロスの司法管轄区さ。俺たちは、相乗り客だ」
ジョンは目の前の静物画を見て、表情を暗くした。
「マーシーには才能がある」
「相当な才能ですね」
年配の男が熱心に同意した。
「興味深い手法です。とても珍しい、指紋並に特有なものです」
「そして、その指紋並みな特徴が画廊の絵にもある」
ジョンはもう一度確かめなければならなかった。

「ええ、そうです」
年配の男がキャンバスを至近から凝視した。
「少なくとも十のうち九つの手法が同じ手法です。確かに、同一の画家です」
パンチがジョンの腕をそっと引っ張った。
「さぁ、早く事務所に行かないと、カーターにぶっ飛ばされるぞ」

ジョンは躊躇った。
「今度こそ、マーシーには真実を話して欲しかった。それに、どうしてあの傷跡を知っているかも」
「お前が彼女を信じたかったのは判っているよ」
パンチはジョンを入り口まで引っ張った。
「マーシーがどうやってお前の傷跡を知ったのかは、きっと説明がつくさ」

ジョンは疲れたように頷くと、車へと向かった。


*****



事務所の入ったビルの管理人は、前回立ち寄ったときに会った時に比べて愛想が良くなったりはしていなかった。管理人は、ニコニコ顔のロイ・カーターが手渡した捜査令状を見るまで、ジョン達の事を胡散臭そうに眺めていた。小声で政府の不法な干渉にブツブツと文句を言いながら、事務所へのドアを開けた。部屋の中のむっとする空気は、そのむさくるしい小さな狭苦しい部屋が放置されているような印象を与えた。部屋の中で唯一の家具である机の役割は、電話を置いておくことだけだった。

パンチは部屋を一周すると、含み笑いをした。
「そいつは契約を交わすのに座ってできるほど相手を信用出来なかったんだな。椅子がないもの」
パンチは試しに机の引き出しを引っ張った。引き出しは簡単に開いた。
「事務用品も信用してない」

真ん中の引き出しを開けると、一本の鉛筆と画廊との契約書が入ったフォルダーが現れた。
「マーシーが唯一の依頼人らしいな」

カーターは部屋を歩き回ってから、パンチの手からファイルを取った。
「依頼人が一人じゃ、やっていけないだろうに」

ジョンが眉をひそめて、計測でもするように慎重に部屋の中を歩いた。
「ほこり」

「何だって?」
パンチが笑った。
「待てよ、お前はきれい好きだから、掃除しろって文句を言うつもりなんだろう」
ジョンがパンチを笑った。
「違うよ。この部屋には、ほこりがないんだ。仕事の痕跡はない、空気はよどんでいる、まるで長い間、ここを使っていないみたいだ、なのに、ほこりがない。一体どんな奴が、ただ一枚の契約書の受け取りだけにこの場所を使って、でも、掃除に時間をかけるんだい?」

カーターはジョンに同意して頷いた。
「いい点をついてるね。そう、もしもここが、ただ契約書を受け取るだけの場所じゃなかったとしたら、そいつはここで何をする?」

「その通り」
ジョンはバスルームのドアのところで、室内の探索をやめた。バスルームの中に入りながら、照明のスイッチを入れた。
「大当たり」

パンチはジョンの背後に来ると、肩越しにじっと見た。タオル掛には、様々の種類のハンガーに男性女性両方の衣類がかけられて下がっていた。衣類はどれもきれいに洗濯され、誰かに組み合わされて着られるのを待っていた。小さな洗面台には歯磨き粉のチューブとマウスウォシュが散らばっていて、棚には大きな化粧道具ケースが入っていた。
「わぁお、こいつ準備しておくのが好きに違いないよ」

ジョンはバスルームの中に入っていった。トイレットペーパーを一片引っ張って、とても慎重に化粧道具ケースの蓋を開け、中を覗いた。
「この男は舞台に出ているんだろう。プロ使用のケースだよ。舞台化粧の口ひげとカツラも揃っている」

パンチはドアのあたりをじっと見て、扉の板に当たっているものを見た。
「こいつはアクセサリーをつけるのが好きらしいぞ」
ベルト、ネックレス、スカーフが、ドアの天辺から下がった収納スペースに整然と並べられていた。
「よし、二人とも、そこを空けて見せてくれ」
カーターはパンチを小さな部屋から後ろ向きで引っ張り出し、シーッと追い払うような動きを、さり気なく後をついて来たジョンにして見せた。カーターは中に踏み込み、ゆっくりと三百六十度ぐるりと回ってから、ジョンを睨みつけた。
「君たちが探している奴は、女装をするのか、俳優なのかだな。どっちにしても、君が困った状態から抜け出すのに、素晴らしい前兆ではないな、友よ。こいつはおそらく、居所も一定してないだろう」
カーターはバスルームから出て、ドアを閉めた。
「ここではあまり収穫はなかったな」

「おや、そうかな、俺はそうは思ってなかったよ」
パンチが背中で手を組み合わせて仰け反った。
「俺は見つけたみたいだけどな」

カーターはじっとパンチを見た。
「じらすなよ」

パンチは指を曲げてカーターの注意を引くと、机に向かって歩いていった。フォルダーを広げると、一番上の封筒を、頭を傾げて指し示した。
「封筒のあて先はマーシーが居る病院じゃない。サクラメントのアパートのものでもない」

カーターは考え込みながら封筒を見た。
「なるほど、あの絵が何処から来たのかが判るかもしれない、と言うことだな。詐欺事件の捜査の為には、調べてみるべきだな」

「ロイ」
ジョンは床を見つめた。
「君はもう十分に僕を助けようと手を尽くしてくれたよ。感謝してる、でも、これ以上君をトラブルに巻き込みたくないんだ。パンチと僕で調べるよ」

カーターは僅かに声をあげて笑った。
「手を引く気は無いよ。興味深い事件だよ。絵画の購買層を騙そうと言うわけじゃないが……連中に嗜好ってものがないとしてもだよ。いずれにせよ、連中は君の絵を買っているんだ」

ジョンは唸った。
「思い出させないでくれ。あれが全部売れてしまう前に、画廊から下げさせる方法を見つけなくちゃならないんだから」
「絵画への投資は考えないのかい?」
カーターは心得顔でパンチと目を交わした。
「市場はおお賑わいだって聞いてるけど」

ジョンは唸るとドアに向かって歩いて行った。
「おやすみ、バイバイ」


*****



三人が画家のアパートに入ったのは、午後も半ばだった。捜査令状は再び、家主を捕らえた。家主は、何も持ち出さないでくださいと警告しながらもドアを開けた。

「俺たち、警察だよ」
パンチが管理人に思い起こさせた。

「言ったでしょう、何も持ち出さないでくださいね」
管理人は、一言一言はっきりと言った。

パンチは笑いながら室内に入った。去っていく管理人の背中に頷いて、ジョンにウインクを投げかけた。
「さて、ここにいるのは信頼できる人間だよ」

カーターは称賛するかの様に笑うと、アパートの中を細かく調べた。
「ここも、おしゃれな物も何も無いな。俺、流行に敏感なんだよ」

安っぽい家具が面白み無く部屋に並べられ、事務所同様に生活感が無かった。ジョンはテーブルの天板に指を滑らせた。
「事務所と同じにきれいだ。誰かが定期的に来て、手入れをしているんだ」

台所では、コーヒーの缶が貯蔵庫に、食べかけの中華料理が冷蔵庫に入っていたが、きれい好きの見本のようだった。他の食料は明らかに何処にも無かった。棚には一人分の食器が、引き出しには同じく一人分の銀器が入っていた。
「キャンプに行く時だって、もっと持って行くよ」
ジョンが感想を言った。
「誰がここを借りているとしても、ここには住んでいないな」

パンチは電子レンジの台を開けて、中を覗き込んだ。
「おい、ここ、何が入ってると思う?」
パンチは横に避けて、カーターが中を覗けるようにした。

「奴さんは写真に夢中らしい」
電子レンジの台の中には、35mmカメラが整然と置いてあり、その横にはレンズケースが並んでいた。大きなレンズの一つは、その長さに合わせるために、棚の中に斜めに置かれていた。ネガと写真の入った写真屋の封筒の山が、棚の二段目の靴箱に入っていた。カーターは棚の中に手を伸ばすと靴箱を取り出し、テーブルに乗せた。

ジョンとパンチは、写真を調べているカーターを残し、小さな居間を通り過ぎ、寝室へと入った。ここのクローゼットも、事務所で見たのと同様に、男物と女物の衣類が奇妙に混じっていた。クローゼットの床の上には、事務所にあったのと同じタイプの化粧道具入れもあった。ベッドにはベッドカバーがかけられていたが、使えるようにはなっていなかった。シーツも毛布も無かった。辛うじてある生活の証拠は、浴室のリネン棚一杯に入っているタオルだけだった。

「シャワーが好きらしいね」
ジョンがそれを見て言った。
「ずいぶん沢山タオルがあるな」
パンチが肩をすくめた。
「身ぎれいな人間だな」
そして、微笑んだ。
「こういうタイプの奴、知ってるだろう」
ジョンが繰り出した短いジャブをかわした。

「おい、こっちに来てこれを見てくれ」
カーターの声が台所からした。
「俺には、これが被写体として価値があると思っている人間が存在するってのが、信じられないがな」

パンチは身を沈めてジョンをかわすと、台所へ向かった。

パンチの後を追ってリビングを抜けた時、ジョンの耳にパンチの口笛が聞こえた。
「一体全体、どうやってこんな写真を撮ったんだ?」

ジョンは角を曲がって、パンチの手から写真を掴んだ。
「何てことだ!」

「有名人だな」
カーターが写真を見て言った。
「油絵の具とキャンバスだけじゃなくて、カメラマンの憧れでもあるらしい」

ジョンは写真を次々めくって、うめき声を上げた。
「こんなの知らない。どうしてこんな事が起こるんだ? 俺の寝室で写真を撮ったみたいじゃないか」

「確かに」
パンチが肩越しに見た。

ジョンは不快げな目つきでパンチを見た。
「信じてくれ。裸で歩き回る場所なんて殆ど無い。かなり限定された場所だけだ」

カーターは立ち上がり、写真を見ている二人を残して出て行った。リビングルームに入ると、バルコニーに出た。数分して、カーターは台所に戻ると、カメラを取り出し、望遠レンズを取り付けた。
「よぉ、楽しんでるか?」

「ああ、盛り上がってるよ」
ジョンが乾いた皮肉な口調で答えた。
「いやな気分だ」

「俺の勘が当たっていれば、気分がよくなるどころか、更にいやな気分になるだろうな」
カーターは二人のカリフォルニア・ハイウェイ・パトロールの警官から離れ、カメラを手にバルコニーに戻った。

ジョンとパンチは視線を交わしてから、写真をテーブルに落とすと、カーターの後を追ってバルコニーに出た。
「結論を説明したいんだろう?」

「ふーむ」
カーターはカメラのレンズを調整した。
「説明する前に、君の住所を思い出させてよ」

「何故?」
ジョンは胡散臭そうにカメラを見た。

「ここからだと、どっちの方角?」
カーターがベランダからの景色を示した。
「君のアパートの建物は、ここから見えるかい?」
ジョンはバルコニーの外を眺め、まぶしさを避けた。
「ああ、見えるよ。左手の向こうの方だ」
カーターがカメラをジョンに渡した。
「ここから君の部屋が見えるかどうか、確かめて」

ジョンはカメラを受け取った。それはまるで蛇のようだった。カメラの目の位置に持ち上げて、バルコニーの左手方向を眺めた。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ」

「君の部屋が見えたんだね」
カーターは微笑んで、手をポケットに突っ込んだ。

「まるでバルコニーに立って、俺の寝室の窓をのぞきこんでいるみたいだ、くそっ!」
ジョンはカメラを後ろに殆ど放り投げるようにした。
「まったく、見事じゃないか?」

カーターはカメラを掴んで、微笑んだ。
「我々はこのアパートが何のために使われているのかを掴んだと思うよ」

「少なくとも一つの理由はな」
パンチの声が室内から聞こえてきた。

「一つだって?」
ジョンがうめいた。
「別な理由が判るのが待ちきれないよ」

「ああ、直ぐさ」
パンチが請合った。

ジョンが振り向くと、パンチは一枚の絵を持ってリビングルームに立っていた。その絵は画廊にあったものよりもある意味興味深いものだった。その絵の中のジョンは一人ではなかった。

「死にそうだ」
ジョンは恐ろしげに絵を見つめた。
「俺は首になる。母さんがその絵を見て、そして俺の人生はお終い」

「この子、見覚えがあるぞ」
パンチは考え込みながら、絵をつくづくと眺めていいた。
「俺の知ってる子かな?」

ジョンはパンチの手から絵を奪うと、壁に立てかけた。
「俺が言おうとしてるのは」
ジョンはカーターを振返った。
「今度はなんだ?」

カーターはジョンに向かってにっこりと笑った。
「さて、これはれっきとした事件だ。覗きは犯罪だ。このアパートには張り込みを置く。その間に君たちは上司のところに戻って、この事を話すんだ。そうすれば、あの絵のモデルになった疑いは晴れる」

「それだけでは、あの絵を画廊から下ろさせる事は出来ない」
ジョンは目障りなキャンバスを、嫌悪のまなざしで睨みつけた。

「出来るさ、だが、俺としては、そうならなくても、それも良いけどな。俺は、この人物を捕まえたい」
カーターは体を揺すった。
「あの絵を誰も見ていない、って訳じゃないしな」

ジョンが唸った。
「際限が無い」

「ああ、そうだな」
カーターはジョンの肩を叩いた。
「すべてをきちんと片付けないとならないな」


*****



パンチはジョンのアパートの部屋に入ると、鍵をカウンターの上に放り投げた。
「準備はいいか?」

ジョンはシャツを頭から引っ張りながら、浴室から出て来た。シャツの素材が、濡れた肌に上手く沿わず、小さく罵った。

パンチは声を立てて笑った。
「最近は、浴室で着替えてるのか?」

ジョンはパンチを睨みつけると、指を濡れた髪に滑らせた。
「カーターが厚手のカーテンに付け替えさせてくれないんだ。犯人に警戒されるのを恐れているんだ」

「家主はもう、お前さんの崇拝者に教えちまってるんじゃないか。俺たちがあそこに行ってから、誰も近寄っていない」

「まぁ、どこかで動きがある事を祈っているよ。画廊に未だに絵が飾られているのは愉快じゃない……そう……何もかも」
ジョンの声は苦々しく消え入った。

パンチは笑った。
「飾られている、ってのは良い言葉だね。少なくとも、お偉いさんは片付いた」
パンチは冷蔵庫を開けて、ソーダを取り出した。
「飲むか?」
「ああ」
ジョンは投げ寄こされた缶を掴んだ。
電話が鳴った時、パンチはソーダをもう一本取り出そうと棚に身を乗り出していた。

ジョンは手を伸ばして受話器を取った。
「ベイカーです」

「動き出したぞ。来るか?」
カーターの声が電話線をそっと伝わってきた。

ジョンはソーダの缶を下に置いた。
「もちろん」

パンチはまだあけていない缶を棚に戻して、冷蔵庫を閉めた。
「何か動きがあったな」

ジョンが頷くと、二人は大急ぎでアパートの部屋を出た。


*****


パンチは車の窓をノックしてから、一歩後ろに下がったので、カーターは車から降りられた。
「奴はいつアパートに入ったんだ?」

ジョンが直ぐ傍に来た。
「それで、男だったのか?」

カーターは笑顔になった。
「男が一人、約三十分前にアパートに入っていった。奴には落ち着く時間を、お前たちにはここに来るチャンスを与えてやろうと思ってな」

「家主に静かにしていてもらうのに手間取ったかと思ったよ」
ジョンはアパートのロビーを見た。
「それ程かからなかったさ」
カーターは笑った。
「彼の記録をさっと見ただけさ」
パンチが目を丸くした。
「なかなか、策士じゃないか」
「そりゃ、うまくいったさ」
カーターはくすくすと笑った。
「さぁ、行こう」

三人は、さりげなくぶらぶらと道を渡り、アパートのロビーに入った。カーターは座って新聞を読んでいた男に頷いた。

エレベータに乗り込むと程なく、三人は例の部屋の玄関前に着いた。カーターが下がると、ジョンがしっかりとノックした。

中で何かが動いている気配がするものの、誰もドアを開けようとはしなかった。ジョンはもう一度ノックした。
「警察だ、開けろ」

今度は足を引きずる音がドアのそばまできて、そして、カチリと音がした。ゆっくりと、ドアが開いて、小柄なエルフのような、薄い黒い口ひげをたくわえた男性が目の前に現れた。洋服はあまりサイズが合っているようには見えず、瞳も顔にあまり合っていない様だった。
「お話があるんですが、お名前は?」

男が脇によると、警官たちは男の全身像が見える室内に入ってきた。ジョンは立ち止まると、目を見開いた。部屋の中央にイーゼルが立てられて、描きかけの絵がはっきりと見えた。その絵はあまりにもあからさまだった。

「いったい、こんな事がどうしてできるんですか?」
ジョンの怒りは辛うじて抑えられた。
「こんなことする権利がどこにあるんですか?」

小柄な男は後ずさりして、ジョンから離れた。腕が胸のところで組まれた。それは、その男と、絵を指して怒っている男のとの間の障壁だった。

ジョンは声を抑えて、そして前に踏み出して画家と直接向かい合った。手を伸ばし、口ひげをそっと引っ張ると、それはジョンの手に落ちた。髪も同じだった。隠れていた柔らかな茶色の髪の束が滑り落ち、ジョンはごくりとつばを飲み込んだ。
「マーシー」

その女性は目に涙を一杯溜めて、ジョンを見上げた。
「私、マーシーじゃないわ。あの子は嘘つきなの。あの子はあなたを愛せないわ。でも、私なら愛せる。私は、あなたを愛せるし、描けるし、傍に居られるわ。このアパートの家賃さえ払えばいいの。問題は、あなたしか描けないってこと。他は何もだめなの」

ジョンの肩が落ちた。
「マーシーじゃないって言うなら、君は誰?」

「私、ペニーよ。代理人を雇う余裕が無いから、だから自分で自分の代理人のふりをしたの。良い思い付きでしょう、ね?」
女は涙を流しながら、ジョンに微笑んだ。
「私、舞台女優になれるわね。きっと」
目がイーゼルの絵に移った。
「もちろん、画家の方がずっと良いけど。あなたが私のモデルになってくれれば、もっと楽に描けるんだけど」

ジョンは悲しそうに首を振った。
「僕たちは、君をマーシーの病院の先生に合わせるべきだと思う。先生は、本当に君に会うべきだ」
その若い女性はジョンをせつなげに見つめた。
「もうあなたの事を描けないの?そうなのね?」
ジョンは首を振って、彼女をカーターに引き渡すと廊下へ出た。

パンチが直ぐ傍に来た。
「大丈夫になるさ」
ジョンは頷いた。
「ああ、何ヵ月後かにはね」

パンチは思いやりをこめてジョンの腕をぎゅっと握ると、カーターを手伝いに戻っていった。
ジョンは廊下を一人で歩き、エレベータに乗った。カーター達がマーシーを連れて行くのを見たくは無かった。





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本作品は、2003年9月にMarica Colpanより許可を受けて翻訳したものです。日本語文の権利は当サイト管理人のもんたに有ります。
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