教会標語
ルカによる福音書18章1節
イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。 (新共同訳)
また、イエスは、失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬えで教えられた。 (口語訳)
クリスチャンは主イエス・キリストを信じて生きる者です。その生活は常に戦いの連続です。ですから信仰生活を全うしようとするものは祈ります。神様の助けを求めて祈ります。信じることは祈ることと同義語です。
主は失望せずに祈れと教えられました。「失望せずに」とは、「勇気を失わないで」とも訳される言葉です。ですから、信じて生きるとは、「祈る勇気を失わない」ということです。主は失望せず、勇気を失わないで祈りなさいと教えておられます。
「常に祈りなさい」と主は言われます。
多くのクリスチャンは、毎日、毎月、毎年と月日を重ねるにつれて祈ることに疲れを覚えます。祈ることに飽きてしまいます。そして祈れなくなります。この弱さを知っておられる主だからこそ、疲れることなく、飽きずに、常に祈る者となりなさいと、招いていてくださるのです。
祈りについて誤解があるように思います。祈りは神様と私の個人的な関係の中でするものなので、自分の祈りを人に聞いてもらったり、また人の祈りを聞いたりしてはいけない。祈りは密室の中でひとり神様に対峙してなされるものだと考える人がいます。
この考えは正しいのでしょうか。「二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」マタイ18:19-20
二人または三人が心を合わせて祈るところに主は共にいてくださるのです。祈祷会に出席して共に祈る経験を通して、主は教会の中で、信徒の群れの中で、生きて働いてくださるお方だと体験できるのです。
ルカ18:7、8に「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」
選びの民たちであるクリスチャンの祈りに主は必ず答えてくださいます。主を信じる者は祈るために選ばれているとさえいえるのです。18:2〜5の譬えは「悪い裁判官とやもめの訴え」という譬えです。熱心に、必死に願うものは人を人とも思わない裁判官をさえ動かした。ましておや、私たちを愛し育んで下さる神信じる者の祈りを叶えてくださらないはずはありません。ローマ8:28「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
18:9〜14の譬えは「パリサイ人と徴税人の祈り」です。主はパリサイ人の祈りを退けられ、徴税人の祈りを評価されました。14節「 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
パリサイ人は9節でこう説明されています。
「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」です。自分だけが正しい人だと思い、他の人々を見下している人でした。この二人が共に神殿で祈っています。心のうちがお分かりになる神様はどこをご覧になったのでしょうか。心が神様にまっすぐ向いているか、周囲をあれこれ見回して他の人々を気にしながら神様に向かっているか、心の在りようをご覧になっています。すべてを見抜いておられます。
失望せずに常に祈り続ける時、やがて他人が消え、神様と自分だけの関係が浮き立ってきて自分自身の内面の弱さ、醜さ、脆さが神様の前にさらけだされて、切に許しを請い願う者と変えられていきます。
祈り続けましょう。