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岡田真次


 男は何かに耳をすませるように、じっと闇を見つめた。

「オメエ、もう帰っていいぞ。そうしなくちゃならんようだ」いかにも残念そうに言うと、男は帽子を脱いだ。

「今朝、そこの木に掛かってたんで被ってみるとね、オメエが谷川のところにいるから、ここに連れてこいって、声が聞こえたんだ。まるで耳元でささやくように近くでね。まわりを見回したが、誰もいない。まったく驚いたね。何度も同じ声がしてね、まいっちまったよ。しばらく考えてみて、どうもこれを被ると聞こえるってことに思い当たったってわけよ。その声ってのは、聞いたことはないが、神さまの声じゃないかと思ってね、オイラ言われるとおりのことをすることにしたんだ。たびたび、おごそかで語りかけるような声がしたよ。これは、オメエの持ち物だったんだな。これは、神さまと話ができる道具なのか?」

「わからない」とぼくは言った。「ぼくにはそんな声、一度も聞こえたことがないから」
男は不思議そうな顔をして、野球帽をぼくに被らせてくれた。もちろん、そこからは何も聞こえてこなかった。
それでも男は、ちらちらと横目で帽子を見ていた。とても気になってしようがないというふうに。

 ぼくはポケットの中にある、冷たい石のことを考えた。彼女が言うように、誰かに見守られていることで安心する気持ちは、ぼくが子どもで、まだ心が不安定だからなのだろうか、怖れや、誰かといっしょにいたい気持ちをなくしたら、強くなれるというのはほんとうのことなのだろうか、と思った。でも、その強さは、ぼくの望む強さとはまったく別のものであるような気がした。そういうことを心の中から消したら、どのようなかんじがするのだろうかと想像してみた。そんな世界を心に描くと、恐ろしくて声をあげそうになった。そこは時間さえも止めてしまいそうに静かで、涙もなければ笑いもなかった。それは、死んでしまったときにどんな感じがするのか考えたときの恐怖と、あまりにもそっくりだったのだ。

 立ち上がろうとしたとき、足首に鋭い痛みが走り、膝をついた。さっきまで何ともなかったのが嘘のようだった。斜面を転げ落ちたときにひねったのだ。

「これじゃ、急な坂道を降りていくことはむりだな」男が言った。

 結局、男がぼくを背負って降りてくれることになった。その背中は大きく、暖かかった。男は、大股でゆっくりと歩いた。暗闇の中で、男の手にしたランタンの光だけがちらちらと揺れた。

 ぼくは小学生になったばかりの夏、花火大会のあとに、父さんに背負われて家に帰った日のことを思い出した。これなら人混みの中でも決して迷子にならないから安心だろう、と父さんは言った。確かにぼくはどこに行っても、必ずといっていいほど、いつもいつも迷子になった。何かに夢中で見とれていて、気づいたときには、父さんも母さんも、さっきまで手をつないでいた姉さんもいなかった。

 ぼくには七つ年上の姉がいたのだ。

「いつ手が離れたのかな」と姉さんが言った。「おかしいなあ」とぼくは言った。しっかりと手をつないでいたつもりなのに、いつも気づいたときにその手はなかった。
その年の冬、姉さんが死んだ。夏が来ても、もう家族そろって花火大会に行くことはなかった。それからしばらく、家族でどこかへ遠出することはなくなり、もうぼくが迷子になることはなくなった。

 誰かが頬を叩いていた。
「おい、しっかりしろ」
まぶしくて、目を開けることができなかった。手で光をさえぎって見ると、懐中電灯の明かりの中に父さんがいた。

「ひさしぶりに迷子になったな」と父さんは言った。「母さんが家で心配している。早く帰ろう」

  ぼくは、森の入り口のエノキの木に腰掛けて眠っていたのだった。雨も雪もやみ、カマの刃のような三日月が雲の間からのぞいていた。