『鐘音』本文一部公開


 ロクデモナイ朝で始まった一日は実にロクデモナイものになるらしい。
 まあ、乾有彦にとっては、朝で一日が始まるってのも滅多にない事なんだが。
 とりあえず、朝早く起きてもやる事なんか無いので学校に来てみたわけだが、案の定、教室にいても面白い事なんか何もない。
 おまけに遠野のヤツが今日は欠席ときた。
 暇をもてあまして3年の教室に行ってみたら、先輩も休みだった。
 怪しい。
 怪しすぎる。
 ムカついたので、とっととエスケープしようとした二限目の休み時間。
 疲れた顔をして教室に入ってきた遠野と鉢合わせた。
「有彦……?」
 怪訝そうな顔でオレを見てやがる。
「なんだよ、ユーレイでも見たような顔して? オレがこの時間に学校に居ちゃいけないのか?」
――まあ、これからフケるところなんだが。
 目がかすんだのか、遠野はいつも掛けている眼鏡を外して眉間を軽く押さえた。
「いや……有彦、だよな」
 なんだか睨むような視線でオレを見てやがる。
 妙な迫力に一瞬、背筋がぞくりとする。殺気、ってのはこういう感じの事を言うのかもしれない。って、なんで遠野が――
「悪い、疲れてるみたいだ……気にしないでくれ」
 眼鏡を戻した遠野は溜息を吐くと、オレの横をすり抜けて自分の席に向かった。ぞくりとするような感覚は消え去っている――いや、むしろただの気のせいだろう。そうやって自分を納得させる。コイツは確かにヤバいヤツだけど、オレを殺す謂れはない――と思うしな。
「そうだよな、さっきの今だし……珍しく朝から来てるから勘違いするんだよな」
「あ? 勘違いって、何がだ?」
 独り言を聞きとがめると、遠野は困ったような表情を浮かべた。
「いや、こっちの話。なんでもないよ」
  何か誤魔化されているような気もするんだが、問いつめていたら休み時間が終わってしまう。さすがに授業中にエスケープするのはちょっと楽じゃない。
「悪い。少し休ませてくれ」
 遠野は確かにかなり疲れてるらしい。自分の席にたどり着いたところで力尽きたのか、机に突っ伏している。だけど、いつものように貧血で倒れるほどでもなさそうだ。
「んじゃ、オレちょっとフケるぜ」
「うい。幸運を祈る」
 顔も上げずに、遠野はひらひらと手を振る。
 オレは肩を竦めて、教室をあとにした。
 先輩も学校に来てない事については遠野を問いつめるべきだったかもしれないが、あの様子じゃろくに受け答えも出来なさそうだし、余計な事をして本格的に調子が悪くなったら後味が悪い。
 エスケープは迅速に。オレはいつものルートでそそくさと校舎をあとにした。
 とりあえず、街に出るか。
 どう遊びほうけるか計画を練りながら、オレは昼の路地を歩きはじめた。
 その目の前に妙なコスプレをした先輩が立っている事に突然気が付いたのは、本当にぶつかる寸前だった。
「あれ、先輩、こんなところで何してんだ?」
「乾、有彦」
 その声は、奇妙に冷たかった。
「どうしたんだよ、せんぱ――」
 オレの言葉に答えず、先輩はついと眼鏡を外す。眼鏡越しじゃないその瞳は深い色を湛えていて、オレはなんだか吸い込まれそうな感覚を味わっていた。

 

 眼鏡を掛けてない先輩ってのも、それはそれで――あれ? センパイ? センパイって誰の事だっけ?
 誰と間違えたんだろう。目の前にいるコイツは――

 

「や、久しぶり」
「あれが、またお世話になっているようですね」
 誰かさんによく似た、名前も知らない誰か。こいつはななこのゴシュジンサマだ。
「ああ。きちんと管理しといてもらいたいんだけどな」
「申し訳ありません。後ほど引き取りに向かわせて頂きます。ところで、最近何か変わった事はありませんでしたか?」
「変わった――事?」
 いきなり妙な事を聞いてきた。
「はい」
「ってもなあ。ななこがいきなり来たくらいで、他は別に」
「別に――何もありませんか?」
「まあ、突然学習意欲が湧いてみたとか、あっという間に失せて無くなったとか、アネキがちょっと行方不明になってるとか、ちょいと派手なケンカしたとか――は、別に変わった事でも何でもないしなあ――ああ、ななこの話を聞いて変な夢は見たけど」
「変な夢、ですか」
 すこしだけソイツは考えるような顔になった。
「あ、そうそう。最近女の子が引っかけられなくなったのは変わった事に入るかもな」
「はあ、そうですか」
 あ、なんか呆れたような口調。
「せっかくだし、これからお食事でもどうでしょうか、フロイライン」
「考えておきます」
 おどけたオレの口調に、ソイツはちょっと苦笑いして見せた。
 あ。結構可愛い。
「それでは」
 頭を下げて、ソイツは背中を向けた。
 それこそ文句を言う暇もなく、路地にはただオレ一人が取り残されていた。
 それにしても、まったく、本当に今日はツイてない。
 頭を振っていると、ぽん、と肩を叩かれた。

 

 振り向いたら、見覚えのある笑顔がいた。
 えーと、そう、先輩だ。先輩がじっとオレの顔を覗き込んでいる。
 前言撤回。結構ツイてるかもね。
「お、先輩、奇遇だね」
「やっぱり乾君じゃないですか。どうしたんですか、こんなところで」
「ああ、ちょっと街に出ようかと。先輩も一緒に行く?」
「今は授業中じゃないんですか?」
「ああ、まあ、ちょっと」
 うーん、先輩には弱いよなあ、オレ。……って、そうか。
「そういう先輩こそ、こんなところで何をしてるんだ?」
「秘密です」
 にこにこにこ。
 妙な迫力のある笑顔だ。
 つまり、聞いても絶対教えてあげませんよって事だろう。
「じゃあ、オレもここで何をしているかは秘密という事で」
「ダメです」
 にべもない。
「隠してもわかってますよ。学校をサボってきたんでしょう? いけませんよ、そんな事では」
 指を立てて怒る先輩も、それはそれで可愛いもんだな。なんてにやけてると、先輩は不審そうな顔をしていた。
「聞いてるんですか、乾君?」
「おっとぉ、ごめん、先輩。オレそろそろ行くから」
 いつまでもつきあって居られない。ってことで、オレはそそくさとその場を逃げ出した。
「あっ、こらぁっ、待ちなさいってばあ」
 先輩の罵声が後から追いかけてきたが、すぐに諦めたのかそれも聞こえなくなる。

 オレは逃げる間一度も振り向かなかった。
 だから、知らなかった。
 先輩が逃げるオレの事を、じっときつい目つきで睨んでたって事を。