丸谷才一
 丸谷才一は『食通知ったかぶり』で“食”にまつわる話を書いていますが、その中に70年代の横浜が描かれています。そこでは、この《海南飯店》が、広東料理の美味しいお店として紹介されているのです。以下、原文の一部を紹介します。  
 
 中華料理で一軒といふのはむづかしいが、広東料理で中国人の客がいちばん多くゆくのは海南飯店で、わたしも広東料理ならここがいちばんおいしいと思ふが、奇妙なことに普通の日本人はこの店の料理があまりうまくないと言ふ、と語ったのは、神奈川新聞の白神義夫氏である。
 「つまり、本場の味といふのでせうか。日本人向きぢゃないですな」
 かうまで言はれて出かけなければ、どうかしてゐる。早速、中華街の海南飯店へ足を運んだ。そして、店の前でも店のなかでも、なるほどこざっぱりした店だと感心したのにはわけがあって、白神さんの説によると、よく世間で言はれる、中華料理屋はきたないほどうまいといふのは断じて間違ひなのださうである。
 「あれは迷信ですな」
 私もまた迷信を排撃して、至って清潔な海南飯店の一隅に席を占め、老酒を飲みながら待つうちに、注文した料理がどやどやと(事実さういふ感じなのである)出て来る。
 最初は豆鼓排骨。と言っても判るまいから(実はわたしだってチンプンカンプンである)注をつけると、中国味噌と骨付バラ肉煮込み。バラ肉とピーマンとネギの料理で、わりに薄味でそのくせ辛く、なるほどなかなかの美味である。噛んでゐるうちに肉がほぐれて骨が歯に当ると、何となく自分が犬になったやうな気がして多大の感銘を受けるし、その感銘をネギの甘い味がそっとやはらげる。
 炒牛双眩。牛の胃袋炒め。カリフラワーとサヤエンドウが添えてある。さくさくした歯ざはりがおもしろい。
 干煎蝦碌。海老の中国風蒸し焼。あっさりしてゐて、なかなかいい。老酒の味がいよいよ深まる。
 蒜子炆大善。鰻とニンニクの煮込み。見たところギラギラした感じで、何となく只事ではないといふ気がするけれども、本邦の蒲焼のほうが実は脂ぎってゐるかもしれない。一体に清楚淡白な、しかも中国ふうの味は広東料理の特色だが、これはさういふ業を存分にふるってゐる一品である。つまり、ギラギラのくせに案外あっさりで、しかもそのくせ脂っこいといふ、二段がまへ三段がまへの芸になってゐるのだ。
 じっと味はってみると、どうやら何か老酒の匂ひに似た香料を上手に使ってゐるやうで、そのせいでこの上可思議な美味が生じるのかもしれないし、また、それゆゑ老酒によく合ふやうな肴でもある、などと考へながら老酒を飲む。
 清蒸鮮魚。蒸し魚。これぞ広東料理の代表である。平目と鯛があったが、平目のほうを頼んだ。極端な薄味だが、これが魚の味を生かすゆゑんなのだらうし、事実、この調子でいくらでも食べられ、いくらでも飲めるやうな気がしてくる。  鹹蛋湯。塩卵と野菜のスープ。淡白。しかし一匙一匙と飲んでゆくごとに、その薄味のスープが豊な滋味と変ってゆくのは、何か中国大魔術といふ感じがしないでもない。
 豆腐炆魚。豆腐と魚の煮込み。イシモチと豆腐と椎茸とチャーシュー。ただし豆腐と言っても、三センチ角ぐらゐに切ったものの揚出しである。例のどろりとしたやつだが、奇妙にあくどくなく、つまり中国ばなれしてゐる。
 白切鶏。蒸し鳥。文字通り白く切った鶏肉で、それにショウガとネギのせんぎりが添えてある。ひいやりとした味が、いくら薄味とはいへ、これだけあれこれと中華料理を食べたあとの、ほてった口中をさはやかにする。
 といふ調子で、わたしもまた、きれいな中華料理屋のなかにこそおいしい店はあるといふ白神理論を承認したのである。ただし、わたしが食べてゐるあひだ、中国人の客はゐないやうに見受けられた。もっぱら日本人が大勢、飲食の快楽に耽ってゐたのだ。とすれば、本場の味を楽しむ日本人も近頃はかなりゐると見なければなるまい。
 出典「食通知ったかぶり」(丸谷才一 1975年)より
 
    ここに登場する神奈川新聞記者の白神義夫氏は、横浜の食べ物・味、なかでも中華街のお店を紹介した本をいくつか出版しています。たとえば「横浜味どころ」や「横浜味覚散歩」などは、私が若いころ、中華街歩きのお供とした本です。そんな氏が丸谷才一に紹介したのが海南飯店でした。
 海南飯店は大通りのなかでは非常に地味な店構えです。だから入らず嫌いの人も多いのではないでしょうか。でも、一度入ったら病みつきになってしまうこと請け合いです。料理が超美味いというわけではなく(普通に美味しいですよ。実際、行列してでも食べたい美味しい店なんてのは幻想です。二度と行きたくないマズイ店というのはありますが…)、なんとも懐かしく居心地のいい店なのです。
   外観から想像できるとおり、内部はレトロです。昭和31年創業のこの店、もしかしたら建物はほとんど当時のままかもしれません。壁にかかる時計は振り子式の年代物だし、開店祝いらしき鏡には《贈 海南飯店賛江 勝記理髪店》なんて書いてあるのです(昭和31年以前、この場所に理髪店があったので、そこからの贈り物なのでしょうか)。
 よくある中国楽器を使ったBGMもありません。流れているのはテレビの音だけです。よけいな装飾もありません。レジだって、小さなカウンターにソロバンです。近代的なレジスターは置いていないし、ましてや携帯電話での支払い装置なんてありません。
 そして席に着くと、オバサンが日本茶を入れてくれます。なんかアットホームなんですね。
 今日は「ネギソバ(700円)」を頼みました。透明なスープに千切りチャーシューと白髪ネギを浸し、麺に絡めて食べると、なんだかホッとします。今日は汁ソバでしたが、ここではネギソバの汁なしバージョンもあります(700円)。こちらはワッサワッサとかき混ぜていただきます。お薦めです。
 さて、丸谷才一が書いた本ですが、海南飯店の部分だけを抜き出して拡大コピーしたものが、店内に飾ってあります。よほど注意深く眺めないと見逃してしまいそうですが、今度行く機会がある方は、探してみてください。ちなみにオバサンの話では、丸谷才一がよく来たのは横浜ベイスターズが優勝した年だったそうです。
 【参考】白身魚の姿蒸し(3000円~)黒味噌の骨付き豚バラ肉煮込み(2100円)豚コブクロ炒め(1575円)など
戻る トップに戻る