木下牧子(きのした まきこ)
邦人作曲家の合唱曲、特にピアノ伴奏付きの組曲という形態の作品では、60年代の田
三郎「水のいのち」あたりを頂点とする時代がしばらく続いた。その流れを変えたのが荻
久保和明「季節へのまなざし」であり、さらに変えたのが、木下牧子「方舟」と「ティオ
の夜の旅」ではないかと僕は考えている。いや、この2曲は、僕にとっては音楽史に残る
名曲と位置付けてもおかしくないくらい(ちょっと大袈裟かな?)、気に入っている。調
性の範囲内で、20世紀感覚でどれくらい感動的な音楽が作れるか、例えばラフマニノフは
見事な解答を出したと思うが、木下牧子氏のこの2曲も同様だと思う。「方舟」は、僕だ
けではなくて相当に合唱人に好まれているらしく、好きな合唱曲のアンケートをとれば、
恐らく最上位のあたりにくるだろう。しかし音楽としては、「ティオの夜の旅」の方が、
5楽章形式の組曲として最高の出来栄えを示しているという点で、更に優れているように
思う。骨格を成す奇数楽章がいいのは勿論だが、間奏曲的な偶数楽章が全体に与える絶妙
なアクセントには、いくら称賛しても言葉が過ぎることはない。「方舟」は、5拍子の終
楽章が斬新だし、これが好きだという人も多数おられると思うが、いい演奏をするのが超
の字がつくくらい困難という点が残念。両曲とも、ピアノパートだけを鳴らしても楽しい
(特に「方舟」)のも僕には嬉しい。
というわけで称賛を惜しまない僕だが、ちょっと困ったことがある。人気曲だから、随
分と実演などに触れてきたが、ロクな演奏を聴いたことがないのだ。いや、一人だけ、比
類ない演奏をする指揮者がいる。他でもない、両曲の初演指揮者、鈴木成夫氏である。彼
の解釈で聴いてしまったが最後、もう他の演奏は受けつけなくなる。というより、他の指
揮者にかかれば、両曲とも、気持ちよい音が並んでいるだけで、フレージングが機械的、
かつ間延びした駄曲になってしまうのだ。ピアニストも、鈴木氏とコンビの山内知子氏が
ピカイチ。
というわけで前置きが長くなったが、まずは両曲の一般発売音源を聴いてみよう。
○鈴木成夫指揮東京外国語大学混声合唱団コール・ソレイユ、ピアノ:山内知子
(FONTEC,EFCD3097)
初演団体が、90年代の定演であらためてとりあげた際のライブ録音。カップリングは無
伴奏混声の「夢みたものは」。率直に言って残念な出来に終わっている。どちらかとい
えば「方舟」が良く、僕は「ティオ」の録音時は客席で聴いていたが、がっかりしたの
を覚えている。もちろんここでは、木下作品では無敵の指揮者の素晴らしい音楽的呼吸
を感じることはできるし、普通の演奏に比べれば合唱団だって、ずっと健闘している。
それでも残念だと思うのは、この指揮者+伴奏者による、もっといい演奏を知っている
からだ。まず「ティオ」は、初演時の記録を聴いたことがあるのだが、これがもう、大
学合唱団の委嘱初演がこれほどのハイレヴェルで行われることに畏敬の念をいだくほど
の演奏だ。この合唱団は人数が少なく、特に男声は薄っぺらくてしょうがないのだが、
何と言うか、これこそ青春ではないかという歌がいっぱいだ。特にソプラノのよく伸び
る声は素晴らしかった。それから「方舟」は、尾形敏幸「風に寄せて」の項で取り上げ
たが、平松混声合唱団、エオリアンコール、ドレミ合唱団という三つの混声合唱団の合
同演奏。平松混声のテノールとアルトにスーパー歌手がいたせいで、その2つのパート
ソロの物凄さだけで感動した。
思い入れが強いものだから無駄口が過ぎてしまったが、他にも一般発売音源がある。
○関屋晋指揮湘南市民コール、ピアノ:土屋律子(東芝,TOCZ-9291)94年
○当間修一指揮大阪ハインリッヒ・シュッツ合唱団(OCM,OCM-013)98年
前者に「ティオ」、後者に「方舟」が含まれている。いずれも日本の合唱団としては最
高レヴェルにあるのだが、いかんせん、音楽的に鈴木成夫氏には太刀打ちできない。後
者のすっきり爽やか感は、一聴の価値ありとも言える。後者では木下作品として、96年
演奏の「春に」(「地平線のかなたに」の第1曲))も含まれているが、この明るい声
による歌唱は、中学生あたりには真似してほしいと思う。こういう合唱が、もっと日本
の合唱団から生まれてほしい(なぜみんな、暗い声が好きなのだろうか?)。
この他の「ティオ」「方舟」の鑑賞体験だが、「方舟」にはセット「合唱名曲大系」に
含まれた音源(浅井敬壹指揮合唱団京都エコー、ピアノ:藤澤篤子)があって、セットを
持っている人に聴かせてもらったことがあるが、やはりいまいち。「ティオ」の方はナマ
で男声合唱版を聴いたことがあるが、とてもティオをやっているとは思えない鈍重な演奏
しか聴いたことがないので、よりよい演奏に触れるのは今後の課題としよう。「方舟」の
男声合唱版の音源。
○片桐真指揮SINGERSなも、ピアノ:渡部真理(GIOVANNI,GVCD10214/5)2002年ライブ
第12回定演記録CD。この合唱団のソフトな響きと、男声合唱団にしては正しい音程が
木下作品に上手く合っている。特に第3曲「夏のおもひに」が良い。
「方舟」「ティオ」共に初期作品で、その後の木下牧子氏の活躍は皆さんご存知のとお
り。彼女がいなければ、現在のレパはきっと淋しくなっていたことだろう。僕も、どの作
品にも一定の満足は与えられるものの、どうも初期の2曲ほどのテンションを感じ取るこ
とができず、いまいち共感できずにいるというのが正直なところ。まあとりあえず、ここ
では他の鑑賞体験にも触れておこう。
他の邦人作曲家と比べると、一般発売音源は非常に多くなっている。
○祝福〜無伴奏作品集/当間修一指揮大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団
(VICTOR,VICG-60138)2001年
作曲者が自分で選曲して、様々な合唱組曲や独立した小曲(未出版作品も含む)から18
曲を演奏している。ティオの第1曲「祝福」の混声版に始まり、同曲の男声版で終わる
が、収録曲は、どれもとびきりわかりやすくて、なんてきれいなんだろう。しかも無伴
奏。混声も女声も男声もある。収録時間が57分で終わってしまうのが残念過ぎる。演奏
は例によって、日本の他の合唱団では決して聴けない高度なアンサンブルを楽しむこと
ができる。息漏れや、たまにらしくない乱れがあるのは残念だが。音のクオリティも邦
人合唱CDとしては高い方なのが嬉しい。
○木下牧子/虚無の未来へ、邪宗門秘曲、ELEGIA、
島崎藤村の詩による二つの女声合唱曲、仏の見たる幻想の世界、鴎/
当間修一指揮大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団、シンフォニア・コレギウム大阪
(FONTEC,FOCD3483)2001年3月31日ライブ
東京の紀尾井ホールにおける、木下牧子作品だけの演奏会のライブ録音。「虚無〜」と
「島崎藤村の〜」は初演。「邪宗門〜」と「鴎」は管弦楽版の初演、コンクールで京都
エコーがとりあげていた「仏の〜」は改訂版初演になる。合唱団は約40人、管弦楽も約
20人とごく小さい編成による。とても難しい一枚だが、上記のビクター盤のようにきれ
いな曲ばかり聴いていても作曲者の本質を理解できないだろうから、ファンなら必聴。
演奏の方は、作曲者がこの合唱団しかないと決めていたのが当然と思える、素晴らしい
物。
○こまどりをころしたの だれ?/三輪裕子指揮練馬児童合唱団、ピアノ:浅井道子
ふくろうめがね/笠原美保指揮宝塚少年少女合唱団(VICTOR,VICS-61019)98,99年
他に寺嶋陸也、吉岡弘行両氏の児童合唱曲を収録。「こまどり〜」はマザーグース・メ
ロディーの編曲集で素直に楽しめる(混声版あり)。後者は無伴奏で結構難しい。演奏
は共に良好。
○片桐真指揮SINGERSなも、ピアノ:渡部真理(GIOVANNI,GVCS10201)2000,2001年ライブ
無伴奏の男声合唱曲集「恋のない日」と、ピアノ伴奏付きの「アンファンス・フィニ」
を収録。前者が堀口大學、後者が三好達治によるテキストというのも魅力の一つ。合唱
団の実力は、まだまだ向上する余地が多いだが、音程が男声合唱団にしては悪くないの
で、木下和声の繊細な表現に向いているのが良い。アルバムの収録時間が40分弱なのは
淋しく、男声の難曲「真夜中」の良い音源があればいれてくれれば、というところ。
○虹/木下牧子男声合唱作品集2(GIOVANNI,GVCS10703)
男声合唱作品集の第2弾。最初の無伴奏男声合唱組曲「いつからか野に立って」の演奏
は、伊藤恵司指揮なにわコラリアーズ(2004年録音)。無伴奏男声合唱のための「わた
しはカメレオン」(2006年録音)と、ピアノ伴奏が入る男声合唱組曲「方舟」(2002年
ライヴ)とは、片桐真指揮SINGERSなもの演奏。「方舟」については、上述と同音源。
まず「いつからか〜」が演奏、曲共に素晴らしい。少し「方舟」に通じる抒情感覚があ
るのが嬉しい。「わたしはカメレオン」も悪くない。
○春に 木下牧子 混声合唱作品集/向井正雄指揮Vocal Ensemble EST、
ピアノ:中村文保(GIOVANNI,GVCS10407)2004年
混声合唱のための人気曲集を三つ、「地平線のかなたへ」、「アカペラ・コーラス・セ
レクション」からの5曲、それに「光と風をつれて」を収録。合唱団の声と響きに曲が
よくマッチしている。是非こういう演奏を、中高生など若い人たちに聴いていただきた
いと思う。
○栗山文昭指揮女声合唱団「彩」、打楽器:永曾重光(ALMRECORDS,ALCD-71)2005年ライヴ
アルバムのタイトルは「木下牧子作品集 ふるえる月」で、合唱曲だけでなくピアノ独
奏曲、声楽曲、室内楽曲を収録している。合唱曲は上記の演奏家たちによる、女声合唱
とパーカッションのための「BLUE」のみ。率直に言って、僕には難し過ぎる作品だが、
耳あたりの良さとは縁遠い作品にこそ興味があるという方にはお薦めできる。
○古橋富士雄指揮東京放送児童合唱団、ピアノ:斎木ユリ(GIOVANNI,GVCS10708)95,97年
女声合唱のための「ファンタジア」、「絵の中の季節」、そして「地平線のかなたへ」
という、三つの人気曲集を収録。これは、下記に掲げたセット物音源からの分売で、歓
迎されよう。発売年は2007年。
○片桐真指揮SINGERSなも、ピアノ:渡部真理(PRIVATE)2008年ライヴ
混声合唱組曲「光る刻」の男声合唱版の委嘱初演した定演記録。この合唱団独特のハー
モニー感の良さが生きた音源になっている。
この他の手許の音源を。
○当間修一指揮大阪ハインリッヒ・シュッツ合唱団
2000年の邦人合唱曲シリーズのライブ記録テープ。「ELEGIA」と「光る刻」(改訂版)
を全曲演奏。前者は非常に難しい無伴奏混声のための組曲で、音程の正確さでは日本一
のこの合唱団をもってしても、どんな曲なのかよくわからないくらい、難しい。「光る
刻」の方は、わかりやすい(といっても内容は易しくない)ピアノ付き混声合唱曲。当
演奏会のアンコールで、「夢みたものは」と「鴎」の2曲も歌われている。
○辻正喜指揮大和銀行合唱団、ピアノ:長田育忠(BRAIN,BOCD4410)94年
ピアノ伴奏付きの「オンディーヌ」(混声版)。全日本合唱コンクール全国大会金賞受
賞時の演奏記録。とても素晴らしい演奏だが、典型的な日本の合唱。声そのものや合唱
の響きもそれなりに豊かで、音も概ね正しいのだが、純度は高くない。
○平松剛一指揮平松混声合唱団、ピアノ:渕上千里(FONTEC,FPCD2735)
平成4年度Nコン中学の部の課題曲「もえる緑をこころに」。
セット物音源が結構あるようだから、整理しておこう。こうしてみると、セットだけで
しか聴けないのは惜しいが、目下のところはしかたがない。
○5つの祈り(無伴奏女声合唱のための)/八尋和美指揮東混
うたよ!(混声)/辻志朗指揮大久保混声合唱団、ピアノ:川井敬子
光と風をつれて(全曲)、同曲混声三部版より第2,4,5曲/関屋晋指揮松原混声合唱団、
ピアノ:内平麻里
「セット21世紀」第11巻
○光る刻(改訂新版)/関屋晋指揮松原混声合唱団、ピアノ:藤田晶
絵の中の季節/古橋富士雄指揮東京放送児童合唱団、
あわていきものうた/三林輝夫指揮ひばり児童合唱団、ピアノ:高木由雅
地平線のかなたへ(混声)/樋本英一指揮東混、ピアノ:若林千春
「セット講座」第5巻。
○夢みたものは/樋本英一指揮東混
44わのべにすずめ(三つの不思議な仕事 より)、祝福(ティオの夜の旅 より)/
関屋晋指揮湘南市民コール
「セット講座」第9巻に収録。
○ファンタジア/古橋富士雄指揮東京放送児童合唱団、ピアノ:斎木ユリ
「セット講座」第13巻に収録。この組曲はピアノパートだけを弾いても楽しいので、僕
のお気に入り。
○春に、サッカーによせて(地平線のかなたへ・女声版 より)/
住吉三滋指揮プルニエール・ブランシュ、ピアノ:沖郁子
「セット講座」第15巻に収録。
○ひばり、きんいろの太陽がもえる朝に(「愛する歌」より)/
志水隆指揮杉並児童合唱団、男声重唱団マーシャル555、ピアノ:津嶋麻子
「セット講座」第17巻に収録。
○グリーンピースのうた(無伴奏児童合唱曲集)/榊原哲指揮ひばり児童合唱団、
「セットジュニア」第15巻に収録。
○地球のなかま/榊原哲指揮ひばり児童合唱団
「セットジュニア」第16巻に収録。これはごく小曲。
○地平線のかなたへ(同声)/古橋富士雄指揮東京放送児童合唱団、ピアノ:斎木ユリ
「セットジュニア」第18巻に収録。
この他、コンクールの自由曲にとりあげられることがとても(めちゃくちゃに)多く、
色んな演奏を聴いたことがあるが、特に印象的なものは思い出せない。難しい曲では、同
声合唱のための「ア・カペラ組曲」を女声合唱団「青い鳥」が歌っていた。ピアノ伴奏付
きでは女声合唱曲「暁と夕の詩」あたりも人気。無伴奏混声の「春の予感」などは意外に
難しくて、ハモらない演奏が多い。「夢みたものは」を中心にまとめて出版されている曲
集では、「ほのかにひとつ」というピアノ伴奏付き小曲が、アンコールピースとして好ま
れているようで、よく演奏会で耳にする。
僕が聴いたことがない曲では、編曲物に惹かれる。クリスマスソングメドレーや、ウエ
ストサイド物語の合唱編曲など。
合唱周辺の話題としては、歌曲のCDが数枚発売されていて、楽譜もカワイと音友から
出版されているので容易に入手できるが、合唱曲と重なった曲もあるのが嬉しい。ピアノ
パートを弾いて遊ぶのにも好適。
最後に、作曲者ご自身が開設されているホームページは、内容自体とても面白いし、な
んだか親近感が沸いてくる感触が素晴らしい。彼女の音楽に少しでも興味があるならば、
是非ご覧になるといいと思う。
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