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#00 漆黒の天使(B)
「クロノ……待ってて、くれたの?」
シャワーで汗を落として更衣室から出たところで、フェイトは少し驚いたような声を上げた。誰もいないと思っていた殺風景な廊下に、見慣れた人影が立っていたからだ。
フェイトとそれほど身の丈が変わらない人影は、いまは彼女の兄になった少年のもの。
「ああ。少し、な」
クロノはなんでもないことのように言う。実際、クロノ自身もシャワーで汗は流してきているのだろうから、それは嘘ではないだろう。けれど、フェイトが長い髪を乾かしている間くらいは待ったはずだ。
「ごめんなさい……待ってるって、思わなかったから、その――」
にこりともせず、クロノはフェイトの頭をぽんと軽く叩いて、その言葉を遮る。
「気にするな。僕が勝手に待ってただけの話だ。きみが引け目を感じるようなことじゃない」
ぶっきらぼうな口調だったが、表情に不機嫌な空気はない。むしろ、その瞳は僅かに微笑んでいるようにも見えた。表情がいかめしいのは、まだ少年の身でありながら厳しく自分を律する、その性格ゆえなのだろう。
「行こう。エイミィが待ってる」
「あ……うん……」
先ほど言いかけた言葉を遮られてしまったために、何となく別の話題にも切り替えづらくなってしまった彼女は、ただ黙ってクロノの数歩うしろを歩いていた。
「どうした?」
微妙な沈黙を落ち込んでいるとでも取ったのか、クロノが不意に振り向く。
「あ……うん、なんでもないんだ……けど」
取り繕うとしたフェイトは、ふと一つの疑問を思い出した。
「そうだ。さっきの模擬戦……ひょっとして、少し……手を抜いたのかな」
「なんでだ?」
心外な言葉だったのだろうか。クロノの表情が心持ち険しくなったとフェイトには見えた。
「クロノの使ってる魔法が、いつもと違ってるようだったから……」
しかし一度口にしてしまった言葉は訂正のしようがない。だからフェイトは感じてしまった疑問をそのまま問いかける。
「ああ――いや、あれは違うんだが……まあ、僕にだって試してみたいことはあったからな」
「試してみたい……?」
「まあ、隠す必要もないことか」
クロノはそう呟くと、右腕を己の胸の前にかざした。
軽く開いた手のひらの中に、ぽう、と小さな魔力の光が現れる。クロノが行使したのはごく単純な灯火の魔法だ。それ自体にはまったく特筆するようなものはない。だが。
「あ……それは」
フェイトは小さく声をあげた。
クロノの手のひらの中でふっとゆらめいた灯火の魔法は、細かい粒子となって拡散し、そのまま空気に溶け込むようにして消えた。
それは、明らかに通常の魔法の消し方ではない。そして、先ほどの模擬戦闘中でも何度か似たような光景をフェイトは目撃していた。
「戦技教導隊の知り合いから頼まれて、試してる。わかるか?」
「うん……魔力が、残ってる」
クロノが使った魔法の意味を、フェイトは正確に理解した。模擬戦闘のさなかではよくわからなかったが、今ならはっきり理解できる。それは通常の魔法の消し方とは違う、特殊な消去手順。そして、それはフェイトがよく知る魔法使いのそれに似ているやりかただ。
――高町なのは。フェイトと同年代の少女であり、彼女にとってははじめてのともだち。そして時空管理局でも指折りの砲撃魔導師。彼女が最大の切り札としている全力の砲撃魔法は、時空管理局内でも最強と言っていい破壊力を誇る。
スターライトブレイカー。一度放出した魔力さえ回収して再利用する、強大無比な収束砲。その魔法をいつでも使えるようにするためだろうが、彼女自身が使う各種の魔法は特殊な消え方をする。クロノがいまやってみせたのも、それに似た消し方だった。
「スターライトブレイカーの応用、って所だな。再利用しやすい魔法の消し方を構築して試してみてるんだが……」
そこで、クロノの表情が苦笑に変わった。
「回収・再利用のスキルは誰にでも会得出来るものじゃないし、使いどころはあまり無い魔法だな」
「じゃあ、なんで……?」
フェイトの疑問ももっともなものだった。
クロノはなのはのように感覚で魔法を構築・運用するタイプではない。完全に理詰めで魔法を組み立て、それを効果的に運用する、優等生的な魔導師といえる。
もっとも、彼は別に効率的な魔法しか使わないというわけでもない。使い勝手の悪い魔法でも積極的に習得し、使うべき所ではきちんと使いこなしてもみせた。だからこそ、まだ少年といっていい年齢でありながら、執務官の座にある。
「せっかく構築した魔法だし、試す価値はあると思ったからだ。君との模擬戦で実用になるなら、実戦にも組み込める……まあ、組み込んでどうするっていう話はあるんだが、微妙な副次効果も仕掛けておいたんで、それも試したかった。最後に君を撃ったスナイプ、多分知覚出来なかったと思うんだが――」
「……うん、そういえば」
指摘されて、初めてフェイトは気が付く。
ほとんど死角といっていい位置から撃ち込まれたスティンガースナイプだが、いかにクロノと言えどもフェイトに察知されないほど高速に、しかも己とは違う場所から魔法を放つことなど出来ない。つまり、あれはあらかじめ放っていた魔法だったはずだ。けれど、ギリギリまで魔力が絞られていたとはいえ、フェイトはその存在にまったく気付けなかった。
「これのせいだね……粒子状に滞留した魔力が、他の魔力を感じにくくさせるんだ」
「そうだ。僕には回収・再利用のスキルがないからな。こんな使い方しかできない。まあ、なのはと一緒に戦うようなことがあればきっと役に立つ魔法だ。君にもあとで教えよう」
「うん……」
頷いて、それからフェイトは先ほど言い損ねてしまった言葉を改めて口にする。
「ありがとう、お兄ちゃん」
「な――っ」
不意打ちだったのだろう。クロノの顔が瞬時に赤く染まった。
「こ、ここは管理局内部だ。そんな呼び方をするんじゃない」
たしなめるその声も、はっきりとうわずっている。
「うん、ごめんなさい、クロノ執務官」
クロノの反応が面白かったのだろう。フェイトはくすくすと笑いだしていた。
「エイミィ、データの収集、出来て――」
モニタールームに戻ったクロノは、予想外の人物がそこにいたため、一瞬絶句した。
「ふたりとも、なんでここにいるのかしら?」
本来居るべきエイミィの姿はなく、二人の母親がかわりに立っている。
「か、艦長!?」
「リンディ提督――」
かん、こん、と硬いもののぶつかる音がリズミカルに響き、二人の子供は揃って頭をさすった。
「おかあさん、でしょ?」
リンディは書類が挟まったクリップボードを片手に、二人の子供をたしなめる。
「ここは時空管理局の施設内です。公務中は家族でも――っ」
もう一度、今度はこころもち強く、硬いもののぶつかる音が響いた。
反論しかけたクロノは頭をさすっている。目尻に涙が浮かんでいる所を見ると、それほど力がこもっていなかったとはいえ、クリップボードの角はさすがにかなり痛かったのだろう。
「今日は休んでおきなさいって言ったはずよ? 休暇中なら、プライベートでしょう?」
「それは――そうで……そうだけど」
クロノは執務官としての口調で反論しかけ、リンディがみたびバインダーを動かそうとしたことに気付いて、慌てて口調を改める。
「休暇中に時空管理局の施設を使っちゃいけない、なんて規約は無いはずだ」
「そうね。でも、今日は私室で休みなさいって言っておいたのに、二人して無視されるとは思わなかったわ。母親としては、ちょっと悲しいわね」
小さくため息をついて、リンディは多少大げさに首を振ってみせる。
「えっと、その、ごめん……なさい」
肩を縮めて、フェイトはうつむいた。
もちろん、彼女にリンディの言いつけに逆らうつもりがあったわけではない。ただ、自由な時間の有効な使い方というものをあまりよく知らないだけだ。
それでも、なのは、はやて、そしてすずかにアリサ――わずかな時間で仲良くなったともだち達と一緒であれば、時間などむしろいくらあっても足りないように思っただろう。
けれど、いま居るこの場所――時空管理局に、フェイトのともだちはいない。
「その、せっかくの時間を無駄にしたくなくて……」
「模擬戦を言い出したのは僕だ。叱るなら僕にしてくれ。母さん」
「え――ちがう。誘ったのは、私……」
クロノの言葉に、フェイトは慌てた。模擬戦をやってみたいと言い出したのも、クロノに相手を頼んだのも、実際にはフェイトの方だ。
クロノが自分からやったことと言えば、訓練室のモニター役としてエイミィを呼び出したことくらいだろう。
「もう、そんな所で仲良しにならなくてもいいのに」
二人のやりとりを見て、リンディの顔がほころんでいた。彼女には別に最初から子供達を叱る気など無かった。ただ、ここ数日、ほとんど休息らしい休息を取っていない二人の体力を案じただけだ。
「――ところで、エイミィは?」
ふと、クロノはいるべき人物がいないことに気付いた。
二人の模擬戦をモニターし、データを取ってくれているはずだったエイミィは、なぜかモニター室からいなくなっている。確かに彼女はわりといいかげんな人物ではあるが、いくらなんでも何も言わず立ち去ってしまうような人間でもない。
「それなんだけど……」
ふと、リンディの雰囲気が変わった。背筋がぴんと伸び、くつろいだ雰囲気は雲散霧消している。
「緊急にアースラ全スタッフの招集が決まりました。クロノ執務官、そしてフェイト執務官候補生。ただいまを持って二名の休暇もキャンセルされます」
りんとしたその表情は、もう二人の母親のそれではない。時空管理局の提督として、多数の部下の命を預かる指揮官の顔だ。
「二時間以内に準備を。エイミィ通信主任には先にアースラに戻ってもらいました。全スタッフの準備が整い次第、アースラは出航します」
「――ロストロギアですか? 艦長」
その表情が意味する所を悟り、クロノも幾分固い声を漏らした。
「そうね……詳細情報はまだ届いていないけれど、おそらくは。それも、次元航行艦が必要な任務よ。二人とも、準備は怠らないように……こういうことがあるから、休めるときには休んでおかなければだめよ」
最後に付け加えた言葉は、母親としての苦言でもあり、部下の身体を気遣う指揮官としての忠告でもあるのだろう。
「了解。次からは気をつけますよ、艦長。行くぞ、フェイト」
「うん」
飛び出していく二人の姿は、仲の良い兄妹そのものだ。
見送ったリンディの表情がわずかな間だけ母親としての慈愛に満ち、そしてふたたび指揮官としての厳しさを取り戻した。
手にしたクリップボードに留められた書類は、緊急にそろえられた各種の資料だ。その資料に出てくる単語のいくつかに、リンディは見覚えがあった。それは、全く別の件で個人的に調査を進めていたあるものに関する報告に出てくる単語だったからだ。
「――なんで、今さら……この件、簡単に済めばいいのだけれど」
☆ ☆ ☆
そこは、暗闇に包まれた場所。
窓はなく、照明もない。何らかの機械が近くにあるのか、低い音がごうごうと鳴り続けている以外にはとりたてて何もない。そんな場所。
その場所に、誰かがいた。
閉じこめられているのか、それとも自ら望んでその場所にいるのか。
低い音にかき消されそうな小さなつぶやき声だけが、その『誰か』の存在を示している。
「フェイト……」
何度も繰り返されるその名を聞くものは、まだいない。
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