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「冬香さんと僕。」
(C)2008 高橋硅/月光華園
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ホテルのロビーは、それほど込み合ってはいなかった。休日とはいえ、連休でもないただの日曜日に、ホテルを利用するような客はそう多くはないのかも知れない。
冬香はロビーに併設されたラウンジで、なるべくフロントや入り口から見えない場所を選んで座っていた。観葉植物の影になるようにして、落ち着かなさげに何度もエントランスとフロントを見回す。
実際、冬香は落ち着いてはいなかった。
昨晩の椛からの電話で語られた内容は、冬香から冷静さを根こそぎ奪い取っていた。
雪也が椛に縋ったなど。雪也が彼女に癒されたなど。
だが冬香から何度電話をかけても、雪也は電話には出なかった。自宅の電話にかけても、まったく出る様子はない。
朝、ホテルをチェックアウトした冬香は自宅へと大急ぎで戻った。
そこには、冬香が着替えを取りに戻った時と、何一つ変わらない光景が広がっていた。
そう、つまりそこには雪也はおらず、また、冬香が一旦戻った数日前から雪也が戻ってきてもいない事を示していたのだ。
その事実に、愕然とした。
冬香はきっと、雪也は家に戻っているだろうと思っていたのだ。
だが、彼は家に帰ってすらいない。そしてきっと、椛のベッドに居るのだ。
「――ッ」
コーヒーカップを持つ手が震える。
想像しただけで頭は椛への怒りと、雪也への怒りで一杯になっていた。
自分を好きだと言った雪也が、手のひらを返したように椛を抱いたのか。自分が傷つけてしまった雪也を、椛が抱いたのか。
怒りが湧く。そして同時に、自分にそんな資格はないのに、と自嘲してしまう。
こんな覗き見のように隠れていること自体、バカみたいなことをしていると思えてしまうのに。
「あれ、遠近? もしかして、遠近冬香か?」
「――はい?」
不意に、話しかけられた。しかもその声は、いやに聞き覚えがあった。
見上げた先に、一人の男が立っている。スーツを隙なく着こなした伊達男。歳は、自分と同じくらいか、少し上だろう。身体から溢れるバイタリティと、その少年じみた目の光が魅力的だった。
だが、そんな人間の知り合いはいない。
仕事先で会ったことのある人間ならば、冬香はほぼ記憶している。そしてこんな目立つ男ならば、絶対に記憶しているはずだ。
「久しぶりだなー、十年ぶりくらいか?」
人好きのする笑顔で、無造作に肩を叩いてくる。
「あ、あの?」
「ん? なんだ、覚えてないのか? つれない奴だな、おい」
カカと笑い、男は冬香の前に座った。
「……えっと、あの、あなたは一体」
「香山だよ。香山一哉。高校ん時のお前の先輩の」
「……香山、先輩?」
脳裏に浮かぶのは女好きで、騒動好きで、そして最終的にはとある女子に首根っこを抑えられていた男子の姿。
「香山先輩!?」
「おうよ」
香山一哉はあの頃と変わらないふてぶてしい笑みを浮かべて見せた。
「いやー、それにしても遠近、相変わらず美人だな、おい」
豪快に笑う一哉に、冬香は苦笑いを浮かべて礼を言った。
正直、目立つわけにはいかないのだ。特に雪也と椛に見つかるわけにはいかない。
だというのに、香山一哉という男は、無駄に目立つ。生気が強すぎるのか、声が大きいだけなのか。
「先輩は、その、どうして?」
「ん? ああ、仕事でな。早くつきすぎて時間潰しをしてたんだが、知り合いに会えて助かったぜ。暇で暇で死にそうだったからな」
「は、はあ」
「そんで? 遠近はどうしてこんな所に居るんだ?」
「え? あ、えーと、わ、私もその、仕事で」
ふうん、と呟くと一哉は冬香の顔をじっと見つめた。
冬香はといえば、ジリジリと焦りが募るのが分かった。エントランスとフロントをチラチラと見て、椛と雪也の姿を探す。
「なんだ? 誰かと待ち合わせでもしてるのか?」
「え!? あ、え、ええ。仕事の打ち合わせ先の方が来るのを……」
目の前で泰然としている男に苛立ちながらも、表情だけは笑顔を浮かべる。長年で培った外面の良さは、生半に崩れるものではないらしい。
ふと、エントランスをくぐってきた二人連れが目に入った。
女性の派手とまでは言わないが、明るい色合いのドレスが目を引いた。その腕が、隣を歩く青年の腕にしっかりと組まれている。男のほうはといえば、まだ背はそれほど高くなく、線も細い。女より随分年下のように見えた。姉弟かとも思ったが、親しげに顔を近づけて囁きあっている姿は、どう見ても親密な恋人のようだった。
「……ッ!?」
そしてそれが柊雪也と、宮川椛である事も理解できた。
椛は楽しげに微笑みながら、雪也の腕を取って歩いている。密着しすぎて歩きにくいのではないかと思うほどだ。事実、雪也の腕は恐らくは椛の胸に押し当てられているだろう。
「んー? どうかしたのか?」
顔色を変えた冬香を見て、一哉も興味を抱いたように冬香の視線の先を追う。
「なんだ、ありゃ。椛じゃねえか」
椛の顔を見て、一目で見抜いた一哉はさらにその隣に目をやった。
「……なんだなんだ。随分年下つれてるな、あいつ。……遠近? どうした?」
「え、え? 何か、仰いました?」
「顔色悪いぞ。具合でも悪いのか?」
「いえ。別に、大丈夫ですから」
椛は雪也をつれてフロントへと立つと、チェックインの手続きをしているようだった。
ゾクリと背筋が凍えた。
彼らが何をしようとしているのかを、理解したくなかった。
だというのに、目の前でそれは、進んでいる。
ちらり、と椛がこちらを見た。目が合ったと思った瞬間、椛は勝ち誇るように微笑みを浮かべてみせた。少なくとも、冬香にはそう見えた。
雪也の手を引いて、エレベーターへと歩いていく。その背を見た瞬間、冬香は立ち上がっていた。
そして、雪也も冬香を見た。強張った顔で冬香を見ている。いや、睨んでいた。
ズキリと胸が痛む。彼の目には、怒りがあった。
雪也が足早にラウンジに向かってくる。椛も、その一歩後を遅れて付いて来る。
冬香も椛を睨みつけて、歩き出していた。
世間体も、雪也のためと思った自分の考えも、もう頭には無かった。あるのはただ、椛への怒りだけだ。
雪也の視線は怒りに満ちて、冬香を貫いて――なぜか冬香の後ろに立っていた香山一哉の顔に向けられている。
椛は余裕の表情で、ニヤニヤと冬香をあざ笑っていた。
「雪くん」
「冬香さん」
二人は互いの名前を呼び。
「お見合いなんて止めて下さい! 冬香さんは、僕と結婚するんだから!!」
「先輩と付き合うなんて駄目よ! 雪くんは、私のお婿さんなんだから!!」
ラウンジに、大声が響いた。
「……え?」
「あれ?」
雪也と目を合わせ、自分たちの言葉を反芻する。
「お見合い?」
「椛さんと付き合う?」
はい?と二人で首を傾げた。
「……ぷっ」
「ククッ」
自分達の背後で、こらえ切れない笑い声が漏れる。
ぎりぎりと振り返れば、そこには涙目になっている宮川椛と、香山一哉が立っていた。
「香山先輩?」
「椛さん?」
ぶははははは、と一哉の盛大な笑い声がホテルのロビー中に響き渡り、周囲の視線に気まずくなった四人は足早に椛が取った部屋へ急いだのだった。
† † †
ホテルの部屋に入ると、一哉が最初に口を開いた。
「んじゃ、改めて。香山一哉。椛の妹と結婚してる。椛の義理の弟って奴だな」
「えっと、柊雪也です。冬香さんの、今のところは、義理の弟です」
「今のところは、か」
ニヤニヤと笑う一哉を、雪也は睨みつけている。
「椛先輩。これは一体……」
当惑しきった顔の冬香に、椛があきれ返った顔で首を傾げた。
「冬香、あんた、予想以上に限界に達してたみたいね。私のあんな嘘を真に受けるほど、雪也君に会いたかった?」
「――嘘?」
椛がソファに腰かけながら、冬香に座るよう促す。雪也は今も一哉を睨みつけながら、渋々と冬香の隣に腰かけた。
「そうよ。雪也君があなたに振られたって聞いたから、まあ多分、ぐだぐだと保護者の責任とか、大人の責任とか、雪也君の将来だとかを考えて煮詰まったんだろうなって思ったから。ちょっと一芝居打ってみたの」
ふふん、と鼻で笑った椛は、愉快そうに雪也と冬香を見比べる。当惑しきった二人は、そんな椛の視線に鸚鵡返しに尋ねることしか出来ない。
「芝居、ですか?」
「雪也君をひとまず家から連れ出して、私の所に連れ込んだのは本当。あ、ちゃんと何もしてないから安心なさい」
握り拳に力をこめた冬香に、椛が慌てたように付け加える。
「もちろん、雪也君が求めてきたら、応えるのもやぶさかでは無かったんだけどもね」
「人間変わってないですか、先輩」
冬香のじっとりとした目を無視して、椛は続けた。
「あなたに言った言葉は覚えてるわよね。私と雪也君は付き合っている。確かめたければここに来いって。でね? 雪也君にはこう言ったの。冬香がこのホテルでお見合いをするって」
「……嘘つきましたね、椛さん。素直に教えてくれていれば……」
「あら、素直に教えたら、雪也君は自分の気持ちをもう一度口に出した? 一度拒絶されたら、あなたのことだから二度と言わなかったんじゃない?」
言葉を詰まらせた雪也に微笑みかけ、椛は一哉に目を向けた。
「で、私の知り合いかつ冬香の知り合いで、彼女を本気で口説かないだろう唯一の男に、親しげに話していてほしいってお願いしたわけ。当て馬に本気になられても困るし」
「……お前、後でちゃんと楓に説明しろよ!? あいつ、俺がホテルで女と会ってるなんて聞いたら、絶対に怒るんだから!」
一哉が情けない事を怒鳴る。
「はいはい。ちゃんと電話しておくわよ。で、あとは時間を合わせてロビーに二人で入ればよかったという訳。納得した?」
冬香は渋々とばかりに頷き、さらに疑問を口にした。
「……一応は。でもそれって、もしも私が雪くんから逃げたり、雪くんが何も言わなかったりしたら―――?」
「その時は、そのまま私が慰めてあげるつもりだったわよ?」
「んなっ!?」
冬香が立ち上がって、椛をにらみつけた。ふるふると震える拳が危ない。
雪也が冬香の手を握り、再び座らせた。
「ゆ、雪くん?」
「大体、世間体とか考える暇があったら、きちんと自分の気持ちに向かい合いなさい。……面倒ばかりかけるんだから」
椛はすっくと立ち上がると、一哉を促した。
「ねえ、冬香。さっきロビーで怒鳴った言葉が、あなたの本当の気持ちよね?」
「……う」
「そりゃ、私なんかには渡せないわよね?」
「うう……」
冬香が真っ赤になって俯いたのを見て、椛は微笑む。
ぽん、と冬香の頭を軽く叩くと、一哉を伴って部屋を出て行く。
「せ、先輩?」
「この部屋、今晩はもう押さえちゃってるから。後で請求書送るわね」
「え、えええ!?」
「じゃあね。二人とも」
顔を真っ赤にした二人を残して、椛と一哉は部屋を出て行った。
オートロックがかかる音が、シンとした室内に響く。
冬香は俯いたまま、そっと雪也の様子を覗う。
雪也は、憮然とした顔のままで冬香の隣に座っていた。ただ、今も彼女の手をしっかりと握り締めている。
「……ゆ、雪、くん?」
恐る恐る、雪也を呼ぶ。だが、雪也は握った手に力をこめただけで、それ以上は答えない。
「あの、ね。……その。ごめんね……」
答えない雪也が怖くなり、冬香は俯きそうになるのを必死に堪えて雪也を見上げ、彼の目が愉快そうに微笑んでいることに気付いた。
「雪くん!」
「もう良いですよ。聞きたい言葉は、さっき言ってくれましたから」
雪也が嬉しそうに笑っているのを見て、冬香はほっと息を吐いた。
「で、でも」
「あと一年待ってください。……そうしたら、まあ歳の差はありますけど、後ろ指差されるようなことも無くなりますから」
ぎゅ、と握られた手に力がこもる。
「……駄目ですか?」
「う……いや、駄目とかそういうんじゃなくて。雪くんは本当に良いの? その、絶対あと何年かしたら後悔するよ? お肌の曲がり角とかもう越えちゃってるんだから。私」
「冬香さんが良いです」
真正面から見つめられ、冬香は深々と息を吐いた。
「まったくもう」
「より正確には、冬香さんじゃなきゃ駄目です」
「恥ずかしくなるから、それ以上言わないでー!」
むきゃー、と悲鳴をあげた冬香は、けれども心の底から笑っていた。
「……えーと。で、さ。雪くん」
「はい?」
なぜか備え付けのお茶を啜りながら、二人はベッドに腰掛けていた。
「その……」
ちら、と雪也の顔を見上げ、目を逸らした。
「なんですか?」
「その、ね? えっと……する?」
「いやいやいや。えーと、したいのは山々なんですけども」
慌てた様子の雪也に、冬香は怪訝そうに眉を寄せた。普段の冷静な雪也からは想像もつかないほど、動揺している。視線は右往左往し、額には汗すら浮いていた。
「雪くん……?」
「あー、なんて言えば良いのかな。えっと、したいのは本当です。でも、そのですね。多分、しちゃうと僕、駄目になると思うんで」
「駄目に?」
「ずっと、冬香さんと気持ちよくなってたいとか、そういう事を言い出しそうなんで」
「……そう、なんだ」
顔を紅潮させたまま、二人とも俯いてしまう。
「だ、だからですね! えーと、一応、卒業までは、おあずけという事で」
「それってつまり、私もお預けってこと?」
「……まあ、そうなるんではないかと」
「やだー!」
「やだって、あなた」
がばっと雪也を抱きしめると、冬香はそのままベッドに押し倒した。
「ちょ、冬香さん?!」
「あと一年もお預けなんてやだもん!」
「子供ですか、あなた!」
馬乗りになった冬香は、下敷きにした雪也を見下ろした。
「……せっかく覚悟を決めたのに、お預けなんてやだもん」
「あー。ですが、僕も一応学生の身なんで」
「……今時の若い子のほうが、こういう事のボーダーは低いと思うんだけど」
「……意志の弱い僕としては、一度そういう事をしちゃうと、歯止めが利かなくなる自信があるんです」
冬香は、お尻にゴツゴツしたものが当たっていることに気が付いた。
「でも、雪くんもその気になってない?」
「男の生理反応ですよう!」
半泣きな声で雪也が叫ぶのを聞いて、冬香は微笑んだ。
「大丈夫、おねーさんに任せて」
「いや、ですから! あと一年は禁欲しましょうよ!」
「むー。……でも一年もしなかったら、雪くん、飽きちゃうかも知れないし」
「それはないから。ないですから」
ぐ、と雪也の顔に、自分の顔を近づけた。
「じゃあ……」
「じゃあ?」
「キスなら良い?」
仕方ないなぁ、という顔で頷いた雪也に、冬香は口付けた。
【END】
APPENDIX
「で、先輩とは本当に何もしてないの?」
「え? ええ、何もしてないですよ?」
「……なんで私の目を見ないの?」
「気のせいですよ」
「……雪くん?」
「はい?」
「お話があります」
【どっとはらい】