INDEX   ABOUT   DOUJIN    NOVELS    DIARY   LINK 

 

     

       
 

#水の惑星の魔法使い(6)

 


 どん、という衝撃はそれから僅かに遅れた。
「じ、地震!?」
「うそ、ここ、海の上だよ!?」
 激しく揺れるゴンドラの上で、皆は慌てて手近なものにしがみつく。けれど、ただ一人、何事もなかったかのように立っている影があった。
「フェイトちゃん、危ないよ!」
 灯里の警告に振り返る様子も見せず、フェイトは厳しい目つきで天空を見上げている。
 その視線を思わず追った灯里は、信じられないものをその瞳に捉えていた。
 天空を切り裂くように浮かんでいたはずの、彗星。その先端が、ひとつではなくなっている。小さいもの、大きいもの。尾を引きながら恐ろしいほどの速度でバラバラになっていく光景が何を意味するのか、誰もが一瞬で理解していた。
「うそ……砕けてる……」
 藍華が、愕然と呟く。
 ――まあ、あれが砕けたりしたら、わかりませんけど
 皆の脳裏に、アルの言葉が蘇っていた。
「とてもでっかい落下物、ですか……?」
 ぎゅっと、アリスが手の中のまぁ社長を抱きかかえる。
「たたたたた大変なのだあああああっ!」
 叫び声は、上空から降ってきた。
 きりもみをしながらほとんど垂直に落ちてきたそれは、風追配達人シルフのエアバイク。海面スレスレのところで辛うじてコントロールを取り戻し、ホバリングで灯里が操るゴンドラの横に付ける。
「う、ウッディーさんっ!?」
 灯里が目を丸くして、蒼白な顔をしている操縦者の名前を呼んだ。
「みつかって良かったのだ! 早くみんな地下に逃げるのだよ!」
「ち、地下って……何があったんですか?」
 灯里の言葉に、ウッディーはバタバタと手を動かす。
「さっき地重管理人ノームの最高責任者から緊急に発表があったのだ! 重力石の制御がほとんど効かなくなって、彗星の軌道がねじ曲がったそうなのだよ。これから何が起こるかわからないと……アルによると、落ちてくる可能性が高いそうなのだ! それも、三十分もかからないって話なのだよ」
 皆は顔を見合わせた。
 ウッディーの言葉が確かなら、今の地震のような衝撃は重力を制御する装置が暴走したためのものなのだろうか。
「うそ……ど、どうなっちゃうの?」
 藍華は震える声で呟いた。
「いま、地重管理人ノームが総出で制御を取りもどそうと頑張っているらしいのだ。とにかく、みんなは一度少しでも安全な地下に逃げてほしいのだ!」
「は、はい……あっ!」
 その迫力に押され、思わず頷いてしまった灯里がはっと何かに気付いた。
「あ……暁さんは? 浮き島の人たちは……!?」
「あかつきんからも連絡があったのだけれど、浮き島の方もいまメチャクチャらしいのだ! 炉が暴走して、凄い熱を吐き出してるのだ。逃げてる場合ではないらしいのだよ」
「そ、そんな……!」
 灯里の顔が、真っ青になる。

 また、小さな衝撃が、舟を揺らした。

「あ――」
 棒立ちになっていた灯里が、小さくよろめく。
 次の瞬間、更なる衝撃が訪れ、彼女の軽い体は空中に放り出されていた。

「灯里ちゃん!?」
 アリシアが、悲鳴を上げた。

―― りぃ ん

 夜光鈴が、ひときわ大きな音色を奏でた。
 魔を払う力があると言われる、音色を。

《――Get Set.》
《――Start up.》


「え――!?」
 灯里は、思わず閉じていた瞳を見開いた。
 その身体は、まだ空中にある。
「大丈夫ですか?」
 すぐ近くに、フェイトの顔があった。
「あ……あれ?」
 灯里は思わず目を擦る。なぜか、フェイトの身体がうっすらと光っているように見えた。
 それから、気付く。自身がフェイトの手に抱きかかえられているということに。
「……フェイト」
「うん、すぐ、済むよ」
 クロノの声に応えるフェイトの声は、何故か寂しそうだった。
「フェイトちゃん……?」
 おぼろな金色の光に包まれたフェイトは、微笑んだ。
 僅かな降下感のあと、灯里の足はゴンドラの床板を踏む。
「フェイトちゃん……これは……?」
 灯里たちの目の前で、フェイトは空を飛んでいた。身につけた服はARIAカンパニーのもののままだが、その手には灯里たちが初めて見る物体が握られている。それは、その向こうに浮かんでいるクロノも同様。違うのは、二人の身体を包む燐光の色が微妙に違うことと、握った棒状のものの形状が違うこと。
 フェイトが握った_それ_をしばらく見つめて、灯里はその道具にによく似たものの名前をようやく思い出す。
「オール……じゃなくって、斧?」
「バルディッシュ……わたしの、大切な友達です」
《Nice to meet you. Miss Akari》
「え、喋った……」
 初めて聞く声は、確かにフェイトの手に握られた斧から発せられたように聞こえて、灯里はぱくぱくと口を動かすことしかできなかった。
「やっと、わかりました」
 フェイトは天空を睨み付け、決然と呟く。
「きっと、わたしがこの世界に呼ばれたのは、このためなんです」
 その小さい拳が、黒くて巨大な斧を強く握りしめる。
「この、奇跡のような惑星ほしを、護るために」
 そして、再びフェイトは舟の上に身を寄せた皆に視線を戻す。
「ありがとうございました。灯里さん、アリシアさん、藍華さん、アリスさん。本当に、お世話になりました」
 ぺこりと、フェイトは頭を下げる。
「ごめんなさい……ちゃんとしたお別れをしている時間はなさそうなんです」
―― りぃ ん
 また、どこからともなく夜光鈴の音が聞こえてくる。
 フェイトとクロノを包んだ淡い光が、僅かに強くなったように見えた。
「それじゃあ、さようならです……」
 フェイトが少し涙声になっていることを察し、灯里は慌てて手を振った。
「うん……でも、さようならじゃないよ!」
「え……?」
「またね、フェイトちゃん!」
「うん……またね、灯里さん。約束します――」
 そして、フェイトは天空を仰ぎ見る。
「いくよ、バルディッシュ!」
《Yes sir.》
「よし、いこう」
《OK BOSS.》
 そのまま、フェイトとクロノは急速に上昇を開始した。
 夜光鈴の音は鳴りやまず、その音色が繰り返されるたびに二人の身体を包む光はその輝きを増していく。まるで、夜光鈴の光が二人に乗り移ったかのように。
「フェイトちゃん……クロノくん……」
 もう、光る点にしか見えなくなった二人の姿を、灯里はいつまでも見上げていた。
―― りぃ ん
 二人を送るように、夜光鈴は最後に弱い音色を一度だけ奏でる。
 そして、その中心となる夜光石は、ひっそりとアクアの海に還っていった。



「クロノ……こっちだよ。間違いない」
 フェイトの頭に、帽子はもう無かった。
 ぴんと立った二つの耳は、せわしなく動く。
「聞こえる? 唸り声みたいな、歌」
「ああ、もう僕にも聞こえている。方向までは分からないが」
 クロノも険しい顔のまま、呟いていた。
 すでに鼓膜を破らんばかりの囂々たる唸り声は、四方八方から響いてきているようにも聞こえる。その方向を特定出来ているのは、フェイトだけだ。
「僕の推測が間違っていないのなら――」
 クロノは険しい顔のまま、言葉を続ける。
「――あれは、きっと僕らの世界から追放されたロストロギアだ。ひたすら力を求めて移動を続ける指定遺失物の記録を見たことがある。宇宙をわたり、次元をわたり、物理的、魔力的な物を問わず、高次のエネルギーをひたすら蒐集する代物だ。あまりに危険だったけど、その特性上、当時の管理局では封印も困難で、結局幾人もの魔導師による次元転送で折り重なった次元の狭間に追放した……確か『吠え猛る欠片ハウリングフラグメント』と呼ばれてたと思うんだが……この星の不思議な力も、あれは喰い散らかすつもりなんだろう」
「なら……わたしたちがあれをなんとかするために呼ばれたのは、当然のことだったのかもしれないね」
「そうだな……同じ管理局の人間として、責任は取らないといけない」
 クロノは首を振った。
「でも、どうしよう……凄く大きな破片が落ちてくるよ」
「『吠え猛る欠片』そのものは、ごく小さなロストロギアだ。きっと力のついでに引き寄せられたゴミが貼り付いているんだろうが……まず、破片を吹き飛ばさなければ、この星は壊滅するだろうな。出来れば、破片を包むコマごと吹き飛ばした方がいい。なんとか出来るか、フェイト」
「……たぶん、今のわたしなら」
 うなずき、フェイトはバルディッシュを握り直した。
《Zamber form.》
 彼女の意を汲んだバルディッシュが、あるべき姿へと変形を遂げる。巨大な光の剣の形へと。その刀身は、いつもの数倍ほどの長さを得てもなお、内側からあふれ出す力を制御しきれていないように見えた。
「すごいね……夜光鈴の力は」
 二人の耳には、『吠え猛る欠片』の唸り声よりもはっきりと、夜光鈴の音色が響き渡っている。その音色が鳴り響く限り、二人は無尽蔵に近い魔力を行使することができるだろう。
「だけど、一度きりだ。使い切れば、後はない。気を付けるんだ。ロストロギアのコアは僕がなんとかする。君はあの巨大な塊を削ってくれ。出来る限り、全力で」
「うん!」
 詳しい打ち合わせをしている時間はない。なにより、今の二人は多くの言葉を交わさなくとも、全てを察することが出来ていた。
 二人の魔導師は、弾かれたようにそれぞれがいるべき場所へと移動する。
 天空の一点にとどまったフェイトは、暗くなりつつある蒼穹を睨み付ける。砕けた彗星は大小七つほどの欠片に分離し、それぞれがバラバラになって飛散していく。そのほとんどは、アクアの重力を振り切り、どこか虚空へと消えていくのだろう。
 たったひとつ、意志があるように真っ直ぐアクアへと落ちてくるひとつだけを除いては。
―― りぃ ん
 夜光鈴の音色とともに、フェイトを包む輝きはいっそう強くなる。同時に、彼女の瞳孔は、きゅっと_細く_収束する。それは、もはや人のものではありえない。ゆえに、その瞳は本来捉えることができないはずのものを捉えていた。
 細かい塵の雲を纏う、凍った岩塊。何十万キロも離れた場所にあるそれを、フェイトはしっかりと目視している。
《Sir.》
 いまやフェイトと感覚を共有しているバルディッシュが、軌道情報を処理し、それを再びフェイトへとフィードバックする。フェイトはこくりと一度だけうなずき、ザンバー形態のバルディッシュで空を薙いだ。
「絶対に、護る! この惑星を、大切なひと達を」
 雲すら存在していなかったはずの空に、雷が走る。
 十重にも、二十重にも。
 駆けめぐる雷光は、瞬く間にひとつの形を成す。それは、召喚された雷で構築された巨大なミッドチルダ式の魔法陣。
《Acceleration Mode.》
 浮かび上がった魔法陣は五つ。その全てがフェイトを囲み、さらに無数の雷を生成する。荒れ狂う雷光は、フェイトの姿を刹那、かき消すほどとなる。
「雷光一閃!」
 叫び声が、雷光を切り裂いた。
 再びフェイトの姿が空に現れ、引き千切られた雷光はそのまま怒濤のように彼女へと流れ込む。
 バルディッシュのカートリッジシステムが、ありったけのカートリッジをロードした。それでもなお足りぬと言いたげに、露出したシリンダーが軸よりはじき出される。
「これで、全部!」
 フェイトの手には、スピードローダーに固定された六つのカートリッジが握られていた。
 空カートリッジをたたき落とし、新たなカートリッジをたたき込み、再びロードの準備を整えるのに必要な時間はわずかに数瞬。
 さらに補充されたすべてのカートリッジを消費したバルディッシュは、荒れ狂う雷光を輝く刀身に残らず飲み込んでゆく。
 漆黒の柄は赤熱を始め、あふれた雷が本体を削り始める。それでもなお、バルディッシュは雷を喰らう。己の限界など超えても構わぬと。
 そして、限界を超えようかとしたその瞬間、フェイトは大きく巨大な光剣を振りかぶっていた。
「プラズマザンバーッ!」
 それは、天さえ切り裂こうかという、斬撃。
 白熱した刃は無限に等しい熱量の瀑布となって天空の一点へと伸びてゆく。その速度を捉えることは、もはやフェイトの視力でも不可能だ。
「ブレイカアアァァァァッ!」
《Blitz Rush!》
 フェイト自身の肌を、自身の放った魔法の熱がチリチリと灼いてゆく。バルディッシュが自動展開した防御魔法がなければ、自身すら消し飛んでいたかもしれないほどの、力任せの魔法。全ての枷を外された魔力の刃は、圧倒的な熱量と破壊力をただ一点に収束する。
 それは、一人の魔導師の力では本来ありえない、超長距離からの大威力攻撃魔法だった。
 輝く刀身が、瞬間明滅し、そしてふっと消える。
 全ての力を放ち終えたバルディッシュは、全てのハッチを解放し、激しい水蒸気を周辺にまき散らした。同時にいくつかの火花が散ったのは、内部の回路が激しい負荷に耐えきれず損傷したためだろう。
 静寂が、つかの間フェイトの周囲に満ちる。だが――
「――――っ!」
 次の瞬間、プラズマザンバーの刃を凌ぐ光の嵐が、天空の一点を中心にして吹き荒れた。それは、フェイトの魔法が直撃したことによって巻き起こった熱量の爆発。フェイトは荒れ狂う気流に翻弄されながらも、残された僅かな力で辛うじて体勢を立て直す。
「――やった……!?」
《Sir!》
 一瞬あげた快哉の声は、バルディッシュの警告で凍り付いていた。
「そんな――!?」
 フェイトの瞳も、本当なら見えるはずのないそれを捉える。
 いまだ数百メートルほどのサイズを保った、巨大な岩塊。フェイトの迎撃で激しく減速しながらも、いまだ恐るべき運動エネルギーを保ったまま落下してくるそれは、既に成層圏の上層に到達していた。
 もう、それはひとつで惑星が完全に壊滅するほどの破壊力を残してはいない。けれど、落下したところを中心に数十キロの範囲は間違いなく壊滅するか、致命的な打撃を負うだろう。
 だが、もはやバルディッシュは損傷し、フェイト自身にも彗星の破片を削る魔力など残されていない。
『クロノ――』
『わかってる! 落下点は、どこだ!』
『えと――』
 フェイトは再び残骸を睨み付け、バルディッシュが残された力で軌道要素を割り出す。
『ネオ・アドリア海、ネオ・ヴェネツィアのすぐ近く――クロノ!』
 海に落ちると知って一瞬安心し、それが陸地――二人が一週間を過ごしたあの街に近すぎるという事実を理解して、フェイトは背筋を凍らせた。
 ここまで近くては、間違いなく甚大な被害が出るだろう。フェイトの一撃で減速しているとはいえ、恐るべき大質量だ。確実に巨大な津波があの美しい街を襲う。
『大丈夫だ!』
 だが、クロノの念話には絶対の自信が感じられた。
『うん、信じてるよ、クロノ……』
 フェイトは頷くと、空を蹴った。
 クロノが居るはずの、空域に向けて。


 それは、まさに一瞬の出来事だった。
 落下してきた巨大な炎の玉は、ほとんど目視など出来ないほどの速度で海の真ん中に突き立つ。あまりの灼熱のために海は瞬間的に沸き立ち、見えないはずの海底が一瞬露わになる。
 それは、世界の終わりにふさわしい煉獄の光景。
 ソニックブームが引き起こした暴風の中、クロノは目を閉じたまま動かない。いや――
「――デュランダル!」
 クロノの握ったデバイスが、玲瓏な光を放つ。
《Eternal Coffin.》
 空が凍り付く。
 それは、元来『闇の書』を永劫の氷棺に封じ込めるために組み上げられた魔法。その魔力はあらゆるエネルギーを奪い、凍結させてゆく。
 地平の彼方まで伸びた魔力は、触れるものを容赦なく凍り付かせていった。
 そして、やがて周辺は静寂に包まれる。
 もう、そこは煉獄ではない。氷獄コキュートスを彷彿とさせる、凍り付いた世界。津波となって陸を襲うはずだった巨大な氷壁は、その運動エネルギーを強引に奪われ、ぎしぎしと悲鳴を上げてその暴挙に抗議している。
 クロノは一瞬にして真冬のようになった周辺の空気を切り裂きながら、ゆっくりとその中央へと降下した。
 赤黒い光を放つ何かが沈んでいるのが、薄い氷越しにはっきりと確認できる。
 もう、吠え猛るうたは聞こえない。
「やった、の……?」
 遅れて降りてきたフェイトに、クロノはふうと小さく息をついてみせた。
 吐息に含まれた水分が瞬く間に凍り付き、煙のように真っ白になる。
「ああ、たぶん。完全に凍結させた。もとは闇の書を封印するための魔法だ。『吠え猛る欠片』でも、力を吸い取ることなんてできないだろう。それに、これで津波の被害はないはずだ」
「でも……海、凍っちゃったね」
「魔力で強引に凍結させただけだ。浮き島の炉が生きてれば、すぐに溶ける」
 クロノは空を見上げた。
 いくつかのアンカーはちぎれてしまったようだが、それでも浮き島はまだそこに健在だった。致命的なダメージを負った様子もない。
「でも、それじゃ……」
 ロストロギアが活動を再開する、そのことを指摘しようとして、フェイトはふと気付いた。クロノがまだ僅かながら余力を残しているということに。
「残った僕の魔力、それに、あの『吠え猛る欠片』からも力を引きずり出すことはできるだろう。あれはもともと魔力を無限に蒐集し、利用するために作られたものだ。僕は、これから虚数空間を作る。あの底なら、いくら強力なロストロギアでも力を振るうことはできないだろう。やり方は、プレシアのときに見せてもらった。ピンポイントで一瞬発生させるだけだから、たぶん、周辺にも問題は出ない」
「でも――」
 フェイトは頭を振った。
「それじゃあ、クロノは!」
「一緒に落ちるだろうな……運が良くても、どこか分からないところにはじき飛ばされるか。だから、行くのは僕一人でいい」
「ダメだよ、クロノ……」
 フェイトは思わずクロノに抱きついていた。
「いやだ、いやだよ! もう、置いて行かれるのは、いやだよ……母さんのときみたいに置き去りにされちゃうのは、いやだ」
「フェイト……」
 妹の頬を、クロノはそっと撫でた。
 流れた一筋の涙を指先でぬぐい、それからかるく頭に手を置き、抱き寄せる。
「……そう、だな」
 呟きは、奇妙に穏やかだった。
「どこかに吹き飛ばされたとしても、二人なら寂しくないかもしれない」
「うん……」
 目元をぬぐいながら、フェイトは頷いた。
「じゃあ、始めるぞ……時間は、あまり無い」
 クロノの周囲に、魔力が集まり始める。フェイトはクロノに寄り添い、その身体に手を回した。クロノもフェイトの肩に手を回し、ぎゅっと抱き寄せる。
 夜光鈴から供給された魔力、そして『吠え猛る欠片』から吸い上げた魔力。二つの魔力が共鳴し、周囲の空間が歪んでいく。
 歪みは唸りにかわり、そして何かがずれた。
 周辺の空間が、割れる。そのはざまから覗く光景は、フェイトにもクロノにも見覚えのある禁忌。
 周辺の数百メートルほどに広がったひび割れはそこで止まり、そして、その裂け目は瞬時に砕け、巨大な穴となる。
 何もかもを飲み込む、無限の穴。
 あらゆる力が失われる、絶望の世界。
 魔導の都が沈み、狂った願いを抱いた魔女が娘の遺骸と共に落ちていった、うねる闇。
 氷漬けになったまま、狂った古代文明の遺産はその奥へと無限の落下を開始する。それがたどり着くのがどこなのか、それは誰にも分からない。
 そして。
「クロノ……」
「すまない。君を巻き込んでしまって……」
 二人の身体もまた、力無くその中へと落ちてゆく。
 魔導師としての力は失われ、いずれ、命すらも消え去るだろう。
「ううん……わたしが、一緒にいたいと思ったんだよ。だから、気にしないで」
 フェイトは、小さい、けれど厚みの感じられる胸に強く自分の頬を押しつける。
「ずっと一緒だよ、お兄ちゃん」
「ああ……」
 クロノは、妹の身体をかき抱いた。決して手放さないように。いかなる力によっても引き離されぬように。

 猫の鳴き声が、聞こえた。



「――ふわあああ、なに? なに?」
 灯里が、驚きの声を上げる。
 地下都市に逃げることもできず、手近な建物――つまりARIAカンパニーの中に待避していた面々が見たのは、巨大な閃光、そして耳を劈く轟音。世界の終わりを予感させる激しい衝撃。それ以上のものは何も理解出来ず、ただ物陰で全てが終わることを待っていることしかできなかった。
 床一面に、食器やら書類やらが飛び散っている。だが、誰もがその片づけになど取りかかろうともせず、唖然と海へ視線をやっていた。

「凍ってる……海が、全部凍ってるよ?」

 吐いた息が白くなり、灯里は思わず両腕で身体を抱え込む。
 夜になる直前の薄暗い空の下、水平線の向こうまで、白く凍り付いた海は視界の限り続いている。どこを見ても、いつもの海は残っていなかった。
 そして、その遙か向こうにはそびえ立った氷の壁が見えている。
「あれ、なんだろう……?」
 うーん、と目を細めて彼方の氷壁をしばらく眺めていた藍華は、やがて自信なさげにつぶやきの声を漏らす。
「なんか、映画に出てくる大津波みたいに見えるような気がするんだけど……」
「そのようなのだ……」
 ギリギリまで警告に走り回って、最終的にARIAカンパニーに逃げ込んできたウッディーがぽつりと呟いた。
「あれは、津波だよ。ただ、かちんこちんに凍り付いているようなのだ」
「ねえ、見てよ……空の彗星、無くなってるよ」
 ふと空を見上げた藍華が、呆然とつぶやいた。
 真っ暗になりつつある空をまっぷたつに切り裂く彗星の尾は、まだ残っている。けれど、その本体はどこにも見あたらなかった。まだいくつかの欠片は細い尾を残して天空をさまよっているが、そこにかつての大彗星であった名残は残っていない。かつての偉容を思い起こさせるイオンと塵の尾も、程なく消滅するだろう。
「本当に、彗星を消し飛ばしちゃったの――?」
「……やれやれ、こりゃ、認めなきゃいけないんだろうな」
 ぼりぼりと頭を掻きながら、晃も天を見上げた。彼女もギリギリのところでARIAカンパニーに逃げ込んできた一人だ。いや、むしろそこに逃げこんだ面々の事を心配してアテナと共に乗り込んできたというのが正解かもしれないが。
「フェイトちゃんとクロノくんは、本当に凄い魔法使いだったのね」
「サインを貰っておけば良かったかな」
 アリシアとアテナが、凍り付いた海を見下ろしながら微笑む。
「でっかい、マジカルです」
 アリスが、ぽつりと呟いた。


『にゃあ』



 そこは白昼の世界。
 万色の闇に占められた虚数空間の奥底でもなく、あずかり知らぬ異界の宇宙でもなく。
「ここは……」
 あの水に包まれた都ではない。だが、二人には見覚えのある場所。
 一週間ほどしか時間はたっていないはずなのに、ひどく懐かしく感じる、そして初めて見るような違和感も感じる、路地。
「帰って来た……のかな?」
「そう、だと思うんだが」
 それから、気付く。
 路地で力一杯抱きしめ合っている、自分たちの姿に。
「……痛いよ、クロノ……」
「あ……ご、ごめん」
 慌てて離れた二人の耳に、久々にも思える、けれどよく知っている声が届いた。
『クロノ君!? 本当にクロノ君!? 無事なの? フェイトちゃんも無事!?』
 間違いようもないその声に、クロノは小さくため息を吐く。
「ああ、エイミィか。無事だ。フェイトも一緒だが」
『よかった……一週間、本当に心配したんだよ。どこに消えてたの?』
「……僕たちにもよく分からない。そっちの記録では、どうなっているんだ?」
『二人とも突然ロストしちゃって、完全に行方不明だったんだよ。本局からは状況に変化が有るまで惑星ごと封鎖って指示が出ちゃったし。本当に、心配したんだよ?』
「ごめんね、エイミィ」
『まあ、二人が無事ならいいとしますか……』
 きっと、エイミィはアースラの艦橋で盛大なため息を吐いていることだろう。その様子を想像して、フェイトは少し頬を緩ませた。
『すぐ迎えに行くね。そこで待ってて』
 アースラからの通信が切れる。恐らく大気圏に緊急突入する準備を始めるためだろう。転送が可能になるまで、それほど待つ必要はないに違いない。
「帰って来たんだね……」
 フェイトはもう一度その言葉を呟く。けれど、その言葉には名残惜しいという感情がはっきりと感じられた。
「それは間違いないんだが……」
 クロノは周囲をもう一度見回し、違和感の正体に気付く。
 クロノ達の覚えているこの街は、無数の猫の影しか見かけない、無人の世界だったはずだ。けれど、今は違う。
 表通りを、人が歩いている。
 子供達が交差した路地を駆け抜けていく。
 かつて二人が見た静寂の世界は、もうどこにもない。
「この街の人たちも帰ってきてるのか」
「猫さん達は、いなくなってるみたいだね」
「それが、この街の正しい姿なんだろう」
 一週間ほど前の記憶を掘り起こし、クロノは頷いた。
 買い物に向かっている主婦らしき人影。公園で遊んでいる子供達。仕事に向かっているのだろう、壮年の男性。この街はいつもと変わらない日常を過ごしている。まるで、事件などなにもなかったというように。
 もしかしたら彼らは本当に自分たちが消えていたことさえ覚えていないのかもしれない。
「なんだか、嘘みたい……クロノは、ちゃんと覚えてる……よね?」
 フェイトの表情に一瞬怯えのようなものが浮かんだことを見て取り、クロノは笑った。
「大丈夫だ。ちゃんと覚えてる。アクアのことも、ARIAカンパニーのことも、灯里さんやアリシアさん達のことも、全部」
「あれは、夢じゃないよね」
「夢じゃない」
 呟いて、クロノはついと手を伸ばした。フェイトの頭へと伸びたその手が取ったものは、青いラインの入った白い帽子。側面に持ち主の所属を示す文字がプリントされたそれは、フェイトがあの世界で被っていたものだ。
「あ……返しそこねちゃったね」
「服も借りっぱなしだな」
「うん……」
 フェイトは自分の胸元を見下ろし、それから慌てて自分の頭に手を伸ばした。
「あ……」
 それから、安心したような、微妙に残念そうな複雑な表情を浮かべる。
「猫の耳……無くなってる」
「元に戻ってるな。もう必要が無くなったんだろう」
 クロノは肩をすくめ、笑いながら再び帽子をフェイトの頭へと戻してやる。
「とりあえず、アースラの降下を待とう」
「うん」
 クロノの横に並び、フェイトは何となくクロノの視線を追って空を見上げた。
 広い空には、青い色だけが広がっていた。
「空の色が違う……」
 しばらく空を見上げていたフェイトは、ふとそんな言葉を呟く。
「ネオ・ヴェネツィアの空とも、海鳴市の空とも違う色だ……空って、全部ちがう色をしているんだね」
 それはとても小さな発見でしかないだろう。けれど、フェイトにとっては本当に初めて気づいた大発見と言ってもよかった。
「恥ずかしいセリフ禁止――って、藍華さんなら言ってるところだな」
「そして灯里さんが『ええーーっ』って言うんだよね、いつも」
 頬を染めて、フェイトは笑った。
 また、二人の間に沈黙が落ちる。けれど、それは話題が無くなったからではない。たった数日のことでしかない、ヒマをもてあまし気味だったはずの数日が、今はどこから語ればいいのか二人とも分からないくらいに思い出深いだけだ。
「ねえ、クロノ……」
 ようやく、フェイトが口を開いたのはどれだけたってからだろう。
「……なんだ?」
「また、灯里さん達に会いに行けるといいね」
「……そうだな」
 クロノは頷いた。
 時空管理局の知らない世界。きっと魔法という力を受け付けないあの世界には、もう望んでもたどり着くことはできない。それは二人とも痛いほどに理解していた。それでも。
「せめて、お礼を言いに行きたいよ」
「その服も、返さなくちゃいけないしな」
「うん」
 つよく、頷く。
 そこがどこかにある、行くことのできる場所なのはもう分かっている。
 ならば、あとは行く方法を探すだけ。
 フェイトなら、きっといつかそこにもたどり着くだろう。クロノは何故かそう確信出来た。
 それから、二人は立ち上がる。
「今は帰ろう。みんなの所に」
「そうだね。お母さんも、なのはも、はやても、みんな待ってるから」
 そして、二人は地面を蹴った。二つの影は光の軌跡を絡み合わせながら、遙かな高みへと駆け上っていく。空に浮かんだ小さな影、二人が帰るべき場所へと向けて。


[前へ][目次へ][次へ] 

   
       
       

2007/06/06 公開開始