集会案内

吉田牧師のラジオメッセージです。  「キリストへの時間」 ラジオ関西 558KHz 日曜日午前7時30分〜45分
吉田牧師の最近のメッセージは こちら で聞くことができます。

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 『暗闇を照らす光』  ルカによる福音書2章8節〜12節
 『主の祈り5−必要な糧を今日与えてください』  マタイによる福音書6章11節
 『主の祈り4−御心が行われますように』  マタイによる福音書6章9節,10節
 『主の祈り3−御国が来ますように』  マタイによる福音書6章9節,10節
 『主の祈り2−主の御名が崇められますように』  マタイによる福音書6章9節 
 『主の祈り1−父への祈り』  マタイによる福音書6章9節
 『キリスト教人物伝:アーネスト・ゴードン』  ローマの信徒への手紙8章35節, 38節, 39節
 『キリスト教人物伝:アン・サリバン』  マタイによる福音書5章14節
 『キリスト教人物伝:三浦綾子』  テモテへの手紙二4章7節
 『キリスト教人物伝:水野源三』  イザヤ書43章4節
 『キリスト教人物伝:ジョン・ニュートン』  ヨハネによる福音書3章16節
 『キリスト教人物伝:田原米子』  コリントの信徒への手紙二 5章17節
 『キリスト教人物伝:マザー・テレサ』  マタイによる福音書25章40節
 『キリスト教人物伝:ダミアン神父』  ヨハネによる福音書13章34節
 『主の名を呼び求める者は救われる』  ローマの信徒への手紙10章9節, 13節
 『神の愛から引き離すものはない』  ローマの信徒への手紙8章35節, 38〜39節
子供向  『ファリサイ派の人の徴税人の譬え』  ルカによる福音書18章9節〜14節
子供向  『アッバ、父よ』  ローマの信徒への手紙8章12節〜17節
 『苦難を誇る』  ローマの信徒への手紙5章1節〜5節
 『もう泣かなくてもよい』  ルカによる福音書7章11節〜17節
 『主イエスは羊飼い』   ヨハネによる福音書10章11節・16節
 『神の真実』  ローマの信徒への手紙3章3節〜4節
 『敵を愛する十字架の愛』  マタイによる福音書5章43〜44節
 『思い悩みからの解放』  マタイによる福音書6章25節
 『人をさばくな』  マタイによる福音書7章1節
 『求めなさい』  マタイによる福音書7章7節
 『わたしが命のパンである』  ヨハネによる福音書6章35節
 『驚くべき恵み』  ヨハネによる福音書3章16節
 『苦難の中に立つ信仰』  ヘブライ人への手紙12章2節〜3節
 『神の国は来ている』  ヨハネの黙示録21章3節〜4節

『苦難を誇る』  

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
                            ローマの信徒への手紙5章1節〜5節

 今、お読み致しました箇所には、神様との平和が与えられた人間が、いかに幸いであるかが生き生きと述べられています。
 人は苦難を経験する時に、「自分は本当に惨めである」と感じます。しかし、神様との平和が与えられたクリスチャンは、その苦難の時にも、むしろ苦難自体を誇ることが出来る、と言うのです。3節。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」
 「苦難を誇りとする」苦難を味わいながら、この苦難を受けている自分を恥じることがない。むしろ誇ることが出来る。苦難を受けている自分は決して惨めな存在ではなくて、素晴らしい存在なのだ、こう言うことが出来る、と言うのです。これは驚くべき言葉であります。どうしてそのようなことが言えるのでしょうか。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出すからである」とパウロは言いました。この「忍耐」と訳されている言葉は、もともとの意味は「じっとそこに留まる」という意味の言葉です。
 「苦難は忍耐を生む」イエス様を信じると、私たちは苦しみの中で右往左往することがない、その場所にじっと留まり続けることが出来る、こう言われているのです。では、どこに踏み留まるのでしょうか。それは、神様が打ち立てて下さった平和、神様が導き入れて下さった恵みの中に、じっと留まり続ける、ということであります。苦しいことがある時に、よく人は「罰が当たった」と言います。もう神様は私のことを見捨てしまったのでないか、私のことを怒っているのではないか、私を攻撃しているのではないか、そう考えることがあるんですね。これは本当に恐ろしいことであります。しかし、クリスチャンはそうは考えないのです。どんなに大きな苦しみがやってきても、忍耐することが出来る。ただじっと我慢するというのではありません。諦めるというのでもない。神様との間には平和がある。神様との間には恵みがある。どんなに大きな苦しみの中にあっても、この神様の平和と恵みに踏みとどまるのであります。
 その次の「練達」と訳されている言葉は、試験済みのもの、テストを経たもの、という意味の言葉です。地震や台風によって、その家の頑丈さが問われるのと同じように、神様との間に平和を得ている、恵みの中に自分は入れられている、こういう信頼というのは、苦しみの中でこそ、より一層浮き彫りにされていくものでしょう。そうやって苦しみを経験していく中で少しずつ筋金入りの練達した信仰になっていく、と言うんですね。苦しみの中で、神様の平和の中にいる自分の姿を見続けているならば、やがて私たちの性質自体から少しずつ不純物が取り除かれて、信仰が練り清められていく、そして、ついにはそこから確かな希望が生まれてくる、と言うのです。そして、この希望は私たちを欺くことがない、こう言われているわけであります。
 どうして、そのようなことが言えるのでしょうか。5節の続きにはこう言われています。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
 「神様との間に平和がある。平和がある」と、いくら自分に言い聞かせても駄目なんですね。「忍耐」とか「練達」という言葉を聞きますと、何となく自分の側の信仰の力量が試されているかのように思うんですけれども、しかし本当はそうではない。これは神様がなさることです。これは神様が打ち立てて下さった平和ですし、また神様ご自身が教えて下さることであります。私たちがいくら頑張って「理解しよう。受け止めよう」と励んだとしても、聖霊が私たちの心に教えて下さらなければ、これは分からないことです。そもそも信仰というのは、頭で理解するものではなくて、聖霊が私たちの心に呼び起こして下さるものなんですね。では、どうすれば聖霊が私たちの内側で働いて下さるのでしょうか。それは極々単純なことです。ウエストミンスター小教理問答書 問88には、聖霊は、主に御言葉を通して、礼典を通して、祈りを通して働くのだ、と言われています。この御言葉と礼典と祈りが全て行われるところ、それは他でもない礼拝の場です。大きな試練を耐え抜いて、力強く立ち上がっていく人は、決まって主の日の礼拝を重んじている人です。よく聖書を読み、よく祈る人であります。ただ日曜日の礼拝を休まないとか、長い時間祈るとか、長い時間 聖書を読むとか、そういうことが大事なのではありません。そこに心がなければ意味がない。義務的に仕方がないから嫌々礼拝に出席しているというのではなくて、本当に心から喜んで礼拝に集っている。素直な気持ちで祈り、聖書を読んでいる。そういう人には必ず聖霊は働かれます。その心に神様の愛を届けて下さいます。神様の恵みを届けて下さいます。神様の平和を届けて下さいます。「ああ、神様は本当に私を愛して下さっている。こんなにも色んな恵みを届けて下さっている。もう神様と私との関係は敵対していない。平和である。」頭で理解するのではなくて、心に刻み込まれるんですね。このようにしてクリスチャンは週毎の礼拝の中で、あるいは日々の祈りの生活の中で、神様の愛を生き生きと味わいますから、そういう中で自然と「この希望は私を欺くことがない」このことを受け止めていくのであります。
 牧師をしておりますと、一年に一度や二度くらいは「私は神様から罰せられているのではないでしょうか」こういう質問を受けることがあります。何か良心にひっかかることがある方が、あるいはとても辛いことに出会った方が、自分は神様の罰を受けているのではないか、こういう気持ちを抱かれて質問なさるのであります。自分のことを考えてみましても、時々、自分で自分のことをそういうふうに考えることがあるんですね。なかなかうまく自分の思うように事が進まない、そういう時に、自分は神様から追求を受けているのではないか、罰せられているのではないか、そういう思いが一瞬心をよぎることがある。祈りが足りない。聖書を読むことが足りない。確かにそうなのかもしれません。しかし、いくら聖霊が私たちの内側で働いていても、苦しみが喜びに変わるわけではない。あくまでも苦しみは苦しみです。悲しみは悲しみです。辛いのであります。耐え難いのであります。だからこそ苦難なんですね。辛くないのなら、もう既にそれは苦難でも何でもない。宗教改革者カルヴァンは、ローマの信徒への手紙のこの箇所の解説の中で「信仰者はたとえ苦難が起こっても、そのことで苦しむことはない」こう語る人々に向かって反論しています。「苦しみを感じないのなら、それはもはや苦難とは言えないし、それなら忍耐も必要ないことになる」こうカルヴァンは語っているのです。苦難というのは、いくらクリスチャンであっても、やはり辛いんですね。倒れそうになるのです。しかし私たちが八方ふさがりになる時に、万事休すと思う時に、もう私たちの知恵や力が尽きてしまう時に、そこから神様の御業が始まる。その時こそ、神様の出番なのであります。本当は、ずっと神様は働いていて下さるんですけれども、順風満帆に進んでいる時には、なかなかそのことが分からない。けれども、私たちの知恵と力が尽きて、もうどうにもならないと膝を屈した時に、初めて神様の力が見えてくるのです。そういう意味で「苦難を恥としない。苦難をも誇る」ということが出来るのでしょう。
 今、紹介しましたように、私は時々「私は神様から罰せられているのではないでしょうか」と質問を受けることがあります。勿論、「そんなことはありませんよ。神様はあなたのことを愛しておられます。決してあなたのことを見捨てておられません」そういう話はしますけれども、なかなかそれ以上のことはお話できない。時に、それはどうにもならない深刻な問題で、そういう時に私は、もう言葉を失ってしまう。ただ呆然と話を聞くことしか出来ません。何にもしてあげられない。本当に自分の無力さを痛感させられるのであります。けれども、私はそういう時に一緒に祈るようにしています。その方と一緒に祈るのです。その苦しみが大きければ大きいほど、その悲しみが深ければ深いほど、自分の力では、もうどうすることも出来ないことが身に染みて分かるはずです。だからこそ祈るんです。そこで諦めてしまうのではなくて、自分の力ではどうすることも出来ないからこそ、祈るのであります。「神様、今、私にはあなたの助けがどうしても必要です。あなたの支えがどうしても必要です。どうぞ、助けて下さい。どうぞ、支えて下さい。とうぞ、立ち上がらせて下さい。」信じて祈るのであります。その時に聖霊が働いて下さる。その方を立ち上がらせて下さるのであります。私は今まで何度もそういう方の姿を見てきました。相談に来られた時の悲壮感漂う姿と、帰る時の姿が全く違う。鳥肌が立つような経験です。将に聖霊が働いて下さった。「あなたを見捨てたりはしない。私は今でもあなたのことを愛しているよ」その方の心に聖霊が語りかけて下さったのであります。
 様々な災いが起こる時に、「先祖の祟りである」と言われて、いかがわしい宗教に振り回される人がいます。様々な苦難を味わう時に、自分には罰が当たったとおびえる人がいます。苦しみの中で、自分の犯した過ちを反省するということは何も悪いことではありません。むしろ尊いことでしょう。けれども、私たちはその後に、この希望の中に招かれるのです。「あなたの罪は赦されている。あなたの身に起こっている苦難は、決して神が怒っているしるしではない。呪っているしるしではない。そうではなくて、神は御子を犠牲にしてまで、あなたとの間に平和を打ち立てて下さった。神はそれほどまでにあなたを愛しておられるのだ。」この平和の中に招かれるのであります。これは神様ご自身が打ち立てて下さった平和ですから、どんなことがあっても変わることがない。永遠に続くのです。しかも、この真理は私たちが頑張って頑張って頭に詰め込まなければ分からないということではなくて、聖霊なる神様が教えて下さることなんですね。つまり、これは全く私たちの信仰の力量とか頑張りには関係ない、全く外側から与えられる、全く神様の側から与えられる恵みと平和なのだ、ということです。
 以前、NHKの番組でアメリカの「城壁都市」の紹介をしていました。「城壁都市」と言いましても、何か中世の古い町並みを紹介する番組ではありません。実際に塀で囲まれ、民間警備会社の厚いガードで守られている、現在のアメリカの町のお話です。そのようにして自分たちが住んでいる町の安全のために、住民は多額の負担を負って、その町を維持しているわけであります。当然、その町に住むことができるのは、その負担を負うことができる、極々限られたお金持ちということになるでしょう。実際にその町には、大企業の「最高経営責任者」と呼ばれるような人、経済的な成功を成し遂げた人々だけが住んでいました。もう人も羨むような豪邸で、優雅な暮らしをしているかのように見える人々であります。しかし、この番組は、そういう我が家自慢の番組ではなくて、彼らの立場がどんなに危うく、また不安に満ちたものであるのか、その内面の姿を紹介している番組でありました。「登りつめた」と呼ばれるような最高の地位を獲得した人々。その登りつめた後に残るのは何か。それは「いつその地位を失ってしまうのか」という不安だったんですね。彼らはその不安のために心は少しも休むことができなかった。自分の実力によって築きあげた地位や、素晴らしい住宅、その全てがいつかは奪われてしまうのではないかという不安が、いつもいつも彼らに付きまとっていた、と言うのです。
 もし、私たちに与えられる平和が私たちの力によって獲得されるものであるならば、同じようなことが言えるのだと思います。私たちもこの城壁都市に住む人々と同じように、外側は立派に見えても、心の中はいつも不安な生活を送らなければならない。しかし、そうではないのです。私たちに与えられる平和は、神様が打ち立てて下さった平和です。私たちの実力では到底望み得なかった平和です。一方的な恵みとして、無条件に与えられた平和であります。ですから私たちは、自分の不安定な姿を見て、この平和がいつか無くなってしまうのではないか、などと不安に思う必要はない。これは神様が打ち立てて下さった平和ですから、どんなことがあっても変わることがないのです。永遠に続くのであります。本当に感謝なことです。素直になって、また感謝をもって、この神様が打ち立てて下さった恵みと平和の中に身を置き続けたい、そう思うのであります。

『もう泣かなくてもよい』  

「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。」
                            ルカによる福音書7章11節〜17節

 イエス様は弟子たちと一緒にナインという町に行かれました。ナインというのは、牧場、または美しいという意味があります。ナインの町は、ナザレの東南十数キロばかり離れたところにありまして、非常に景色の良いところであった、というふうに言われています。その美しい町にイエス様が弟子たちと一緒に、また大勢の群衆を引き連れてやって来られた、と言うのです。おそらく群衆は、イエス様の教えをもっと聞きたい、あるいはイエス様の癒しの奇跡をもっと見たい、そのように願いながら付いて来ていたのではないでしょうか。そういうイエス様を先頭にして、命と力、喜びと感激に満ち溢れた行列がこの美しい町、ナインにやってきたわけであります。しかし、その行列を待ち受けていたのは、葬式を終えて、墓場に行く途中の、悲しみに暮れた行列でありました。この当時、この地方にある町はすべて、外敵の襲来を防ぐために、その周囲を壁で囲ってありました。その壁にはいくつかの門がありまして、昼間はそこを通って農作業などに出かけたと言われています。イエス様がその町に近づかれた時、ちょうど、葬式を終えて、墓場に亡骸を葬りに行く人たちがその門を出るところでありました。日本語訳では、「ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。」と淡々と訳されているわけですけれども、でも原文では、もっと感激をもってルカはこのところを記しているんですね。「見よ。ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎだされている。」こう言うのです。これから起ころうとしている驚くべき出来事を知っているルカは、このところを感激をもって記しているんですね。この悲しみに暮れた行列が、やがて喜びの行列に取り込まれる時がくる。悲しみが跡形もなく吹き飛んでしまう、そういう喜びの出来事が、この時から始まったのだ。ルカはこの悲しみに暮れた行列と、イエス様を先頭にした喜びの行列との出会いを、ここで感激をもって語っているのであります。
 さて、一人息子を亡くしたこの母親は、やもめであった、と言われています。この当時、女性が一人で生きていく、というのは今よりもずっと難しい時代でありました。夫に先立たれ、彼女の唯一の希望は、おそらく残された一人息子だけだったと思うんですね。その子が成長し、一人前になって、妻を迎え、子供をもうける。そういうことだけを楽しみに、彼女はこれまで色んな困難を乗り越えて生き抜いてきたと思うのです。そして、その期待がもうすぐ現実のものになる、そういう時に、彼女はその一人息子を失ってしまった、というのです。病気であったのか、あるいは突然の事故でそうなってしまったのか、それは分かりません。いずれにしてもこの出来事は、彼女を絶望の淵に追いやってしまったのであります。唯一の望みを失ってしまったこの婦人は、大勢の人々に支えられながら、かろうじて列の人々と一緒に歩いていたのではないでしょうか。そして、その嘆き悲しむ姿は、それを目にした人々の心に、深い同情を引き起こしたのであります。
 13節。「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」
 「主はこの母親を見て、憐れに思い」、とこうルカは記しています。この「憐れむ」という言葉は、日本語には訳しにくい言葉なんですけれども、しかし非常に大切な言葉なんですね。福音書はこの言葉を神様、あるいはイエス様にしか用いていません。ですから、これは「憐れむ」という日本語では到底言い尽くし得ない、人間が人間のことを可愛そうに思うというのとは、全然違う、神様特有の感情なのであります。もともとこの言葉は、「はらわた」という言葉から派生してきた言葉です。お腹の底から突き上げてくるような激しい感情であります。この婦人のゆえに、イエス様は、はらわたの痛むような思いを抱かれた、我を忘れて、この婦人の痛みが自分の痛みになってしまった、そういうところにイエス様は立って下さったのであります。そして、悲しみの列に近づいて行かれたんですね。手のつけようのない悲しみが支配している行列であります。これを見かけた人々は、ただ立ち止まって見送ることしか出来なかった。けれども、そういう中で、ただ一人、イエス様だけがこの列に堂々と近づいていかれました。母親の側にいた人たちは、ただならぬイエス様の様子をすぐに感じ取ったことでしょう。泣いていた母親自身も、それを察して、涙に濡れた目を上げて、イエス様を見上げたに違いありません。「この人はいったい誰なのか。何をしようというのか。この手の施しようもない悲しみの中で、何かすることがあるとでも言うのか。」そう思ったのかもしれません。そしてイエス様が口を開かれた時に、人々は、おそらく信じられないような思いで、この言葉を聞いたのではないかと思います。イエス様はこう言われました。「もう泣かなくともよい。」
 私がまだ会社務めをしている時のことですけれども、部下が一人死にました。彼はまだ18才で、これからという時だったんですね。仕事に対して本当に積極的で、その成長は目をみはるものでした。人格的にも魅力のある人間で、とっても明るくて素直で、みんなから好かれるタイプの人間だったんですね。特に彼は私を慕ってくれまして、会社だけではなくて、私生活においても、よく一緒に過ごしました。九州の五島列島の出身で、田舎が遠いものですから、そう頻繁には田舎に帰れませんで、連休なんかはよく一緒に遊びに行ったものです。その彼が、久しぶりに正月休みに田舎に帰っていた時のことです。風邪をこじらせて、病院で点滴を打ってもらったそうなんですけれども、どうもその点滴が身体に合わなかったようで、彼はその場でショック死してしまった、というのです。その知らせを聞いた時、私はもう呆然と立ちすくんでしまいました。これから恋愛をして、結婚をして、幸せな家庭を築いて、色んな楽しいことが一杯あったはずなんですね。それなのに、18才という若さで彼は死んでしまいました。私は、しばらく、抜け殻のようになってしまって、何も手につかない日々を送りました。私でさえこんな大きなショックを受けたんですから、この時のご両親の痛み、悲しみはどれほどのものだったでしょう。しばらくして、ご両親が会社に挨拶にこられたんですけれども、その時、私はもう言葉を失い、何も言うことが出来ませんでした。一緒になって泣くしかなかったんですね。
 私たちは時折、このように慰めようのない状況に出会うことがあると思います。何を言ってあげればよいか、わからなくなる。言葉を失う時があるのです。そういう時、私たちに出来る唯一のことは、そばにいて、一緒に涙を流すことだけなんですね。それしか出来ないんです。おそらく、ナインの町の人々も、そのような状況にいたに違いありません。この婦人の悲しみを癒す言葉がなかった。だから、悲しみを共にし、涙を流しながら、一緒に歩いていくしかなかったのであります。しかし、そういう悲しみ打ちひしがれている婦人に向かって、イエス様はここで驚くべき言葉を語られました。「もう泣かなくともよい。」こう言われたのであります。
 言葉の中には、神様でなければ語れない言葉があります。ここでイエス様が語られた言葉は、別に不思議な言葉ではありません。先ほどの「憐れました」というような神様だけに相応しい言葉がここで語られたわけではないんですね。
しかし、この状況の中で、この言葉を語りうるのは、神様だけであります。一体誰が、この時の、この婦人に向かって、この言葉を語ることが出来たでしょうか。「もう泣かなくともよい。」泣く必要はないのだ。だから泣くのはやめなさい、というのです。これは、家族を失って悲しみの中にある人々に向かって、到底語ることの出来ない言葉であります。もし私たちが不用意にこういう言葉を口にしたとしたならば、どうでしょうか。たちまち怒りに満ちた反発を引き起こすことになるでしょう。「『泣かなくともよい』とは何事か。今、泣くこと以外に自分たちに何が出来るというのか。泣かなくともよい、というならば、本当に泣かなくてもよいのだ、ということを、事実をもって示して欲しい。」そう言われて、沈黙せざるを得ないと思うのです。この「泣かなくともよい」という言葉は、私たちには到底語ることの出来ない言葉なのであります。
 ここで、この言葉を語ることの出来るのは、もう泣かなくてもよいのだ、ということを、事実をもって示すことの出来るお方だけです。そしてイエス様はこの言葉をこの婦人に対して語られた後、ご自分の言葉が真実であることを、出来事をもって示されたのであります
14節。「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。」
 イエス様がこの列に近づかれ、母親に話しかけられておられる間、この行列は進み続けていました。誰もこの悲しみを打ち破ることの出来る人などいない、みんなそう思っていたんですね。しかしイエス様は、この悲しみの行列を止めてしまわれました。しかも一時的に立ち止まらせたというわけではありません。完全に止めてしまわれたのであります。この列はついに墓場に行くことはなかったんですね。イエス様が棺に触れられると、棺を担いでいた人々は足を止めました。そして、驚きをもってイエス様のなさることを見つめていた彼らの目の前で、イエス様は担がれている若者に向かって、このように言われた、というのです。
「若者よ。あなたに言う。起きなさい。」
 私たちは知っています。私たちの声が、死んでしまった人間に届くことはないということを。たとえ私たちが悲しみの中で、亡くなった人の名前を繰り返し繰り返し呼んだとしても、それは空しい呼びかけであるということを、誰よりも私たち自身がよく知っているのです。私たちと死んだ人とを隔てる死の壁というのは、鉄の壁であります。どんなものも、それを突き破る事は出来ないんですね。しかしここに、その壁をも、ものともしない、そういうお方がおられます。主イエス・キリストであります。このお方の声は、死の壁をも突き破って、死んでしまった人に対しても、生きている人と同じようにして届くんですね。そしてその語られた言葉は、出来事になるのです。「起きなさい」と言われたこの若者は、その通りに、起きあがったのであります。
 おそらくこの母と子は、人々の祝福を受けながら、家に帰って行ったことでしょう。また、もとの平和な二人の生活が戻ってきたと思うんですね。しかしその生活は、もはや今までの生活とは違ったものになっていたのではないでしょうか。今日のこの出来事が、これからの彼らの生活を根底から変えていったと思うのです。これから後も、この母と子は色々な苦しみや悲しみを経験したと思います。生活上の苦しみ、肉体的・精神的な苦しみ、色んな苦しみを味わったと思うんですね。そして、やがて病気になり、最後は二人とも死の床についてその生涯を終えたのであります。その時には、もうこの若者が再び甦ることはありませんでした。しかし、死を前にした時でも、彼らには最後まで平安があったのではないかと思うのです。それは、彼らの心の奥底に、魂に響くイエス様の言葉が消えることがなかったからです。「もう泣かなくともよい。若者よ。あなたに言う。起きなさい。」この言葉であります。この言葉が決定的な形で語られる時が必ずやって来る。その時、もはや死は完全に討ち滅ぼされて、人は新しい命に生きるようになる。その時を望み見ながら、この二人はそれぞれの人生を平安の内に閉じていったのではないでしょうか。
 イエス・キリストは、私たち人間の罪を全部背負って、十字架の上で死んで下さいました。そしてただ死なれただけではなくて、死に打ち勝って、私たちの先がけとして甦って下さったのであります。これが私たちの希望です。今日の奇蹟物語は、このイエス・キリストの復活を指し示す一つのしるしなんですね。やがてこの若者はまた死んでいきました。永遠の命への甦りではなかったのです。けれども、イエス様がなされたこの出来事の中に、私たちの神様の姿が確かに現れている。天を引き裂いてこの地上に降りて来て下さった私たちの神様、私たちの痛みを誰よりもご存じである復活の主イエス・キリストの姿であります。そして私たちの希望は、ただひたすらにこの復活の主イエス・キリストの中にあるんですね。私たちもまた「泣かなくともよい」というこのイエス様の言葉に包まれながら、この地上の生涯を生きていくのです。そして「あなたに言う。起きなさい。」というイエス様の言葉がいつかこの自分に語られることを望み見ながら、この地上を去っていくのであります。ここにクリスチャンの幸いがあります。この幸いを覚えて、感謝しつつ、最後まで命の輝きを失うことなく、生き生きと輝やいて生きていきたい、そう思うのであります。

主イエスは羊飼い』   

  11節。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」少し飛ばしまして、16節。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」
                            ヨハネによる福音書10章11節・16節

 「まだ囲いに入っていない羊」これはまだイエス様のものとなっていない羊という意味です。つまり、イエス様をまだ信じていない人々のことを言い表しているんですね。羊がまだ囲いの中に入る前から、つまり現実にイエス様の羊になる前から、イエス様はその羊を知っていて、その羊のためにも命を投げ出して下さる、と言うのです。
 ルカによる福音書15章のところに、有名な「失われた一匹の羊の譬え話」が記されています。百匹の羊の内の一匹が迷子になった時に、その一匹のために羊飼いは必死になって捜し回る、と言うんですね。この譬え話は、囲いの外にいる羊に対する羊飼いの情熱を、よーく言い表していると思います。囲いの外にいる羊、まだイエス様を信じていない羊、イエス様に敵対して、ひたすらに滅びへと突き進んでいる羊、私たちもかつてはそうでありました。イエス様を知らず、イエス様を無視し、イエス様の愛を踏みにじっていた。けれども、そのように私たちが敵対している時から既に、イエス様は私たちのことをちゃんと知っていて、私たちを滅びるままにしておかれなかったのです。必死になって捜し求めて下さったんですね。「悩んで、苦しんで、藻掻いて、どうにもならなくて、今、立ちすくんでいるあなたは、いったいどこにいるのか。そのままではあなたは滅んでしまうではないか。私はあなたを救いたい。私のもとに帰ってくるように。私のもとで命を得るように。」本当に必死になって招き続けて下さったのであります。
 イエス様は社会から見捨てられていたような人々、町のならず者や徴税人や罪人と呼ばれる人々をありのままの姿で受け入れて下さいました。けれども、イエス様は彼らの生き方そのものを肯定されたわけはありません。貧しい者をだまして沢山の税金を取り立て、私腹を肥やしていた徴税人の生き方。神様の戒めを無視してやりたい放題、放縦な生き方をしていた罪人の生き方。それがそのまんまに認められたわけではない。あくまでも罪は罪であります。罰せられなければならない。そして、これは決して他人事ではないのです。聖書によりますと、人間はみんな罪人である、と言われています。聖書の言う罪人というのは、警察につかまるような犯罪を犯した罪人という意味ではありません。これは、全ての人間に対して語られている言葉です。それは自分自身のことを振り返ってみるならば、よく分かることではないかと思います。心の中で「あいつさえいなければ」と思って、心の中で人を抹殺してしまう。人が見ていないからといって、手をぬいたり、ごまかしたり、嘘をついたりしてしまう。色んな汚れや色んなみくにさが、人にはそれぞれあると思うんですね。それが聖書の言う罪であります。警察に捕まるような犯罪も、勿論、罪なんですけれども、たとえ実行しなくても、心の中で考えるだけでも、神様から見れば、それも罪なのであります。私たちを造られた神様は、正義の神様ですから、たとえどんなに小さな罪であったとしても、罪は罪として、決してうやむやになさるようなお方ではありません。私たちは罰せられなければならない。けれども羊飼いなるイエス様は、迷っている羊を命がけで捜し求めて下さった。守って下さった。ありのままで受け入れて下さった。本来、罪人の私たち一人一人が受けなければならない神様の怒り、神様の裁きをイエス様が全部その身に受けて下さったのであります。私たちの身代わりとなって十字架の上で死んで下さったんですね。「私はよい羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」将にこの御言葉通りであります。
 子供の盗み癖で悩んでいるある父親がいました。その父親はキリスト教会の一人の牧師でありました。ある時、その父親は、今度また同じ事をしたなら、もう絶対に許さない、お前の手がへし折れるまでひっぱたく、こう宣言したのだそうです。その子供も「もう絶対しません。したら、たたいてもかまわない」と約束しました。けれども、またその子は盗みを働いてしまったんですね。父親は、彼を物置に引きずって行って、彼の手を、鉄の棒で力一杯打ちたたいた、と言います。しかし、実際に打ったのは、子供の手ではなくて、子供の手の上に置いた自分の手でありました。父親の手の甲は皮がはがれ、血が噴き出し、本当に骨までへし曲がってしまったそうであります。厳しい父の愛が彼に迫り、その子はその時から二度と盗みをしなくなった、と言います。子供が悪いことをしたのに、しからない親がいたなら、それはよい親ではありません。同じように、人間が罪を犯したのに、怒らないような神は本当の神ではない。神様は、人類の罪を激しく怒り、裁き、呪い、罰せられます。けれども、裁きが終わり、刑罰が終わってみると、そこに一人の人が十字架にかけられて死んでいました。そのお方こそ、私たちの羊飼い、主イエス・キリストであります。イエス様の死によって、神様の怒りは貫かれました。そして、同時に、そこで私たちの罪が裁かれ、罰せられたのであります。もう私たちは裁かれる必要がない。完全なる赦しが与えられたのです。

『神の真実』  

「それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」
                         ローマの信徒への手紙3章3節〜4節

 ここで言われている「誠実」「不誠実」という言葉は、神様との契約に対する「誠実」「不誠実」という意味です。「契約」これは約束し合った関係ということです。神様とユダヤ人とは約束をし合った仲、契約を結んだ仲なんですね。神様は、ユダヤ人に対して「私はあなたの神となる。あなたを愛し、あなたを支え、守り続ける。」そういう約束をなさいました。またユダヤ人は、神様に向かって「私はあなたを愛します。あなたの戒めを守ります。」こういう約束をいたしました。神様とユダヤ人は、ある時に、そういう契約関係に入ったのです。神様はこの契約に対して誠実でありました。ユダヤ人に神の言葉である旧約聖書を与えて下さいました。その他にも様々な良いものを神様はユダヤ人に与えて下さいました。神様は、契約通りにユダヤ人を愛し続けて下さったんですね。ところがユダヤ人の方は、この契約を守ることが出来ませんでした。神様が言われるように、神様を愛し、人を愛して生きることが出来なかった。約束したのに、その通りに実行することが出来なかったんですね。契約に対して不誠実だったのであります。それでは、ユダヤ人が神様との契約に対して、こんなにも不誠実であるならば、神様の誠実は無になってしまうのだろうか。あんなに神様が一所懸命になって、この契約を守り、『彼らの神様となろう』『彼らを自分の民にしよう』そう決心なさったのに、その神様の誠実は、無駄になってしまうのだうか、これが、ここでの疑問なのです。
 しかし、この手紙を書いたパウロという人は「そういう人間の不誠実に対して、神様の誠実は決して無にはならない」と言いました。人が偽り者であればあるほど、神様は契約に対する誠実を貫かれる。たとえ人が偽っても偽っても、神様は人に対する愛を止めることをしない、と言うのです。ここに神様の契約の不思議さがあると思うんですね。人間同士の関係なら、相手が不誠実である時に、大抵の場合、その関係は壊れてしまうと思います。ところが神様と人との契約関係は違います。人が不誠実だから、神様はもう誠実を尽くすことが出来ない、そういうことがないのです。全ての人は不誠実だけれども、神様は誠実を尽くされる。「あなたを愛し、あなたの神となる」いったん、神様がこう約束して下さったならば、神様のこの誠実は人間の不誠実によって揺らぐことがない。神様はその人間の不誠実を乗り越えて、私たちの神様であり続けて下さるのであります。
 最近、「パッション」という映画が上映されました。イエス・キリストの最後の12時間を見事に描いた映画であります。皆さんは、もうご覧になられたでしょうか。あの映画を見ますと、神様が貫こうとなさった真実が、いかに壮絶なものであったということがよーく分かると思います。あまりにもリアル過ぎて、あまりにも残酷過ぎて、見るに堪えない。そういう批判がないわけではありません。けれども、あの壮絶な十字架のイエス様のお姿から、私たちは決して目を反らしてはならないと私は思います。今の私たちは、十字架がファッションになるような、ペンダントやアクセサリーになるような時代に生きています。十字架がどんなに壮絶な出来事であったかが、まるで分かっていない。十字架のイエス様の苦しみと言っても、ピンとこないんですね。そういう時代であるからこそ、あの「パッション」という映画が意味をもつのだと思います。あの映画を見て、イエス様の十字架の本当の苦しみを知った人は、もう呑気に生きることは出来ないと思います。他でもない、この私を救うために、あんなにも壮絶な苦しみをイエス様は担って下さった。もうボロボロになって、血まみれになって、それでも最後の最後まで私たちへの愛を失うことがなかった。真実を貫かれた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」こう祈られながら、十字架の上で息を引き取られたのであります。あんなにまでして必死になって、一所懸命になって私を愛し抜いて下さった。救おうとして下さった。私の神であり続けようとして下さった。これが神の真実であります。この凄まじいまでの神の真実に触れた時に、私たちの心は打ち震える。千里摂理教会の一人の高校生が、このパッションという映画を見て、感動して、「これからは心を入れ替えて、真面目に先生の説教を聞きたいです。」こういう感想をホームページの掲示板に書いてくれました。これは本当に正直な感想だと思うんですね。あれほどまでに凄まじい神様の真実を突きつけられて、なお呑気に生きれるようなクリスチャンはいないと思います。不完全ではあるけれども、この神様の真実に少しでもお応えしたい、自分として出来る限りの誠実を尽くしたい、真実に生きたい、そう思う。当然のことでしょう。
 どんな時にも変わることのない、この神様の真実に信頼し、感謝をしながら、今日から始まるこの一週間の歩みの中で、自分に出来る精一杯の誠実を尽くしたい、真実に生きたい、そう思うのであります。

『敵を愛する十字架の愛』   

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」     
                                  マタイ福音書5章43〜44節

 今月は、有名なマタイによる福音書の山上の説教から、4回に分けてお話をしたいと思っています。今日は、今お読み致しましたマタイによる福音書の6章43節と44節の御言葉からご一緒に考えたいと思います。 
 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。」これはイエス様が語られた時代も、今の時代も、常識として受けとめられている事柄ですね。敵は憎んでもかまわないけれども、家族や親しい友人は大切にするように。愛するように。これは世間一般で普通に考えられていることです。でもイエス様は、この常識を全く塗り替えてしまうような、驚くべき言葉をここで語られました。『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。』これは常識でありません。非常に衝撃的な御言葉です。
 私たちは、日々の生活の中で、この敵と呼ばれるような人間に何度も出会うんだと思います。私は牧師になる前に、十六年間ほど会社務めをしておりました。その際、何度かこの人間関係のこじれで悩まされた経験がございます。大勢の人間が集まれば、必ず一人や二人、職場の和を乱す人間が現れてくるんですね。この人間さえいなければ、そう思わされることが何度もありました。これは職場だけのことではないと思います。学校や隣近所のつき合いや、色んなところでこれと同じ様なことが起こるのだと思います。こういう経験をして、本当にはらわたが煮えたぎるような思いをしたことのある人は、この御言葉は理想だけれども到底実現不可能である、そう思われるのではないでしょうか。でも、そうではないのです。今日の御言葉だけではなくて、山上の説教の中には、色んな教えが語られています。どれをとってみても、難しい、理想的な教えのようにも思えてきます。でもこれは、ただ単なる理想論ではないのです。これはイエス様が私たちを、そういう理想的な人間に造り変えると約束して下さった、決意表明なのです。私たちの内にはそれを成し遂げるだけの力はありませんけれども、でもイエス様の内にはその力があるんですね。イエス様が私たちをこのように造り変えるのだ、と約束して下さっているのですから、これは理想で終わってしまうのではなくて、必ず実現することなのです。
 イエス様は、何も無責任なことを語られたのではありません。イエス様ご自身が、自らこの言葉を実行なさいました。イエス様は、ご自分を十字架につけた人たちのために十字架の上で「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」こう祈られたのです。自分を陥れて十字架につけた憎き敵に対して、恨み辛みを一言も言わずに、それどころか、その敵を赦し、その敵の救いのために祈った、というのです。これは私たちに示された模範ですね。イエス様は、今も、敵を赦し、敵の救いのために執り成しの祈りを捧げ続けておられます。私たちがイエス様のことを全く知らずに歩んでいた時も、イエス様は私たちを赦し、私たちの救いのために祈っていて下さいました。たとえイエス様のことを忘れてしまっても、イエス様に敵対して歩んでいたとしても、イエス様は何度でも赦して、その人の救いのために祈っていて下さるのです。私たちが腹を立てて嫌っている人間に対しても、あの人間さえいなければと思うような人に対しても、イエス様は愛を注ぎ、赦しを与え、執り成しの祈りを捧げておられます。私たちが人を憎むというのは、こういうイエス様の十字架の愛を否定することと同じなのです。イエス様の十字架の愛を私たちが、本当に深く味い知っているならば、私たち自身の力では許せなくても、イエス様が赦す力を与えて下さるはずです。
 聖書には本当に敵を愛して祈ったクリスチャンのことが記されています。それは、ステファノと言う人です。彼は迫害されて、石で打ち殺される時に、ひざまずいて「主よ。この罪を彼らに負わせないで下さい。」と大声で叫んでから死んだ、と聖書には記されています。これは、十字架のイエス様の姿によく似ていますね。この敵を愛する愛は理想ではないのです。イエス様の愛を知っている者には実行可能なのです。イエス様がその力を与えて下さるんですね。死を打ち破って復活なさったイエス様が、その凄まじい力をもって『あなたもやってごらんなさい』こう招かれるのです。あなたもこの十字架のイエス様の愛を味わってみませんか。そしてこのイエス様の招きに応じてみませんか。

『思い悩みからの解放』      

 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」                       マタイによる福音書6章25節

  
 私たちの人生は思い悩みの連続です。もし私たちの人生から、この思い悩みを全部消す去ることが出来たならば、どんなに素晴らしいことでしょう。今日の御言葉は、この思い悩みからの解放を私たちに積極的に勧めています。
 さて、私たちが思い悩むのは、何故なのでしょうか。それは、自分の思ったように物事が進まないからです。私たちは、神様の祝福によらなければ本当は何にもできない者たちなのです。でも、もしかしたら出来るかもしれない、何とかしたい、そう思って自分の力に頼って、自分の力で藻掻いてしまうのです。そして、壁にぶつかって思い悩んでしまうんですね。このように、神様に信頼しきれずに自分の力に頼ってしまう、そういう私たちの弱さが、思い悩みを生み出すのです。
 新約聖書には、イエス様の弟子たちが嵐に出会った時に、イエス様に信頼しきれずに怖がってしまった、という記事が記されています。あるとき、イエス様と弟子たちが船で湖をわたっていると、激しい嵐が起こりました。その時イエス様はどうしておられたかというと、その嵐の中でも安心して眠っておられたのです。しかし嵐はどんどん激しくなっていきます。とうとう船が沈みそうになった時、弟子たちはもう耐えきれなくなって、イエス様を起こしました。そして『主よ。助けて下さい。おぼれそうです』と必死で助けを求めたのです。イエス様は、風と湖とをお叱りになって、嵐を静めて下さいました。でも弟子たちは、その時イエス様から『なぜ、怖がるのか。信仰の薄い者たちよ』とお叱りを受けたのです。この時、弟子たちはイエス様を信じていなかったわけではありません。『主よ。助けて下さい』とすがりつく程度の信仰は持っていました。しかし、まさかイエス様が自然を自由に操ることができるお方だとは、思っていなかったんですね。イエス様の力に、弟子たちは勝手に限界を決めてしまったのです。イエス様はそういう弟子たちの信仰を、この時、指摘されたのです。
 これと同じような状況が私たちにも起こるのだと思います。この世を生きていく限り、私たちは様々な嵐に遭遇します。物質的な、また精神的な、ありとあらゆる嵐に遭遇します。その時私たちは、イエス様を全面的に信頼して、平安でいることができるでしょうか。嵐の中でも眠ることが出来るような平安を、私たちは身につけているでしょうか。おそらく、この弟子たちのように、勝手にイエス様の力を限定して、自分の力で藻掻き苦しみ、思い悩んでいることが多いと思うんですね。でも、イエス様はそんなちっぽけなお方ではないはずです。死を打ち破って、復活なさったお方です。何でも出来るお方です。私たちが勝手にその力を限定して小さな神にしてしまっているだけなんですね。いくら何でもこれは神様でも不可能だろう、そう私たちが勝手に決めつけてしまって、自分の方から進んで、思い悩みの中に身を投じてしまっているのです。
 イエス様は、私たちを十字架の愛で愛していて下さいます。イエス様の十字架の愛は、私たちの行いを見て愛する愛ではなくて、私たちの存在そのものを愛する愛です。私たちがどんなに罪深くても、ありのままの姿で私たちを受け入れて下さって、愛して下さるのです。お前は私にとって大切な存在である。愛すべき存在である。そう言って下さるのです。またイエス様は、死に打ち勝った凄まじい復活の力をもって、今も私たちを支えていて下さいます。死に打ち勝った力です。どんな悲しみでも、どんな苦しみでも、たとえ死の力であっても、打ち破ることの出来るお方です。そのイエス様が、知恵と力を尽くして、全力で私たちを愛し、支えていて下さるのです。この信仰を本当に私たちが自分のものとすることが出来たならば、思い悩みは私たちから少しずつ遠ざかっていくことでしょう。
 新約聖書のフィリピの信徒への手紙には、このような御言葉があります。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」神様を全面的に信頼して、全ての思い煩いを神様に打ち明け祈るならば、神様からの不思議な平和が、私たちの心を満たしてくれる、というのです。ラジオをお聞きのあなたも、是非この機会に、様々な思い煩いをこの聖書の神様に打ち明けてみませんか。きっと、神様からの不思議な平和が、あなたの心を満たしてくれるでしょう。

『人をさばくな』

 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」  
                                  マタイによる福音書7章1節


 私たちは、よくあの人がこうだ、この人がどうだ、というように人を批判することがあります。人の上べだけを見て判断して、批判するわけですね。しかし、果たして私たちに人を裁く権利があるのでしょうか。人を裁くからには、まず自分自身がしっかりとしていなければなりません。自分にも同じような罪があるのに、それを棚に上げて人を裁くというのは、許されないことです。でも案外私たちは、そういうことを平気でやっているのではないでしょうか。今日の御言葉は、そういう私たちが陥りやすい誤った人の裁き方について警告しています。
 今日の御言葉の少し後のところで、イエス様はこういうふうにおっしゃいました。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」 ここで言われているのは、兄弟の目の中ににあるものは『おが屑』のように小さいのに、自分の目の中にあるものは、丸太のように大きい、というのです。これは譬えですから、よくわかるようにと、話は少し大袈裟になっています。しかし、いくら大袈裟になるといっても、自分の目の中にあるものが丸太だ、というのは、あまりにもひどすぎるのではないか、こう私たちは思ってしまいます。例えば『他人の目からおが屑を取らせて下さい、とどうして言えるのか。あなたの目の中にも、同じおが屑があるではないか。』もし、こういうふうに言われたのならば、そうかもしれないなぁと、私たちも納得すると思うんですね。でもイエス様が用いられた譬えは、そうではないのです。他人の目には『おが屑』、自分の目には『丸太』があると言うのです。自分の過ちの方が他人の過ちよりも大きい。これは、私たちにはなかなか納得できないことです。私たちは不完全かもしれません。でも、今のところ、まだ私の方がましだから、注意する資格がある。裁く資格がある。そう私たちは考えます。しかしイエス様は、私たちの思いに逆らって、「他人の目にはおが屑があり、あなたの目には丸太がある。」と言われるのです。
 旧約聖書の中にこの典型的な例が記されています。それは、イスラエル王国の王様であったダビデ王の有名な話です。ダビデ王は、自分の家来であるウリヤの留守の間に、その妻であったバト・シェバという女性と不倫の罪を犯してしまいます。ダビデ王はこの事が、公になることを恐れて、ウリヤをわざと危険な戦地へとおもむかせ、ついには戦死させてしまうのです。その時、預言者ナタンがダビデ王のところへ来て、一つの話を始めました。『ある町に二人の男がいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の子羊のほかに何一つ持っていなかった。子羊は彼のもとで育ち、彼のふところで眠り、彼にとって娘のようだった。ある日、豊かな男のところに一人の客が訪れて来た。豊かな男は、客をもてなすために、自分の羊や牛を惜んで、貧しい男からわが子のようにかわいがっていたわずか一匹の雌の子羊を取り上げ、自分の客に振る舞った。』そこまで聞くと、ダビデ王は非常に憤って、『主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。子羊のつぐないに4倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。』こう言ったのです。その時、預言者ナタンはダビデ王に向かって言いました。『その男はあなただ』その男はあなただ。これこそ、イエス様が今日の箇所で、私たちに向かって言いたかったことなのです。私たちは、他人のアラはよくわかるのです。人事として言われれば、このダビデ王のように、その善悪はよく判断できると思うんですね。しかし、いざ、自分のこととなると『その男はあなただ』と言われるまでは気が付かないのです。私たちは、自分の目の中に大きな丸太のような罪があるというのに、それになかなか気づかないような愚かな人間なのです。
 私たちは、様々な人間関係のこじれから、知らず知らずのうちに心の中で人を裁いてしまったり、あるいは裁きたい、そういう衝動にかられて、平安を見いだすことができないようなことが、よくあると思うんですね。そのような時には、どうすればよいのでしょうか。答えは祈りです。祈ればよいのです。祈る時に、神様からの不思議な平安がやってきます。祈る時に、神様が十字架の愛で私たちをつつみ、その愛を私たちにも分け与えて下さいます。あくまでも裁きは神様がなさることです。裁きたい衝動に駆られた時には、是非祈ってみて下さい。神様に全てを委ねてみて下さい。きっと神様からの平安がやってくるでしょう。

『求めなさい』 
 
 「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。」                マタイによる福音書7章7節


 この御言葉だけを聞きますと、「あきらめないで希望をもって頑張ってゆけば、なんとか道は開けるものだ。」こういうふうに、人生を励まし、勇気を与えてくれる言葉として理解される方もいらっしゃるかもしれません。でもこの御言葉は、そういう常識的な人生の知恵を教えているのではありません。神様に信頼して祈り続けることがどんなに大切なことであるか、そのことを私たちに教えようとしているのです。
 この御言葉のすぐ後のところで、イエス様はこういうふうにおっしゃいました。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。」普通、人間の親なら、パンや魚を欲しがっている自分の子供に、石や蛇を与えたりはしないですよね。たとえパンや魚が与えられなくても、なんとかそれに代わるものを探して与えようとするんだと思います。それが子供を愛する親の当たり前の態度です。イエス様は続けてこうおっしゃいました。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。」 
 ここでイエス様は、『あなたがたは、悪い者である』と断言されています。ひどいことを言うなぁ、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。でも、本来私たち人間は、みんな罪人なのです。神様から怒りをかって当然の者たちなのです。けれども、この言葉を語られたイエス・キリストが、私たち人間の罪を全部背負って下さって、私たち人間の身代わりとして十字架の刑罰を一身に受けて下さいましたので、私たちはそのお陰で、神様からの怒りを免れることが出来たのです。それだけではありません。このイエス・キリストを通して、私たちは神様のことを『天の父』と呼べるようになったのです。
 本来、親は子供が何か良いことをしたから愛するのではありません。たとえ、できが悪い子供であったとしても、親は子供であるということだけで、子供を愛するはずです。私たちは、罪深く、すぐ誘惑に負けてしまうような弱い者たちです。でも、そのような弱い私たちを、神様はありのままの姿で受け入れて下さって、子供として下さいました。そして、何か良いことをしたからというのではなくて、子供であるという事実だけで、父なる神様は子供である私たちを一方的に愛して下さるのです。なんという幸いでしょうか。
 さて、神様が私たちの父であるとするならば、私たちの祈り求めることは何でもかなえていただけるのでしょうか。イエス様は続けてこうおっしゃいました。「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物を下さるに違いない。」人間の親が、子供の求めに対して誠実にこたえる、という事実を示しながら、まして完全な天の父が、それ以上にして下さらないはずがないではないか、こう言われているのです。しかしイエス様は、ここで人間の父親が、パンを求める子供に必ずパンを与え、魚を求める子供に必ず魚を与える、とは言っておられません。同様に天の父も、私たちの注文の品物を注文どおりに与えて下さる、とは言っておられないのです。
 神様は、私たちの祈りを決して拒否されることはありません。必ず、私たちの祈りに答えて下さいます。しかしその答えは、いつでも私たちの願い通りに与えられるとは限らないんですね。時には、私たちの願いが全く聞き入れられていないかのように感じることさえあるのです。でも本当は、その答えの中に、神様の計り知れない知恵と愛が込められているのです。もし、神様が私たちの願いを、文字通りそのまま何でもかなえて下さったならば、それこそ大変なことになってしまいます。何故ならば、私たち人間は本当に愚かであって、たいていの場合、自分の身を滅ぼすものを願い求めてしまうからです。神様は、私たちの祈りに、ただ機械的に答えられるのではありません。その答えの中には、常に神様の深い知恵と愛とがあるのです。イエス様は、ここでそのことを教えておられるのです。
 神様に信頼して祈り求めるならば、神様は、私たち一人一人にとって、最善の道を備えていてくださいます。ラジオをお聞きのあなたも、この聖書の神様に信頼して、あきらめずに祈り求めてみませんか。神様は、いつもあなたのことを心にとめ、愛し続けておられます。


『わたしが命のパンである』 

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」              ヨハネによる福音書6章35節


 私たちが本当に求めるべきもの、それによって命に至る食べ物、それが私たちを潤し、癒し、力づけ、命を満たすもの、それはイエス様ご自身である。私こそがその命のパンである、と言うのです。
 パンというのは主食です。お菓子やご馳走ではありません。しかしそれなしには生きていけないもの。生きるためにどうしても必要なもの。それがパンです。イエス様こそ、私たちの生ける糧、これなしには生きていけない命の糧であります。しかし私たちは、それよりも別のものに心が向いてしまって、この主食を疎かにしてしまっていることはないでしょうか。
 以前、テレビの番組で、若者たちがスナック菓子をご飯がわりにしているということが取りあげられていました。本当に不健康ですね。私もあまり人のことは言えませんけれども、スナック菓子ばかりを食べていたなら自分の体がどうなってしまうかぐらいは分かります。ご飯よりもお菓子の方が美味しい。それはその通りでしょう。しかし、そればかりを食べていたならば病気になってしまう。やせ衰えてしまうのであります。そんなことは、ちょっと考えれば分かることですね。しかし、私たちは自分の魂のことになると、これと全く同じ様なことをしていても、何の疑問も感じない。むしろ、目先の楽しみを貪って、スナック菓子のようなものに走ってしまうのであります。何故、私たちは疲れ果て、元気を失い、力が出ないのでしょうか。それは、命に至る糧、そこから命をいただくパンを失っているからであります。イエス様はこう言われます。「私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」と。
 「しかしイエス様、私はあなたを求めてきました。あなたを信じてきました。それなのに何故、依然として飢えたままなのですか。渇いたままなのですか。」こう言いたいと思われる方も中にはいらっしゃるでしょう。けれども、もう一度、今日の御言葉をよく読み返していただきたいと思います。イエス様は、「わたしが命のパンである」と言われました。私が与える何かではなくて、私自身がそれなのだと言われたのです。私たちは、イエス様ご自身ではなくて、イエス様から与えられる何かに期待して、イエス様とは別のものを求めてこなかったでしょうか。ああして欲しい、こうして欲しい、この道をこのように開いてもらいたい、そうでなければあなたを信じられない。結局、私たちは、様々なご馳走やオヤツばかりを追い求めて、肝心の命のパンそのものを求めてこなかったのではないか、と思うのです。潤されることもなく、満たされることもない。それは肝心の命のパンであるイエス様ご自身を求めることがなかったからではないでしょうか。
 先日、ある方が教会を訪れて下さって、とっても楽しい語り合いの時をもつことが出来ました。その方は、本当に苦しい時をこれまで過ごしてこられた方です。今もまだその苦しみと闘っておられます。その方がこういうことを語って下さったんですね。「今までとっても苦しくて、どうして自分だけがこんなに苦しい目に合わなければならないのかと思っていました。けれども、今はこの苦しみがあったからこそ、私は教会に来ることが出来た。イエス様を知ることが出来た。このことも神様が私を救おうとしてなさった愛の御業だったんだと分かりました。今では、これで善かったんだなぁと思っています。」こういう意味のことを語って下さったのです。本当に嬉しかったですね。まだ苦しみが終わったわけではありません。この方はまだ苦しみと闘っておられる。けれども、この方はこうも言われました。「今は昔とは違います。私にはイエス様がついていて下さる。苦しい時には祈ることが出来るんです。祈ると不思議なことに、心の嵐は静まるんですよ。」これは本当に凄いことですね。この方は魂の飢え渇きをイエス様によって満たしていただいたのです。命のパンをいただいたのであります。あれがない。これがない。尚、色んな苦しみが一杯ある。けれども、命の源である、命のパンであるイエス様が私にはついているから大丈夫。これがクリスチャンの信仰です。
 私たちがイエス様を信じながら、依然として弱り果て、疲れ果て、飢え渇いていたのは、イエス様ご自身を本当は求めていなかったからでしょう。イエス様ご自身に満たされるのではなくて、別のまがい物で満ち足りようとしていたからです。是非、皆さんも、別のまがいもので自分をごまかすのではなくて、イエス様ご自身を求めて、この方によって本当の意味で心を満たしていただきたいと思います。今、心を一つにして祈りましょう。「主よ、私たちの魂が飢え渇くことがないように、私たちに命のパンを下さい。」と。

『驚くべき恵み』  

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」        ヨハネによる福音書3章16節

 今週は、イエス様を信じる者たちにとって特別な一週間です。今週の金曜日が、十字架にイエス様がついて下さった記念の日なんですね。2千年前のちょうど今頃の季節の金曜日に、イエス様は私たちの罪を背負って下さって、十字架の上で死んで下さいました。このイエス様の大きな愛と深い苦しみを覚えながら、教会は、毎年毎年、2千年間、この受難週という一週間を特別な時として過ごしてきたわけです。是非、皆さんも、この一週間、いつもと違う仕方で、本当にイエス様の十字架に心を集中しながら過ごしていただきたいと思います。
 さて、今日お読み致しましたのは、ヨハネによる福音書の有名な御言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」この御言葉であります。クリスマスの日に、神様はご自分の独り子をこの世に送られました。私たちを救うために、私たちの罪を贖うために、ご自分が最も大事にしておられた、愛しておられた独り子をこの世にお与えになったのであります。しかし、この「お与えになった」という言葉は、クリスマスの日に、神様が御子をお与えになった、ということだけを意味しているのではありません。この「お与えになった」という言葉は、聖書の中では、「イエス様を十字架につける」という意味で使われる言葉です。神様が十字架の上にキリストをお与えになった。こういうふうに使われる言葉なんですね。神様は、この独り子であるキリストに、私たちの罪を全部背負わせて下さり、私たちが本来受けなければならない刑罰の全てを、神の怒りの全てを、このお方に集中なさったのであります。こういうお方として、神様はこの独り子をこの世にお与えになったんですね。これが神様の愛です。神は、その独り子を十字架の上にお与えになったほどに、「世」を愛されたのであります。
 「アメージング・グレース」という有名な讃美歌があります。聖歌にも、また讃美歌第2編にもこの歌は載っています。しかし、いずれも原文の歌詞が忠実に訳されているとは言えません。本当はこういう歌であります。「アメージング・グレイス。驚くべき恵みよ。何と甘く美しいことよ、この恵みは私のように挫折し滅びようとしている者まで救う。私はかつて失われた者、しかし今は見つけていただいている。かつては目が見えていなかった者、しかし今は見えている。」
 この讃美歌は、かつて奴隷商人であったジョン・ニュートンという人によって書かれたものです。彼のお母さんは、とても立派な信仰をもっていたそうですけれども、彼は六歳の時にこの母親と死別することになりました。それ以来、彼は信仰から遠ざかってしまった。神様と無縁の生活をしていた。いや、むしろ奴隷売買をするというような、神様の愛を蹴飛ばすような仕事をしていた、と言うのです。けれどもある日、彼は海から投げ出されるような激しい嵐に出会い、その時初めて神様に向かって叫んだのであります。「神様。あなたが本当におられるなら、この私を助けて下さい。」彼はこの時やっと、母から受け継いだ信仰に目覚めた、と言うんですね。全く虫のいい話です。今まで散々好き放題やってきて、神様と無縁の生活をしてきて、嵐に出会い、生命の危険にさらされた時に、「神様、助けて下さい」と叫んだ。こんな虫のいい話はありません。けれども、この讃美歌は、こんな自分が救われた、その驚き、恵みを歌っているのです。やがて、このジョン・ニュートンという人は悔い改めて、自分の今までの人生が間違っていたことを素直に認めて、キリストのもとに帰って行きました。喜んで光のもとに帰って行った。そしてやがて彼は牧師となって、その生涯を神様に捧げたのであります。「アメージング・グレイス。驚くべき恵みよ。何と甘く美しいことよ、この恵みは私のように挫折し滅びようとしている者まで救う。私はかつて失われた者、しかし今は見つけていただいている。かつては目が見えていなかった者、しかし今は見えている。」これはジョン・ニュートンだけの歌ではありません。私たちの歌であります。私たちもかつては神様と無縁の生活をしていた。神様の愛を蹴飛ばしていた。滅びの道を歩んでいたのであります。けれども、ある日、不思議な仕方で神様のもとへと呼び戻されたんですね。滅びから救いへと、暗闇から光へと導かれたのであります。これは本当に虫のいい話です。しかし、これが神様の愛なんです。本当に驚くべき恵みなのであります。
 今日から受難週に入ります。私たちを救うために神様がどれほどの犠牲を払って下さったのか、イエス様がどれほどの苦しみを担って下さったのか、深く心に刻む時であります。来週は、いよいよ、その十字架に死なれたイエス様が三日目に甦られたことを喜び祝う、イースターです。イエス様の十字架は、この復活の光のもで思い起こさなければなりません。この一週間、復活の希望の光に照らされながら、感謝をもって、このイエス様の十字架を思い起こしたいと思います。
『苦難の中に立つ信仰』  

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。・・・・それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」
                    ヘブライ人への手紙12章2節〜3節(新改訳聖書)


 私たちの救い主イエス・キリストは、高いところに立って、私たちを見下ろしておられるお方ではありません。自分では傷を負わず、傷を負うところに身を置こうともしないで、高いところから相手を癒そう、治そうとしても、本当の意味では癒すことなど出来ない。私たちの負っている傷を、痛みを、本当に身をもって体験したものでなれければ、その心の奥深くにある傷には決して届かないのです。主イエスは自ら傷を負い、私たちと同じ所まで降りてきて下さいました。私たちと同じ罪人の一人に数えられ、私たちが苦難の中で苦しむ以上に苦しんで下さいました。痛みを負って下さいました。私たちの罪を一手に担って下さったのであります。しかも、ただ同じところに立って、苦しみを共にして下さるというだけではなくて、十字架の死に打ち勝ち、甦って下さったお方として、その傷を完全に癒すことの出来るお方として、私たちのところに来て下さった。そのお方が、今、私たちを執り成していて下さる。私たちの苦しみや悲しみや痛み、その全部を知っているお方として、その全部を解決出来るお方として、今、私たちのために祈っていて下さるのであります。「あなたの痛みは知っている。苦しみは知っている。悲しみは知っている。あなたは今、くじけているかもしれないけれども、大丈夫。私があなたの咎を、背きを全部十字架の上で担った。あなたも立ち直れる。安心して私についてきなさい。」こう言って下さるのです。
 私たちはそれぞれの人生の中で、様々な苦難に出合います。私たちは、そういう苦難に出合った時に、どう対処するでしょうか。私たちが、そういう苦難の中で、簡単に挫けてしまうのは何故でしょうか。それは、この十字架と復活のイエス様から、目をそらしてしまうからです。イエス様の姿がぼやけてしまうからです。私たちは、苦難の中にある時に、ついつい目の前の苦しみに目を奪われて、イエス様から目を離してしまうんですね。私たちはイエス様から目を離してしまうので、疲れてしまうのです。弱ってしまうのです。先程読みました聖書の御言葉の通りであります。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」
 あるクリスチャン月刊誌に、朝鮮のあるクリスチャン少女の記事が載っていました。1950年、朝鮮動乱が勃発した時、同じ民俗が北と南に分かたれ、朝鮮半島は戦場と化しました。村を占領した共産軍は、教会に集まっていたクリスチャンを広場に引きずり出し、「踏み絵」を強要した、と言うのです。無神論を掲げる共産軍は、クリスチャンに信仰を捨てることを求めて、そのしるしとして「踏み絵」を強要したのです。踏み絵に使われたのは、礼拝堂の片隅に掛けられていた、イエス様が描かれた、なじみ深い聖画であった、と言います。その教会の人々は毎日曜日、そのイエス様の絵を眺めながら、礼拝堂に入って行ったのです。まず長老と呼ばれる教会の役員から戸惑いながらも、その聖画を踏んでいきました。そして次々に年輩の信者が聖画を踏んでいったのであります。そして、ついにその少女の番になった時に、その少女は静かに腰をかがめ、汚れた聖画を手に取って泥をぬぐい、涙を流しながら自分の胸に抱きしめた、と言うのです。単なる一枚の絵です。そんなものに命をかける必要はない。この場面で、聖画を踏むか踏まないかは信仰の本質ではない。多くの人たちがそう考えました。確かにその通りでしょう。けれども、人生の究極の選択の場面で、迫害という本当に大きな苦難の中で、この少女の思いの中には、ただイエス様だけしかなかったのではないか。「この聖画を踏むと殺されてしまうかも知れない」そんな恐れなど彼女には微塵もなかったのではないか。嵐を見つめるのではなくて、ただイエス様だけを見つめていた。イエス様から目を離さなかった。イエス様が大好きだった。ただ、それだけです。この記事はこういう言葉で締めくくられています。「迫害という嵐に出合う時、信仰歴とか聖書の知識とか、教職という肩書きとかは何の役にも立たない。ただ愛だけが、イエス様を愛する愛だけがその人を立たせるのです。」
 私たちも、まわりの様々な事柄にばかり目を向けるのではなくて、イエス様の姿をしっかりと目に焼き付けておきましょう。イエス様が、どれほどの犠牲を払って私たちを愛して下さったか、そのことをしっかりと心に刻みたいと思うのです。苦難に打ち勝つ秘訣は、何も難しいことでない。頑張って頑張って、修行を積んで到達するものではない。単純なことです。イエス様を心から愛すること。イエス様が大好きです。本当に心からそう言える信仰であります。聖書は私たちにこう教えています。
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」
「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

神の国は来ている』  

「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
                                ヨハネの黙示録21章3節〜4節

 キリストに結ばれた私たちの目から、その涙がことごとく拭い取られる。その涙の根本的原因であり、最後の敵である死そのものに完全に勝利されたキリストが、もう一度来て下さる。罪や死や悪魔の力に勝利された主キリストが、悲しみ、嘆き、労苦を、その源から完全に断ち切って下さる。そういうお方が来て下さる。これは、やがて来る「世の終わりの時」を語った御言葉です。私たちの歩みは、この神の国の完成を目指しています。そして、今私たちが経験している様々な苦しみや悲しみは、この神の国を生み出すための産みの苦しみである、と他の聖書の箇所では教えられています。確かにその通りでしょう。しかし、それだけでしょうか。今、この時、私たちはただ涙を流し続けるだけなのでしょうか。そうではないはずです。何故、私たちは教会に行くのでしょう。涙を拭っていただくためです。力をいただくためであります。神の国はもう既に始まっている。まだ不完全ではありますけれども、確かに神の国は来ているのであります。
 阪神淡路大震災の時、私は、母教会の板宿教会が避難所になりましたので、しばらくそこでボランティアとして働きました。神戸の板宿や長田の町が焼け野原になってしまった。まるで戦場のような光景でありました。着の身着のままで避難してこられた方々。手や足や腰、体じゅうに傷を負い、家を失い、家族を失い、心にぽっかりと穴があいてしまった。そういう方々と毎日接していますと、どうしてこんな苦しみが与えられるのか。正直言って分かりませんでした。神様は残酷すぎるのではないか。何度もそう思いました。ボランティアと言いましても、みんな素人ばかりです。毎日毎日、試行錯誤の繰り返し、議論の繰り返し、反省の繰り返しでありました。毎日毎日、どうしてこんな問題ばかり起こるんだろうかと思うくらい、毎日壁にぶち当たり、へこみました。落ち込みました。悩みました。 避難所では、毎日、その日の夜に、神学生が交替で短いメッセージを語って、お祈りの時をもっていました。最初はぽつりぽつりでしたけれども、少しずつ避難されている方々も出席されるようになりました。板宿教会の避難所は、この毎晩持たれていた礼拝によって、支えられていたと私は思います。「神はいったいどこにおられるのか。」そういう状況の中で、毎日、毎日、相応しい御言葉が与えられました。誰かえらい先生が語ったわけではありません。基本的には私を含めた当時の神学生たちが語ったのです。それも注解書も何にもない中で、原稿もなしに聖書だけを見て、聖霊に導かれて語った。あの時、いったい何を語ったのか、今ではもう全く覚えていません。将に、神様御自身が語って下さったのであります。どうしようもない苦しみと悲しみの中にあって、その意味は分からないけれども、今、神様がこの苦しみ、悲しみの中で私たちを支えていて下さる。私たちの心の叫びを私たち以上に知っていて下さる、そして共に苦しみ、悲しんで下さる。今、ここに一緒にいて下さる。そのことが本当に分かったんですね。どんな嵐の中にあっても神様が共にいて下さることの平安を、この時、みんなが経験したのです。その礼拝に出席している者は、みんな分かったんです。クリスチャンだけではありません。今まで教会に行ったこともなかったような人たちが、あの時、同じように感じた。「今、神様が共にいて下さる」ということを。 避難されていた、高校三年生の青年が、こんな文章を自分の高校に提出したそうです。その文章がその高校の広報に載りまして、板宿教会に送られてきました。こういう文章です。
「僕は地震の当日避難所を探していた。最初は小学校に行こうと思っていたが、教会が開いていると言われたので、すぐに行った。そこはキリスト教の教会だった。そこの人はものすごく親切だった。毎晩、夜に礼拝が行われていた。まず讃美歌を歌い、次に聖書を読んだ。地震で被害にあった人は真剣に聞いていた。ぼくの家族もキリスト教には全然興味もなかったが、そこの人達の話を聞いていると、すごくいいものだと思った。神様が守ってくれますとか言っていたけれど、本当に守ってくれたような気がした。日曜日の礼拝も、キリスト教に興味をもってなさそうな人でも、あの地震から礼拝に行っている。毎日の夜の礼拝もたくさんの人が聞いている。あの聖書の言葉を聞いていると何か安心する。本当にその日にぴったりあった聖書の言葉を読んでくれる。あの地震から二ヶ月以上たったけれど、あのキリスト教の板宿教会に助けてもらったことは一生忘れない。神様に助けてもらったみたいだ。」こんな文章です。避難所のみんなが寝泊まりしている片隅で行われた礼拝です。きらびやかな神殿で行われた礼拝ではない。回りには毛布や配給の物資やタンクの水が積み上げてある、そんな中で行われた礼拝です。また喜びに溢れた中で守られた礼拝ではない。大地震の痛手をみんなが背負いながら、苦しみの中で涙を流しながら守った礼拝です。けれども、確かに、そこに神様が共にいて下さった。神の国がそこにあった。毎日毎日、辛いことが一杯あって、みんな涙を流したけれども、しかし夜の礼拝の時には、その涙を毎日拭っていただいた。これは事実です。このように私たちが、真心から礼拝を守る時に、そこには確かに神の国はあるのです。あなたも是非、この機会にお近くの教会に立ち寄っていただきたいと思います。そしてこの本当の礼拝を経験していただきたい、そう思うのです。