「それじゃ、ずいぶん遅くまで居座っちゃったけど。そろそろ帰るわね」
結局、そう言って凛が腰を上げたのは、そろそろ夕刻になろうかという時間だった。
それはちょうど士郎が短い仮眠を終えてベッドの上に身を起こしたタイミングでもあった。いや、恐らくは彼が目を覚ますのを待っていたのだろう。
「ああ、わかった」
寝起きでいくぶんはっきりしない頭を振りながら、士郎は頷いた。
短時間の睡眠ではあったが、そのわずかな休息だけでもそれなりに疲労は抜けたのだろう。表情に生気が戻ってきている。
「食事は用意しといてあげたから、ちゃんと食べておくのよ。どうせ、今日も張り込むんでしょ?」
「ああ、助かる」
テーブルの上に並べられた食事をちらりと見て、士郎は少しばかり表情を緩めた。並べられているのは白いご飯に焼き魚というひどくありふれた日本食だ。
もっとも、異境の地であるここでそれらの食材を調達するのはそれほど楽なことではないのだが。
恐らくは久し振りに帰った士郎のためにわざわざ調達してくれたものなのだろう。
「そう言えば、遠坂の手料理は久し振りだな」
「士郎の料理も久しくいただいてないけどね。というわけで」
ふふふ、と凛は含み笑いを漏らした。
「――このお返しは、近いうちにして貰うわよ」
「……ああ」
一瞬感謝してしまった自分の愚かさを、少しだけ士郎は悔いた。
お返しとは、つまり後日凛の部屋に赴いて士郎が料理をせねばならないという事だろう。
凛のことだ。“それなり”の料理では当然納得などしてくれまい。きちんと手を掛けた物を作って己の成長を認めさせてやらないと、誇らしげに彼女は自身の勝利を宣言するに違いない。未だに料理の腕がほぼ拮抗してしまっているということに、なぜか凛はやたらと拘っていた。
むろん、士郎とても凛に一方的な勝利宣言を出されて黙っていられる性格でもない。
“となると、何を作ってやらねばならないのやら……”
数週間の留守の間にも、多少腕は磨いてある。増えたレパートリーの中から最適な物を探し出そうとして、ふと士郎は凛の視線に気が付いた。
「――なんだ、遠坂。俺を睨み付けたりなんかして」
「睨んでなんかいないわよ……」
凛は、はあ、と溜息をひとつ漏らし、それから真剣な顔になって士郎に向き直り、口を開く。
「今日は、無理をしないほうがいいんじゃないかと思うんだけど」
凛がそう指摘するのも無理はなかった。
多少生気が戻ったとはいえ、士郎の表情には明らかな疲労の色がある。数週間に渡る長期の外出から帰還してすぐに一晩走り通しだったのだ。無理もないだろう。本来なら数日程度の休息が必要なほどに疲れているはずだ。並の体力なら少しだけと言って横になったが最後、泥のように眠りこけてしまったに違いない。
「……今更、何を言ってるんだ。毎晩のように人が死んでるんだ。見逃すことなんて出来るわけないだろ」
「そうよね……わかってる」
僅かに凛の視線が逸れる。その表情には、あきらめと寂しさともつかないものが浮かんでいた。
「でも、無理はしないで。本当に相手があのランサーだとしたら、正面から戦っても勝ち目は薄いって、わかってるんでしょ?」
「……ああ、そんな事くらい承知の上だ。けど、だからって見なかったことにできるわけはないだろ」
「知ってるわよ。士郎のそんな性格くらい。でも、せめて時計塔の助力を引き出してからでも遅くはないと思うんだけど」
それは朝方に士郎と凛が相談しあって辿り着いた、妥協案の一つだ。
むろん、一介の魔術師が引き出せる助力など、それほどのものにはならないだろう。
しかしわずかでも支援を受けられるのと、まったく協力が得られないのとではかなりの違いがあるはずだ、というのが凛の主張だった。
何より、犯人らしき存在を目撃して生き延びた人間は衛宮士郎だけ、という事実。それはじゅうぶんに交渉の材料となりうると凛は踏んでいたし、士郎もその点に関しては過小の評価をしているわけではなかった。
――だが。
「いや、それじゃ遅い」
士郎の言葉に迷いは無い。
「俺が何もせずにいて、その間に誰かが死んだなら、俺は自分の責任だと感じてしまうだろう。だから、すこしだけでも出来ることがあるなら、やっておきたい」
ふっと、士郎は苦笑を浮かべる。
「……傲慢だって、笑ってくれていいぞ」
「笑わないわよ。士郎がそういう人間だなんてこと、わかりすぎるくらいにわかってるもの。けれど、忘れないで。士郎が死んだら悲しむ人間がいるってことも」
凛はあきらめたように首を竦めた。
「ああ、わかってるって。無理はしない」
士郎は首を縦に振ってみせる。
それが気休めでしかないという事は、凛も、士郎自身も十分に知っていることだ。いざとなれば、衛宮士郎はためらいもせず自身の命を投げ捨ててしまうかもしれない。
かつて一度ならず死んだはずの男にとって、彼自身の命などそれほど重いものではないのだから。
それでも、凛は信じることにした。
衛宮士郎という男は、ただ一人でここまで来たわけではない。
聖杯戦争で関わった多くの人たちの思いを抱え、なによりもセイバーという一番大切な存在の思いまでも抱えてしまった彼は、彼自身が思っているほどに軽くはないはずだから。
「じゃあ、今日はこれで、ね。明日には協会の上部に掛け合ってみる。期待しててね」
「ああ、頼りにしてる」
その答えにすこしだけ満足した表情を浮かべ、凛は玄関口へと足を向けた。
士郎も凛のあとを追うようにして、ドアの向こうまで凛を送りに出る。
廊下に出たところで、凛は士郎へともういちど向き直ってみせた。その顔に浮かんでいるのは先程までの深刻なそれとは違う、悪戯っぽい笑顔。
「そうだ、お別れのキスくらいしてあげようか」
ひどく遠坂凛らしい、あくまの笑顔。
「それは、要らない」
けれど、士郎とてダテにこのあくまと長く付き合っているわけではない。
にべもなくはねつける言葉に、凛は少しだけ不満そうな表情をして、くるりと振り返った。
「まったく、疲れた……」
部屋に戻った士郎は、身を投げるようにしてどっかりと椅子に腰掛けた。
凛と過ごす時間は、彼にとって何かと精神的な疲労をともなう時間でもある。どうも精神的な優位を確保出来ないのが原因らしい。
かつての聖杯戦争で彼女と盟約を結んで以来、それはずっと変化することのない関係だった。
言うなれば、天敵。
魔術の正しい制御を彼に手ほどきした、いわば第二の師であるから――と言うだけの理由ではない。最初に出会ったとき植えつけられた位置関係がいまだに影響でもしているかのようだ。いや、それにしても昔はもうちょっと対等な関係であったようにも思えるが。
ひょっとすると男女の関係というのはもとよりそういうモノなのかもしれない。
しかし、疲れたと愚痴を漏らしはしているが、椅子に体を預けた士郎の顔に疲労の色はなかった。むしろ、わずかなほほえみさえ浮かんでいるのが見てとれる。
テーブルの上に並べられた料理にしろ、昼のあいだに交わしたいくつもの相談にしろ、遠坂凛はいつも士郎のことを気に掛けてくれている。悪質な嫌がらせにしか思えない冗談でさえ、いつも通りであることに士郎が安心することを知っているからこその言動なのかもしれない。
そんな事を頭の隅で考えながら着替えを終え、士郎は箸を手に取った。
霧が出始める深夜までは相当時間があるが、いろいろと準備しなければならないものが多いのも事実だ。それ故にわざわざ睡眠時間を削ったのだから、あまりゆっくりと食事をしているヒマはない。
並べられた食事を手早く胃袋に流し込み、士郎は山のように積まれた郵便物に向き直った。
Eメールや電話での連絡が主となったこの時代に、アナログな手紙というのはいささか古典的な連絡手段と言えるだろう。だが、士郎が携帯電話程度の端末も持たずひんぱんに長期の外出をくり返している都合上、郵便というのはむしろ確実な連絡手段でもある。
それらの手紙は士郎への連絡や、情報屋からの報告などがほとんどだ。だが、凛の仕分けで余計なものが取り除かれているとはいえ、本当に価値があるものはほんの一部に過ぎないだろう。
とりあえずそれらの中からめぼしい情報を探し出そうとして一番上の封筒を手に取った士郎は、それがさきほど彼自身が手紙の山の頂点に投げたものだという事に気付いた。
手にとって、もういちどそれに刻まれている名前を読む。
「藤村大河――藤ねえ、か……」
それは彼にとって本当に懐かしい名前だ。おせっかい焼きの姉のような、それでいて世話を焼かせる幼なじみのような、奇妙な関係であった女性からのエアメール。
そう言えば彼女と最後に会ったのは何年前だろう、と士郎は思いを馳せた。
己が望む道を求めて日本を発ってから、いったい何年経っただろう。その間、冬木の街に帰る機会が無かったわけではない。実際、日本には何度も戻っている。だが、結局一度もあの懐かしい街に足を向けることはなかった。
避けていたわけではない。単に時間が取れなかっただけだ。――と、自分に言い聞かせるようにしていただけなのかもしれない。
いま、こうやって封を開こうか開くまいかと悩んでいる姿を見れば、それが単なるいいわけなのではないかということくらい、誰にでも察することができるだろう。
「くそ、違うぞ……」
だからこそ。
士郎はいらついたような声を上げて、封筒の端に指をかける。
だが――
「……なんだ?」
その指は途中で止められていた。
開封をためらったわけではない。そもそも、そのときにはもう士郎の脳裡からは藤村大河からの手紙という存在などきれいに消え去っていた。
その視線は窓の外に向けられている。
だが、そこに何かが見えているわけではない。
――いや、見えなさすぎた。いつもはそこから見えているはずの街路樹も、見慣れた街並みも。
日が暮れて闇に支配されたわけではない。
そもそも日没までにはまだいくらか時間があったはずだし、なにより外界を支配しているのは暗闇ではなく、白いペンキで塗りつぶしたような闇だ。
「まさか――こんな時間から……だと?」
士郎の口から呻き声が漏れた。
そう。
微弱ながらもぴりぴりと士郎の五感を焼く、その昏《》い魔力を確かめるまでもなく。
夕刻の陽光さえ遮ってしまう、そのねっとりと絡みつくような密度を見るまでもなく。
窓の外を埋め尽くすそれは、まぎれもなく深すぎる霧だ。
毎夜のごとく街を覆いつくす、殺人者の潜む闇だ。
ならば――
「……まずい」
霧は被害者を求めるだろう。
そして、霧の殺人鬼は魔術師を好む。
「遠坂――っ」
遠坂凛がこの部屋を出て、小一時間も経ってはいない。めったに車を使わず、徒歩での移動を好む彼女のことだから、恐らくはまだ自分の部屋にすらたどりついてはいないだろう。
まだ夕刻という時間を考えれば、街中を出歩いている魔術師など幾らでもいるだろう。
しかし、士郎がゆうべ出会ったあの男が本当に毎夜の殺人鬼ならば、遠坂凛には少なからず因縁がある。そんな存在をわざわざ見逃してくれるだろうか。
「くそっ……間に合うか……?」
上着を蹴立てた椅子の背から掴みあげ、窓を開け放つと、士郎は霧に包まれた通りへと身を躍らせた。
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ――」
息が乱れている。
数ブロックを跳ぶように駆けた士郎の脚も、すでに限界だと悲鳴を上げていた。
普段なら呼吸を乱さず走れるはずの距離で、このざまだ。数時間程度の休息では、やはり不足していたのだろう。凛が彼のことを不安に思うのも無理のないことだ。
それでも、駆ける速度はまったく鈍らない。
霧のためにほとんど人の気配が失せてしまった通りを、疾風のように駆け抜けて行く。
むやみに走っているわけでは、もちろん無い。たとえ通常の視界が効かなくても、この街に住み続けて数年という時間は、その土地の大まかな作りを記憶させるのに充分な期間だった。
もちろん、遠坂凛の歩く速さ、彼女が士郎の部屋を出てから経過した時間、そして彼女がいつも帰宅に使用する経路も士郎は熟知している。
だからこそ、彼女がいま現在いるであろう場所も士郎にはほぼ見当が付いていた。彼が今駆けているのは、そこへの最短距離だ。通常なら直行するような道もないところだが、全力で走る士郎にはさほどの問題ともなるような事柄ではない。
どん、という衝撃が空気をふるわせたのは、その“場所”へと士郎が辿り着く、ほんのわずか前。
前方を遮っている城壁のような三階建てのフラットをショートカットするため長身をぐうと屈めた、まさにその瞬間。
濃密な霧のとばりを引き裂いて、光の柱がはっきりと立っていた。
ほとんど間を置かず、爆風と呼んでもさしつかえないほどの気流が、大気を満たす霧を押し流してゆく。
魔術によって生み出された霧を引き裂けるのは、やはり強力な魔力による打撃のみだろう。特に、いま立った光の柱は宝石魔術に特有の煌《》びやかな色を放っていた。それだけの魔術を行使出来る魔術師など、士郎はそれほど多く知らない。
名前と顔を知っている魔術師ともなれば、凛と、その学友(当人達はそのように言われるのを特に嫌っているのだが)であるルヴィアゼリッタという名前を持つ北欧の女魔術師くらいのものだ。
ならば、それは紛れもなく――
「ち――っ!」
士郎は折りたたんだ長身をバネのようにはじけさせた。
オフロード車のタイヤパターンを思わせる、深い溝の刻まれたごついブーツの底が、石畳を蹴る。
赤色の外套《》がばたばたとはためく。
胴体を守るべき薄革の鎧は、その下で躍動した筋肉の動きについてゆけず、小さくみしりと鳴った。
空気を引き裂くようにして跳んだその姿は、巨鳥と言うよりも、もはや赤い弾丸。
武器となるものは寸鉄すら身に帯びてはいなかったが、もともと彼にはそんなものなど必要なかった。
武器となる物のイメージは士郎の中にある。
「――投影《》、開始《》」
呟いた呪文とともに、士郎の意識の中にある撃鉄が勢いよく落ちた。接続された魔力回路を、必要な魔力が勢いよく流れてゆく。
最初にイメージするのは形状。意識のスクリーンへと描き出されたそれは、単なる外形状だけではなくその内部構造にいたるまで精密に再現される。
次にイメージするのは組成。使用された材料、加えられた混合物。微かに混ざった異物にいたるまで、その構成材料は全て理解のうちにある。
最後にイメージされるのはその加工過程。制作者がその錬鉄にこめた意志の一かけらまで、なにひとつ零すことなく脳裡に投影する。
白と黒に塗られた肉厚の刃を持つ、同じ形をした二振りの小剣。
いまやそれは衛宮士郎という人間の内部にだけ存在している、完全なる複製品だ。
そのまま両掌を握りしめる。
その瞬間、イメージの中だけにあったはずの幻影は、質量を持つ実体へとその姿を変えていた。
投影魔術。
衛宮士郎という魔術師が最も得意とする――いや、ゆいいつ得意とする魔術。それもほぼ武器に限定され、剣という概念にほぼ特化している。
だが――いや、だからこそ、その異常さは群を抜いていた。並の魔術師が投影するのは単なる外形の複製品に過ぎない程度のものだが、彼が投影する剣はほぼ本物《》に準ずる物となる。
投影が完了するまでの複雑なプロセスは、しかし跳躍が終了するまで待つまでもなく完了していた。
息をするように繰り返し続けた、普段なら呪文すら必要ないはずの行為。
長い脚が、コンクリートの屋根を一度だけ蹴る。
低層とはいえ、三階建てになっている集合住宅の屋根まで、たった一度の跳躍で飛んだ事になる。魔術で補助をしてはいるのだろうが、その体術は跳躍と言うよりも飛翔と呼ぶ方がしっくりくるだろう。
ならば、再度の跳躍は上方向へのものではなく、目的の場所へと降下するための羽ばたきだ。
ただ一点に向けて士郎の身体は加速する。
その瞳は地表を見据えていた。
先程そそり立った光の柱はもう消え去っていたが、その爆心だっただろう場所からは完全に霧が吹き飛ばされていて、広場になっているその場所の様子がはっきりと見て取れる。
赤い服、そして長い黒髪の女性がそこには立ちつくしていた。
確認するまでもなく、それは遠坂凛。
そしてもうひとり、包帯状の黒い布のような物を爪先から頭まで、全身にくまなく巻き付けた男。
降下する士郎に背中を向け、凛に刃を突きつけている。
「遠坂――っ」
吼えるような怒号。
ためらいなど彼にはなかった。遠坂凛を死地から救うべく、両の腕を大きく拡げる。握った二刀は、猛禽の爪のように人影へと叩き込まれるだろう。
そのまま、疾風のごとき勢いで士郎は舞い降りる。
士郎の声が届いたのか、男は凛に剣を突きつけたまま士郎の方を向いた。表情はわからない。その顔までもが黒布に包まれてほとんど見えていないからだ。だが、布の隙間から覗く瞳孔からは冷たい光が放たれていた。
視界の片隅では、遠坂凛が何かを叫んでいる。
口の動きは確かに捕らえられる。だが、耳元で轟々と鳴る空気の壁に阻まれて、士郎にはその音が聞こえない。
『キテハ ダメ』
辛うじて、その二言だけが理解出来た。
凛は必死に叫んでいる、だが、士郎は止まらない。止まるはずなど無い。遠坂凛を救わねばならないのだから。
白刃の軌跡は左右から。男の胴を輪切りにするように、直線的に叩き込まれる。落下の勢いまで加算された二刀の猛斬撃は、確かに黒い影へとすべり込むようにして叩きつけられた。
――筈だった。
麻痺していたはずの士郎の聴覚をむりやり打ったのは、刃が肉を裂く音ではなく、鍛え上げられた金属同士が打ち合わされて響く、甲高い音階。
男の身体がある場所で交差するはずだった白と黒の軌跡は、弾かれてあらぬ方向へと逸れる。
一刀だけならば防がれても仕方がなかっただろう。
もとよりそのために声を上げて飛び込んだのだから。男の意識を士郎自身に向けさせるために。
だが、干将の重量に任せた斬撃は男が振るった剣の刃で弾かれ、莫耶による横薙ぎは男が逆手に握る剣の峰で受け流されてしまっていた。
ただし、響いた音は一度きり。
士郎と同じように両腕を拡げた男は、それぞれの手に剣を握っていた。
――二刀か……っ!
士郎は臍を噛む。
彼自身と同じく、黒布の男も二刀の使い手なのだろう。それも相当の技量を持った。
返し刃を放つ事すらできないほど完全な防御。
だが、士郎の攻撃も最初の一撃が全てではない。一瞬崩れた体勢をいちいち立て直すこともせず、むしろわざと倒れ込むように勢いよく身を捻る。
ぴんと伸ばされた長い脚がきれいな円弧を描いた。
弾かれた勢いを逆用してのあびせ蹴り。鋼を仕込んだブーツはただの防具ではなく、ひと蹴りでコンクリートの壁すら砕く打撃具となる。体重と突撃の勢いまで乗せられた一撃をまともに叩き込まれれば、鋼鉄の鎧を身につけていてもただでは済まないだろう。
が、男はそれさえ予測していたかのように後方へと跳んでいた。
ふわりと宙でとんぼを切り、数歩ほど離れた場所へと降り立つ。
だが、士郎の目的はそれである程度果たせていたと言っていいだろう。転びもせずにしっかりと足の裏で地面を噛んだとき、士郎は男と凛の間に割り込んでいた。
「――士郎……っ、なんで、来たのよっ」
なじるようなその言葉には、しかし明らかな安堵の気配も含まれていた。
「遠坂を助けに来たに決まってるだろ。――無事か?」
背中を向けたまま、士郎は凛を気遣った。
「無事よ。だけど……逃げないと。逃げよう、士郎」
それは、遠坂凛らしくない弱気ではなかったか。
「冗談じゃない。今度こそ、アイツを捕まえないと」
だが、士郎は首を横に振った。
凛の方を向くことはできない。まだ黒布の男は傷ひとつ負っておらず、明らかな殺意を向けているからだ。
“――違う”
士郎はふと眉をひそめた。
これは、昨夜出会ったランサーではない。長身の男という条件は昨夜のそれと被らないでもないが、あの飄々とした雰囲気がどこにも漂っていない。更に言えば、その手にしている武器が槍ではない。
「……なるほど、ランサーが言っていた『面白いこと』とは、これか」
士郎の顔がこわばった。
それが聞き覚えのある声だったからだ。
いや。
それはむしろ聞き慣れている声だった。
「嘘よ……嘘……」
うわ言のように、凛は呟く。
顔を隠している包帯のような黒い布に、男は手を掛けた。
バリバリと黒布が引きちぎられ、男の素顔が露わになっていく。
しかし、士郎も凛も、その顔を確認するまでもなく男の正体に気付いていた。
なにしろ、男が手にしている小剣は、士郎がその手にしているものと寸分も違わないシロモノだったからだ。
言うまでもなく、士郎が手にしている干将・莫耶の二剣は投影した複製品に過ぎない。
そして現在という時間軸において本物《》が何処かに失われている以上、男が手にしているそれも恐らくは複製したモノなのだろう。
問題は、それが士郎の投影した複製品と全く同じものだという事だ。
ただの複製師《》が精魂を込めて作ったとしても、これほどのモノは作れまい。士郎が握るそれは、彼の投影魔術によって現実化されたからこその複製品なのだから。
ならば、男も衛宮士郎と同等の魔術を使えるに違いない。
そして、士郎も、そして凛も、たった一人だけその条件に合致する男を知っていた。
「久し振りだな。しかし、面白い状況になったものだ」
黒い肌と、色素が抜けて白くなった髪を持つ男は、言葉の内容とはうらはらに、ひどくつまらなさそうな口調でそう吐き捨てた。
「馬鹿な、なんで、お前が」
士郎の声が震える。
「ふむ、意外だったか? しかし昨夜ランサーとやりあったのは貴様なのだろう。ならばこれも予想しておくべき事態だったはずだ」
呆れたような声。
いや、男は怒っているのかもしれない。
だが、いったい何に怒っているというのだろう。
「……けど、なんで」
喘ぐように、ほとんど意味のない言葉だけが士郎の口から漏れる。
だが、男は何も答えようとはせず、くるりと踵を返した。
「戻れ、か。好き勝手を言ってくれる」
それは士郎達に向けた言葉ではない。
この場にいない誰かに毒づいているのだろう。
軽く肩を竦めると、男はまるで士郎達のことなど忘れてしまったかのようにいきなり駆け出す。
「――っ!? 待てっ」
士郎は一瞬虚を突かれた。
男がまったくためらう素振りも見せずに逃げ出すとは思わなかったからだ。
「ダメ――っ」
それはどちらに向けた言葉だったのか。
男の後を追って駆けだしていた士郎には、それを確かめる余裕などありはしなかった。
すでに男の姿は霧の向こうに消えている。
それでも、士郎の『眼』はまだ男の影を捕らえていた。
魔力で強化された眼は、限定的ながら深い霧すら見通すことができる。衛宮士郎という魔術師にとって、その眼は大きな武器の一つだった。
しかし、彼の視力をもってしても、逃げゆく影の姿を追い続けるのは困難な作業だった。
駆ける速度に差があるわけではなく、男が士郎の眼をあざむく方法を熟知しているだけの事だ。
それでも、士郎は男の姿を見失わずにいた。
物陰へと回り込み、ステップを切り返し、時には完全に気配を殺して霧に溶け込む。普段の士郎であれば一瞬のミスで見失いかねないほどの欺瞞を繰り返されてなお、その視力ははっきりと逃げる影を追い続ける。
その追走は、ほとんど執念と言っていい。
呼吸はしていても、肺がその機能を失いかけている。いくら新鮮な空気を取り込んでも酸素は彼の血液にまで届かない。心臓も早鐘のように打ち続け、いつオーバーヒートしてしまうかもわからないような状態だろう。
それでもなお、士郎は男を追い続ける。
どれだけ走っただろうか。
逃げ続ける男の影が、いつの間にか少し大きくなってきていた。
“――追い……つける!”
もうろうとした意識のまま、その念だけで力強く地面を蹴る。
士郎の身体が真横へと吹き飛ばされたのはまさにその瞬間。
魔力によって増強させた視力の代償として、視界は極端なまでに狭くなる。ちょうど望遠鏡を覗いたときのように。ましてや欺瞞を繰り返す影を見失わぬよう、全ての感覚を追撃にだけ費やしていた士郎には、その瞬間まで自分の身に何が起こったのかも理解出来なかった。
背中が高速で地面と接触し、視界は二転、三転する。
まともに受け身を取ることすらならず、士郎の身体はまるで大型車両に跳ねとばされたかのような勢いで宙を舞っていた。
「――が……っ」
何度も石畳の上を転がった長身は、建物の壁に叩きつけられたところでようやく止まる。
「あく――はっ」
全身を貫く衝撃に、呻《》きとも喘ぎともつかない声が、士郎の口から漏れた。
歩道の石畳の上であおむけになったまま、立ち上がる事も出来ずにいる。それだけの痛打だったとも言えるが、なにより限界を超えていたところをむりやり止められたために、もう四肢が士郎の意志に従わなくなってしまっているのだろう。何度かもがくようにしても、それは無意味なけいれん以上の行為にはならない。
端から見れば、致命の打撃とも見えただろう。
実際に士郎が受けたダメージは浅くない。骨どころか内臓がイッていてもおかしくないほどの衝撃だったのだから。逆にそのざまでも意識すら失わなかったあたり、士郎が人並み外れて頑強であることの証明と言っていい。
しかし、起きあがるどころかまともに身動きすら取れない醜態をさらしているのは紛れもない事実。
士郎は奥歯を強く噛んだ。痛みを感じるほどに。
その痛みが、狂っていた回路を引き戻してくれたのだろう。混濁していた五感が急速に回復し、士郎は再びうめいた。
最初に戻ったのは四肢のすべてが訴えるひどい痛みだ。しかしその痛みこそ機能が正常である証拠。痛みと同時に四肢の手応えも戻ってくる。
再び動くようになった腕を叩きつけるようにしてようやく上体を起こしはじめた士郎の耳に、音がようやく帰ってくる。
金属とアスファルトが打ち合わされる音。
それに伴う複雑な甲高い擦過音からするに、複数の金属板を重ねたモノが地面を打っているのだろう。
音は規則的に打ち鳴らされながら、少しずつ近付いていた。
“――足音……?”
ようやくそれの正体に思い至りながら、士郎はようやく上体を起こしきる。
ノイズだらけだった視界も、やっとその正常な機能を取り戻していた。
――いや、取り戻したはずだった。
だが、もしかするとそれはただの幻覚だったのかもしれない。
少なくとも、衛宮士郎はそうだと信じた。
白銀の剣を突きつける、鎧の少女を見上げながら。
「……セイバー」
それは十年前の聖杯戦争で衛宮士郎に従った、最強の剣に与えられし銘だった。
Recurring Fantasm/nightmare
overdrive 第1話 了
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