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「また、失敗――」 薄暮に包まれた部屋に、呻くような声が響いた。 そのかすれかけた声には、焦りと絶望の色がにじんでいる。 そこは、実験室とでも呼ぶべき空間だった。 飾り気などかけらもない、実用本位のテーブル。そして壁面を埋め尽くすようにいくつも設置されたスチール製の棚。だが、いったい何の実験室だというのか――専門的な知識がない人間には全く判然としないだろう。 薬品が詰め込まれたらしい瓶の群れ。電子部品の基盤。水晶球を始めとした数々の典型的な呪物があれば、その横に哲学書が転がっているという統一性の無さだ。 だが、よく観察すれば各種の機材に共通性が見えてくる。なにより、部屋の各所に刻まれた紋章が、その正体を明らかにしていた。 ミッドチルダの文字を主体に構築された、円形の魔法陣。それは、魔導実験を行うために用意された研究室特有の光景だ。 「何が、足りないというの」 声の主が、ふらふらと立ち上がった。 床をはい回る配管をよけながら、棚に手を伸ばす。何かの機材を探そうとしているのだろうその手が、ふと止まった。 棚のガラスに映り込んだ白衣の女性。 かつて夫だった男性に褒めそやされた美貌は、年月と過度の疲労に侵食され、もはや見る影もない。長く伸ばした頭髪も、ろくな手入れをしないまま適当にひとまとめにしてあるだけなので、かつての艶などどこにも有りはしない。昔の彼女を知る人間がここを訪れたとしても、いまここにいる彼女が当人だと言うことに気づけるかどうか。 「たまには、休んだ方がいいのかしら……」 ため息混じりの言葉は、女性としてはしごく当然のぼやきだっただろう。 「こんな顔、あの子に見られたら、何て言われるかしら」 くすりという笑いの気配は、自嘲によるものでこそあったが、久しぶりに彼女を愉快な気持ちにさせた。 だが、それもほんのひとときの間。 「あの子――そう、あの子のためなのよ!」 狂気にも似た光がその瞳には宿っていた。わずかな合間浮かべていた優しい感情は、もうどこにも存在していない。 「あの子がいなければ、何の意味もない……」 嗚咽にも、悲鳴にも聞こえる、つぶやき。 一瞬の激情はすぐに過ぎ去ったらしい。だが、それでも彼女は膝を折らない。まだ試行していない手法に関する手順を計画し、準備しなければならないのだ。立ち止まっている暇など、有りはしない。 「そうね。得られたものが無かったわけじゃない。やり方を少し変えましょう」 伏せていた顔を上げ、彼女はふたたび機材を探し始めた。 短時間での激しい感情の起伏は、精神の平衡が危ういことを示している。 彼女自身、それを自覚してはいた。いや、己の精神が狂気の一歩手前でかろうじて踏みとどまっていることすら、理解している。もしかしたらその一歩はすでに踏み越えてしまっているのかもしれないが、少なくとも今の彼女にはどうでも良いことだった。 「まずは、失敗したサンプルを分析して、廃棄しなければ……」 探し当てた機材をテーブルに置いた女性は、並んだいくつかのカプセルに目をやった。その中にはいずれも不定形の生体組織のようなものが浮かんでいる。それらこそが繰り返した実験の成果なのだろう。 「――?」 カプセルの中身を確認しようとして、彼女はふと顔を上げた。 単調な合成音が、どこかで鳴っている。音は、ほどなく人の声に取って代わった。 『ご無沙汰しております。ご不在でしょうか?』 女性にとっては聞き覚えのある声だったが、彼女は全く気にもせず、ふたたび作業へと取りかかる。 『次回お伺いする期日についてご相談を、と思って連絡を差し上げたのですが……では、平常通り、節末に伺うことに致します。ところで、別件のご相談なのですが――』 べらべらと喋る男の声を聞き流しながら、彼女はまたか、と小さく舌を打った。 内容は各種新技術の公開、申請と、パテント化の手続きに関する提案。 以前金銭を得るためこの業者に委託した手続きだが、その旨味に味をしめたのだろう。正直、軽率だったかと後悔しないでもない。が、そのおかげで多大な時間を研究に回せたのも事実だ。 今も詳しく詮索せず、不要になった機材の破棄と、新規に必要とする物資の調達を確実にこなしてくれる。違法スレスレの物品ですら、相応の金を払えばなんの質問もせずにすぐ持参してくれるという点では得難い業者だ。余計な欲を持っているのは面倒だが、新しく信頼できる業者を捜し出すのも骨が折れるので、今は適当にあしらいつつ契約を続行している。 『いえ、なにぶんこのご時世ですし、何かとご入り用かと思います。特許の売却契約を一件結ぶだけでも――』 男は妙に具体的な額面を出してきたが、やはり彼女の興味を引くことはない。 なにより、以前の特許売却で充分すぎる金銭を得ている。莫大な資金が必要となる魔導研究をこなしていてもあと十年は尽きないほどの額面だ。わざわざ面倒な手続きを踏んで新たに財産を得る必要など感じなかった。 しかし、あまりしつこいとさすがに鬱陶しくなってくるのも事実だ。 「本当にうるさいわね。このへんの適当な成果をくれてやれば、しばらくは黙ってくれるのかしら」 そんなことを呟きながら、彼女はカプセルの中身を計測器にかける。実際、彼女にとっては単なる失敗したサンプルにすぎないが、それだけでも普通の魔導研究所ならば充分に胸を張って成果と言い張れるだけの代物だ。 それでなくとも、幾多の実験で得られた成果があふれてしまいそうなほどに蓄積している。そのいずれもが、存在を知れば企業の人間が血相を変えて権利の譲渡を求めに来るだろうと思える、専門的で高度な技術ばかり。発表できる形にまとめるには手間がかかるが、その手間を掛ける価値は充分以上にあるはずだ。だが、彼女にその意志はない。 「――あら?」 口にしたたわごとを一呼吸で忘却の狭間に投げ捨てながら次のカプセルへと手を伸ばした彼女は、そこで僅かに首をかしげた。 最後に残したサンプルの様子が、おかしい。 完全に失敗したと判断していたサンプルだったが、不定形なはずのそれに、明らかな変化が起きている。ふるふると震える肉片に、何らかの器官らしい形をとった組織と、白いかけらが浮かんでいた。 「……これは」 あわてて伸ばした手の先に、半透明のコンソールが浮かび上がる。 同時に出現したスクリーンに表示された数字を確認し、彼女の表情が僅かに明るくなった。それらは、完全ではないにしても良好な結果を出しつつある数字だ。このサンプルさえあれば、次の実験段階に移れるようになるだろう。彼女はそう判断した。 まだ、先は長い。 それでも、目指す終着への道は確かに見えた。それは明るい事実として、彼女のモチベーションを高める結果となる。 「そうね……次の段階に入るまえに、少しは休みましょう。あの子に怯えられないよう、身だしなみも整えるようにしなければ」 独り言の声も、明るい。 「そうよ、これから、始まるのよ。そのときに何もない、なんて事になったらみっともないわ。あの子のためにも、残すものを作らないと……」 希望に満ちた言葉を紡ぎながら、彼女は生気に満ちた顔で部屋を歩き回る。 「まずは、この庭園ね。このままではみっともなさ過ぎるわ。それから――」 『――では、失礼いたします、プレシア・テスタロッサ様。またのご連絡をお待ちしております。くれぐれもご自愛のほどを』 喜ぶ彼女の傍らで、通話器から漏れる男の声が、彼女の名を呼んだ。 プレシア・テスタロッサ。 後にP・T事件と呼ばれる時空犯罪を引き起こすことになる魔女は、優しい目でサンプルを見つめていた。いや、彼女が実際に見つめているのは、その向こう側にあるべき終着――愛娘アリシアの姿。 それが絶望の象徴になることなど、今のプレシアは知らない。 フェイトと名付けられる少女が産まれるには、これよりまだ数年の時間を必要とする。
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公開開始 2006/12/10