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「冬香さんと僕。」

(C)2008 高橋硅/月光華園



/1

「ね。一緒に死のう? 雪くん」
「あはは、イヤです」
 それはいつも通りの風景だった。バイトから帰宅した僕、柊雪也の手を両手で握り締め、一緒に心中することを要求しているのは義姉の柊冬香さんである。いつも通りにこやかにお断りをして、僕はカバンを部屋の隅に置いた。2Kのアパートは、僕が生まれる前に建てられただけあって、そこかしこにガタがきている。それでも風呂トイレが別々に付いて月の家賃が5万円を切っているのなら十分に我慢ができるだろう。
「じゃあ、雪くん。結婚して」
「あと一年待ってくれればしますよ」
「分かったわ。あと一年ね」
 冬香さんのいつもの言葉に、僕はこればかりはにこやかに首肯してみせる。すると冬香さんは嬉しそうに笑って、狭い台所へ軽やかに戻って行った。
 仕事で嫌なことがあると「一緒に死んで」と言い出し、それを僕が拒絶すると一転「結婚して」と言い出す冬香さんが、あれで職場では有能だというのだから驚きだ。仕事をしている最中の冬香さんを見たことが無い僕には、もしかしたら永遠に有能な彼女を見る機会は訪れないのかも知れない。
「お風呂、準備しておきますねー」
「おねがーい」
 台所に立つ冬香さんの背中に声をかけて、風呂場へと入った。

 さて、義姉というからには冬香さんは柊雪也とは血の繋がりは無い。
 では一体どういう関係かといわれるなら、彼女は兄の奥さんである。では兄は?と問われれば、部屋の片隅に置かれた小さな仏壇を見るしかない。位牌は三つ。父母と、兄のものだ。
 兄は実に優秀な男だった。弟の僕とは結構年の離れた兄で、喧嘩の類はしたことが無い。僕が中学生になった頃には既に大学を卒業、大手商社に就職をしていた。そこで冬香さんと出会い、結婚。おまけに海外支店への栄転が決まった。
 まさに順風満帆な人生、だった。
 栄転が決まった兄が、引越しついでに父母を海外旅行へと連れ出すのを、僕は高校受験を理由に見送らざるを得なかった。ついでに言うと、冬香さんも仕事が理由で兄と一緒に海外に渡ることはできず、結果兄は新婚早々に単身赴任となってしまったのだ。
 三人が笑って空港のゲートをくぐっていくのを見たのが、僕が覚えている生きている三人の最後の姿だ。
 三人を乗せた飛行機は目的地の空港で着陸時に爆発炎上。当初はテロかと騒がれたが、事故調査委員は最終的に機体の整備不良――ないし初期不良を原因として発表した。
 僕は唐突に天涯孤独の身となってしまったわけである。
 祖父母は既に他界していたし、親しい親戚もいない。両親の生命保険と、航空会社から補償としていくばくかのお金が支払われたおかげで当座の生活が困窮する事は無かったが、いくら金銭があろうと未成年一人ではアパートすら借りられないのである。

 家族を一度に喪ったにしては冷静だと思われるかも知れないが、正直なところを言えば実感が湧かなかったというのが本音だ。あの頃、テレビで繰り返し映された三人の乗った飛行機の爆発炎上のシーンは、まるで映画のように見えていた。もう三人と話すこともできないのだと、なぜか理解できなかった。
 だから事故原因の究明だの保険だの補償だのと色々な話が飛び交っている間も、自分はどこかそれを他人事のように見ていた気がする。
 ああ。やはり今考えてみれば、僕も随分動揺していたのだろう。そうすれば義姉の不自然な態度を怪訝に思うくらいはできたはずなのだ。
 冬香さんは、新婚の夫を唐突に喪った。二人はそりゃ傍から見てもお似合いで、仲睦まじかった。むしろ少し離れてろ、と思うくらいに。冬香さんは受験で残った僕の面倒を見るために、家に居てくれた。だからニュースも二人同時に知った。
 あの人は、取り乱さなかった。大使館や兄が配属されるはずだった支店、航空会社と連絡を取り状況を確認し続けてくれた。保険金や遺族補償についての交渉も、彼女が代わりに担ってくれた。最後まで、きちんと僕の意思を尊重しながら。
 そうして、身寄りの無くなった僕の保護者にまでなってくれた。
 その際、あちらの家族と揉めに揉めたことを、僕は知っている。
 仕方が無いとも思う。いくら夫の弟とはいえ身寄りの無い子供一人を、まだ若い義姉が抱え込むなど親としては看過できないだろうことは、想像に難くない。
 結局、冬香さんは両親の忠告をつっぱねて、それまで住んでいた実家を引き払い(結局二人は新居なるものも用意していなかったからだ)、僕もまたそれまで家族4人で住んでいたアパートを引き払って、このアパートで二人暮らしを始めたのである。


/2

「――この数字、きちんと見直して。ざっと見ても合ってないわよ」
「あ、はい。すいません。課長」
 冬香がざっと見てつき返した資料を受け取った青年は、慌てて冬香の言った数字を見た。ざっと見た感じではどこがおかしいか、さっぱり分からない。だが、冬香の言葉を疑う事はなく、検算するため自席へと戻ろうとする。
「お願いね。遠山君、今日の四時からの会議の準備、できてる?」
「はい、課長」
「じゃあ、先に軽く打ち合わせしておきましょうか。どうせあちらはネチネチ言ってくるでしょうし。先にこちらも準備しておかないとね?」
 肩をすくめて笑って見せた冬香に、遠山と呼ばれた男が同じく笑う。
「そうですね。じゃあ、5分後にミーティングルームでよろしいですか?」
「ええ、お願い」
 頷いた矢先、デスク上の電話が鳴る。
「はい、柊です。はい。ええ――その件でしたら……」
 ちらりと遠山を見て、片手を立てて見せた冬香に、遠山も分かっていますとばかりに頷いた。
 システム課の課長である柊冬香のその姿を、彼女の部下たちは羨望の目で見つめていた。
 女性で課長・部長というのは、昨今そう珍しい物ではない。少なくとも、男女同権、雇用機会均等法などが施行されそれなりに周知された現在は、特に大きな企業ほど企業としての姿勢として、女性の上層組織への参入を増やそうとしてきたからである。
 とはいえ、法律が整備されようとそれを運用する人間の意識というものは、そうそう変わる物ではない。「女のくせに」などという言葉は、今でもそれとなく口にされる言葉である。特に――有能な女性に対して。
 けれども、少なくともこの課には、冬香に対してそんな感想を抱く人間は居なかった。
 確かに年は若いだろう。しかし彼女にはそれ以上の才覚と能力があった。
 スーツ姿で颯爽と歩く冬香は、ある意味羨望の的であった。
 そんな彼女の左手薬指には、いつでも指輪が輝いている。その相手がもう居ないことを課の人間は知っている。彼女の結婚式に出席した彼らは、その一ヵ月後に葬式にも参列したのである。
 それでも、冬香は見た目には変わりなく見えた。気を張っている様子も無い。時折指輪に大事そうに触れる以外は。
 そうして今日も冬香たちは忙しなく働いていた。


「……雪くん。おかえりー」
「ただいま。冬香さんもお帰りなさい」
 帰り道、駅から家までの道の途中で冬香さんが立っていた。今日も忙しかったのか、どこかヘロヘロとした様子は、どうやら僕を待っていただとかそういう事ではなく、単純に歩くのが途中で面倒になったとかそういう事だろう。手に缶ビール持ってるのが理由の一つだ。しかも口は開いている。
「また歩きながら飲んでたんですか?」
「えへへ。我慢できなくて」
 缶を口に運びながら、苦笑いをする。僕としては缶ビール片手に歩きながら飲むのはさすがにどうかと思うのだけれど、たまにこういう真似をしているらしい。疲れているからだとか、色々理由は分かるのだけれど。あんまり他所様に見せられる格好ではないんじゃないか、とか思うわけである。
「まったくもう。荷物持ちますから、貸してください」
 ハンドバッグと紙袋を受け取って歩き出す。冬香さんも、一緒になって歩き出す。
 街灯が点滅している暗い道を歩いていると、不意に冬香さんの腕が僕の腕に絡まってきた。
「……冬香さん?」
 何やら真っ赤になっている冬香さんが、妙にこっちに体重をかけてくる。
 ああ。これはつまり。
「もう酔ったんですか」
「えへへー」
 えへへ、じゃなくて。そう呟きながら、諦めて彼女の体重を支えて歩く。もういっそ背負って歩いたほうが楽なのは分かっているのだけれど、多分彼女はそこまでは許さないだろうから。あと、ご近所に見られたら説明が面倒臭いし。
「ほら、もうちょっと自分で歩いて下さいよ」
「んー」
 わひゃっはー、などと既に呂律すら回ってない冬香さんを引っ張りながら、ようやく見えてきた家を目指して僕は必死に歩く事にした。
 階段を昇らなくてはならないので、冬香さんを抱えなおす。
 彼女の腕を肩に回して、僕の腕を彼女の腰に回す。「よっ」などと掛け声をかけて、一段ずつ慎重に昇っていく。アルコールのせいか体温が上がった冬香さんは、ぐてーっとしたまま僕に身体を一方的に押し付けている。自分で昇る気はさらさら無いのか、ほとんど僕一人の力で引き上げているに等しいだろう。
 スーツとシャツが皺になるなぁ、なんて事を考えつつ、どうにか階段を昇りきった。
 はあ、なんて息をついていると冬香さんが不意に目を開けた。
「あら。着いたんだ。ありがとね、雪くん」
「……どういたしまして」
 いやにすっきりとした足取りで玄関を開ける冬香さんの背中を見送って、僕は暫しそこに立ち尽くしていた。
 ――と、冬香さんが玄関から顔を出した。
「雪くーん。ほら、早く入ってー」
「……はい」
 なんであんなすっきりした顔してるのだろう。
 少々の不条理さに首を捻りながら、僕も家の玄関をくぐった。



 電子音のアラームが鳴る寸前、伸ばした手で目覚まし時計のスイッチを切った。
 かちり、と針が動く振動が伝わる。そのまま暫し、ぼんやりと布団の温かみと別れを惜しんでから起き上がった。
 あくびを一つ。カーテンを引いて、早朝の陽射しを室内に招き入れる。早朝と呼ぶだけあって、外を歩く人影は無い。ごみ捨て場の生ごみを狙うカラス達が電線に留まっているのを見て、ああ今日はごみの日だっけ、などと思い出した。
 ふすまを開けて居間兼キッチンになっている部屋に入ると、部屋には白米の炊ける匂いと味噌汁の匂いが漂っていた。見ればキッチンに向かっている義姉の後姿があった。
「……おはよーございます」
「おはよう、雪くん。ご飯できてるよ」
「はい。ありがとうございます」
 言って、そんな冬香さんの肩越しにキッチンを見る。
 テーブルの上に並んだ朝食を作るために広げたにしては、えらく壊滅的に汚れたキッチンが見える。だが、冬香さんはそれを特に気にした様子は無い。なぜならば、この人はいつだってこんな感じだからだ。
「……顔洗ってきます」
「はあい」
 機嫌のよさそうな声が返ってくる。
 しかしながら、なんで純和風の朝食に泡だて器を必要としたのだろう。何故、ただ朝ごはんを作るだけで、あんなに物を広げるのか。それは僕が冬香さんと暮らすようになって初めに抱いた疑問だ。それで出来上がる物は極々普通の品なのだから、なおさらだ。


「準備いい? 忘れ物ない?」
「大丈夫ですよ。冬香さんこそ、大丈夫ですか? 定期とか」
「大丈夫だってば。ほら、いつもバッグの中に入れてるから」
「そのバッグ、昨日持ってた奴と違いますけど。入れ替えたんですか?」
 え、と声を上げた冬香さんはバッグの中を見る。当然、財布すら入っていないだろう事は予想できた。何せ昨日持っていたのとは、似ても似つかないのだ。
「ちょ、ちょっと待ってて!」
 バタバタと部屋に戻って、昨日のバッグを探している冬香さんの背中を眺めながら、軽く溜め息をついた。
 ビール一杯で正体をなくしたとは考えにくい。しかしながら冬香さんは、時々ああいうポカをする。バタバタと戻ってきた彼女の手には、いつものバッグがある。
「ごめんね。じゃあ、行こっか」
 そう言って冬香さんは、僕の手を取ったのだった。


/3

 僕――柊雪也は、両親を亡くした孤児である。あんまりそれを実感する時間は無いのだけれど、やはり僕はそういうカテゴリに入る人間だった。何か保護者の了承を得なくてはならないこと――例えばアルバイトの許可だとか――は冬香さんにお願いしなくてはならない。履歴者の保護者の欄を埋める時に、いやでも実感させられるわけだ。
 我が身を儚んでいる訳じゃない。ただ「ああ、もうあの人たちは居ないのだなぁ」と実感してしまうのだ。再三にわたってそれを繰り返し確認する作業というのは、これで中々に気分の悪いものだった。
 カラコロとドアに付けられたベルが鳴るのに合わせ、僕は無心に拭いていたグラスから顔を上げた。
 開かれたドアをくぐって、二人連れのお客さんが入ってくる。
「……いらっしゃいませー」
 駅から少し離れた場所にある喫茶店が、僕のアルバイト先だった。
 会社を早期退職したマスターが、趣味だったコーヒーを売り物にするために始めたお店なのだそうだ。他にもマスターの奥さん(美佐子さんという)が作るケーキと焼き菓子が、それなりに人気を集めているらしく、満席にはならないけれど常にお客が途切れないというお店になっていた。
「こちら、本日のメニューになります」
 メニューとお冷を持ってお客の前に立つ。
 日替わりで変わるケーキのメニューを説明して、注文をとり終えると一礼して踵を返す。コーナーの中にいるマスターにオーダーを通して、お冷を持って席を回る。
 平日の夕方ともあって、席はそれほど埋まっていない。もう少しすると、待ち合わせだなんだでもう少し人が入るのだけれど。
 時計を見れば、針が17時を指そうとしていた。さて、そろそろかな、と首を軽く捻る。
 カラン、と音を立ててドアが開く。入ってきたのはブレザー姿の女の子だ。少し短めなスカート(と言っても最近じゃあれで普通だが)を翻して、カウンターの方へとまっすぐ歩いてくる。
 ショートの黒髪を揺らす。手足は細く、これで運動部にしては筋肉はついていない。日焼けした浅黒い肌と棒のようにも見える手足は、少女というよりは少年といったほうが納得できるのかも知れない。ただ、そのサラサラの髪と細い首筋とぱっちりとした瞳を収めた繊細な顔立ちだけが彼女が女の子であると主張していた。
「ごめん、柊! 遅れちゃった!」
「……謝るなら僕じゃなくてマスターにね。マスター、夏奈ちゃん帰ってきましたよ」
「お帰り、夏奈。ほら、早く着替えて入ってくれ。そろそろお客の流れが変わる頃だから」
「はぁい。じゃあ、着替えてくるねー」
 バタバタとカウンターの奥へと消えていったのは、マスターのお嬢さん。ついでに言うと、僕のクラスメートでもある東島夏奈だ。この店のバイトを紹介してくれたのが彼女なのだけれど、言ってはなんだが彼女は色々と忙しい人間だった。そもそもバイトを探した理由が、自分が部活をするために代わりの労働力を探していた、というのだから。
「……やれやれ。高校生になったっていうのに相変わらず落ち着きの無い」
 マスターがぼやくのが聞こえて、僕は少しだけ笑ってしまう。
「あれでも学校じゃ、みんなの信頼を集めてますよ。部活でも結構期待されてるらしいですし」
「あれがねえ。ま、もう一人に比べれば確かにマシなんだろうけどなぁ」
 肩をすくめつつコーヒーを淹れるマスター。美佐子さんは、裏で追加のクッキーを焼いているらしく、時折バターと小麦粉の良い匂いがする。
 マスターがぼやいたもう一人のことを考えて、僕も苦笑した。確かに。あの人と比べれば、東島は確かに随分とマシなんだろう。
 再びドアが開く音がした。
 さて、では頭を切り替えて――と思って僕の身体が止まる。
「ただいまぁ」
 ふんわりとしたフレアスカートの裾を翻して歩いてくる女性。ニット地の上着はぴったりと張り付いて身体のラインを際立たせる。主に、胸元とか。
 パーマをかけているのか、ふわふわの髪は明るく茶がかって、まるで羽のように軽くひるがえる。化粧はばっちりしていて、何処のパーティ会場に放り込んでもきっと馴染めるだろう。そんな人がツカツカと僕を目掛けて歩いてきて。
「ただいま、雪也ちゃん」
 そして、どっしりと僕の頭を抱きかかえた。
「……おかえりなさい、秋乃さん。できれば放してくれませんか。仕事中なので」
「えー。冷たいなぁ」
 ちなみに僕の目の前には、見事な隆起しか無い。体勢的にここから動くと色々問題になりそうなので、秋乃さんに放してもらうしか無いわけである。
 ぱっと放されるので、一歩下がって深呼吸を一つ。
「お店の中では、そういう事はやめて下さいって言いましたよね。僕」
「……んー。覚えてないや、あはは」
 にこやかに笑って頭を掻いているのは、東島秋乃さん。マスターの娘であり「もう一人の方」である。この人がいるせいで、僕は仕事中は東島のことを「夏奈ちゃん」などと呼ばなくてはならないのである。マスターはマスターと呼ぶし、美佐子さんのことは名前で呼ばされた。初日におばさんって呼ぼうとしたら睨まれた。そんな訳でこの店で東島と呼ばれる可能性があるのは夏奈ちゃんと秋乃さんだけだったりするのだ。
「ほら、あたし馬鹿だからさぁ」
「大学に通っておきながらその台詞は聞きません。ほら、早くシフト入らないと遅刻扱いにされますよ」
「え! うっそ! ちょっと、おとーさん!?」
 バタバタと、こればかりは妹と同じような慌しさで店の奥に消えていく秋乃さんを見送り、僕は「はぁ」と溜め息を一つ。
 店の客――特にこの時間帯は常連さんばかりなので、今の騒々しい一幕もお客さんは気にした様子もない。要するに、気にする必要がなくなるくらい日常茶飯事なのだ。
「ごめんなぁ、雪也君」
 マスターがそう言いながら、苦笑いを一つ。
 僕も同じように苦笑いをして、肩を竦めた。

「柊ー、はいこれ。お願いねー」
「雪也ちゃーん。オーダー良い?」

 なんだってこの人たちは、仕事をする時に僕を通そうとするんだろうか。
 そんなことを考えつつ、皿をさげてオーダーを厨房に通す。
 日々のアルバイトは、まあこんな感じなのである。


/4

 唐突であるが、二人暮しで家事を分担するのは、当然のことだと思う。
 冬香さんは仕事をしている。定時上がりができれば良いけれど、残業や職場の付き合いでどうしても遅くなる事だってある。対して僕は学校が終われば基本的に自由だ。予備校に通ってはいないし、アルバイトも週三回のシフトになっているから、なおさらである。むしろ僕がメインに家事をするべきだと思うくらいだ。
 けれど、冬香さんは当初「家事は私がやるから!」などと強気な発言を繰り返していた。しかしながら現実はそう簡単にいくものではない。どうしても手が回らないという場面が何度もあって、そうしていつしか分担制に落ち着いた。冬香さんは申し訳なさそうに謝ったりするのだけれど、むしろ一人で生きていかなくてはならないと覚悟した時に比べれば、こうして一緒に暮らしてくれる人がいるだけで随分と救われているのだ。
 とはいえ。
「……よし」
 洗濯物が詰まった籠を前に、さて、と気合いを入れなおす。
 小さく繊細な生地のものを選んでネットに放り込む。その際、それが何者かは一切気にしない。むしろ見ない。洗濯機の中に放り込んで洗剤を入れて、柔軟材を入れて、スイッチを押す。
 水が入り始めて泡に消えていくのを見て、ようやく息をついた。
 正直なところを言いたい。
 できれば、下着は別にして欲しい。
 この後、洗濯物を干すことを考えて憂鬱になる。
 冬香さんにとって、僕はやはり「弟」なのだろう。特に気にした様子もなく、僕の服を洗い、自分の洗濯物を僕に洗濯させるのだから、多分そうなんだろう。
 実際、僕の立ち場は冬香さんの「義弟」なのだから、それで良いはずなのだ。
 ……まあ、義姉の服を洗濯するなどとは、当初は欠片も思わなかったけれども。
 洗濯機が回り始めたのを確認して、居間の時計に目を向ける。
 時間は21時になろうとしていた。職場の宴会と言っていたから、そろそろ場がお開きになる頃だろうか。
 それを確認して、空いた時間で宿題を片付けてしまおうと考えた。

 洗濯機が止まり、アラームが鳴る。ペンを動かす手を止めて、立ち上がる。
 中身を取り出して、室内に張った紐に洗濯物を干していく。
「……む」
 最後の最後まで見ないようにしていたネットが最後に残る。いや、最後まで手を出さなかったのだから当然なのだけれども。
 諦めて、ネットから中身を取り出す。
 務めて何も考えないようにしながら、それを干す。干す。干す。機械的に。むしろ機械になるくらいの勢いで。
 全て干し終わって、はぁ、と溜め息を吐いた。
 なんでこんなことで疲れきらなければならないのか。
 そろそろ慣れれば良いものを。
 そんな風に自分を叱咤する。
「……はぁ」
 けれども、それとこれとはやはり別なのだった。思春期とは度し難いものだ。他人事のように考えながら、籠を片付ける。
 部屋の隅で揺れているそれを視界から排除しつつ、自室へと戻ろうとして気付いた。
 鍵が開いた音がしたのだ。玄関を覗き込むと、こちらに背を向けつつブーツを脱いでいる女性の背中があった。
「お帰りなさい、冬香さん」
「んー。ただいまー」
 なぜか舌足らずな答え。ふわふわとした声の響きに、思わず眉が寄った。
 ブーツが巧く脱げないのか、何やら悪戦苦闘している背中を見て、はあ、と溜め息。
「ほら、足を抜いて下さい」
 手を貸しつつ、ちらりと見上げる。
 軽く赤くなった頬は、パッと見にはそれほど酔っ払っているようには見えない。
 見えはしないのだけれども――。
「雪くん……一緒に死んでー」
 どうやら、また不愉快なことがあったらしい。
 ブーツを脱がせるために屈んでいた自分にもたれかかるように、冬香の体が背中に乗る。
「……遠慮しますー。ほら、もう片方のブーツも脱いで脱いで」
 重みをそのままにして、とりあえず答えておく。
「脱がせてー」
「何歳ですか、あなた」
 言いつつ、冬香を背中に乗せたままなんていう姿勢で、無理やりにブーツを引き抜いた。
「ほら、ちゃんと立って」
「おー」
 ふらふらと起き上がると、冬香さんは居間へと歩いていく。
「……なんだかなぁ」
 もう一度、深く息を吐いて居間へ。そこで立ち止まる。
「いや、冬香さん。何してんですか」
「言われたとおり脱いでるのー」
「いや、なんでここで脱ぐんですか!? というか脱げって言ったのはブーツ!!」
 冬香さんが下着一枚でへらへらと笑っているのを横目に、ひとまず手近にあったバスタオルを押し付ける。
「それ巻いて! ああもう、いくら明日休みだからって飲みすぎです!」
「ねー、雪くんー」
「なんですか、もう」
 脱ぎ散らかしたスーツを拾い上げてハンガーにかけながら、聞き返す。
 冬香さんが、へらりと笑って、言った。
「お風呂、入る」
「はいはい。用意はできてるから、入っちゃって下さい。っていうか、大丈夫ですか? 酔っ払ったまま入って」
「大丈夫大丈夫。……それとも、一緒に入る?」
 こっちを見て、笑う冬香さん。その顔を見て、ぼくは「はぁ」と溜め息を一つ。
「……入ってもいいですけど」
「え?」
 キョトンとした冬香さんに、僕は首を傾げて尋ねる。
「じゃあ僕、ちょっと準備するんで。先に入ってて下さいね?」
「え、え、え?」
 バスタオルを握り締めたまま、冬香さんの表情が慌てたものに変わる。
「……冗談です。ほら、気をつけて入って下さいね」
「あ、そ、そう、だよね。あはは」
 引き攣った笑顔のまま、冬香さんが風呂場へと消えるのを見送って、溜め息。
 弟扱いするのなら、徹底的に弟扱いをして欲しい。
 そう思いながら、脱ぎ散らかされたストッキングを床から拾い上げた。


/5

 目を覚ました時、目の前に予想しない男の顔があれば普通の女は驚くと思う。
 柊冬香はそう思った。

 ずくずくと鈍く痛む頭を抱えながら目を覚ましたのは、身体にしみこんだ習慣ゆえだろう。いつも起きだす時間に目が開いた冬香は、目の前に眠っている雪也の顔を真正面から見てしまった。
(え、なんで雪くんが―――!?)
 声は出さず、ただ未だはっきりしない頭のまま、思考がいきなりトップギアに入る。入ったのは良いが、間違いなくギアは空転していた。頭の中には「なんで?」と「あ、ヒゲ生えてる」とかどうでも良いことが並列で流れているからだ。
 周囲を見回して気付く。ここは雪也の部屋だ。まあ部屋といっても自分の部屋と、ふすま一枚で仕切っている程度だが。それでもここは冬香のテリトリーではなかった。雪也と暮らすようになっても、彼女がこの部屋に入るのは掃除をする時くらいだ。
 敷いた布団に二人で入り込んでいる。雪也は横を向いたままだが、自分はといえばそんな雪也を抱きしめるようにしていた。
 さて。果たして自分に何が起こったのか。空転していた思考のギアが、さらに空転した。つまるところ、昨晩の宴会での禿部長の厭らしい発言だとか、飲みすぎた自分が部屋に帰ってきた記憶がない事だとか、その割に風呂に入ったらしい自分の格好だとかがさらに混乱を生んでいた。
 暫しの混乱の末に、冬香は深呼吸を一つした。
 まあ多分、またやらかしてしまったのだろう。
 飲みすぎると、どうにも自分は抑えが効かなくなるらしい。酔っ払った自分というものはなるべく客観視したくないなどと考えつつ、冬香は目の前の顔を見つめてみた。
 考えてみれば、雪也の顔をまじまじと見るのは久しぶりかも知れない。
 彼と初めて会ったのは、夫と婚約をして実家に挨拶に行った時だった。
 さすがに緊張していた冬香の前で、雪也は特に気負った様子もなく挨拶をしたのだ。「なるほど、兄は面食いでした」などと軽口を叩きながら。そうして、そのまま兄と軽い口喧嘩の応酬が始まったおかげか、冬香の緊張は解けたのである。

 柊雪也は兄には似ていない。それは、兄弟本人達や両親、さらにはご近所の認めるところである。兄は根っからの長男気質で、かつ万能な男だった。ご近所への挨拶も欠かさず、近所の子供たちのリーダーであり、老若男女から好かれる好漢だった。長じては学業成績もよく、スポーツもこなした。時代的にバブルは終わっていたが、氷河期からも脱しつつあった時代を大学生として過ごした兄は、それなりに遊びをこなしつつ大手商社へと入社した。
 考えてみれば、冗談みたいな男だ。
 それに対して弟である雪也は、これと言って特徴らしい特徴を持たない子供だった。
 どれも平均以上にそつなくこなすが、飛びぬけて素晴らしい物は無い。いいや、たとえ持っていたとしても、兄の影に隠れてしまっていたのだろう。普通なら兄の存在を無視して安寧を得るか、反抗するか、卑屈になるか。さもなくば兄の威光に依存しただろうに。だが、雪也は兄とごくごく普通の兄弟のように接した。たまに下らないことで喧嘩をし、長じてはあまり接触のない、けれども兄弟として何かあれば協力しあう。そんな関係を構築できたのは、雪也という人間の何よりの特徴だったのかも知れない。
 こうして一緒に暮らすようになって、彼が驚くほど大人びた少年だと知った。彼の保護者となろうと心に決めたものの、彼は大概のことは自力で出来る子供だった。彼にできないのは、きっと大人という立場が必要なことくらいだろう。
 むしろ、自分のほうが世話を受けているのかも知れない。たとえば、こんな状況だとかでは。
 雪也は自分を家族として扱ってくれる。弟として、親身になってくれる。時折困ったような顔をしながら、それでも自分を必要としてくれている。日常を一緒に送る相手として。
 彼と、兄はまるで似ていない。けれどもどこかで、二人は似ているのかも知れない。
 そう。たとえばこんな風に。自分を受け入れてくれているような所だとか。

 ふと気が付いた。雪也の目が開いて、自分を見つめていることに。途端にばつが悪くなって言葉が詰まった。
「え、と。あの、ね? 雪くん」
「……おはようございます」
「う、うん。おはよう」
 その距離は親密すぎて、だから冬香は必死に冷静さを取り繕おうとする。けれど雪也は、そんな彼女に何かを言うわけでもなく、じっと見つめている。
「……あのね、これは、その」
「昨日のこと、覚えてます?」
 ぼそり、と尋ねられた。
「う」
 そして、それは痛いところだった。正直なところ、冬香は覚えていないのだ。昨夜、果たして自分がなにをやらかしたのかを。こうして二人で一緒に眠っているというという状況が、途轍もなくマズイと理解していても、冬香は具体的に何があったのかを聞く勇気は無かった。
「覚えてないんですね」
 はあ、とため息。雪也は眉を寄せて不機嫌そうな顔をしている。
「ええと。何をやらかしたのでしょうか」
「……もう良いです」
 もう一度、深々とため息を吐いた雪也は、起き上がろうとして動きを止めた。
「……冬香さん」
「はい?」
「できれば放していただきたく」
「え?」
 ハッと気付けば、冬香の腕は未だに雪也の身体を掴んでいた。
 平たく言えば、抱き枕のように。
「あ、あはははは。ご、ごめんね!」
 腕を放して苦笑いを浮かべている冬香を一瞥して、雪也は「いえ」と短く答えると部屋を出て行った。
 残された格好の冬香はといえば、未だ頭の中が整理できないまま、混乱の中にいた。
「ああ、そうだ。冬香さん」
「は、はいっ!? なに!?」
 ひょっこりと顔を出した雪也に、飛び上がらんばかりの勢いで冬香が起き上がる。
「二日酔い、大丈夫ですか?」
 かけられた言葉を暫し吟味し、冬香はぐたりと倒れこんだ。
「……駄目かも」
「左様で」
 呻くような答えに苦笑して、雪也が顔を引っ込める。多分、水を持ってきてくれるのだろう。それを思って、冬香はぐったりとしたまま、それでも口元を緩めるのだった。








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