NEXTBACK

「冬香さんと僕。」

(C)2008 高橋硅/月光華園



/11


「ええ。だからそれは前にも言ったでしょう!? いい加減にして、お母さん! 私はもういい大人なんだから!」
 携帯電話に向けて怒鳴り散らしているのは、柊冬香だった。
 オフィスの休憩スペースには冬香以外の姿は無い。窓の外は真っ暗で、ビルの窓に点った灯りだけが皓々と輝いている。それを見下ろしながら、冬香は忌々しげに舌打ちをした。
「あのね、私まだ仕事中なの! それを何度も何度も同じこと言って……!」
 携帯電話を耳から放し、最後とばかりに怒鳴り声を上げる。
「もうこの話は止めて頂戴! 切るからね!」
 電話の向こうでも何か怒鳴っているようだが、冬香は無視して通話を切った。
 もう一度電話をかけてくる様子もなく、冬香は深い溜め息をはいて冷え切った紅茶を口に運ぶ。窓の外を流れる光は、高速道路を走る車のヘッドライトだろう。
 不意に携帯電話のLEDが明滅し、振動が手に伝わった。再度電話がかかってきたのを見て冬香は忌々しげにそれを広げた。
「……ああ、もう。しつこいったら」
 吐き捨てるように呟きながら、冬香は電話の着信履歴を見る。
 その番号は、冬香の弟からの物だった。
 途端、冬香の表情が晴れがましいものに変わる。
「はい、もしもし?」
 声は一オクターブ高まり、機嫌のよさそうな響きが部屋に広がった。
 果たして携帯から聞こえてきたのは、彼女の義弟の声だった。
 アルバイトが少し押して、まだ帰れそうにないという彼の声に、冬香は小さく頷く。
「うん。私もちょっと残業してて、まだ帰れそうにないの。うん。ええ、気をつけて帰ってね。え? ……うん。大丈夫だから。ええ。じゃあ切るわね?」
 体調を心配する雪也に笑って返して、冬香は通話を切った。
 晴れがましい顔で振り返って、そこで動きが止まる。
 休憩スペースの入り口に、唖然とした顔の葛木美咲が立っていたからだ。
「あら、美咲ちゃんも休憩?」
「え? あ、は、はい」
 コクコクと頷いた美咲に、冬香は機嫌よく微笑む。
「ごめんね。頑張って片付けちゃいましょ。じゃ、私は先に戻るわね」
 言ってすれ違う冬香に、美咲は呆然としたまま頷いて道を譲った。機嫌よく歩く冬香の背中を唖然としたまま見送る美咲は、最後に首を傾げてしまった。
 課長である柊冬香は、非常に有能な上司だった。厳しいところもあるが、ユーモアを解する気の良い上司でもある。結婚式に出席した時の彼女は美しかったし、葬儀に出席した時の彼女は不安になるほど消沈していた。
 職場ではそんな様子は微塵も見せなかった。皆も気を遣い、事故の件には触れないように気遣った。しかしそれでも、彼女のあんな嬉しそうな仕草を見たのは美咲は初めてだった。もしかして、新しい恋人でも出来たのだろうか。そんなことを考える。
 ゴシップは嫌いでは無いが、上司をそのゴシップのネタにするのは気が咎める。
 美咲は見なかったことにしよう、と心の中で決めつつも、いつか聞いてみようなどと考えて仕事に戻る事にした。


「――で、僕はなんでこんな事をしてるんでしょうか」
 椅子に頬杖を突きながら、雪也は溜め息を吐いた。
 閉店の時刻はとっくに過ぎている店内は、もうほとんど片付いている。照明もほとんど落とされ、現在明かりが灯っているのは雪也が座っている辺りだけだ。そして雪也の向かい側には東島夏奈が座っていた。
 俯いたままの夏奈は必死な表情でペンを走らせている。彼女の目の前にはノートと数学の教科書が広げられていた。
「うっさい柊」
「文句あるなら帰ろうか?」
「ごめんなさい。もうちょっとだけ居て下さい」
 待ち時間なしで夏奈が謝るのを聞きながら、雪也は溜め息をもう一つ吐いた。冬香に電話した時は仕事が押したと言ったが、その実はバイト先の娘の一人にして同級生の東島夏奈が明日の宿題を綺麗さっぱり忘れていたことに端を発したのだ。彼女は雪也がその部分を既に終えていることを確認すると、泣きついてきた。写させろ、とまでは言わなかったが教えてくれといわれたのだ。父親であるマスターに世話になっている身として、無下に断ることも出来なかった雪也は渋々ながら頷いたのである。
「大体、秋乃さんに聞けばいいだろ、これくらい」
「お姉ちゃんが素直に教えてくれるハズないじゃない」
「そうかぁ? 答えは教えてくれないけど、導き方は教えてくれるだろ。ヒントとか」
「そりゃ、柊はお姉ちゃんのお気に入りだもの。妹にはシビアなの」
 特に考えて答えているわけではないのだろう。夏奈の答えは、ほとんど反射的に出ているもののようだった。
「お気に入りね。まあ嫌われてはいないだろうけど」
「というより、あんたの前だと猫被りまくりよ」
 カリカリと動かしていた手がぴたりと止まる。
「ね、柊。これどうするの?」
 差し出されたノートを見て、雪也は教科書のページを指さす。横着とも見えるが、夏奈にはこれで十分なのだ。確かに東島夏奈という人間は単細胞な人間である。かつて雪也は彼女のことを「バカ」と評したが、それは彼女が劣っているのではなく、切り替えが下手で一つのことにしか集中できないことを評しての言葉だった。
 それゆえに、現在。宿題を解くという事に集中している彼女には、この程度で十分なのだ。
 マスターが淹れてくれたコーヒーを啜りながら、雪也は時計に目を走らせる。
 冬香がまだ残業中だと聞いてから、まだ数分しか経っていない。
「ね。さっき電話してたの誰?」
 不意に、夏奈が見上げて尋ねた。どうやら集中が途切れたらしい。興味の対象が複数あると、忍耐力が足りなくなる辺りが夏奈の夏奈たるゆえんだった。
「誰って言われても、家族だよ」
「家族……?」
 夏奈は、雪也とは1年の頃からのクラスメートである。とはいえ、彼の家族のことはよく知らない。ただ雪也と同じ中学出身の友人から、彼が天涯孤独らしいなどという事は聞いていた。それを当人に確認するほど無思慮でも無遠慮でも無い夏奈は、それでも不思議そうに雪也を見つめなおす。
「姉がね」
 雪也はといえば、特に気にした様子もなくそう続けた。
「……それにしては楽しそうだったけど」
「残業を楽しそうにしているように見えるとは、中々いい目をしてるな。東島」
 ひんやりとした雪也の声に、夏奈が慌てて視線をノートに戻す。
 柊雪也という人間はよく言えば誰にでも人当たりよく、悪く言えば他人に一定距離から内側に踏み込ませない人間だ。アルバイトを通じて、他のクラスメートよりは気の置けない友人関係を構築できたとは思うが、それ以上では無い。今も、彼は自分の家族については口をつぐんでしまう。
「……ゆーきーやーちゃん!」
 などと考えていたら、がばり、と椅子の後ろから雪也が抱きしめられていた。
「秋乃さん。何事でしょうか」
「んー? 雪也ちゃんが座ってたから抱きついてみたの」
 にまにまと笑いながら、雪也を背後から抱きしめている姉を、夏奈は思わず睨み付ける。こっちが宿題でヒイヒイ言っているというのに、何をしているのか。
「あら、夏奈の勉強を見てくれてたの? ありがと、雪也ちゃん」
「いえ。明日、東島が答えてくれないと、他の連中にもとばっちりがあるんで」
 数学教師の陰険さは学年中で有名なのだ。
「んふふ。雪也ちゃんは優しいね」
「自分のためですよ」
 ぐいぐいと後頭部に押し付けられる柔らかさを気にしないようにしつつ、雪也がそっけなく答えるのを楽しげに秋乃は眺めていた。
「謙遜しちゃってぇ」
「別に。……あの。出来れば放していただきたいんですが」
「気持ちよくない?」
 ぶふっ、と音を立てて夏奈が噴き出した。さらに、ゆらりと立ち上がる。
「おねーちゃん……宿題の邪魔だから、どっか行って」
 睨み付ける妹を見て、ゆっくりと笑った秋乃がその手を雪也から放す。後頭部の柔らかさと熱が離れるのを感じて、雪也が安堵したように息を漏らす。
「じゃあね、雪也ちゃん。夏奈も、あんまり迷惑かけないようにね」
「誰もかけてないわよ! さっさと戻る!」
 「はいはい」などと言いながら奥の自宅へと戻って行った秋乃を睨みつけ、さらに雪也に険しい目を向けた。
「……助平」
「僕は何もしてないんだけど」
「うっさい。助平」
「帰っていい?」
「ごめんなさい。もうちょっと待ってください」
 立場の弱い夏奈だった。




/12


 柊雪也は頬杖をついて、窓の外をぼんやりと眺めていた。
 夕方になった教室には生徒の姿は数えるほどしか残っていない。廊下からはブラスバンド部のチューニングの音や、運動部の掛け声が響いてくる。
 手持ち無沙汰そうにクラスメートと話している数人の生徒は、別に好きこのんで教室に残っているわけではなかった。彼らは、今日、三者面談の対象となった生徒達だった。
 順番待ちで教室に残っているわけだが、時折校門から見慣れないスーツ姿の女性や男性が入ってくる。それは多分、生徒の親――保護者なのだろう。時間を合わせるように、生徒が一人、また一人と事前に伝えられた順番どおりに教室を出て行く。
 雪也の面談の順番は、本日の最後に位置していた。
 だから、教室が閑散としていく中を、ぼんやりと窓際の席に座って時間が過ぎるのを待っているのだ。
 アルバイトに行く事もできず、部活をしているわけでも無い。手持ち無沙汰な時間が過ぎていく。
 夕暮れの教室は赤色に染まり、昼間のそれとはまるで違う別世界のようにも見える。
 いつしか教室に人気がなくなり、空虚な空間にぽつりと一人取り残されている。
 赤い世界。かつてなら特になんの感慨も抱かなかっただろう色。けれども、事故後の遺体の身元確認で雪也は両親と兄に対面していた。グシャグシャにつぶれたそれを、ほとんど直視する事はできなかったけれども。
 それでも、覚えていることはある。赤い色。ひたすらに赤黒い色。
「――っ」
 ブルッと体が震えた。寒いわけではない。ただ、全身がそれを思い出すことを拒絶した。
 冷や汗が浮かぶ。瞳孔が細まる。息が出来ない。
 思い出すことはなかったのに。
 思い出そうとしなかったのに。
 震える体を押さえつけようとした瞬間、ガラリと音を立てて教室の戸が開いた。
 ひょい、と上半身だけを入り口から室内に入れて、教室の中に他の人間がいないことを確認しているのは柊冬香だった。悪戯っぽく笑いながら、教室の中に足を踏み入れる。
「いたいた。おーい、雪く……?」
 雪也の様子に気付いたのか、冬香の声が止まる。
「雪くん!?」
 駆け寄った冬香が雪也の肩に手をかけた。手に伝わる震えに、冬香の表情が切迫したものに変わる。
「どうしたの!? 具合が悪いの!?」
「……ぁ」
 堪えきれなくなった雪也が、何も言わずに首を横に振る。その表情を見て、冬香は気付いた。この症状は、雪也が両親と兄を喪って暫くの間、彼を襲っていたものだった。
 PTSDに近いそれは、家族を唐突に失ったショックと、死体を見た事によるショックが加わったものだったらしい。冬香も夫の遺体を確認したが、あれはトラウマになってもいい代物だった。
 ただ、雪也は自分よりもそれをより強烈に感じたのだろう。元々、繊細な部分を持っているうえに、彼はまだ子供だったのだから。
「雪くん」
 だからそんな時、冬香はこうしていた。
 雪也の頭を胸元に引き寄せて、抱きしめる。
 心臓の音を聞かせるようにして、ゆっくりと、確かめるように頭を撫でる。
 雪也が目を閉じて、冬香の胸に顔を埋めるようにして、ゆっくりと息を吐く。
 心臓の鼓動にあわせるように、ゆっくりと。
「――だいじょうぶ」
 そのまま、雪也が落ち着くまでその姿勢を続けるのだ。
 雪也は、ふう、と深い息を一つ吐いて身動ぎした。それを合図に、冬香も手を放す。
「すいませんでした……」
 小さく、照れくさそうに雪也が謝る。その顔に、冬香はただ微笑んで返した。

「どうしたの? ここ暫くは落ち着いていたのに」
 雪也の額に浮かんだ汗をハンカチで拭いながら、冬香はそう尋ねた。実際、雪也のあの発作は事故直後の半年ほどで治まっていたのだ。彼が意図的にあの事故の詳細を思い出さないようにしているおかげだとは知っていたが、そうであるなら尚更に唐突に発作を起こす理由が分からない。
 雪也はされるがままになりながら、小さく呟いた。
「……夕日の赤が、ちょっと」
 室内を満たしていた赤は、今も鮮やかに室内を満たしていた。普段の雪也なら気にもしないだろうそれを、けれど今日に限って連想してしまったのか。
「そっか」
 だから、それ以上は冬香も触れない事にした。ただ、もう一度だけ、雪也を抱きしめる。
 雪也もされるがままになっている。普段の彼はあまり、こうして冬香に甘えることは無い。むしろ冬香が甘えていると言っても良いだろう。年よりも大人びたところのある少年は、いつだって冬香の面倒を見てくれているのだから。
 だから、こんな風に甘えてもらう瞬間が、冬香は好きだった。
 何を話すという事も無い。ただ、互いの心臓の鼓動を聞くように、静かな時間が過ぎていく。

 ガラリ、と教室の戸が開くまでは。

「――おーい、柊。次、お前だってよ」
「ん、分かった。じゃあ行きましょうか。冬香さん」
 教室に入ってきたクラスメートの少年が雪也の傍に座っていた冬香を、不思議そうに眺める。実際、彼女が雪也の母だとは到底見えない。いくら若作りでも無理があるだろう。では一体?という疑問が顔一杯に広がっていた。
「姉だよ」
 短くそう言って、雪也が教室を出る。冬香もクラスメートの少年に会釈を一つして、後を追うように教室を出た。
 廊下を歩く雪也の背中には、つい先刻自分にしがみついていた少年の面影は無い。
 あの一瞬で自分を立て直してしまった雪也に溜め息を一つ吐いていると、怪訝そうに振り返られる。
「どうかしました?」
「んーん。なんでも。ほら、先輩が待ってるんでしょ?」
 ええ、と頷いて雪也が歩き出す。
 冬香はもう一度、聞こえないように溜め息を吐いた。




/13


「失礼します」
 進路指導室の扉を開けて中に入ると、椅子に座っていた椛がこちらを見るのが分かった。
 椅子に座るよう促され、二人が座ると椛がまず冬香に対して一礼した。
「本日はお忙しいところ、ありがとうございます」
「へ? あ、いえいえ」
 椛の先手に呆けた返事をした冬香は、教師然とする椛をマジマジと見つめている。
「えっと……先輩?」
「それじゃあ、早速始めましょうか。とはいえ、先日の家庭訪問で進学の意志は確認しましたから、今日のところは柊君の学力や生活態度についてのお話程度になりますけど」
 資料を綴じているらしいファイルを開きながら、椛は冬香を無視して話を進めている。雪也はといえば、むしろこの状態の椛のほうが見慣れているので気にはならない。
「……何か?」
「え? あ、いえ、えーと、なんでもないです……」
 椛の毅然とした態度に冬香の声がしぼんでいくのが分かる。椛もそれに気付いたのか、気まずそうな顔を一瞬浮かべたのが見えた。
「――冬香さん。先生も、お仕事なんですから」
 雪也が短くそう言ったのも、冬香と椛が揃って気まずそうな顔をしていたからだろう。
 ちらりと椛の顔を窺った冬香は、苦笑いを浮かべている椛を見てほっと息を吐いた。
「そっか。そうですよね。すいません、先輩」
「……できれば『先輩』も止めて欲しいけれどね」
 深く息を一つ吐くと、冬香は表情を改めた。
「すいません。じゃあ、お願いします」
 背筋は伸び、表情も凛としている。恐らくは雪也の見たことのない仕事をしている時の冬香は、こんな顔をしているのだろう。そんなことを考えながら、雪也も椛に顔を向けた。
 椛もまた、同じように背筋を伸ばし、常の教師然とした顔をしている。
「柊君の成績なら、進学については今のところ問題はありません。当人の進学の意思は確認していますから、あとは進学先をどうするかですね。……何か希望はありますか?」
「そう、ですね。雪く……んんっ。雪也君の希望になるべく沿いたいと思ってますけど……雪也君?」
「正直、どこに進学するかまでは考えてません。……A大学とかで良いかなと思ってますけど」
「A大? どうして?」
「……家族が、そこに通っていたことがあったものですから」
「ふぅん。……まあ、A大となると今よりもう少し頑張ってもらわないと駄目よ?」
「――もう少し、視野を広げて考えてみます」
 椛は両手を挙げた雪也を一瞥し、冬香へと視線を移した。
「では、ともかく進路希望は進学という事で。具体的なところは、もう少し考えてからにしましょう。柊君の生活態度についてですが……」
 そこから続いたのは、普段の雪也の生活態度についての講評のようなものだった。
 特に問題はなし。それが椛の言葉である。
「実際、問題行動はなしです。教師としては助かる生徒、といえるわね。これはオフレコだけど」
 ファイルを閉じながら、椛はそう結んだ。
「当然です」
 誇らしげに胸を張る冬香の横で、雪也が小さく肩を竦めている。
「それでは以上という事で。本日はありがとうございました」
 一礼した椛に、冬香も深々と頭を下げる。
「こちらこそ、これからもよろしくお願いいたします」
 こうしていると、やはり冬香は大人なのだろう。雪也はそう思う。普段の彼女はむしろ子供っぽい行動を取ることが多いのだけれども。
「さて、じゃあ帰りましょうっか」
「はい。じゃあ先生。失礼します」
 雪也も一礼して指導室を出る。椛はといえば、まだ仕事が残っているのだろう。別のファイルを開いて、それに目を通しているようだった。
 人気の無くなった廊下を歩いて雪也は教室へと戻る。冬香はといえば、興味深そうに廊下から見える教室の中を一々覗き込んでいた。
「……荷物はこれでよし、と。冬香さん?」
「ん? もう良いの?」
「ええ。玄関で待っていてもらってもよかったんですけど。冬香さん、来客用の玄関から入ったんでしょう?」
「良いじゃない。なんか、学校っていう空間が久しぶりだから、楽しくて」
 そう言いながら、冬香は掲示板に貼ってあるプリントを眺めていた。
「そういう物ですか?」
「そういう物なの。雪くんはまだ在校生で、ここが普段の生活場所だからそう思わないだろうけどね」
 そう言って笑う冬香。確かにその感覚は雪也には理解できないだろう。
 不意に、自分と彼女の年齢差が、そこに横たわっていることに気付く。
「……そうですよね。冬香さんが高校生だったころって、もうずっと前――」
「雪くん。今日、ご飯抜きがいい?」
「なんでもありません」
 にっこりと笑っているはずの冬香の顔を、雪也は直視できなかった。


 時計の針が0時を指した頃、雪也は明かりを消して布団に潜り込んだ。
 外の通りを車が走る音がたまに聞こえてくる。雪也は小さく息を吐いて、天井を眺めた。
 学校から帰宅すると、いつもの通り冬香が食事の支度をし、その後片付けを雪也がした。風呂に入った後は、雪也は勉強を。冬香もテレビを眺めつつ、時折雪也の様子を見に来るという名目で構いに現れた。それは本当にいつも通りだった。
 だからこそ、こうして布団の中に入って暗闇の中にいると、思い出されるのかも知れない。
 今日の夕方のあれは失態だった。本当になんの前触れもなく自分を襲った発作を思い返し、雪也は苦々しく思っていた。自分の中で、あれはもう克服したとばかり思っていたが、その実さっぱり克服できていなかったらしい。冬香に抱きしめられていた自分を思い返すと、恥ずかしさで死にたくなった。
 冬香と同居したばかりの頃、何度かああして冬香に抱きしめられたことがあった。
 兄の結婚相手程度の関係性しかなく、遠近冬香なる人物について雪也は殆ど何も知らなかった。冬香もまた同じだろう。それでも彼女は、雪也を抱きしめていてくれた。
 それに、どれほど救われたか。
 ただ、年頃の男子として、ああいう風に接されるのが困ってしまうのも事実だった。
 他人の温度を感じることで落ち着くのは確かだが、それとは別な意味で落ち着かなくなってしまうのだ。いつしか発作も起きなくなり、冬香との距離は一定の間隔を保ったままで、過ごすことが出来るようになった。
 そうでなければ、こうして一緒に暮らすなんて、不可能だっただろう。
 彼女は兄の妻であり、自分とは本来なんの関係もない、他人なのだから。
 ぐるぐると思考は回る。
 いつしか時計の針は1時を指していた。
 真っ暗な部屋で、薄ぼんやりと見える天井と蛍光灯を眺めていると、襖が静かに開いたのに気付いた。
 暗がりの中を音を立てないように入ってくる人影。
 雪也はそれを怪訝に思いながら暫し眺め、諦めたように声をかけた。
「どうかしましたか、冬香さん」
「うぇ!? お、起きてたの!?」
 動揺した声は果たして柊冬香のものだった。雪也は上半身を起こして、暗闇を透かすように冬香を見る。
「ええ。なんだか寝付けなくて。……何か用でも?」
「あ、待って待って! 明かりつけなくて良いから!」
 言って、明かりをつけようと立ち上がろうとすると、冬香が慌ててそれを遮った。怪訝に思いつつ、雪也はもう一度布団に座りなおす。冬香は安堵したように息を吐き、それから雪也に少しだけにじり寄ったようだった。
「……冬香さん?」
「えっと、ね」
 先を促すように雪也が問いかけると、冬香は言葉を続けるのを躊躇うように先を濁す。ただ、距離だけが近づいている。
 心臓の音が、いやにうるさく聞こえる、と雪也は思った。
「――あの、どうかしたんですか?」
「あのね……」
 ぐ、と意を決したように冬香が雪也の手を取る。
 心臓の音が、今度はまったく聞こえなくなった。
 薄明かりの下、冬香はいつもの寝巻き姿のようだった。化粧を落とした素顔は、元々化粧っ気があまり無かったからなのか眉毛がなくなっているだとかそういう事は無い。
 石鹸と、うっすらと香水のものらしき良い香りがする。硬直した雪也を怪訝に思う様子もなく、冬香の手がぎゅっと彼の手を握り締める。
 細い指は温かい。その温度は今日、震える自分を暖めてくれたものだ。
「……今日は、一緒に寝よ?」
 その声はひどくか細いものだった。




/14


「……今日は、一緒に寝よ?」
 かすれるほど小さくか細い声は、けれどもこれ以上ないほど強く雪也を揺さぶった。
「え?」
 思わず呆けた声を上げた雪也に、冬香は俯いたまま握った手に力を入れる。自分から比べれば小さく細い指は、緊張のせいか震えていた。明かりの消された薄暗い部屋で、暗闇に慣れた目がぼんやりと彼女の姿形を捉えている。
 確かシルク地と記憶している寝巻きは夜闇の中でぼんやりと輝いて、冬香の華奢な体つきをこれ以上ないほど艶かしく見せていた。ごくり、と思わず唾を飲み込んだ自分に驚き、雪也は必死に思考を立て直そうとする。
「――あの、冬香さん?」
 心臓の音が聞こえない。むしろ、なんの音も聞こえない。
 うるさすぎて、知覚が飛んでしまったのか。
 雪也が、辛うじて出せた声は、こんな情けない声でしかなくて。
 車が外を通り過ぎる音がしているはずなのに、雪也にそれは聞こえない。ただ、目の前にぺたりと座っている女性の声しか聞こえない。
 姉だ。この人は、自分にとって姉なのだ。そうでなくてはならないのだ。
 雪也の中で、そう言い続ける自分がいる。そもそも、この人にとって自分は、夫の弟でしかないのだから。
 思ったよりも抜けた所があったり、思った以上に普段の生活態度がチャランポランだったりする人は、いつの間にか保護者から被保護者のような気分に雪也をさせていたのかも知れない。けれども今日、気付かされた。それでも彼女は、やはり自分にとって保護者であったのだ、と。
 薄闇の向こうから冬香の手が伸びてくる。
 指先が頬を撫でるように伝い、形を確かめるように下へと降りていく。
「……雪くん」
 白い歯が暗闇の中でぼんやりと光る。
 心臓はもしかしたら、あまりの五月蝿さに体から飛び出したのかも知れない。
 まったく何も考えられないまま、そんな益体も無いことを思いつく。
「なんで」
「――だって」
 僅かな逡巡。雪也の手を握る彼女の手に力が篭もる。
 指を絡めるようにして、距離がさらに縮まる。
「雪くん、辛そうにしてたから」
 そのまま引き寄せられる。
 胸元で頭を抱きかかえるように、抱きしめられる。
 夕方のそれと同じこと。
 ただ違うことがあるとしたら、ここが自分の部屋で、彼女が薄い絹一枚でいて、そして今が夜だという事。
 息が止まる。冬香の体温が心地よくて、けれども同時に自分の中にある何かが騒ぎ立てているのが分かるから。冬香はそれに気付いていないのか。きっとそうなのだろう。雪也は結論付ける。
「……大丈夫ですから」
「ダメ」
 ぎゅ、と抱きしめられる力が強まる。たったそれだけで、雪也は動く事が出来なくなる。
 むしろ呼吸する事すら、辛い。
「あの、放して……」
「ダメったら、ダメ」
 抱え込まれたままの姿勢が割と辛いんだけどなぁ、などと考えている辺り、雪也もギリギリな線で踏みとどまっているのかも知れない。
 時計の針がカチリと音を立てて進むのが見えた。
「……冬香さん。明日も仕事でしょう?」
「雪くんだって学校だよ」
「ですよね」
「うん」
「……じゃあ、早く寝るべきだと思うんですよ」
「そうだね」
「……ええ」
「じゃあ……寝よ?」
「……できれば一人で寝たいんですが」
「ダメ」
「……延々と続くんですか、もしかして」
 出来の悪いコンピュータRPGじゃあるまいし。思わずそう呟いた雪也に、冬香は微笑む。
「雪くんがちゃんと寝られるように、私が傍に居てあげるから」
 むしろそっちのほうが問題なんですよ、と言えたらどんなにか良いだろう。彼女のそれが100%善意だと理解しているからこそ、雪也はそれを口に出来ないのだ。あの夕方の一件で彼女の中で自分がまだ子供だという認識が生まれたのだろう。
 そうでなければ、こんな行動を彼女がとるはずが無い。
「……分かりました」
 もしも彼女がそう思っているのなら。
 自分に出来るのは、彼女が思う『子供』で居ることしかないのだろう。
 冬香は嬉しそうに微笑むと、いそいそと布団の中に潜り込んだ。
「寒くない?」
「大丈夫ですよ。……もしかして、ずっと手は繋いだままなんですか?」
 布団の中でも放されない手に、雪也は思わず訊ねた。すると冬香は当然のことのように「うん」と頷いて返した。
「……はぁ」
 小さく溜め息を吐いて、目を閉じる。
 すぐ傍に、他人の温度がある。それは不快なものではなくて、むしろ落ち着きを奪うもので。それでも、その動揺を表には出せなくて。
 無理やりに目を閉じて、隣にいる人を頭から締め出そうとする。
「雪くん。寝た?」
「……今、横になったばかりの人間に言う台詞じゃないですね」
 あはは、と小さく笑った冬香は、少しだけ距離を詰めたようだった。
「寒いですか?」
「ん。ちょっと」
「……やっぱり、自分の布団で寝るほうが」
 ぐに、と抓られた。
「なんでもありません。おやすみなさい」
 もう一度目を閉じて、ふ、と息を吐く。
 冬香も目を閉じたようだった。
 心臓の鼓動が聞こえるようになる。それはまだ普段よりも随分と早く脈打っているけれども、それでも寝るくらいはなんとかなりそうだった。
 意識が不意に落ちる。その最中、冬香が身動ぎしたような気がした。


 雪也が眠りに落ちたのを確認して、冬香は少しだけ体を動かした。
 いつだったか、酔っ払って彼の布団で眠っていた時のことを思い出す。
 照れくさそうに嫌がった彼に、無理やりに同衾を迫った理由は簡単だ。夕方に見せた雪也の発作。あれがまた起きた時のことを考えたのだ。
 そう。それが理由だったはずだった。
 けれど冬香は、目を閉じて寝息を立てて眠る雪也を見つめているうち、それ以外の何かが胸の裡から湧き上がるのを感じていた。
 繋いだ手から伝わる温度。
 抱きしめた時に伝わった、心臓の鼓動。
「……雪くん」
 夫の弟。義理の弟。被保護者。それが彼。それ以外ではない。それ以外ではありえない。
 そうでなければ―――。
 暗闇の奥で眠る雪也の顔には、夏彦の――彼の兄の面影は無い。だっていうのに。
「……ッ」
 自分は何をしているのだろう。何をしてしまったのだろう。
 唇を手で押さえながら、冬香はそう考えていた。




/15


 宮川椛は戸惑っていた。彼女の視線は窓際に向いている。
 そこには机に突っ伏している柊雪也の姿があった。隣に座っている生徒も、怪訝そうに隣を見ている。普段の雪也は優等生といって良く、少なくともあのような見るからに居眠りする様子は見せなかったはずだ。それは周囲のクラスメート達も感じているのか、奇異の目で彼を見ている。
「……んんっ」
 咳払いを一つして生徒達の視線を前に集めなおすと、椛は雪也の隣の生徒に彼を起こすよう指示をした。肩を揺すられて顔を上げた雪也に、椛は短く後で職員室へ来るようにと伝えた。

「一体どうしたの? 具合でも悪いの?」
「いえ……」
 職員室に現れた雪也に、椛は開口一番そう訊ねた。
 言葉短く否定した雪也は、ただ一言居眠りについて謝罪した。しかし椛には正直、居眠り自体は目くじらを立てるほどではないと思っていたのだ。少なくとも、雪也に関しては、だが。
「目が赤いわ。……もしかして、あまり寝てないの?」
「……いえ」
 言葉は少ない。けれども、答えるまでの間が真実を示していた。
「もしかして、進路のことで冬香と何か揉めたの?」
「ああ、それは無いです」
 三者面談をした翌日のこの状況に、もしやと思って訊ねてみれば、それは違うと即答する。椛は正直なところ、なんと判断すれば良いのかを図りかねていた。
 雪也は表面的には変わりなく見える。
 けれどもやはり、どこかぼんやりとしているのだ。
「はぁ……。分かったわ。別に具合が悪いわけじゃないのね?」
「はい」
 椛が眉間に皺を寄せたまま、頷いた。
「分かったわ。じゃあ、行ってよし。でも他の先生の授業中は居眠りしないようにね」
「気をつけます。じゃあ、失礼します」
 職員室を出て行った雪也の背中を見送って、椛はもう一度溜め息を吐いた。
 雪也が何か別のことに気をとられている事は一目瞭然だった。あれではたとえ起きていたとしても、授業内容は頭には入らないだろう。
 一体なにがあったのか。昨日は特に何も変わりなかったというのに。
 雪也のあの様子は、ただ事では無いだろう。普段の彼は、あんな風に弱みをさらけ出すことを嫌っている。それくらいは担任として把握していた。
 そして今は、担任としてしか雪也に接する事が出来ないという事も。


†  †  †



 目覚まし時計のベルが鳴ろうという寸前、布団から伸びた手がそれを止めた。
 カーテンの向こうから朝陽が差し込んでいる。明るい光に照らされて、眠りこけている隣の女性の顔がよく見えるようになった。
 もう片方の手は動かすに動かせないままで、その不自由な姿勢のせいか身体が痛い。
 つながれた手は、解こうと思えば多分ほどけるだろう。ただ、そうする事が出来なかっただけで。
 ぼんやりと、自分の隣で横になっている義姉を眺め雪也は心の中で呟いた。
(……結局、眠れなかった)
 自分が眠ったと思った彼女の夜半の行動を思い返し、雪也は目を閉じる。
 あの一瞬。自分の身体が動かなかったことは救いだった。もしもあの時、まだ彼が起きていたことに彼女が気付いたとしたら、どうなっていただろう。今はこうして幸せそうな顔で寝こけている彼女は、どうしていただろうか。
 喪失は今や雪也にとって、もっとも恐れるべきことだった。
 果たして、彼女の行動をどう受け取るべきなのかすら、混乱した頭では考えはうまくまとまらない。
 そもそも、あんな真似をしておいて、あっさり眠るとはどういうつもりなのか。
 どうしたものかともう一度目を開き、冬香の顔を見た。
 口が半開きになり、くかー、などと呑気な寝息を立てている彼女に思わず苦笑が浮かぶ。
 彼女のあの行動は、家族への親愛の情なのだろう。雪也にはそれが正解だと思えてきた。冬香の指には今も兄が贈った結婚指輪が輝いている。そして彼女にとって自分は、その弟なのだから。常日頃から彼女が言うように、きっと自分は彼女にとって「弟」なのだ。
 そうでなければ、一緒にいる理由は無くなってしまう。
 もぞもぞと動いた冬香がうっすらと目を開いた。
「……んぅ?」
「おはようございます」
 冬香の目がぼんやりとしたままで、そのまま数秒、雪也の顔を直視し続けていた。
「雪くん……?」
「はい」
 まだ意識がはっきりしないのか、冬香の反応は鈍い。
 雪也は小さく笑って、繋がれた手を握り返してみる。
「そろそろ放してくれないと、二人とも遅刻しますよ」
「え!?」
 がばっと冬香が起き上がり、時計を掴んだ。針は彼女がいつも起きる時刻より進んでいる。そして、多分朝食を作る余裕は無い。
「う、嘘!」
「すいません。時計のセットを忘れていたみたいで」
 雪也がしれっと言うのを聞きながら、冬香は跳ね起きた。
「えーと! と、とりあえず急がないと!」
「ですね」
 バタバタと部屋を出て行こうとした冬香が、不意に足を止めた。
 ちらりと振り返って、今の今まで自分が寝ていた場所。すなわち、雪也と布団を見た。
「……えっと、あのね?」
「はい?」
 雪也の態度はいつもと変わらない。怪訝そうに自分を見返した雪也に、冬香はただ「にへら」と笑った。
「ううん、なんでもない。おはよ、雪くん」
「おはようございます。冬香さん」
 部屋を出て行った冬香を見送って、雪也が深くため息を吐いたことに彼女は気付かなかった。
 そして、部屋を出て洗面所へ駆け込んだ冬香が同じように深く溜め息を吐いたことに、雪也は気付かなかった。






NEXT