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Recurring Fantasm/nigthmare overdrive

    1/The Nightmare Comes  ―― chapter A

       
 

――違う。
 呟くつもりだったのはその一言。
――違う、そんなはずはない。
 けれど、それは声にならない。
 俺をじっと見つめているのは、翠玉のように輝く瞳。
 剣を握る細い腕には、信じられないほどの力が宿っている。
 堂々たる立ち姿は、小柄なはずの体躯を二回りも大きく見せるだろう。
 長い月日の向こうで、記憶は薄れていると思っていた。
 けれど、忘れられるわけがない。
 朝日を背にして微笑む少女の姿が、月光を背に立つ白銀の人影に重なる。
 自分のタマシイに焼き付いた記憶が、薄まるわけなんて無い。
 わかっていた。
 それがあり得ることだというのは理解していたはずだ。
 否定したかったのはただの感傷でしかない。
 けれど、そのちっぽけな感傷はもっと大きな感情に押し流されていた。
 だから、唇は否定の言葉でなく、その名を紡ぐ。

「セイバー……」

 かつて、俺と共にあった剣の名を。


1/「The Nightmare Comes」



 白い闇を切り裂くようにして、一人の男が石畳の上に着地した。
 翻った外套の裾は、空より舞い降りた獰猛な鷹の翼を連想させる。いや、その姿は本当に天空から優雅に着地したようにさえ見えた。
 そう思わせるのは、男の身が人間離れして身軽だからかもしれない。少なくとも数メートル以上の落下を果たしたというのに、かすかな音すら周囲に響かせることがなかったのだから。いったいいかなる体術がそれを可能にすると言うのか。
 着地のショックを和らげるために屈めた長身をそのまま発条(ばね)のように弾けさせ、男は跳ねるように地面を蹴る。
 周囲をくまなく包んでいる霧は、数メートル先どころかときには足元さえ見通せなくなるほどの濃密さだ。
 真夜中という時間も相まって、そこには何が潜んでいるかわからないと思わせる奇妙な静けさがある。しかし、それにしてもその静寂は異常に過ぎた。夜遅くまで人通りが絶えないはずの繁華街が、これではまるでゴーストタウンだ。
 住人は白霧の向こうに潜む何かを恐れて、息を殺しているのかもしれない。
 人気のない通りを、彼はその長躯にもかかわらず、足音も立てず滑るように駆けて行く。乱反射する街灯の光で周囲は薄明るいが、視界が効かないことに代わりはない。だというのに、男はまるで昼間の往来を行くが如く全力で駆けている。その猛禽を思わせる鋭利な瞳には全てが見えているというのだろうか。
 唐突に、男の脚が停まった。
 だが、迷う様子も見せず、何かをかわすように迂回するルートをとり、再び走り出す。
 彼が一瞬止まったのは、霧の向こうに誰かが居たからだ。深い霧の中でもいくらかは見通せるほどの強力な探照灯を手にした誰か。
 男が避けたのは、スコットランドヤードの警官だった。強ばった表情で視界の効かない霧の中を警邏している。ぶつぶつと聞こえるのは視界を遮る霧に向けた罵倒だろう。だが、それでも彼は職務を忠実に遂行していた。
「だ、誰だ! 誰か居るのか!?」
 男が駆け抜けて行くほんの僅かな気配に気が付いたのは、その警官がそれなりに優秀だったということなのだろう。警官は周辺にライトを振り回したが、しかしもう男はライトの光が届くような距離にはいない。
 警官は強ばった顔を最後にもう一度だけ巡らせ、それからほうっと息を吐く。
 心なしか、その表情には安堵の色が含まれていた。
「……気のせい、か」
 警官の独り言は、結局誰の耳にも届くことはない。



 古都、ロンドン。
 イングランドの首都であり霧の都とも呼ばれるその街は、この夜も深い霧に包まれている。
 だが、ロンドンの住人にとってそれはいまや恐怖の象徴でしかなかった。
 霧の夜、誰かが殺される。
 ロンドンの住人達は口々にそう呟き、毎夜訪れる夜霧に怯えた。
 それは単なる噂ではない。毎朝の新聞を賑わすのは連続殺人の話題。一日ごとに増えて行く死人や行方不明者のリストは、すでに二桁どころか三桁に届こうかという勢いだ。
 拳銃の引き金に指をかけたまま八つ裂きにされた死骸が朝日を浴びていたこともある。もとがどのようなカタチをしていたのかわからなくなっている程に破壊された肉塊など、もういくつ生産されたのかもわからない。霧の殺人鬼という恐怖に怯えたのか、夜になるたび全ての扉を過剰なまで厳重に封鎖し寝室に籠もっていた筈の男が、密室を残したたま消え失せ帰ってこなかった、という事件もある。恐らくその男もどこかで死体になっているのだろうと人々は噂した。
 むろん、近世において大量殺人鬼(シリアルキラー)が全く存在していないわけではない。むしろ荒んだこの時代においては珍しくもないと言って良いだろう。だが、この都に限ればそれはほとんど存在しなかったことではあるし、それ以上に、被害者の数が異常に過ぎた。
 もちろん警察も全力を挙げて犯人の検挙に挑んではいる。だが、最初の犠牲者が見つかってから一月が経過しようというのに、未だ手がかりの一つさえ掴むことが出来ずにいた。
 全警官が休暇を返上して警戒をしてはいるが、毎夜の深すぎる霧が視界を奪うために現場を押さえる事もできず、しかも現場に駆けつけられたところで逃走者の痕跡すら残ってはいない。警察の面目に関わることだと上層部も必死になってはいるが、現場の士気は落ちる一方だった。
 さらに捜査を混乱させたのは、殺人の手段があまりにも異常すぎるということだ。まるでジャガイモをナイフで切断したかのような切断面を見せる遺体、十トントレーラーに踏みつぶされたかのようにぐしゃぐしゃになった遺体、体内の水分を全て失いミイラ状になってしまった遺体――いずれにしてもまともな犯人だとも思えないが、それにしても大がかりな道具を用いずに出来ることではないはずだ。しかし、どの現場にもそんな物の痕跡など有りはしなかった。あるのはただ、死体だけ。いずれの現場でも、死体だけが最初からそこに転がっていたような、そんな状況だけが残されていた。
 ある有識者はテレビの番組でかつてこの国を悩ませたテロリスト達の大規模な活動が再開したのだと警告し、警察ではなく軍の出動を促し、国家をあげての対応を叫んだ。
 聖職者達は、悪魔を信仰する異端のカルト教団が毎夜のようにサバトを行っているにちがいないと断言し、なかでも過激な者は魔女狩りを復活させるべきだと信者達に説法した。
 しかし、それらの説以上にロンドンの住人達を恐怖させた噂がある。
 その噂は現実味など欠片もなかったが、現実味がないからこそまともなメディアは取り上げようともせず、ゆえに大衆は『真実ゆえに語れないことなのだ』というような錯覚を覚え、なおさら噂は加速して伝播していった。
 切り裂きジャック、マリー・セレストに始まり、吸血鬼(ヴァンパイア)黒犬獣(ブラックドッグ)幽鬼(グール)妖精(レッドキャップ)、挙句の果てにはホッケーマスクの殺人鬼に至るまで、伝播する経路によって噂は変化を来たしてしまい、結果として末節における種類はいくらでもあったが、基本的な意味は変わることもない。
 つまり、伝説の殺人犯や怪奇現象から物語や映画の中に住まう幻想世界の住人まで、非現実の彼方に消え去ったと思われていたそれらがいま、現実に帰還したのだと。
 悪夢としか思えない現実を説明するのに悪夢を()てるのは、ある意味自然なことなのだろう。
 そして悪夢はこの夜もまた繰り返されようとしていた。



 警官をやり過ごした男は、数ブロックほど疾走したところで唐突に立ち止まった。
 翻っていた外套の裾が、大型の鳥が翼を収めるような動作でばさりと落ちる。
 ここまで相当な距離をかなりの速度で走ってきたはずだが、男の呼吸はまるで歩いてきたかのように僅かも乱れていない。
「……遅かったか」
 小さい歯軋りのあと、男はぽつりと呟いた。
 その厳しい視線は、闇の向こうではなく足元に向けられている。
 街灯の頼りない光が照らす石畳の上に、何かがうずくまっていた。
 いや、何か――ではない。誰かという方が正しいだろう。
 ただし、それが生きている人間ならば、だ。
 男が見下ろしているその人影は、街灯の支柱に背中を預けて座り込んでいる――ように見えた。もちろん、そうでないことは少し観察するだけで容易に知れる。
 目を見開いたまま、呼吸ひとつせずに眠れる人間など居るはずもない。ならば、それは死骸なのだろう。毎夜のように生産される夜霧の被害者が、また一つ増えたという事だ。
 男は逃げ出すことも慌てることもせず、死者を見下ろしていた。誰かがこの場に居合わせたならこの男が犯人だと思うだろうが、もちろんそうではない。
 男は溜息をひとつだけ吐くと、腰を落して死者を覗き込んだ。
 壮年の男性だ。間違いなく特注であるだろう、しわ一つ無いブランドもののスーツを自然に着こなしている所からみると、生前は伊達男で通していたのかもしれない。だが、スーツに似合って整っていたであろうその貌は、今は驚愕に引きつったまま凍り付いている。彼に救いがあるとすれば、その表情に苦痛や恐怖の色がなかったと言うことか。恐らくは突然の死に、恐怖も痛みも感じる間すらなかったのだろう。
 視線を下に向けても外傷は一つをのぞいて確認出来なかった。左の胸にだけ大きく穿たれた空洞が、唯一の傷にして致命の一撃だったにちがいない。完全に心臓が抉られているところから見ても、ほぼ即死で間違いないだろう。だが、奇妙なことに、周辺には目立った流血の痕がない。
 それは一連の連続殺人における、ほぼ唯一の共通点だった。
 八つ裂きにされた遺体も、ミンチにされた遺体も、そして今男の前にある心臓への一撃で殺害された遺体も、どこかで一度血抜きをしたあとあらためて死体を遺棄したような、奇妙に綺麗な状況で残されていた。
 実際には被害者の半分ほどには別の共通点があるのだが、警察は未だにその事実を把握出来ずにいる。いや、恐らくこれからも知ることはあるまい。それは、警察などという組織には関わることのできないものなのだから。
「――しかし、間に合わなかった、と言うわけでは無さそうだ」
 男は首を振って立ち上がった。その言葉は先程の独り言とは矛盾して聞こえる。
「ま、そういうことだな。間に合ってくれて嬉しいぜ」
 別の声が、その言葉を肯定してみせた。
 男の右手、霧の向こうにもう一つ、ぼんやりと人影が浮かび上がる。
 はっきりとは見えないが、人影も男とほぼ同じぐらいの体躯の持ち主だった。同じか、僅かに小柄な程度か。声からしても、やはり若い男性だろう。
 別に人影は急に現れたというわけではない。ただそこにじっと立っていただけだ。それだけでも所在があやふやになってしまうほどに霧は深い。黙っていれば、並の人間にはそこに誰かがいると言うことすらわからないだろう。
 しかし、男に驚いた様子はない。この場にたどり着いたときから、人影の存在には気付いていたのだろう。
 いや、そもそも彼が疾走していたのは、この影を追うためだったのかもしれない。
「貴様だな、これをやったのは」
 ただ、静かな声で影に問う。
 恐怖の気配も怒りの成分もありはしない。それはただ事実を確認するだけの簡潔な質問だ。
 影は小さく身じろぎした。霧に阻まれているためにその動作をはっきりと捕らえることはできないが、、どうやら軽く肩を竦めたらしいと言うことだけはわかる。
「さあ、な」
 影は肯定しなかった。だが、その言葉に否定の意味はかけらも無い。
「そんな事、教えてやる義理もないしな。さて、どうしたもんか」
 笑いの気配が語尾に混ざる。影が男をあざけっているのは明らかだった。
「なら、無理にでもその口を割らせてやる」
 影に向き直った男は、僅かに身構えた。
 その手に武器になるような物はない。その衣服には小さな拳銃程度なら隠せるかもしれないが、両手を広げ、やや腰を落としている男の構えは、銃器を使うための物には見えなかった。殺人者であるかもしれない相手に、素手のまま飛びかかろうかとするような姿勢だ。
「くはは、言うねえ。気に入ったぜ」
 影は笑った。
 僅かに漏れただけの笑いだったが、それは嬉しくてしょうがない、というような笑いかただった。いや、事実、男が本気で影を捕らえようとしているのが嬉しいのだろう。そのためにわざわざ男を挑発したのだろうから。
「この夜は二人、か。少々食いすぎのような気もするけど……なっ!」
 最後の言葉に、金属音が重なった。
 霧を切り裂いたのは、銀色の軌跡。恐らくは大型の刃物による斬撃だろう。霧がある上に相当な剣速のため、刃そのものを視覚で捕らえることが難しい。刃など無くとも、充分に人を撲殺出来る速度だ。
 だが、金属音はそれが弾かれた証。男の右手には、いつの間にか剣が握られていた。重く、分厚い刀身を持つ片刃の小剣。
 白く塗られたそれは鉄塊から無造作に切り出しただけのようにも見え、そのじつ幾種もの素材を溶融した金属を何層にも重ねるようにして打ちあげ、気が遠くなるほどの時間を費やして鍛え上げられたモノ特有の精密さを湛えている。
 鍛え上げられた鋼の刀身は、盾のような強固さも持ちあわせている。何度銀光が閃いても分厚い刀身は揺るぎもせずにそれを遮り、甲高く、しかしその重量を思わせる音を立てて弾き返し続ける。飛ぶ火花は受けた剣のものではなく、打ち掛かってくる軌跡から零れたものだ。
 だが、幾度弾かれようと打ちかかる刃は勢いを失わない。それどころか、一呼吸の間に上下左右に数条の軌跡が連続し、そのリズムはどんどんと駆け上がるように速くなって行く。それは慣性だの重力だのといった常識的な言葉など笑い飛ばすかのような斬撃だった。
 受けたのがこの男でなければ、いまごろはなますにされた死骸がもう一つ増えていただろう。
「思ったよりやるじゃないか! さあ、もっと上げていくぜ」
 影は嬉しげに声を上げる。
 十合打ち合うのに数秒。その言葉通り、金属音のビートはそれでも更に上昇を続けていく。中世の騎士が斬り合っているかのような光景に、通りがかったものがいたならば自分の正気を疑っただろう。しかし、果たしてその騎士達でさえこれほど苛烈な剣戟を繰り広げたことがあるだろうか。
「……その程度か?」
 それは何度目の火花が散ったときだったか。面白くも無さそうに、男はぽつりと呟いた。
「なんだと?」
「なら、そろそろ終わらせる――」
 男は言葉と同時に白の剣を引き、一瞬身体を沈ませた。しかし銀色の斬撃は終わるわけもなく、退いた男の脳天めがけて降り注ぐ。
 白と黒の一閃が、その銀光と交差するように走った。
 一度だけ、それまでとは全く違う音がひときわ高く響き、そして剣戟の音は途絶える。
 鈍い銀色を放つ何かがくるくると宙を舞い、乾いた音を立ててアスファルトの表面を打つ。空しく転がったそれは、湾曲した細い刀身。ひどく刃こぼれしてはいるが、ごくありふれたサーベルの半ばから先だった、
「ちい、ナマクラが……」
 影が僅かに退き、何かを投げ捨てた。地面に当たってかつんと音を立てたのは、先程までサーベルだったモノだろう。
 男は交差させた(・・・・・)剣をゆっくりと下ろし、くるりと握り直した。その左手には、いつの間に手にしたのか、右手に握るそれと全く同じカタチを持つ黒い小剣がある。
 白と黒の二本の小剣の峰で挟むようにしてサーベルを受け止め、そのままへし折ったのだろう。やり方としては単純なようにも思えるが、斬撃の速度を思えばそれが容易な行為でないことは明らかだった。よほど完全なタイミングで受け止めなければこうは綺麗に折れない筈だ。
 小剣を突きつけるようにして、男は影の方向へと一歩踏み出す。
 だが、影は先程退いた位置から動こうともせず、いきなり笑い声を上げた。
「――ふ。ははははは、なんだ、なんだそう言うことか。こいつは奇遇だ。いや、奇遇なんてものじゃない。こいつは必然だよな。成る程な……面白いじゃないか」
 影はただひとりで哄笑を続ける。
 不審げに影の様子を伺っていた男は、影がいつまでも笑いやまないのに業を煮やしたのか、小剣をぶんと振った。
「剣は折ったぞ。観念するなら今のうちだ」
「おいおい、ちょっと待てよ」
 投降を促す言葉に、影は相変わらずの軽口で応えた。その声に武器を失った痛痒はかけらもない。
「まさか、それで俺に勝ったつもりじゃあないだろう、おまえも」
 声はまだ笑っていた。だがそれは先までの馬鹿笑いではない。吼えるような獰猛な笑いかただ。
「準備運動は終いだ。そろそろ俺も本気を出すとしようじゃねえか」
 風が吹いた。いや、それは物理的な圧力さえ錯覚させるほどの鬼気だった。
 影の手に、再び何かが握られていた。折られたサーベルとは明らかに違う、相当な長さのある棒状のものだ。
 鬼気が渦巻く。明らかな血の臭いが周辺を満たす。それは、恐らく影の手に握り直された凶器が発するものだろう。そう、凶器だ。はっきり見て取れずとも、それが人を殺すために作られ、実際に大量の血を吸ってきたものだと言うことだけは誰でも理解出来るだろう。
 先程のサーベルどころか、男が握る業物の小剣ですら、それの前ではただの道具に成り下がる。
「――行くぜ」
 赤い閃光。
 それはそう表現するしかないモノだった。
 霧には空洞が穿たれている。その中央を紅色に染められた棒状のモノが貫いていた。
 それが宙を貫く軌跡さえ、常人の目には捕らえられなかっただろう。拳銃から放たれた銃弾が視覚できないのと同じ事だ。それは先程までの斬撃など比べ物にならないほどの速度で繰り出された刺突だった。
 静止した閃光は、血の色に染められた柄と穂先の形を取り戻す。複雑な意匠を持つそれは、槍の形状こそしていたが、まともなシロモノでないことは明らかだった。
 それでも、二本の小剣は辛うじて致命の一撃を防いでいた。
 だが、代償は大きかった。
 重い音とともに宙を飛んだのは、白い小剣。二振りを重ねてもなお、死の刺突を完全に止めることは出来なかったと言うことか。
 僅かに遅れて、男の身体が後ろに下がる。彼自身の意志によるものではなく、受け止めた勢いを充分に殺しきれなかったために押し戻されただけだ。
「く……っ!」
 それでも、地面を蹴りつけるようにして男は踏みとどまる。少しでもひるんでしまえば、槍の追撃でそのまま命を断たれていただろう。
「ほう――」
 わずかに下がったまま構えを崩さない男に対して、影は突き込んだ槍を戻しもせず、感嘆の声を上げていた。
「よく止められたな、俺の槍を。今のは本気で心臓をぶち抜くつもりだったんだが。まあ、全力だったわけじゃあないが、な」
 ひゅん、と朱槍の穂先が振られ、霧の向こうと戻って行く。だが、それは再び刺突を放つためのものではない。影はもう命のやりとりを続ける気などないとでも言うように、とんとんと己の肩を槍の柄で打ってみせた。
「――まるで全力を出せばあっさり殺せた、と言っているように聞こえるが」
 男は幾分呆れたような声を上げた。完全に緊張感を失ってしまったように見える影に対し、男はいまだ臨戦態勢を解いていない。もし影が隙を見せたならすぐにでも飛びかかるだろう。そうしていないのは、つまり影がいまだに隙らしい隙を見せてもいないからだ。
「その通りだが」
 当たり前のように、影は言い放った。
「さっきのオモチャみたいなナマクラならともかく、こいつを握った俺は誰にも負けはしない。この魔槍ゲイボルクの神髄、望むなら見せてやっても良いんだがな」
「ゲイボルク、だって?」
 影の発した台詞に、男は眉をひそめてみせた。
「冗談じゃない。まともなヤツじゃないとは思っていたが、まさか伝説の英雄(クーフーリン)にでもなったつもりでいるのか」
 男は吐き捨て、残った剣をもう一度握りなおした。
「はは。クーフーリンにでもなったつもり、か。そいつはいい、クーフーリン、ねえ」
 なにがそんなに愉快なのか、影はひとしきり肩を揺らしてから、じろりと男を()め付けた。
 霧の厚いベールすら貫いてしまうほどの眼光。街灯の光を反射しているのではなく、まるでそれ自身が発光しているように思えるほどくっきりと、影の双眸が輝いていた。
「テメエ、まさかまだわかっていないのか? クーフーリン、なんて名前よりテメエには覚えのある名前があるだろうが」
「なんだと? いったい何を言っている……?」
 戸惑う男の様子に影はかーっと呆れた声を上げ、それから唐突に槍を振るった。
 無造作極まりない動作だったにもかかわらず、穂先を突きつけられた男は動く事も出来ず、ただ立ちつくすのみ。
「この槍でテメエの心臓をぶち抜いた男の名前を忘れたか? 俺は昨日のことのように覚えてるぜ、衛宮士郎」
 影は瞬くこともなく、彼が衛宮士郎と呼んだ男をじっと睨み付けている。
 渦巻いた鮮血がそのまま発光しているような、(あか)い瞳で。
 男はしばし沈黙した後、ただ一言、小さく呟く。
「――ランサー」
 それは十年前の聖杯戦争を駆け抜けた、猛きサーヴァントの名。
 その答えを聞いて、紅い瞳が少し細められる。
「正解だ、小僧。久し振りだな」
 槍持つ者(ランサー ) の名で呼ばれる古代の英霊は、愛槍を掲げてにやりと口を曲げた。


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改装に伴い外観変更 2005/3/31
 公開開始 2005/2/13