2




岡田真次


 谷川に転げ落ちる寸前のところで、やっと止まったときには、何が起こったのか、しばらくの間理解できなかった。息がまともにできず、目の前が霞んで見えた。どこかで頭を打ったのかもしれないと思った。ガタガタと歯がなり、急に寒さに襲われた。ゆっくりと手と足を動かしてみようとしたが、腕を上げることさえできなかった。足首が鋭く痛んだが、それは自分の足ではないような気がした。何かに地面の底に引きずり込まれていくかのように、意識が薄れていった。

 母さんの作るスープの匂いがした。トマトと野菜がたっぷり入ったスープだ。ひとくちにスープといっても、それぞれの家で、独特の匂いや味がある。素材やハーブなどの香辛料の違いもあるが、何といっても料理のこつはタイミングにあるのよ、と母さんは教えてくれた。事実、同じ材料で何度も挑戦してみるのだが、ぼくの作るスープは味も匂いもどこか違った。それは母さんにしか作れない、何にもかえることのできないスープなのだ。そのいつものスープの匂いがするのに、母さんはどうしてぼくを呼びにきてくれないのだろう、と思った。

 ベッドの中にいるはずなのに、目を開けたときそこに部屋の天井はなく、濡れた落ち葉に覆われた暗い地面が見えた。谷川沿いの斜面に転げ落ちて意識を失っていたのだと、すぐに気づいた。どうしたことか、ぼくの体は、ミズナラの木に縄でがっしりと縛りつけられていた。木立の中の開けた広場で、焚き火の赤い炎に照らされた男の横顔が見えた。

 男は、インディ・ジョーンズの持っているような、長いムチを手にしている。倒木に腰かけ、白く湯気が上がる大鍋を、木のスプーンのようなものでかきまわした。そこからは、いつものスープの匂いがした。ぼくのお腹が、びっくりするくらい大きな音で鳴った。

 「お目覚めだか」枯れ草色のもじゃもじゃの髪の毛をなでつけると、男は緑色の帽子を被りなおした。ぼくの野球帽だった。「オメエ、よっぽどひどいわるさをしに来たんだな。そうでなきゃ、オメエを捕まえておく理由は何もないからな」

「何のことだ、ぼくは、忘れた物を取りにきただけだ」ぼくは男をにらんで言った。

「みんな最初はそんなふうにいうんだ」男は立ち上がると、何色かもわからない汚れたズボンの尻の部分をはたいた。「オメエには、長くつらい夜になるだろうよ。泣いてもわめいても、オレには何もしてやれない」男は頭を帽子の上から指でとんとんと叩いた。それから満足そうに、ぴしりといい音をたててむちを鳴らした。

「こんなことして、ただで済むと思っているのか? 今に、ぼくを探しに街から大勢やってくるぞ」ちょっとでも黙っていると、怖くて、涙がでそうになった。泣いたりしたらこいつを喜ばせるだけだ、強がりでも何でもいいから、しゃべるしかない、と思った。「おまえは知らないかもしれないけど、誘拐罪は罰のなかでもすごく重いんだ。逮捕されて、おまえの一生を棒にふる前に、考え直してぼくの縄を解いたほうがいいぞ」

「口のへらないガキだ」男は小指で耳の穴をほじくった。「まあ、ひとりきりで、頭を冷やすことだ。腹もへってくる。そしたら、すこしは自分の置かれた立場がわかるさ」男は帽子を脱ぎ、手ぬぐいで丁寧に拭きながら、闇の奥に入っていった。


 霧のような雨は止み、細かい雪がちらちらと降り始めた。雨で濡れた縄がさらにきつく締まっていくようだった。風が焚き火の炎を揺らし、樹木の影を生き物のように踊らせた。涙が頬を伝った。ぼくは声を出さずに、唇をかみしめて泣いた。