月下孤想



 静謐に包まれた柳洞寺の境内にただひとつ。あてもなく彷徨う影がある。
 思い出したように歩を進めては天を仰ぎ、溜息を吐いては思い出したように歩き出す。
 その人影は、無意味な彷徨をどれだけの間続けているのだろう。
「ああ……」
 人影はまた嘆息を漏らす。
 境内の散策を始めたときはまだ低かったはずの月が、気が付いたときには振り仰ぐ中天に浮かんでいる。それは、つまりそれだけの時間、彼が境内を無意味に歩んでいたのだということの証。
「何をやっているのだ、俺は」
 溜息には自嘲の陰りがある。
 人影は、この柳洞寺に住まう住職の末子だった。
 性は寺と同じ柳洞を名乗り、名は一成という。
 学校でも多くの生徒から信頼されている人格者で、ゆくゆくは禅僧への道を歩む事になるだろう。事によれば、寺を継ぐのも彼の仕事になるかもしれない。既に一人前の僧である兄たちですら彼の事をそう見ていたし、彼自身、己は父の跡を継ぐ事になるだろう、いや、継ぐのだ。と、そう将来を定めていた。無論、この年齢になるまでの間には、己の将来についていろいろと葛藤もあったに違いない。だが、それを克服した今、青年はまだ幼さを残しながらも、立派に仏の道を歩み始めようとしていたところだった。
 その一成が、自分でも何をしているのか解らぬという表情で境内を彷徨っている。
「要するに、俺もまだ若いという事か」
 立ち止まって、もう一度溜息を吐く。
 しかし今度は自嘲というよりも苦笑の響きがあった。
「背伸びをしすぎていたのだな。だが、考えてみればこれも修行か。若きうちの苦悩は買ってでもしろとは、まあうまく言ったものだ」
 一成が呟いた格言は、世間で言われるモノとは些か響きが異なる。
 さもあらん。この格言は住職である一成の父親が酒の席でたびたび口にする、住職自身の創作だった。
 一成に言わせれば、まったく、あの生臭坊主め――という事になるのだが、その実、柳洞寺の住職としての能力は疑うべくもなく、慕い訪れる者が引きも切らなかったりする。まったく、人間とは解らないものだ。
「全く、修行が足りぬな……もう少し夜風に吹かれてみよう」
 踵を返し、山門へと向かう。
 別にどこかへ向かおうという意味があったわけではない。ただ、石段をひと往復でもしようと思いついただけだ。体を動かせば邪念を追い払えるかもしれないという、些か稚気じみた思いつきではあったが。
 だが、数歩もいかぬうちに足が止まる。
 こおん、こおん、と響き渡る音をその耳が捉えたからだ。
 最初は誰かが木でも打っているのかと思えた。だが、違う。これは金属と金属の軋みあう音色だ。まるで音楽のように清冽なリズムを刻んだかと思えば、時折狂ったかのように激しく音が連なっている。
 目を凝らせば、時折月光を弾き返す銀の筋が山門近くで輝いていた。
 人影は、二人か。
 山門の向こう側でなにやら振り回し、争っているらしい。
「む……このような時間に不逞の輩か……?」
 普通の少年であれば、いかにも物騒なその様子に、何も見なかった事にして関わり合いになるまいとするだろう。だが一成は、普通と言うには少々責任感が強すぎた。
「けしからん、一喝してくれよう」
 ひょっとしたら先程までの考え事を中断させられて、少々気が立っていたのかもしれない。
 だが、それは余りにも軽率に過ぎる行為だったのだと、さほど時間も要さずに一成は理解する。
 あまりにも非常識な光景だった。
 長槍を持った、見た事もない意匠の鎧をまとった男が、こともあろうに陣羽織をまとった男と斬り合いをしているのだ。鎧の男が振るう槍は暗い赤に染め上げられ、気の弱い者が握れば血に狂ってしまいそうなほどの凶気を湛えている。
 だがその前に立つ陣羽織の男が握る刀も、あまりまっとうな代物には見えない。さほど武具に造詣の深くない一成ではあったが、その刀が、並の刀より一尺以上も長い長尺刀なのだという事くらいはわかった。
 蒼い鎧の男は人間とは思えぬほどの速度で裂帛の突きを放ち、陣羽織の男はその長尺刀をまるで小太刀の如くひらひらと振り回してその豪雨の如き槍撃を受け流している。
「でぇあっ!」
 一成の目では捉え切れぬほどの速度で、蒼い鎧の男が裂帛の気合いとともに連続の突きを放った。
 だが、それを弾き返した音は、一つに繋がってしか聞こえない。
 少なく見積もっても四合から五合。恐らくはそれに倍する攻防があったのだろう。唐突にばっと蒼い鎧の男が後じさり、数メートルほどの間合いを開けた。
 一成の目ではそれ以上の事は解らなかった。
 目の前で命のやりとりをしている二人は、どう見てもまともな人間ではない。形だけは人のものだが、中に入っている物はもっと異質な何かだ。
 一度離れた二人が、ジリジリと間合いを詰める。
 呆然としたまま、一成の足は無意識に半歩退がっていた。
(逃げろ)
 一成の本能がそう悲鳴をがなり立てる。恐怖に脚が震える、
(逃げろ。あれに関われば死ぬ。死んでしまう。殺される)
 一成は、しかしその悲鳴を聞きながら、それ以上は一歩も脚を動かせなかった。
 死は、恐ろしい。
 だからだろうか、ガタガタと脚が震えるのは。
 いや、違う。脚が震えるのはもっと違う理由だ。
 一成は小さく息を吸い、きっと行く手を見据えて歩を進める。脚はまだおぼつかなかったが、だからといって山門へ向かうのをやめるわけにはいかない。
「不埒者ども! ここを何処だと心得ている!」
 奇妙な事に、二人はそこでようやく一成の存在に気付いたようだった。
「ちっ、またか。どうもついてねえな、俺は」
 吐き捨てたのは蒼い鎧の男だ。
「つまらん邪魔ばっかり入りやがる。まったく忌々しい話だ」
「忌々しいのはこちらの方だ。御仏の前で刃傷沙汰などと、場をわきまえろ」
 一喝するその声に震えはない。だが、それが尚更男のカンに触ったようだった。
「小僧……」
 蒼い鎧の男はじろり、と冷たい目で一成を睨め付ける。
「いいだろう。どのみち余計な目撃者は始末しなければならねえしな」
 殺気が、一成に向かって吹き付ける。
(ここで、死ぬか)
 それも仕方あるまい。たとえ武具を手にしていたとて、一成ではこの男達には敵うまい。たとえ逃げても後ろから切り伏せられて死ぬだけだったろう。
 無念は無念だ。残念もある。だが不思議と恐怖はなかった。
「悪いが、そうも行かなくてな。ランサー」
 蒼い鎧の男と一成の間に、陣羽織の男が割り込んだ。一成を背にするその位置は、まるで彼を庇っているようにも見える。
「無礼は詫びよう。柳洞寺の者よ。だが、私はここを守護しているだけなのだ」
 背を向けたまま、陣羽織の男はそう告げる。
「守護、だと……」
 言葉の意味を理解しきれず、一成はオウム返しにその言葉を口にした。
「そうだ、過去も、そしてこの――」
「アサシン!」
 咎めるような声は、降って湧いたように一成の背後へと現れた気配が発したものだ。
 同時に、首筋から何か冷たいモノが侵入してくる。その冷たいモノは、あっという間に一成の全身を侵し、その熱を奪ってゆく。
「――っ!?」
 それは本当に一瞬の出来事でしかなかった。視界が霞み、手足は感覚を失い、一成はどうと地面に斃れ伏した。
「ちい……加勢か……」
 遠くなっていく意識の中で、一成は蒼い鎧の男が踵を返して石段を駆け下りていく音を聞いていた。



 うっすらと瞼を開くと、天に浮かぶ月が瞳に映り込む。
 ひどく静かな夜だ。
 先程まで色々悩んでいたはずなのに、今の一成はひどく穏やかな心境だった。
 もう一度目を閉じてしまいたいという欲求に抗いきれず、一成は重い瞼をそのままゆっくりと下ろしてゆく。
「一成、何をしているのです、こんな時間に」
 可笑しそうに笑う涼やかな声音に誘われて、沈みかけた一成の意識は、ようやくまどろみから引き返す事が出来た。
 目をはっきり開けると、見覚えのある女性が月を背にして一成の顔を覗き込んでいる。
「風邪をひきますよ」
 透き通った、という表現がこれほど似合う女性も居まい。白い肌も、その声も、涼やかだが些か現実感に欠ける。背後の月が透けて見えるのではないかとさえ、一成には思えた。
 キャスターと名乗る彼女は、女っ気のない柳洞寺に滞在している、ただ一人の女性客。もう一人の客人が唐突に許嫁だと紹介して、以降彼女は此処にいる。
 それ以上の素性を彼女は語らぬし、一成もわざわざ問おうなどと、無粋な考えを抱いた事さえない。
 もとより素性を語らぬ客人など、柳洞寺ではそう珍しい存在でもないのだが。
「……む、これはキャスター殿……」
「宗一郎の帰りが遅いので迎えに出てみたら、見覚えのある影が境内をふらふらしているので、何となく眺めてしまったのですが……いきなり倒れ込んで空に腕を伸ばすものですから、驚きましたよ」
 くすくすと、ローブ姿の女性は笑う。
 平時、何故か顔を隠したがる彼女には珍しく、今のキャスターはフードを下ろし、その整った顔を月光の下に晒している。
 決して派手さのある容貌ではない。今は素顔だが、化粧をしたとしてもふっと風景に紛れてしまいそうな雰囲気がある。だが、逆に言えばどのような場所にも馴染み、その場所を華やかにする。そんな女性だとも言える。
「いや、先程山門の方で誰かが……そう、チャンバラの真似事でもしているようだったので、注意に行ったつもりだったのだが――」
 しかし、いくら一成が耳を澄ませても山門は静寂に包まれており、何者の気配もありはしない。いくら目を凝らしても、何者かが争っていた痕跡などまるで見あたりもしない。
「まあ……」
 キャスターは大仰に驚いてみせ、そしてころころと笑う。
「それは一大事。しかし、そのような狼藉者などいる様子もありませんね」
「たしかに、そのようだ」
 一成は肩を竦めた。
「きっと夢でも見たのでしょう? ここのところ、疲れ気味のようだし」
「ふむ、ではそういう事にしておこう。どのみち些末なことではあるしな」
 実際、一成にとってそれは本当に些末な事でしかなかった。
 そもそも境内をうろうろしていたのは、見回りのためではない。だから、今現在寺を荒らす者がいないのであれば特に詮索する必要もないだろう。
「で、キャスター殿はいつから俺を眺めておられたのだ?」
 むしろ、一成にとってはそちらの方が重要な問題であった。
「ええ、月があのあたりにあった頃から、ですか」
 彼女が空を指さすその仕草を見て、一成は顔を顰める。白い指先が指し示しているのはほとんど水平に近い高さ、という事はつまり。
「ほとんど最初から見ておられたのではないか」
 一成の渋い表情に、キャスターは、ほほ、と軽い笑い声をあげる。
「そうね、むしろ、一成こそ私がいるのに気付かない様子でしたものね」
「む、そうであったか」
 幾分責めるような口調になっていただろうかと、一成は少しばかり悔いたような表情を見せる。が、キャスターは特に気にした風もない。
「それにしても、ふらふらと何をしていたのです?」
「なに、少々悩み事があったので散策していた」
「悩み事?」
 キャスターは少々驚いたような表情を見せた。だが、その表情はすぐに一転する。
 微笑むような表情ではあったが、その笑いにはなにか良くないモノが混ざっていた。一成はまだそれが如何なるモノであるのか不幸にも知らず、故にその表情の微妙な意味に気付く事はなかった。
「それはひょっとしてどこかの女性の事?」
 僅かにキャスターの口調も変化している。まるで挑発するような、熱の籠もった口調。
 いつの間にかひどく近い場所にキャスターの顔がある事に気付いて、一成は僅かに仰け反った。先程まで少し離れた位置に立っていたはずの彼女は、いつの間に息が掛かりそうな程近くに来ていたのだろう。
 一成は一歩退いた。それは嫌悪や拒否の所作ではなかったが、単純に驚いたからと言うわけでもなさそうだった。
「やめてくれ、キャスター殿」
 あとじさる一成の顔は、真っ赤に染め上げられている。
「一成は、私の事が嫌いですか?」
 うぶな少年をからかうように、キャスターはわざといじけたような声を上げる。
「そ、そんな、嫌いだなどと、そんな事があるわけはない!」
 あっさりと一成はキャスターの術中にはまりこむ。いくら学校では人格者として知られていても、彼はまだ恋愛経験もろくにない少年に過ぎないのだ。
「なら、良いではないですか」
「だが、貴女には宗一郎がいるではないか」
 一成は頼みの綱とばかりに、彼女をこの寺に連れてきた男の名を持ち出す。
「宗一郎は確かに大切な人です。けれど一成が望むのであれば、私は貴方のものになっても良いのですよ」
 だが、こともなげにキャスターは一成の抵抗を切り返す。
「う、嘘だ……俺をからかって遊んでいるのであればやめてくれ、キャスター殿」
「嘘ではありませんよ。貴方が私を想ってくれているのを知って、嬉しいのですから」
「な、何の話だ……」
「私の事を想っていたのでしょう? わかるのですよ、そのような事は」
 一成は心臓が止まるような思いをした。
 確かに、ここ数日彼女の事が気になって眠りも浅かった。境内を散策しているのも、気を紛らせばぐっすり寝られるかもしれないなどという、他愛もない望みに縋ったからだ。
「ほら、図星――」
 キャスターの手が一成の手を握る。
 くすくすと笑いながらその手を引き寄せる彼女は、微笑みを浮かべていた。だが、それは嬉しさから来るものではない。もし一成の父がこの様子を見たら笑って言うだろう。『ほれ、女郎蜘蛛が獲物を絡め取って、どう牙を立ててやろうかと舌なめずりしておるわ』と。
 そして、一成の兄たちならば喜んでその牙の前に身を投げ出しただろう。
 勝利を確信したキャスターはもう少しだけ一成に顔を寄せて、しかしそこでふとその動作を止めてしまう。
「正直な心根を言ってしまえば、キャスター殿、俺は貴女に惹かれている」
 完全に籠絡したはずだ。ただの話術ではない。あらかじめ魅了の結界まで張って、その上で一成の心を奪ったのだ。途中ランサーの来襲があった事は完全に予定外の出来事だったが、それでも術は充分に効果を発揮している。もはや一成は彼女の誘惑を払えないはずだった。
 ならば、なぜ一成はこれほどまでに落ち着いた口調で言葉を続けているのだろう。
 正面からじっとキャスターの目を見つめて、一成は己の心情を素直に語ってゆく。
「けれど、それ以上に俺は、貴女と宗一郎が一緒になる事を望んでいる」
「宗一郎と――」
 うむ、と一成は頷く。
「初めて宗一郎に会ったとき、俺は不安だった。あれだけ立派な男なのに、何かを失ってしまってひどく弱々しかった。鋼の如く強いのに、簡単な切っ掛けでぽきりと折れそうに見えた。しかし、数日前貴女を連れて帰ってきた宗一郎は少し何かが違っていた」
「それは――?」
 罠を張ったのはキャスターの筈だ。
 だというのに、今や場の主導権を握っているのは一成の方になっていた。だが、共にそのことに気付いてはいない。
「貴女を得たからだと、俺は思っている。だから、宗一郎と貴女がこのまま良き伴侶になれればよいと、そう思っている」
 本人には言えぬ事だが、一成はキャスターについても同じ印象を覚えていた。つまり、二人は共に互いを必要としているのだ。そして、残念ながら、一成はどちらからも必要とされてはいない。
「けれど、一成はそれでいいのですか? 好いた人なら己のものにしたいと思わないのですか?」
「思うとも。俺はまだ修行の足らぬ未熟者ゆえ、そのような思いだらけだ。だが、望みはせん」
「欲を捨てたとでも? そのように悟ったような物言いは、あまり好きではありません」
 食い下がるようなキャスターの口調に、一成は苦笑いを浮かべて頭を振った。
「いや、そうではない。何と言えばよいか……うむ」
 一成は歩き出した。
 それは先程までの当て所無い散策ではなく、明らかな目的地があっての移動だ。
 キャスターは僅かに逡巡して、それからその後を追う。
「月というものは美しい。その輝きをときに独占したくもなろう」
「ええ、そのような事はあるでしょうね」
 キャスター――いや、王女メディアが生きていた時代であれば、本気でそれを望んだ者も居よう。だが、それは一成の与り知らぬ事だ。彼がそのたとえ話を持ち出したのは、たまたまに過ぎまい。
「だが、月の光を独占したら他者には月が見えまい。夜の闇を月が照らす事もなくなるだろう」
 それきり黙って、一成は歩を進める。短い散策は、裏の池が見えるところで終わりを告げた。
「そして、こうやって水面に映る月を愛でる事も出来なくなる。まだ先の話だが、中秋の名月を皆と愛でつつ団子をつまむような事も出来なくなる。そう、己が欲しいものをただ求めるばかりに、もっと大切なものを失っては本末転倒というものだ」
 そうだ、と一成は心の中で呟く。
 先程の悪夢の如き一時において、己の脚が震えた理由は何だったか。
 命を失うのは確かに恐ろしかった。だが、震えた理由は違う。恐怖に負け、己が守らねばならぬ一番大切なものを放棄しそうになった己自身にこそ、一成は震えたのだ。
「だから、キャスター殿、己の想いが横恋慕だと責められるならば黙って咎を受けよう。だが、俺が本当に望むのは、貴女と宗一郎が支えあって生きて、そして幸せな生活を得られること、それだけなのだ。その願いに一片の嘘すらないと誓おう」
 キャスターは黙ってそんな一成を見つめていた。
 笑う一成の表情には、確かに嘘などありはしない。少年の癖をして、驚くほどに凛とした表情を見せる。キャスターが王女メディアとしてあった頃、そんな顔を見せる男がいただろうか。
 いや、英霊となって召喚を受ける立場になってからもそんな顔をする男とは出会った事がなかった。
「そ、そんなに見つめられると少々恥ずかしいではないか」
 あまりにまじまじと見つめられたからか、一成は顔を赤くしてそっぽを向く。
 その隙をついたかのように、一成はいきなり柔らかい胸に抱きしめられていた。
「キャ、キャスター殿!?」
「ふふ、感謝しますよ、一成」
 驚き慌てる一成の頭をぎゅっと抱きしめたまま、キャスターは感謝の言葉を告げる。
「でも、実は私にはもう一つ願いがあるのです。ですから、私の勝利も願ってくれますか?」
「あ、ああ、勿論だ。キャスター殿……だから、その、はなしてはくれまいか」
 柔らかい双丘の合間に顔を埋めるような姿勢からなんとか解放されようと、一成はキャスターの望みを了承する。だが、キャスターはその行為をやめるどころか、
「ありがとう……遠慮しなくても良いのですよ、これはお礼のようなものです。嬉しくないならやめますが」
「いや、男としては大変に嬉しいのだが――と、俺は何を言っているっ!? ともかく、仏門に仕える者としてこれ以上は――」
「ああ、一成、そ、そこは……」
 もがいた一成の掌に、柔らかい感触。キャスターを引きはがそうとして、誤って思い切り胸を掴んでしまったのだと気が付き、一成はもはや完全なパニック状態に陥っていた。
「一成は意外と大胆なのですね」
「ち、ちがっ――」
 ますます強く胸の合間に押しつけられ、もはや一成は抵抗の言葉をあげる事も出来なくなっている。
 実際、容姿に似てサイズも自己主張こそ激しくはないが、キャスターの胸は美乳と呼ぶに相応しく、しかもその触感たるや男を惑わすために神が作ったのではないかと思わせるほどだ。
「こんな遅くに、こんな場所で、いったい何をしている」
 呆れたような内容の、しかし感情がこもらない声が割って入らなければ、一成はそのまま陥落しただろう。
「宗一郎――」
 いきなりの事に緩んだキャスターの腕から、ようやく一成は脱出を果たしたらしい。そのまま飛びすさるようにキャスターから距離を取る。
「全く、何をしているのだ」
「そ、宗一郎っ、い、いや、これは違うのだ、単なる誤解であって……」
 一成に先程までの凛々しさなど微塵もない。顔を真っ赤にして、しどろもどろに弁解を繰り返す。
 そんな一成に、だが葛木は興味なさげに溜息を吐いた。
「何時だと思っている。明日は生徒会で早いのではなかったか」
「あ、そ、そうだった。その、すまなかった」
「己に恥じる部分がなければ、謝る必要などあるまい」
 不愛想に、まるで吐き捨てるように言う葛木の表情には、その口調とは裏腹に、微妙ではあるが暖かい表情が浮んでいた。驚いた事に口元など微笑むような形になっている。
 それは、まるで出来の悪い弟を気遣う兄のような表情だった。
「あ、そ、そうだな……」
「早く寝ろ。明日遅刻でもされてはこちらもバツが悪い」
 回れ右をしてぎくしゃくと一成はその場から逃げ出す。手と足がちぐはぐに動いているその後ろ姿を、葛木はじっと見つめていた。



 駆ける足音が遠ざかり、そして完全に聞こえなくなってようやく、葛木は再び口を開く。
「何かを仕掛けたか」
 キャスターに背を向けたまま、短く問う葛木の表情に、先程までの暖かみはない。
「あ……」
 決まり悪げに、キャスターは葛木の背中から視線を逸らした。だが、彼女は主に対して虚言を弄す事がどうしてもできないのだろう。逡巡の後、小さな声で「はい」と答える。
「私の事を深く詮索するような者が現れたとき、その者を殺すよう、術を」
「そうか。で、そのあと一成はどうなる。自死するか」
 その口調には感情が含まれていない。自分の事を実の兄のように慕ってくれる少年の話であるのに、まるで興味がないのだろうかとさえ思える口調だった。
「……はい」
 葛木はただ「そうか」とだけ答えて歩き始めた。遅れまじと、キャスターも慌ててその後を追う。しかし、ぴたりと寄り添うまでの距離に近付く事が出来ないのか、数歩遅れたところでその歩調が鈍った。
「後悔するようならば、解除するがいい。だが、私への遠慮はいらん。もとより聖杯になど興味はないが、勝利のために全力は尽くしてやると言った。お前は最善と思う手を打て」
 キャスターに向き直った葛木の顔に、表情はない。
 怒りや軽蔑で表情を殺しているのではない。もとより感情に乏しい、と言うよりは感情そのものが枯れてしまったような男なのだ。
 枯れた殺人鬼にとって、結局他人などどうでも良いモノなのだろうか。
「――宗一郎……」
「必要があるのなら抱いてやる。そのときは言え」
 言い捨てるようにして、葛木はキャスターに背を向ける。
 まだ、彼女は知らない。
 それが、彼なりの気遣いなのだと。


 そして、彼もまた『そう』なのだということにも。

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2004/06/10