1





岡田真次  


 「雨の日の物語、さてあなたが思いうかべる話は何? 制限時間は三〇秒間です」
ちくたくちくたく。

 ぼくは急いで、本棚の背表紙を思い起こしてみる。
 少年のころ、縁側から見た雨の庭の情景。子ぎつねにききょうの花のしるで指を染めてもらう話。安房直子の『きつねの窓』だ。青く染まった親指とひとさし指でひし形の窓をつくって、そこをのぞくと、失ってしまったむかしの風景が見えるのだ。この物語における「雨の庭」は、過去への時間の扉であり、思い出を象徴している。

 この物語をはじめて読んだのは、十八くらいだったと思う。そのころ、サリンジャーやスタインベックをよく読んでいたので、この話の日本的な情景はとても新鮮で、何よりも印象的だったのは、物語と同質の風景のなかに、少年のころの自分がいたことだ。(まあ、ぼくの少年時代は、たいしたものではなかったですけど。)で、縁側から見た雨の庭の景色と、何か特別な一日の思い出が結びついているのかというと、必ずしもそうでもないところが、情景としての記憶の不思議なところだ。「雨の庭」のような、ふとしたある日の断片的な記憶が、さまざまな時期の記憶の引出しを開ける鍵の役割を果たしているのだと思う。ぼくは「雨の庭」を思いうかべると、何か大切なものをそこに置いてきてしまったような、複雑な気持ちになってしまう。年をとっていくということは、知らないうちに多くのものを過去に置いてきてしまうことなのだ。

 とはいえ、ぼくはいまでも雨の景色をながめるのが大好きだ。蒼くけむる雨降りの風景は、決してわるいものではない。だからキャンプも、好んで雨の日を選んいるくらいなのだ。(うそです。)森の中のキャンプ用デッキにタープ(雨よけテント)を張り、テーブルと椅子を出し、誰にも邪魔されることなくしずかに本を読む。ときおりウィスキーのグラスを傾け、しっとりと緑あざやかな景色をながめ、雨の音に耳をすませる。自然をそのまま受け入れて楽しむのだ。

 そのうち雨は上がる。しばらくすると、小鳥のさえずりも聞こえて来る。そして、夏の終わりのききょう野は、夜のとばりの青をすいこんだように見える。それはまるで『きつねの窓』のききょう野のようにね。

 市民ボランティアによる児童文学のすすめ、小冊子「ガイドページ」に掲載したこのエッセイは、ぼくのキャンプフィールド、広島県芸北町に近い深入山の桔梗野を思い浮かべて書きました。梅雨の終わり、夕暮れになると桔梗野はほんとうに「桔梗屋」が野に出現したような風景になります。日常から隔絶した世界が、そこに出現するのです。