――いや。
滑り込んだ、ように見えた。サーヴァントであるランサーの眼を持ってしてもそうだったに違いない。
確かに魔槍は士郎の肉体を裂いた。だが、それは致命傷と呼ぶにはほど遠い傷でしかない。
すでにその場所に衛宮士郎の心臓はなかったからだ。心臓だけではなく、彼の身体そのものが。
「な――」
ランサーの表情がわずかに歪む。
何が起こったのかは彼にもすぐに理解できただろう。だが、それまでには本当にわずかな間が存在した。そして、士郎にはそれだけの時間があれば充分だった。
脱力して、力尽きたようにくずおれてみせたのはランサーの油断を誘うためか。いや、それは油断と呼ぶ程のものではないかもしれない。ただ、士郎を格下と見下し、興味を失っただけのこと。
だが――いや、だからこそランサーは一瞬だけ士郎への対応が遅れた。
槍が走ったと同時に、脱力して見えた右の脚が、バネのように跳ねた。斜め後ろ方向に加わった力は、士郎の肉体をその場で旋回させる。最小限の動作で行われた最速の回避。それでもランサーの槍は士郎の胸元をかすめてはいたが、それだけだ。士郎の動きが止まるほどの傷ではない。
「――にいっ!?」
その動きは、まさしく竜巻のごとく。
そして宙へと跳ね上がった竜巻は、暴風となってランサーへと襲いかかる。
伸びたのは剣ではなく、脚。回転しながらランサーの槍を左手に握ることで支点とし、今までどうしても詰められなかった距離は一瞬にしてゼロとなる。
螺旋を描いて伸びる、浴びせ蹴りとも突き蹴りともつかない一撃。きれいに体重の乗った蹴撃は、ランサーがそれまで見せていた槍の技にも勝るとも劣らぬ速度をもち、ランサーの頭を貫くような軌道で伸びてゆく
ただの蹴撃《》ではない。
彼のブーツは防具として機能させるため、軽量ながらも強度のある金属材が組み込まれている。過度なまでに強度を高められたそのブーツは、使い方を変えればそのまま強力な武器となる。まして士郎の全体重を乗せられた渾身の一撃だ。直撃すれば肉を爆ぜさせ、骨を砕いて見せるだろう。
いくらサーヴァントでも、頭部にそれを喰らえばただでは済むまい。
ゆえに、ランサーは防ぐしかない。だが、防御に槍は使用不能だ。未だ衛宮士郎の手に取られたままの槍では引き戻す事もかなわない。かといって、士郎を振り落とそうとしても無駄だろう。そうなれば士郎は槍から手を離せば済む事。そしてそれでは神速で伸びてくる蹴りを防御することは敵うまい。多少威力は落ちたとしても、無防備なままそれをうければいかなサーヴァントとて昏倒しかねない。
「ちぃ――」
ゆえに、ランサーは槍を手放した。その判断には一瞬の迷いもない。迷うような余裕など彼にはなかった。両の腕を盾のように交差させたのと、士郎の体重の乗った一撃がそこへ降り注いだのが全くの同時。
骨の軋む音がはっきりと響いた。
その音は肉体が交錯した士郎とランサーだけではなく、少し離れた場所にいた凛の耳にさえ届いたはずだ。
だが、骨は砕けなかった。サーヴァントの肉体は人間のそれと構造こそ変わらないものの、多大な魔力に裏打ちされたそれは人間のそれと比較にならないほど強靱だ。ゆえに、士郎の蹴りはランサーの腕を破壊するには至らなかったのか。――いや、そうではない。
「詰み、だっ」
叫んだのは士郎。その身体は、すでに宙を高く跳んでいた。
「――俺を、踏み台に……っ!?」
たたらを踏みながら、ランサーは怒りの声を上げていた。確かに士郎はランサーを蹴っていた。だが、まさかそれがランサーにダメージを与えるためではなく、ランサーを蹴って跳ぶための動作に過ぎなかったとは。
ランサーはそれを追う事ができない。少年時代の彼とは違い、体格だけなら士郎のそれは細身なランサーのそれを一回り上回る。その士郎が己の身体を数メートルほども跳ね上げる跳躍を行ったのだ。反動はランサーでさえぐらつかせるほどの衝撃だった。彼にできるのはただ怒りの声を上げる事のみ。
「凛っ!」
士郎は控えていた女魔術師の名を呼ぶ。だが、すでに彼女は己の役目を果たすべく手を振り上げていた。
「―――――Anfang《》……!」
単節の呪文。だが、その直後に発生した『もの』はそれには似つかわしくないほどに強力なものだった。
ランサーを中心に、地面に浮き上がる魔法陣。小さなものではない。空間としては充分以上に広いこの交叉点を埋め尽くすほどに巨大で、かつ多数の刻印が複雑に組み合わさった精密な陣だ。いや、それどころか六方に伸びてゆく路地にも少なくない回路が伸び、その彼方から膨大な魔力を運搬している。恐らく天空からこの都市《》を見下ろしたならば、巨大な六芒星《》が浮かび上がる様を目撃できただろう。
六芒星《》という印《》によって多大な魔力をさらに増幅させた、強力無比な封鎖結界。士郎が敢えて不利な接近戦を自ら望み、そしてただひたすら防戦を続けたのはこの結界の中心へとランサーを導く意図が有ったからこそ。言い換えれば、ランサーは彼の腕一本と引き替えにまんまと罠のなかへと飛び込んでしまった事になる。
それにしても、強力な結界だった。強力すぎると言っていい。規模から言っても即席の魔法陣などではありえない。いや、それどろかたった一人の魔術師が組み上げられるようなものでさえなかった。
「くそっ、何だこれは……」
結界の中央で、苦しげにランサーはもがいている。すでに身体は魔力の網に捉えられているのか、その動きは緩慢で、力が感じられない。
「……く、こんなモノで俺を縛れるなどと……ふ、ざ、け、る、なあああああっ!」
絶叫とともにランサーの肉体が膨らんだように見えた。筋肉に包まれてはいてもやや細めだったはずのその腕が、奇妙に隆起している。いや、腕だけではない。彼の全身が同じように膨らみ、その鎧が、そして黒く染まった衣がみちみちと悲鳴を上げている。心臓から押し出された血液がその肉体を押し上げているのだろうか。
同時に、ランサーの発する魔力が増大していた。火花のようなものがランサーの周囲を走り始め、軋むような雑音が空間に満ちる。サーヴァントという存在を編む魔力、その力を放出されただけだというのに、強力なはずの結界は断末魔の悲鳴をがなり立てていた。
「なんて、魔力……本当にこれがあのランサーなの……?」
凛が呻く。彼女の周囲にまで火花のようなものは飛来している。ランサーが結界を押し返そうとして放出する魔力はすでに物理的な威力を持ち、凛の黒髪と朱い衣は風に煽られているかのように揺れた。
「なめるなよ……この俺を、誰だと思っている。この俺を、何だと思っている」
ぐにゃりと、地面が歪んだ。いや、地面に刻まれた魔法陣が浮かび上がり、ひずんでいる。
「そんな……ありえない……」
結界を構成していた魔法陣。それを構成する刻印がひとつひとつ、弾けるような音を立てて消滅していく。
「……ふん、おもしれえ小細工だったが、俺を縛るにはちっとばかり足りなかったらしいな」
小さく肩を揺らし、ランサーは口の端を吊り上げてみせた。はじけ飛んだ刻印の数はどんどんと増えてゆき、ランサーの表情にもいまや苦しそうな気配はない。結界が拘束の能力を失うまで、それほど時間が残っているわけではないのだろう。
「残念だったな。まあ、俺としてもあっさり捕縛されるわけにもいかないのでな。悪いがつきあいもここまでだ」
「本当に、付き合わせて悪かったわね。でも、もうちょっと付き合ってもらおうかしら」
凛の声が、落ち着いた物に戻っていた。たった今まで見せていた焦りは、もはや消え失せている。負傷した腕をかばいながら凛のそばに戻った士郎も、慌てる様子無くじっとランサーを見つめていた。
「言った筈だ、ランサー。詰みだってな」
鋼色の瞳でじっとランサーを見つめたまま、士郎はもういちど告げる。
「――なに」
歪んだ地面が、波打っていた。
魔力をうけて光を放っていたはずの刻印が形を失い、赤黒い液体になって広がっていく。その液体は次の刻印を飲み、その刻印も赤黒い液体へと変じてゆく。その連鎖は瞬く間に広がり、ランサーを中心とした赤黒い沼へと姿を変えていた。
それが危険なモノだと察したのだろう。ランサーは慌てて転がったままの魔槍《》へと手を伸ばそうとする。だが、その手が朱い槍の元へ届く事はなかった。
「ぐおっ!? こ、これは……」
黒とも赤ともつかない、泥のようなモノがランサーの黒い腕に絡みついている。いや、腕だけではない。今やランサーの全身が、それに絡め取られていた。触手のようなモノが赤黒い泥沼から生え、さらにランサーの身体を縛ってゆく。ランサーがどれほどにもがこうとも、それは拘束する力を弱める様子さえなかった。
「さすがに、あなたでもこれは破れないみたいね、ランサー」
凛の声には、かすかな安堵が含まれていた。
さしもの彼女も『これ』の制御には手こずったのだろうか。その額には冷や汗だけではない、相当な量の汗が浮かんでいる。
「く、なんだこいつは……」
すでに半身まで泥に包まれたランサーは、それでももがきながら呻く。
「誇れ。それは協会に伝えられたもののなかでも最高級の捕縛結界だ」
声は、士郎のものでも凛のものでもなかった。
「まあ、我らに残されたのは出来そこないの研究成果だがな、それでも竜種程度ならば捉えることは造作ないほどのシロモノだ。少々過剰《》かとも思ったが、半神といっていい貴様を捉えられそうな結界が他にないのでは、仕方があるまい」
よく通る、ややハスキーな声の持ち主は、交叉点から伸びた路地の一つから、霧を割るようにして現れた。
最初に目立つのは、肘から先がぶらぶらと揺れるスーツの袖だろう。だが、彼女はそれ以上に目立つ容姿の持ち主だった。つややかなショートカットの髪に、熟年の女性にも、若い青年にも見える整った容姿。肌の張りこそ若者のそれではないが、しわ一つ無く、生気に満ちた貌《》は未だ若々しさを感じさせる。
なによりも彼女の年齢をわかりにくくさせてしまうのはその目だ。やや吊り目気味に切れ長のそれは見るものを圧倒するような生気に満ちあふれ、サファイヤの光を放つ瞳は苛烈な意志をはっきりと蓄えている。
かつて時計塔きっての武闘派として恐れられた、戦う魔術師が今でもそこにいる。その眼を見てしまえば、今では現役を退いている身だなどという事実は戯言《》としか思えないだろう。
「久し振りだ、クーフーリン」
くわえていた煙草を指にとって、彼女はサーヴァントの真名を呼んでみせる。それはかつて彼と刃を交えた者、そしてともに戦った者しか知らぬ筈の名だ。
「――まさか、君にもう一同会う事ができるなどとは夢にも思わなかったが、再会は素直に喜ぼう」
ぱちんと鳴らされた指の合間で、半ばまで吸われていた細身の煙草は姿を消した。だが手品のような光景に驚く者は居ない。傍らの二人は彼女と同じ魔術師で、その程度の事は驚くにも値しない。そして、拘束されたランサーとてそんなモノに驚くほど初《》ではない。
「こいつは、驚いた……」
だが、ランサーはそう呟いていた。
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