「あ、あなたは……」
遠坂凛は、老人の名を知らない。
「――誰、だ」
衛宮士郎は、老人の顔さえ知らなかった。
「遅かったな、御老。だが、助かった」
ただ一人、老人と面識のあるバゼットだけが溜息をつく。
「いやいや、些事にいささか時間を取られすぎたようです。遅参は詫びましょう。しかし、おかげで実に良いところへ出くわしたようだ」
老人は呵呵と笑い声を上げる。
奇妙な光景だった。老人は。対する黒い騎士は重装備でこそあったが、意外に小柄だ。だが、騎士の鉄靴《》が地面を噛んで立てる耳障りな音を聞くまでもなく、斬撃にこめられたエネルギーが莫大なものだという事は知れた。だというのに、対する老人はさほど力む様子も無しにそれを受け止めている。しかも――
「片腕でそいつを止める、だって――」
黒騎士の代弁をするように、男の声が呟く。
士郎の肩に突き立ったままの短剣が動きを止めているのは、男の動揺ゆえだろうか。
「ああ、失礼した。若い頃にこうなってしまったものでしてね。何も手を抜いているわけではないのですよ。怒らないでください」
老人は空いている方の肩をわざと振った。もとよりわざわざそうしてみせる必要があったわけでもないのだろうが、ひらひらと舞う袖は、その中身が失せている事を雄弁に語っていた。
「――馬鹿な。いったいどんな魔術を使っている」
道化の仮面が漏らす声には怒りが満ちていた。老人のこともなげな口調に愚弄されたと感じたのかもしれない。
「魔術など使えもしませんよ、私は。まあ、手妻《》のようなものではありますがね」
老人は苦笑いをしてみせた。
「手品だと――あれが?」
士郎は唸り声を上げた。
日常的に剣を握っている彼だからこそ、老人の技がとてつもないものだと理解できていた。
士郎の剣技とてひたすら実戦のさなかで積み上げてきたものだ。並大抵のものではない。だが、結局彼の技はただひたすら我流を極めたもの――いわば邪剣に過ぎない。
老人のそれは、正当な技術を正しく磨き続けてきたものだけが到達できる境地。疾《》さも、力も、正確ささえもその剣には必要ない。ただ磨き抜かれた技だけが不可能を可能とする。士郎だからこそ理解できる、だが永久にたどり着けない領域だ。
達人の技、と表現するしかあるまい。
だが、どれ程の“達人”がそれだけの技を修められるのか。
「見ての通りの老体、耄碌もひどくてそれほどの芸を披露できるわけでもありません。申し訳ないがそろそろお引き取り願えませんか」
「バカにしているのか、貴様あっ! 潰せっ! そいつからぶっ殺せっ!」
完全に逆上した声で、男は叫んだ。
黒騎士は無言のまま飛びすさり、剣を構えなおす。同時に、道化の仮面も己の獲物を引き戻していた。
「ぐう……っ」
肩を貫いていた短剣が強引に引き抜かれ、その痛みに士郎は呻く。右の腕は血まみれで、短剣が刺さっていた場所は肉がはじけたようになっている。まっとうな方法では血を止める事も難しいだろう。
だが、士郎は倒れない。倒れていられる場合ではない。
凛はいまだ地面にへたり込んだままだ。どこかを怪我でもしたのか、それとも腰が抜けてしまったのか。
襲撃者の狙いは彼女から老人へと移ったようだが、いまだ危険な場所にいる事に変わりはない。
老人の腕は間違いないものだろうが、何故かぶらりと剣を下げてしまっている今の状態では凛の安全を確保できるかどうか。
だが、士郎が凛の元へと走り出す前に、道化の仮面は叫び声を上げていた、
「死ねえっ!」
釘の形をした短剣が、ジグザグの軌道を描いて飛ぶ。
黒騎士が突進しつつ見えない剣を振りかぶる。
それは一つの意思に統一されたかのような、完全な挟撃。
「やれやれ、若い方はせっかちだ」
だが、老人はや首を軽く振っただけでそのまま身を巡らせた。ダンスを踊ってでもいるような、優雅でゆっくりとした身の捌き。その動作は完全。士郎の眼をもってしても寸分の隙さえ見抜けない。
老人が振るった剣はただの一度。提げていた剣を跳ね上げ、そのまま頭上を通して振り下ろす。斬撃というよりは、ただ剣の先で大きな弧を描いた、それだけの動作にしか見えない。
だが、響いた金属音は二つ。ひどく重い音と、いくらか軽い音。
黒騎士が吹き飛ばされていた。真上に。見えない剣でその一撃を受け止めたはずなのだが、いったいどのような衝撃がどの角度から当たったというのか。
そして短剣は飛来した時以上の速度を与えられ、持ち主の元へと帰還していく。道化の仮面を貫こうとする勢いで。だが、大きな弧を描いた鎖が鞭のごとくびしりと鳴ると、はじき返された短剣はその持ち主に突き立とうとする直前で大きくのたうっていた。
そのままゆっくりと、短剣は意志でもあるかのような動きで影の手に収まる。
同時に黒騎士が受け身も取らず地面へと叩きつけられ、轟音を立てる。
「く……奇妙な技を……」
道化の仮面は呪詛《》めいた唸りをあげた。
「さすがに、あっさりと喰らってはくれませんか」
やれやれと老人は首を振ってみせた。
それも当然だろう。短剣をあっさり取り戻した影にはダメージなど無いし、落下した黒騎士もむくりと上体を起こしているのだから。
老人は溜息をついて、剣を握りなおす。
「やれやれ、タフな事だ……む?」
だが、黒騎士は上体を起こしたところでその動きを止めた。
「……なんだ?」と当惑の声を士郎は上げた。
無理もない。
騎士の上体が微妙に揺れていた。
がくんとその頭が大きく揺れ、すぐに跳ねあがると、今度は左右をのろのろとした動作で見まわす。
ダメージによるものではない。むしろ、その動作は。
「寝ぼけ……てる?」
凛の呟きは、騎士の動作を丁度いい具合にあらわしていた。やたらと緩慢なその動作は、寝起きのあまり良くない人間がたったいま目覚めたばかりのそれによく似ている。そう、ちょうど凛自身の寝起きがそんな感じであるように。
ふらふら周囲を見まわしていた騎士の視線は、ゆっくり周囲の人間を巡った。
己を弾き飛ばした老人、路面にへたり込んだままの凛、身構えているバゼット、そして肩を押さえたまま立ちつくす士郎、それから――
騎士の動きが止まった。
衛宮士郎を通過しかけた視線が、そこで静止している。
「――ちっ、まずいな」
道化の声が小さく舌打ちをした。
騎士はじっと士郎を見つめたまま、動かない。
――いや。
「あ――」
それは、か細い女の声だったか。
「ああああああああああ――」
黒騎士は絶叫していた。
天を仰ぎ、理不尽を呪うかのような哀しい声で。
絶叫しながら、跳ね起きていた。
両の腕を振り上げて、ただひたすら意味のない音をひたすらに叫ぶ。
「いかん、あれは――エクスカリバーを使う気か」
老人が初めて焦ったような表情を浮かべた。
空気が流れている。
それは瞬くほどの間に轟風と化した。小型の竜巻と言っていいほどの、局地的で暴力的な気流。ただ、周辺から集った大気が一点に集中し渦を巻いて巻き上げられるのではなく、一点に収束された風がそこから濁流のように押し寄せているというところだけが真逆《》。
誰もがあらがうのに精一杯で身動き一つ取れない。それどころか、気を緩ませたが最後、どこへ吹き飛ばされるかもわかったものではない。
だが、これは攻撃ではない。
むろん使い方によっては攻めの一手としても使えるものだが、これはただ封じられた風を解放したときに発生する“現象”に過ぎない。
そして、封印がはじけ飛んだあとには、当然のごとく剣が残る。
聖剣エクスカリバー。
このロンドンでその名を耳にした事がない者は無いだろう。それはいまや聖剣と呼ばれるものの代名詞にされる事さえある、王者の象《》にして最強の宝具。
「うそ……」
凛が呆然と呟いた。
掲げられた刃は、煌々《》と輝いている。稲妻がその場所に滞留しているような、圧倒的な熱量《》。それが振るわれたとき、どれほどの破壊が訪れるか。
この路地は消し飛び、ロンドンの中心部であるこのブロックは焦土と化すに違いない。
「なんだ、あれは……」
バゼットもただそう呟く。優秀な魔術師であればこそ、その異常さを理解できる。協会の魔術師がどれほど束になってもその破壊を止められないのだと、見ただけで識《》る事ができる。
ゆえに、残されたのはそれが振り下ろされるまでのわずかな時間。
「――そこまで」
だが。
道化の仮面がその言葉を口にしたのと同時に、騎士から力が抜ける。
溢れんばかりの力を蓄えていたエクスカリバーは輝きを失って路面に落下し、騎士は操る糸が切れた人形のごとく地面へと倒れ込む。
いや、力を失って倒れ込もうとした彼女を、巨《》きな掌が受け止めていた。
それだけの巨体がいったいどこに隠れていたというのか、突然現れた黒い巨人がぐったりとした騎士の身体を抱え上げる。
「バーサーカー、だって……」
それは、かつて士郎が幾度も闘った巨人の銘《》。
狂戦士のクラスを与えられた鈍色の英雄《》が、間違いなくそこに立っていた、
そそり立つ壁にも似た、無言の巨人。いまの彼らにはそれを打ち破る手段など無い。
「言ったろ? 一人や二人じゃないって」
道化の嘲笑が響いた。
同時にその体が宙を舞い、士郎達の頭上を飛び越える。
その姿は確かに長い髪を揺らす成熟した女性のもの。その顔を覆っているのがかつての眼帯ではなく、顔全体を覆う道化の仮面にはなっていたが、間違いなくそれはライダーの姿だった。
そのままバーサーカーの方へと飛び乗った影は、いつの間にか二本の武具を抱えていた。
しかし、どう見てもライダーでしかないそれは、やはり男の声で士郎達をあざける。
「正直、バーサーカーまで引っ張り出すつもりは無かったんだけどね。少しばかり予定が狂った。まあ、用事は済んだし、そろそろ帰らせてもらうとしようか。――ランサー」
道化の声は、いまやそのほぼ全身を泥に包まれ、封印に沈んだはずのサーヴァントを呼ぶ。
「残念だが、ランサーにまで帰って貰うわけにはいかない。そもそもその封印は外部からの干渉さえ難しい不可侵領域だ。このまま置いていってもらおう」
気を取り直したバゼットの言葉は、だがさらなる嘲笑で返される。
「――というのが、君がかつてのマスターとした魔術師殿のお言葉だけど、どうする? ランサー」
もとより狂笑の表情を彫り込まれているはずの仮面が、さらにその口を歪めたようにさえ見えた。
「冗談だろ。封印されたままなんて事になったら退屈で死んじまう」
すでにランサーの全身は泥に埋もれ、呼吸すら出来ないはずだ。
にもかかわらず、確かにその声は封印の内部から響いた。
「なら、さっさとそれを打ち破れ」
道化の声に応えるように、泥の山が微動した。
――めぎり。
関節の軋む音。
――みぢり。
肉がちぎれる音。
――ばきり。
骨のへし折れる音。
確かに拘束されたはずのランサーが、その内部で蠢いているのか。しかし、響く音は封印が壊れる音ではない。
むろん、強固な封印の中で無理に動けば破壊されるのは肉体の方だ。
「馬鹿な、なにをやっている……自滅する気か?」
茫洋と呟くバゼットの言葉は、ランサーの唸り声にかき消される。
「ぬうううっ……」
響く声には、口腔に大量の液体を含んだような、ごぼごぼという異音が混じっていた。
未だに封印の内部からは肉体の破壊音が響いている。内部に封印されたそれがまだ人の形を保っているとはとても考えがたい、耳を塞ぎたくなるような音だ。
「やめろ、ランサー! 見苦しく死んで格を下げる気か!」
バゼットの叫びに呼応したかのようなタイミングで、ひときわ大きな破壊音が響いた。
「――ごああああああああああああああっ!」
人間の形をしたモノが、獣の咆吼を放ちながらそそり立った。
凝結したはずの封印が、それの体表からがらがらと音を立てて崩れ落ちてゆく。
「そんな、うそ……」
「ありえん、いかにサーヴァントとてこの封印は破れぬはずだ」
二人の魔術師がうめく。
だが、事実としてランサーはそこにいる。
全身から噴出した血液はその身体を真っ赤に染めてはいるが、恐らく致命になるような損傷ではあるまい。
「……へっ……まあ、完全なら確かにヤバかっただろうけどな……」
大きな血の塊を吐きだしたランサーは、獰猛な形に口を歪めた。
ふきつけてくる凶気も、封印される前とまるでかわりはしない。このサーヴァントは傷まみれのこの状況でも、この場にいる魔術師達を圧倒できるだろう。
一歩ランサーが踏み出し、魔術師達は軽く身構えた。
「種明かしをしてやる必要はない、ランサー。用事も終わったからね。さっさと退け」
割り込んだのは道化の声。
「やれやれ、俺のマスターは毎回毎回なんでこうも注文が多いんだろうね。おかげでいつも満足はさせて貰えない、か」
凶気が消滅した。
道化の言葉に興を削がれたのか、ランサーは小さく溜息をつくと軽く地面を蹴る。
前ではなく、後に。
ランサーの姿が霧の向こうへと消える。
さきほどの暴風で押し流されたはずの霧が、いつの間にか戻ってきていた。
「さて、今日のところはそろそろ幕とさせてもらうよ。また会おう」
だが、道化の声に振り向いた士郎達の視界は、ひときわ濃密な霧の塊に押しつぶされる。
ねっとりと粘り着く霧をようやく振り払った士郎達が見たものは、路面に穿たれたいくつもの破壊痕と、彼ら以外には誰も居ない路地。
「逃げられましたか……」
「……の、ようだ。時計塔の本部に働きかけてまで仕掛けた罠だったのに、大失態だな」
頭をぼりぼりと掻いて、バゼットは大きな嘆息を漏らした。
この夜を境に、ロンドンの夜を震撼させた大量殺戮はぴたりと止んだ。
切り裂きジャックがそうであったように、殺人者はその正体すら見せることなくロンドンを去っていったのだと、民衆は誰もがそう考え、小さな安堵の息を漏らした。
もちろん、犯人の素性は知れぬままだ。テロリストが犯行声明を出してみせたり、ネットで現代のジャックを名乗った者がいたりはしたが、いずれも虚言だとすぐに判明した。
結局、殺人者の正体は謎のままとなったが、ロンドンの市民はそれについて語る事をさけた。もはや恐怖は去ったのだと、終わった事なのだと、記憶ごと封印でもするように。
だが、全てが終結したわけではない。
ただ、始まりが終わっただけなのだと、そう知っていたのは僅か数人の魔術師に過ぎなかった。
Recurring Fantasm/nightmare
overdrive 第2話 了
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