ガラテヤ書 6章14〜16節
しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。
割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。
私は手紙を書き終わるとき自分の思いを十分に伝えているかどうか心配になることがあります。パウロも結びの言葉を書くに当たってもどかしさを感じているようです。ガラテヤ信徒への手紙はかなり厳しい内容の手紙でした。でもパウロは彼らを愛しており、正しい信仰に立ち帰ってほしいとの思いが随所に表れていました。
いよいよ手紙の最後に当たって自らペンをとり大きな字で書き始めました。「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」読む人々に心して読んでほしいとの思いが伝わります。今日の私たちも心して読むべき内容です。パウロがここで言いたいことは彼自身が伝えた福音とは違った教えていて割礼を受けることを強要する人々に従ってはならないということです。
ユダヤ教を信じていた人々がイエス・キリストをも信じました。そしてユダヤ教の伝統を守りながらイエス・キリストを伝道していました。彼らは異邦人が主イエスを信じるときユダヤ人と同じく割礼を受けて主イエスを信じなければ救われないと教えたのです。彼らにすれば当たり前のことだったでしょう。パウロのようにただイエスを信じる信仰だけで救われるというのはあまりにも行き過ぎた、誤った教えであるということでしょう。
そこでパウロは「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。 割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。」
肉において人からよく思われたがっている者とは見栄を飾る者、よい顔をする者という意味で人から自分がどのように思われているか、いろいろと取り繕うことです。神様を恐れず、人の顔色をうかがっているのです。
今日もわが身かわいさに保身的になり信仰の純粋さに欠けるものがおります。こういう信者は正しい信仰のために戦うこともできず、自分の不利益や危害が及ぶようなことになると信仰を隠してしまいます。
これに対してパウロは「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」といっています。
福音の中心は、イエス・キリストの十字架です。十字架は屈辱と恥辱と呪いに充ちたものです。その十字架をキリストは私たちの罪のために、その贖いのために受けてくださったのです。パウロはこの十字架のキリストだけを述べ伝えてきたのです。
Tコリント2:2「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」
この十字架は信じるものを救うと共に救われたものが負うことを求めているのです。
クリスチャンはキリストと共に十字架につけられた者ですから、キリストの十字架を負うべき者です。パウロと共に十字架を誇りとしてただ十字架にのみ望みをおいていかなる困難な戦いにあっても主にあって戦うならば勝利があることを信じて勇敢に戦うものでありたいと思います。
「このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。」