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#水の惑星の魔法使い(5)
その日も、朝からやたらと暑かった。
クロノとフェイトがこの惑星に落ちてきた日から一週間になるが、暑くなかった日など一日もない。最低気温でも二十五度を下回ることはなく、昼間の気温などは三十五度を確実に超える。
「ねえ、クロノ」
「ん、なんだ?」
掃除も終わり、簡単な事務も片づけてしまった昼下がり。
「やること、なくなっちゃったね」
「そうだな」
二人とも、さすがにこの暑さが応えているのだろう。日陰になったベンチでぐったりと座り込んでいた。視線は海に向かっているが、その実なにも見ていないに等しい状態だ。
―― りぃ ん
夜光鈴が、風の到来を告げた。
僅かではあったが、うだるような熱気から解放され、ぐったりとなった二人は心地よさに目を細める。
「……涼しい……いい風だね」
「すこし雲も出てきたし、これで少しは気温が下がってくれるといいんだが」
「これなら、灯里さん達も大丈夫かな」
二人は大きく息をついた。
「なにも……することがないね」
「そうだな」
「こんな事してて、いいのかな……」
フェイトの顔には、不安のようなものが浮かんでいた。
「本当なら、いっぱい執務官になるための勉強をして、いっぱい魔法の練習をして、頑張らなきゃいけないはずなのに」
「……どうしてそんなに焦ってるんだ?」
「だって……執務官は、わたしが自分で決めた道だから」
「だからって、そこまで頑張る必要はないだろう。君なら、いつかは執務官になれる」
「それじゃ、ダメだよ。なのはも、はやても、凄い魔導師だから」
「気持ちは、わかるが……」
クロノは立ち上がって、テラスの縁に立った。
欄干に身を預け、風を頬に感じながら、はるか遠くへと目をやる。目の前にあるのはどこまでいっても水平線しかないような、海原。全く変わらないようでいて、本当はさまざまな表情を見せている。何日も海ばかり見ていると、そんなことも分かるようになってくるものだ。
海猫が鳴き声を上げながら視界を横切っていく。
はるか彼方では、マンホームと惑星アクアを連絡する宇宙船が、ゆったりと宇宙港を目指して飛んでいる。
「ここで焦っても、どうにもならない。魔法の使えない状態で、魔法の練習なんかできないからな」
「わかってるけど……」
フェイトはそれっきり、黙り込んでしまった。
どれくらい、そうしていただろうか。
「ねえ、クロノ」
「なんだ?」
「ヒマ、だね」
「そうだな」
クロノは肩をすくめ、苦笑いする。
フェイトはしばしクロノの顔を見つめ、それからもう一度海へと視線をやった。いまだゆったりと海の上空を移動する宇宙船が、彼女の瞳に捉えられる。
「あの宇宙船に乗って地球にいっても、なのははいないんだね」
「そうだな……時間を三百年ほども遡れるなら、もしかすると“この世界のなのは”には会えるかもしれないが」
それでも、その地球はクロノとフェイトが知る地球ではないだろう。それがクロノの至った結論だった。いくら記録を辿っても、時空管理局の気配すら存在していない。クロノ自身が手がけた隠蔽工作の痕跡も含め。
この世界に時空管理局は干渉したことがない――いや、もしくは干渉できない。結論は、最初に推測したものとほとんど変わっていなかった。
「リンディ提督――お母さん、心配してるかな」
「そうだな」
「なのは達も、心配してくれてるかな」
「そうだな」
唐突に、フェイトはくすくすと笑い出した。
「クロノ、さっきから『そうだな』って言ってばかりだよ」
「そうか……? いや、そういわれれば、そうだな」
「また言った」
指摘しながら、フェイトは嬉しそうに笑い続ける。
ふと、クロノはフェイトの方へ視線を向けた。
彼女はよく笑うようになった。
初めて出会ったとき、クロノとフェイトは敵対する関係だった。時空管理局の執務官としてロストロギア回収の任を受けた少年と、母である女性が求める狂った願いのためにロストロギアを追った幼い魔導師。あのころの彼女は、厳しい表情の中にひどい孤独を内包していた。そして、その戦いの末に彼女はかすかな笑顔さえ失い、事件を乗り越えた彼女はなのはという友人を得て新しい笑顔を浮かべるようになった。
あれから、それほど時間は過ぎていない。
少女はクロノの妹になり、それまでにも増してよく笑顔を見せるようになっている。
けれど、クロノは何故か彼女の笑顔に新鮮な印象を覚えた。その理由を考え、すぐに答えを見つける。今までの忙しい日々の中では、こんな風にゆっくりとした時間を二人で過ごすようなことなど無かったからだと。
「なに?」
「いや、なんでもない」
クロノの視線を感じたのか、フェイトはちょっと恥ずかしそうな表情を浮かべながら、クロノの方に向き直った。思わず見つめ合う形になってしまい、クロノは何となく目を逸らしてしまう。
フェイトはしばらくクロノの方を向いていたが、やがてその顔は再び海の方へと向けられた。
「灯里さん、合同練習って言ってたっけ。そろそろ帰ってくる頃かな」
「そうだな……」
「また、そうだなって言った」
再びくすくす笑い始めるフェイトの横顔を、クロノはいつの間にかまたじっと見つめていた。
「どうしたの、クロノ」
ふたたび向き直ってくるフェイトに、クロノは今度こそ小さく言葉を詰まらせていた。
「いや……」
口ごもり、それからクロノは喉に詰まった何かを払うように、小さく唸る。数秒ほど言葉を探し、しばらく逡巡してからようやく見つけた話題を口にする。
「その服なんだが」
フェイトの服は、今もARIAカンパニーの制服のままだ。もちろん普通の服を買いそろえてもよかったのだが、灯里もアリシアも、制服を着たフェイトの姿をことのほか気に入っているらしいので、とりあえずフェイトは一日を制服で過ごしている。
もちろん制服は女子用のものしかないので、クロノはアルから譲られた地重管理人の普段着を纏っている。さすがにマントは暑苦しいので辞退したが、元々クロノは黒ずくめの格好でいることが多かったので違和感はほとんど無い。
「似合ってないかな……」
フェイトはクロノが黙り込んでしまったので、不安げな表情を浮かべた。
クロノは慌てて否定し、それでもしばらく逡巡したあと、ようやく観念したように口を開く。
「よく、似合ってると思ったんだ」
フェイトは僅かな合間だけきょとんとしたあと、すぐに頬を真っ赤に染めた。もっとも、そんな言葉を口にしたクロノの顔もとうに真っ赤になってはいるのだが。
「君には、そういう服のほうが似合っているのかもしれない。不思議だな。家族になってもう半年以上たってるのに、そんなことに今更気付くなんて」
「え、そ、そうかな」
赤くなったフェイトの顔は、嬉しそうにほころんでいた。
そのままクロノが彼女の様子を見ていると、フェイトは何故かそわそわし始めた。襟元をいじってみたり、帽子の位置を微妙に直してみたりと、微妙に落ち着かない。が、両手で帽子に触れたまま、なんの前触れもなくその動きが止まった。
「クロノは、わたしが執務官になるのには、反対なのかな。向いてないって、思うのかな」
帽子を前にずり落とすような仕草をしながら、フェイトはぽつりとそんなことを呟く。
「い、いや、そういうわけじゃない」
クロノは慌てた。
「さっきも言っただろう、君なら、焦らずとも執務官の試験には遠からず合格出来るはずだ。いずれは僕や母さん以上の提督にだってなれるとさえ思っているんだが」
「じゃあ――」
更に言いつのろうとするフェイトに、クロノは落ち着いてくれと身振りで示す。
「忘れないでいてほしいだけだ。君自身が女の子だってことを。兄として、それくらいは心配させて――」
「そこっ! 恥ずかしいセリフ禁止!」
「わあっ!」
クロノの身体が文字通り跳ね上がった。
「やれやれ、お子ちゃまの口にするセリフじゃないわねえ」
「でっかい恥ずかしいです」
「ごめんね、ちょっと脅かそうと思って回り込んできたら話が聞こえちゃって」
ARIAカンパニーの陰から、黒いゴンドラがするりとその姿を現した。もちろん、その舟に誰が乗っているのか、などということは今更確認するまでもない。
「いいいいいいつの間にっ!?」
「ふふふふ、『そうだな』のあたりかにゃ。いやー、暑い暑い」
藍華はいひひひひ、とわざとらしい笑い声を立てているが、その実彼女が二人に向けている視線はあたたかいものだ。
「二人で何か話してるから、ちょっと聞いてみたくなったんだけど」
えへへ、と笑う灯里に、クロノはため息を吐く。
「のぞきなんて、悪趣味――」
だが、そんなクロノの言葉を遮るように、もう一人の声が反対側から聞こえてくる。
「あらあら、もうおしまいなの?」
「アリシアさん!? え? 今日って確か――」
フェイトは目を丸くして、カウンター内のスケジュール表に目をやる。アリシアの予定は朝から業務終了までゴンドラ協会の会合でキッチリ埋まっていた。
「うふふ、それがキャンセルになっちゃったの。それでゆっくり帰ってきたら二人が仲良くお話ししているものだから、つい」
「アリシアさんまで、ですか……」
「あうう……」
フェイトは真っ赤になって、完全にうつむいてしまった。
「アリシアさんは、今日はもうお仕事ありませんよね」
ゴンドラをパリーナに係留した灯里が、テラスへと上がってくる。
「そうね。午後は完全にフリーになっちゃったわ」
アリシアのゴンドラは会合の日を利用して工場行きだ。メンテナンスが終わるのは夕方なので、よって、今日一日は事実上の開店休業だ。
「お休みにしちゃうのも、少し勿体ないかしら。灯里ちゃん、なにかするつもりなの?」
「はひ。実は、これからクロノ君たちにネオ・ヴェネツィアを案内しようかな、などと考えたのですが」
「うふふ、いい考えね」
アリシアは極上の微笑みを浮かべて、灯里の言葉に同意した。
「もちろん、クロノ君たちがよければ、だけど……どうかな?」
「僕らは、むしろ嬉しいくらいですが」
「うん、わたしも、この街を見てみたい」
二人も頷く。
考えてみれば、この街に落ちてきてもう一週間になるというのに、二人の外出はせいぜい近所に買い物で出かけたくらいのことだ。土地勘もなければ、フェイトの耳のこともある。あまり外出できないのは、仕方のないことでもあった。
「うふふ、じゃあ、決まったわね」
アリシアは微笑むと社屋の中に入り、予定表に新しい文字を書き加えた。
『午後より臨時休業』
―― りぃ ん
舟の舳先につり下げられた夜光鈴が、小さな音色を奏でた。
風によるものではなく、ゴンドラそのものの揺れによるものだ。
けれど、それはひどくまばらなリズム。もし夜光鈴が舳先で揺れていなければ、ちょっと分からない程度の揺れだと言っていいだろう。
「アリシアさんなら、本当に気付かないくらい揺れないんだけどね」
クロノの褒める言葉にひとしきり照れたあと、灯里はぽつりと呟いた。
「ま、私達のなかでも灯里はとくに操船が丁寧なほうだからねー」
「でっかい遅いですが」
藍華のフォローに、アリスが余計な茶々を入れる。
「まぁ」
相槌を打つようにまぁ社長が鳴いたが、これはアリスが意図的に抱き上げたからだったりする。
けれど、確かに灯里の操るゴンドラは遅かった。
クロノが振り返ると、まだARIAカンパニーの屋根が見える位置にある。歩くのよりは多少ましだろうが、お世辞にも『速い』とはいいがたい。もともとゴンドラという乗り物は速く移動するためのものではないが、それにしても遅かった。
「あらあら、灯里ちゃんったら、少し緊張しちゃってるのね」
「はっはひ、なかなかに初めてのシチュエーションなのでっ」
それほど広くないゴンドラの上に灯里を含めて六人と三匹が乗っているので、少しばかりとまどったのかもしれない。
「ぷいにゅ」
アリア社長がフェイトの腕の中から飛び出してゴンドラの前方に飛び乗り、踏ん張るように立ってみせる。
「ぷいにゅにゅー!」
右の前脚を前方へと突き出してみせるアリア社長は、それ行け、と灯里をせかしているようだ。さらにその前方で、いつものように舳先に乗った姫社長が、澄まし顔でフィギュアヘッドのごとく前方を見据えている。
「はひ。それじゃもう少しだけスピードを上げますね」
するり、とゴンドラは水の上を滑り始めた。
風圧を受けて、また夜光鈴が小さく音色を奏でる。
「ま、まだ夕方まで時間はかなりあるし、焦ることはないでしょ」
藍華は肩をすくめた。
確かに、まだまだ真っ昼間だ。これからが暑くなる時間帯になる。それほど広くないネオ・ヴェネツィアを一周するくらいなら、充分に時間はあるだろう。
「もう、彗星が見えてきてるんだね」
フェイトが呟いた言葉に、皆がそろってフェイトの視線を追った。
東の空の地平線スレスレから、確かに白い彗星の頭がひょっこりと見えている。アクアに再接近しつつある彗星は、わずかな合間にもじりじりと進んでいるのが見て取れた。
「なんだか、凄いね……」
「凄いのは確かだけど、いいかげん怖いわね……あんなのが、アクアのすぐ近くを通ってるんでしょ? 落っこちてきたりしないのかしら」
「アル君は、それは無いって言ってなかったっけ?」
「やー、確かにそうは言われたけど、怖いじゃない」
「まあ、通過しかかっているんだから、もう落ちてくるようなことはないと思いますが……」
クロノの言葉に、藍華はひどく嫌そうな顔をした。
「あんな凄いのが落っこちてきたら、アクアなんてひとたまりもなさそうじゃない。こわこわよ」
「まあ、もう落ちてこないって分かってるんだから、気にしない事にしようよ。今は二人を案内してるんだし」
「ま、そうね……」
肩をすくめ、藍華は視線を再び前に向ける。
「んで、最初はどこから回るのよ」
「そうだね。まずはサンマルコ広場からかな」
「妥当ねえ……ま、行きましょ」
藍華が舳先の方向を指し示す。
「しゅっぱーつ!」
「でっかいれっつらごーです」
「あらあら」
ゴンドラは大騒ぎの面子を載せながら、ネオ・アドリア海を滑るように進んでいった。
「それにしても、不思議な街だね」
フェイトが、彗星から街並みに視線を移し、ふと呟いた。
「あら、そう?」
この惑星で生まれ育った藍華が少し意表を突かれたような顔をしてみせる。彼女にとっては、ここはひどく当たり前の場所だ。不思議、などと思ったことはあまり無いのだろう。
「確かに。テラフォーミングした惑星っていうのはとても繊細なもののはずだ。普通は最先端の技術をつぎ込んで環境を保つものなんだが……」
クロノの視線の先には、小さな『島』が_浮かんで_いた。
海の上ではなく、空に浮かぶ島。ロープウェイといくつかのアンカーだけで地上と繋がれたそれは、惑星アクア特有の光景だ。
推進機能が有るわけでもないその島を浮かべている技術がどんなものなのか、クロノには分からない。けれど、何故かその島には最先端というものを感じさせる雰囲気がない。
それは、島全体を包んでいる自然と人の気配のせいかもしれない。
「ここは、ぜんぶ人の力でまかなっている。どちらかというと、結構いいかげんに」
「ま、あのポニ男が半人前とはいえ仕事出来てるような所だからね。確かにいーかげんっていえばいーかげんかも」
藍華はふっと鼻で笑いながら、話題の人である暁が仕事をしているのであろう浮き島を見上げてみせる。
「暁さんは、あれはあれでそれなりに仕事してるんだと思うけど……」
「それ、フォローになってないから」
「ええーーっ」
ゴンドラの上が、笑いに包まれた。クロノも笑いながら、言葉を続ける。
「浮島だけじゃない。重力だって僕たちとしてはとても信じがたい方法でコントロールしている。それだって自動化したほうが効率の良さそうな方法なのに、あくまで操るのは人の手だ」
「そ、そっちはいい加減じゃないからね! ……その、たぶん」
藍華は_何故か_慌てたような口調でフォローを入れた。
「いや、それは分かりますが……」
あからさまな弁護に、さすがのクロノも苦笑いを浮かべるしかない。もっとも、アルという青年の振る舞いを見れば、その弁護が的はずれなものではないこともわかるのだが。
「そういえば、クロノくんが十六歳だって聞いたときはびっくりしたな。実は地重管理人の出身なのかなって思ったよ」
「でっかいちびっ子です」
クロノは顔をしかめて、実は年下だったりするアリスの顔を軽く睨む。アリスはまだ義務教育中でクロノより年下になるのだが、並んで立つとどう見てもクロノのほうが年下に見えるのでアリスはことあるごとにそれを強調した。
「僕は、これから伸びる予定なんだ」
「予定はあくまで予定です」
「大丈夫。きっとクロノ君は立派なかっこいい大人になれるよ」
灯里はくすくす笑う。
「でも、今はそのほうが可愛くていいかも」
「む……」
クロノは複雑そうな顔をした。
無理もない。もう十代半ばを過ぎた少年にとって『かわいい』という表現はあまり嬉しいとは言えないものだ。
「まあ、時間に任せるしかないんだから、焦っても仕方がないよ」
「分かってはいるんだが」
クロノはむすっとして、視線を逸らした。
笑う皆を乗せながら、ゴンドラは街の水路へとその舳先を向ける。
確かに大きくぐるりと巡る程度なら、ネオ・ヴェネツィアをゴンドラで回るのにそれほどの時間は要しない。けれど一通り街の中を巡ろうとすれば、いくら時間があっても半日で案内しきれるものではなかった。
そこで、灯里が最後に舳先を向けたのは街はずれの水路だった。
ネオ・ヴェネツィアを一望出来る、ある場所。そこから街を見下ろした一同は、ただ黙って街を見ることしかできなかった。
やがて、誰が言い出すでもなく帰宅の準備を開始し、そして最後にまた灯里がオールを握る。往路は遠く感じられた水路が、帰りはやたらと短く感じられた。
「そろそろ、大陽が低くなってきたね……」
ゴンドラを漕ぐ手を休め、灯里はぽつりと呟く。
「残念だな。もっとたくさんの場所を案内したかったのに」
「灯里が『希望の丘』を案内しようなんて思わなければ、もうちょっとあちこち行けたんだけどね」
藍華が頭の後ろで手を組みながら、小さくこぼす。
「けど、クロノ君とフェイトちゃんには絶対見てほしい場所だったから」
水上エレベータの中へとゴンドラを進めた彼女は、名残惜しむように背後へと視線を向ける。
巨大な発電用の風車がいくつも立ち並ぶ、小高い丘。狭く長い陸橋水路がたどり着くその場所こそが、灯里が最後の目的地とした場所。
水上エレベーターを水路から切り離すための扉がゆっくりと閉まり、その光景はやがて見えなくなった。けれど、皆の視線は丘の方に向けられたまま、しばらく動かない。
「最高の、眺めでした」
「ああ。遠くまで来た甲斐はあったと思う」
頷くフェイトとクロノに、灯里は笑顔を向けた。
「あそこは私たちにとって、とっても思い出のある場所なんだよ」
「でっかい思い出です」
アリスは手袋に包まれていない左手に視線をやり、呟いた。彼女がシングルになったのは割と最近の話だと、クロノ達も聞いている。
「そうなんだ……」
それ以上の言葉が無くても、そこにどんな思い出があるのか、二人にはすぐ理解が出来た。
「一人前になる試験を受けるのは、もっと先のことだと思うけど」
えへへ、と笑う灯里は少し恥ずかしそうだった。
そのまま、ゆっくりとゴンドラは水上エレベーターの中を下っていく。その中で経過する時間は短くないものだが、その中で会話を続けていると時間はあっという間に過ぎていった。
やがてもう少しで下りきるというところで、ふと会話が途切れる。
「灯里さんは、早く一人前になりたいって、思ってないんですか?」
僅かな沈黙の後、フェイトは唐突にそんな言葉を口にした。
「え? なんで?」
「なんとなく、今のままがいいみたいに思っているように、感じられて」
「うーん、そんなことはないんだけど」
えへへ、と灯里は笑う。
「もちろん一人前にはなりたいし、そのために藍華ちゃんやアリスちゃんとも練習してるんだよ」
「でも、今が楽しそうに見えます」
「楽しいよ」
灯里はこれ以上ないほど簡潔に、フェイトの言葉を肯定する。
「じゃあ、今のままでいい、なんて考えが出てきたりはしないんですか?」
「うーん、そんなことはないと思うんだけどな」
再びエレベーターの扉が開き、立ち上がった灯里は再びゴンドラを漕ぎ始めた。
それに遠慮したのか、フェイトはそれきり何も言わず、船底へと視線をやってしまう。
舟の上を気まずい沈黙が支配した。
それでもめげずに灯里は黙々とオールを動かし、するすると進むゴンドラは程なくネオ・ヴェネツィアの外れへとさしかかる。
「ねえ、フェイトちゃん……この街のこと、どう思ったかな」
思い出したかのように、灯里は両手を広げて先に広がる街並みを示してみせた。
「えと……とっても、素敵な場所だと思います」
「うん、ありがとう」
自分を褒められたかのように、灯里はこれ以上ない笑顔で笑う。
「でも、出来ればもっとゆっくり見たかったと思わない?」
「そう、ですね」
フェイトは同意して、通り過ぎてゆく建物に目をやる。その全てが、フェイトの目には珍しいものとして映っているだろう。
半日程度で見られたものは、そう多くない。
「だよね。今日ははじめてだから少しでも多く見られるように、通り過ぎてばっかりだったけど。私も本当はもっとゆっくりこの街を案内したかったんだよ。素敵なものが、こんなにいっぱいあるんだもの」
周囲を見回して、灯里は本当に嬉しそうな顔をしてみせる。彼女の目にも、この街は常に新鮮な発見に満ちているのかもしれない。
「だから、次の機会があったらこんどはゆっくり案内してあげるね」
「……はい、ぜひ」
それは社交辞令などではなく、本当に心の底からの思いだ。
「それでね、きっと毎日も同じだって思うんだよ」
フェイトを見つめ、灯里は真剣な顔をした。
「私だって、一日でもはやくプリマになって、アリシアさんの助けになりたい」
灯里がちらりとアリシアに視線をやると、彼女はいつもと同じ笑顔を浮かべた。
「大丈夫よ。灯里ちゃんなら、そんなに先の話じゃないわ。藍華ちゃんも、アリスちゃんも、ちゃんと成長してきているもの」
アリシアの太鼓判に、三人は喜びの声を上げた。
「あ、アリシアさん……ありがとうございます」
藍華などは瞳を潤ませていたりする。
「でも、まだでっかい尚早です。私たちが学ぶべき事はいっぱいあるはずですから」
「うん、そうだね」
アリスの言葉に同意しながら、灯里はフェイトをもう一度見つめた。
「だから、私たちは毎日いろんなことを学んでる。それは、とてもゆっくりに見えるかもしれないけど」
灯里はオールを漕ぐ手を休めずに、ほんの僅かな間だけ目を閉じた。
「急ぎすぎても、もったいないんじゃないかなっておもうんだ」
「もったいない……?」
フェイトはきょとんと灯里の顔を見つめた。
「うん。目的に速くたどり着きたいのは誰だって同じ事だよ」
灯里はそう口にしながら、オールを握る腕にいつも以上の力を込める。
ゴンドラはその力にあわせ、力強い加速を開始した。さすがにこの速さでは灯里の技量だと手に余るのか、皆がちょっと慌てるくらいに大きくゴンドラは揺れる。
「でも、急ぎ過ぎちゃうと余裕がなくなっちゃう。周りの様子なんて、あまり気にしていられなくなるよね。こんなに素敵な光景なのに。それって、もったいないよ」
「まー、そりゃあんたが下手すぎるだけなんだけどねー」
「ふぇーっ!? そんなに下手だったかなあ」
「でっかい乱暴運転です」
藍華とアリスに痛いところを突かれ、灯里は少しへこむ。
「あらあら」
二人の様子を微笑んで見つめているアリシアは、とても嬉しそうだ。
へこんだ灯里が再び話を始めるまでには、もう少しだけ時間が掛かった。
「まあ、そういうわけなので、私は上手くなりたい。早くプリマになって、立派なウンディーネとして仕事をしたい。けど、だからって無理に足をはやめたら、周りが見えなくなっちゃう」
ふたたび、舟の速度がゆっくりとしたものになる。ほとんど揺れを殺した状態のまま、皆を乗せた舟は再びネオ・アドリア海へと進み出した。
「だから、私はゆっくりでもいい」
灯里は視線を上げ、海を大きく仰ぐ。
「いろんな姿を見せてくれる毎日をしっかりと心に刻みながら、今を大切に過ごしていきたいって思ってる」
低くなった大陽は、もうすぐ水平線の向こうに沈む。それを名残惜しむように、灯里はその目を細める。
「素敵な毎日。大切な日常。それって、きっと最高の宝物なんだよ」
遠い目をして街へと目をやる灯里に、びしっと藍華の指先が突きつけられた。
「恥ずかしいセリフ禁止!」
「ええーーーっ」
フェイトは思わず笑い出していた。
それから、ふっと自分の手に視線を落とす。灯里が用意してくれた、ウンディーネの手袋。両手を覆う見習いの証であるそれを、じっと見つめる。
「うん、なんだか、わかったような気がする」
じっと両手を見つめながら、フェイトはぽつりとそんな言葉を漏らした。
「きっと、わたしがここに来たのは、灯里さんの話を聞くためだったんだ」
「フェイト……ちゃん?」
「わたし、ちょっと焦ってた。なのははどんどん強くなっていくし、はやてにも気を抜くと追い越されそうだし、執務官になる試験は難しいし、クロノやリンディ提督の足も引っ張ってばっかりだって感じてた」
「僕は、いくらでも引っ張ってもらって構わないんだが」
クロノは苦笑しながら肩をすくめる。
「母さんだって、きっとそうだ。そのために君を養女にしたんだから」
「うん……元の世界に帰ったら、もうすこしゆっくり、進んでいきたい。すぐには無理かもしれないけど、灯里さんに出会ったから、きっと出来るような気がする」
「うん……えっと、魔法使いのことはよく分からないんだけど、それがいいんじゃないかなって思う」
灯里はフェイトの言葉を喜び、それから少し寂しそうな顔をした。
「でも、帰っちゃったときは、もう会えなくなっちゃうんだよね」
「うん……そうなるかな。帰れるかどうかも、わからないけど」
フェイトは少し寂しそうな顔をした。
「フェイトちゃん……」
「もし、帰れなかったとき……そのときは、灯里さんのこと、_灯里先輩_って呼ばせてもらって、いいですか?」
「あ……」
一瞬きょとんとした灯里は、次の瞬間満面に笑みを浮かべた。
「うん、もちろん!」
「あらあら」
「アリア社長、よかったですね! ――って、あれ?」
アリア社長は、灯里たちの方を見ていなかった。あさっての方向をじっと見つめたまま、動く様子を見せない。
「ぷ……ぷいにゅ」
それは、怒っているような、怯えているような、奇妙な鳴き声。一番大嫌いな注射を受けるときでさえ、彼はそんな鳴き声を上げたりはしなかった。
「ど、どうしたんですか、姫社長」
藍華も、少し怯えたような声を上げていた。
その前方では、舳先に乗った姫社長が、これまたいつもの澄ました態度をかなぐり捨て、背中の毛を逆立てていた。うなり声を上げていないことだけが、彼女らしいと言っていいだろう。
「まあああああああああああああああああああーっ!」
アリスの手の中で、まぁ社長も大きな鳴き声を上げた。その小さいアクアマリンの瞳は、明らかに激しい感情に彩られている。
そのとき。
ネオ・ヴェネツィアに住まう全ての猫が。
アクアに住まう全ての猫が。
牙を剥き、背中の毛を逆立て、唸り声を上げていた。
天空に座した、青白き凶星を睨み付けて。
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