I 上越 神楽ヶ峰
正月参加を予定していた霞沢岳に、突然の発熱のため出発できなくなり、ぼくは元日までの丸三日間を38度以上の半覚半睡状態で消耗して過ごした。E君もまたご同様、発熱・腹痛を訴え、山行を諦念したらしく、元旦はKY君ちにしけ込んで、おせち料理にありついた。正月早々、草加劇場で観た「汚れた英雄」は大変つまらなく、どこかスキーでも担いで出かけようという話になった。ご主人が東北にスキー行、自分はひねもす退屈を持て余していらっしゃるワンゲルOBでもある人妻T女史を誘惑し、3日の夜、上野を発つ。
●1983年1月3日 雪●
リフト終点から登り始める。最終リフトは、暴風雪のため動いていない。スキー場の傍らに早々とツエルトを張ってゴロゴロ。酒呑んで、T女史からワンゲルの内輪話など聴きつつ、山岳部、山岳会、学生の話等、今の若い者は……みたいな内容が進むにつれ、夜になり、空が晴れ、星がきらめいてくる。
●1983年1月4日 晴れ●
風が吹いて朝になった。E君、Tっ女史両名は神楽ヶ峰目指して出発。病み上がりのぼくは、ゲレンデに。格別に混んではいない。
12:00、ツエルトにて待ち合わせる。ちょっと登ったところで時間切れになり、頂上には行けなかったらしい。皆で滑り降りるが、E訓は好き好んで藪の中にばかりはいってゆく。
最下部に、最速で突っ込んで行った際、初心者が目の前を横断、これを無理によけたためにぼくは転倒。しばらく動けない。残りリフト券で遊んでいたぼくを、二人は下で待っているはず。やっとの思いで、下まで滑り降りたが、片足がつけない状況。捻挫だ。
二人に肩を借り、片足を引きずりながら電車乗り継ぎで帰京。痛みは徐々にひどくなるばかりで、最後まで二人の方にはお世話になった。最後はタクシーまで使う散在ぶり。一歩も歩けなくなって帰った。
II 蔵王スキー
●1983年2月10日●
奥鬼怒の帰途、スピード違反で捕まったツケとして、大宮検察庁に出頭(いい響きだ!)、その夜、S嬢、Y嬢、ぼくのトリオで上野を発つ。あまりの人出に、待ち合わせていたSZ女史には会えず。臨時列車に乗り込んだのだが、地獄の混雑である。
●1983年2月11日 雪●
山形駅にて、独りぽっちでSZ女史が待っていた。来るはずであった会社の友達とも会えなかったそうだ。
山小舎に入り、皆と合流。ぼくは眠りを貪る。女性らはゲンキンだ。いや、元気だ。
●1983年2月12日 曇り、のち雪●
鳥兜中央ゲレンデ、パラダイスコース、樹氷原コース、高鳥ゲレンデ、サンライズ・ゲレンデ、上ノ台ゲレンデ……と一日券で滑りまくった日。OやUは、度胸があってよろしい。早々に上達するだろう。15:00、捻挫部分を、第一回目の転倒によって痛打する。山小舎に戻って湿布。がっくり項垂れて留守番。静かな山を味わう。
●1983年2月13日 雪●
7:00発。高鳥→サンライズコースにて下山。
痛いので、転倒しないように注意して下る。つまらないけれど。14日は月曜日。仕事なんである。たとえ捻挫していても。
III 妙高高原スキー
今回、妙高山に登りたいのはやまやまながら、今度こそ捻挫を完治させたいがために、会社の同僚K君を誘って、ゲレンデスキーに終始する決意をした。日曜日というと映画ばかり観て過ごしていたので、最近は体力への不安も出てきていた。
●1983年3月18日 晴れ●
20:00頃より、松原団地駅前に、ぽつぽつと集合を始め、私以下、K君、T、N嬢、SZ女史と、出揃ったところで、21:30頃、勤務先バージョンのタウンエース、スタートである。私は折悪しく免停中に当たるため、関越道の一部のみ運転を受け持ち(時効?)、高速を下りてからの雪道はT中心の運転となる。途中、立派な格好いい車が雪道で上下逆さまになって引っくり返っており、そいつを路傍に寄せるのを手伝って、ようやく道路開通……とのっけからなかなか頭が痛い。
●1983年3月19日 快晴●
4:00am、到着。エンジンをかけっ放し、ヒーターを効かせて車中、仮眠を取る。眼を醒ましたところで、ジャスト、一番バスと共に現れたS嬢と合流。計6名で、長いリフトを乗り継ぎ、到着したBCは、快晴の雪山の森の一角。一日券を買ったがために、滑降にいそしんだ。斜面は緩いが、捻挫中の身にはちょうど良いかもしれない。
●1983年3月20日 快晴●
夜明けと共に、K君とぼくを除いてアタック2分隊が出発。ぼくらはリフト稼動前に、山麓へ滑り降りる。ガチガチの固斜面で、脛がずきずき痛くなるほどだった。麓で、一年半ぶりに対面のM嬢(上越市在住)は、相変わらず若やいで、スキーなど久しぶりらしく、頬を上気させている。本当にたまにだが、こうした遠隔地の懐かしい人が、未だに<稜線の光>の合宿に顔を出してくれるのは、嬉しいものだ。
同時に待ち合わせたKKは現時点での己れの体力の偏差値実測のため、皆のシール跡を追って雪の中に消えていった。残る3人は、やはり一日券を買うことにする。
午前中M嬢をしごいて過ごし、昼は、彼女持参のお弁当を、K君とともにパーフェクトに甘受する。午後、しばらくして、ゲレンデはようやく人で溢れ、リフト乗り場に行列が築かれる。2本のリフトを乗り継いで、最上部まで一時間。そこで眺める上信のペエイサージュは新鮮だった。M嬢は、白い野尻湖や、自宅のある町の方向を指差して、故郷の一部としての妙高への情愛を匂わせる。
BCに戻ると、KKとK君が、昼寝を貪っていた。KKは久しぶりにバテた、と嬉しそうに転がっている。やがてアタック・メンバーが、Yの男臭さい姿を取り巻くようにして帰ってきた。
夜、赫々とキャンドルに照り映えるテントの中で酒は進んだが、学生たちの疲れて元気のないこと! 横のつながりの欠如をまだまだ感じる。同期同士の連帯なら、どこのクラブにもあるだろう。そんな狭い視野に閉塞されるな、とぼくは苦い酒に向かって独りごちた。
●1983年3月21日 雨●
雨中のスキー。S(山形出身)が、人一倍重い背負子姿で、猪突猛進の初陣を切り、Y・M嬢といった面々が、名残惜しげに雪と戯る……。雨が本降りになった頃、電車隊と別れ、互いに手を振り、タウンエースに乗り込んだ。菅平の裏道を目指して、ぼくたちは春の、眩しかった銀雪の妙高を後にした。かぐろい頬をさらに陽に焼きながら……。
IV 那須岳
●1983年5月1日 曇り●
*Y嬢、KK、私
前夜23:00頃、勤務先バージョン、カリーナ・バンにてY嬢宅を発つ。勝手知ったる栃木の裏道を走り抜け、那須有料道路の料金所ゲートを無人無料の時刻に通過し、大丸温泉駐車場着。3:00am、仮眠。
KKと出かけるときは、必ずと言っていいほどこうなるのだが、寝坊して9:00起床。朝飯は食わぬというKKを待たせて、大丸のレストハウスで蕎麦などを啜り、ロープウェイ山麓駅直上の駐車場へ車を移す。
一昨年、Tらが登ったという旭岳東稜をKKに指し示されながら、1ピッチで峰ノ茶屋へ。ハイカーが沢山風をよけて休んでいる。
ここで死にそうになった話は他の山行記録で既に書いた。その辺りの岩に必死でしがみついていたのだな、などともっとずっと若かった自分を懐かしみながら、そのことを二人に話していると、今も、あのときのように山に全力を傾けてみたい、などという愚かな思考が、ぼくの日常生活の中に蛇のように滑り込んで纏わりついてくる。
かつてガスに巻かれて、初心者Fと二人で彷徨った瓦礫の荒野が、今日は何と平和で穏やかな、招きに満ちた楽園であることか。そこをスニーカーで歩いてゆけるのだ、この季節には。
茶臼岳山頂へは一投足だった。風雪の季節しか訪れたことのない山。あんなにも生命を投げ出すようにして、それでも登ることのできなかった山は、ここのどこにもない。ぼくは少々げんなりした気分だったが、山の季節の豊饒さに、改めて不思議を感じるところ大なのであった。
帰る道すがら、硫黄臭凄まじい噴泉のひとつに近寄ったKKは、ガレた岩肌に手を当てて、「熱い!」と言った。
広場のようなガレ場に、畑地の如く石が整然と幾重にも列を成しているのが、人為なのか天然なのか、見当がつかない。
「宇宙人関係かな」と、呟くぼくに、
「そうだな、宇宙人関係だな、きっと」と、菊池は噴き出しながら、肩をすくめた。
上から見下ろす峰ノ茶屋辺りの風景は、人影を拭い去れば、荒々しい場所と言っていい。<さすらいの口笛>(byエンニオ・モリコーネin『夕陽のガンマン』)を吹きながら下山。
12:00、ロープウェイ山麓駅のカリーナ・バン着。
牧場街道(これはS山形出身と、この辺を何故かドライブしたときに知った道)、紅葉ライン、霧降高原ルートで帰京。牧場は、文字通り一寸先も見えぬ、乳白色の霧の中だった。
V 槍・穂高周辺
*N、M(ユース部OB)、O嬢、Y嬢、私
●1983年5月5日 快晴●
背負子を担ぐなんて、本当に久しぶりだ。春の陽光はかぐろく、痛く、そして限りなく重い。雪は、まるで六月であるかみたいに、解け去ってしまっている。
ぼくがかつて本当に今以上に重い背負子を負わされてこの道を辿ったとき、山は、まだぼくの前に、このようにはうまく拓かれてはいなかった。すべての山が未知であり、今でも鮮やかなその時分の立体自然は、若いぼくには厳しいながらも素晴らしき伴侶としての片鱗を見せてくれたのだった。
ぼくは今回、欲張った気持ちで出かけてきたのだ。天候はどうやら悪化の兆しだが、ぼくはぼくなりに精一杯、山の気配を吸っていこうと目論んでいる。
見上げる行く手の霞沢岳には、期待した雪のきらめきが見えなかった。当初の予定を、槍ヶ岳登山へと変更するのに、さほどの躊躇いは必要なかった。
明神小屋で朝定食を喰らいながら、Y嬢・O嬢の両名を説得し、計画を変更した。徳沢への道すがら、N先輩(早大釣り研出身)に出くわす。この人の場合、本当に<出くわす>ことが多い。三ツ峠ではザイルにぶら下がったN先輩と、岩壁の上で出くわした。ぼくらの行くところ、行くところ、そこら中にN先輩が来ている、という印象だ。
待ち合わせ場所だったはずの徳沢を過ぎ、横尾手前で下山組と合流。真っ黒に焼けた彼らが羨ましい。ともあれ、ぼくの背負子は下山組から別れこれから登り返すNの背に移った。
そこから旧槍沢ロッジ跡では、かなり時間を食った。Nは、合宿の疲れが溜まっている様子。明日は雨だろうな、などと天気図をつけて安心している。何故かぼくは、それでも明日は出発するつもりでいたのだが……。
●1983年5月6日 快晴のち雨●
快晴〜! というNの気落ちした言葉に揺り起こされる。紺碧の空に、思わずぼくは頷く。
歩き始めて思い出したのは、サングラスを忘れてきてしまったことだった。雪を削って歩いても、影さえ見えず、ただただ眩しい登高となった。
途中、雷鳥に出くわした。白黒まだらだ。そこらの山肌と同じ色をしているように見える。普通はガスの沸く日に見かけるのに、今日は珍しい、と思っていたら、しっかりガスは後から後からやってきて、大槍の穂先が時折り雲に巻かれて見えなくなってしまうようになった。雨もぱらつき始めた。
一旦、雨具を着けたら、ふたたび晴れ、さらにまた雨となる。凄い迫力で眼前に迫る大槍は、もう今日のところは姿を現してくれそうになかった。殺生小屋の傍らで、天候の悪化……と踏ん切りをつけて、下山を決意。
ぐしょ濡れになることも覚悟して、ヤッケで尻セードを満喫。O・Y両嬢のはしゃぎ方ときたら、OLという言葉から普段ぼくらが感じるはずのありったけのエロティシズムをかなぐり捨てたような、荒涼としたものを感じた(殺気!)
翌日の徳本峠への行程を楽にするため、キャンプを横尾へと移すことにした。けっこう歩いたせいか、皆、ちょっと疲れている。
●1983年5月7日 曇り●
横尾を出ると、何と上高地街道に猿の群れ。ニホンザルは小型でベージュ色をしていて、子猿も多く、観ていて飽きることがない。さらに明神付近では、オコジョが足元を横切った。
上高地への分岐で、O嬢だけ先に下山。空はますます暗い。Nの表情は、ますます曇っている。
峠への登りは、夏道と違い、沢通しに雪渓を詰める。それが非常に薄いスノウブリッジで、時々、靴に破られた穴ぼこから、水流が覗いており、しかもかなりの急斜面で、文字通り薄氷を踏む緊張がある。痛々しげなNの背負子姿を励ましつつ、ついに峠に立つ。
寒い。梓の谷を挟んだ対面の穂高は、夕雲に隠れ、見えそうでいてなかなか見えない。峠の小舎に勝手に入って、炬燵で丸くなっていると、後からやってきた客が、心配していた通り、ぼくを小舎番と間違えたのだった。もう、何度、小舎番と間違われたことだろうか。
夏にはいたはずの白い子犬がどこにもいないので、ちょっと寂しい気分の峠だ。
●1983年5月8日 雪、のち晴れ
朝、吹雪。何という寒さだ。峠に深く積もり名残っていた雪の上ばかりか、土の露わだったところも白い雪で覆われつつある。
雪渓が消えると、雪は霙に変わり、そして岩魚留への急下降が終りに近づくにつれ、雨となった。岩魚留小舎に、件の白い子犬は繋がれていた。雲間より陽が差し込んできて、雨上がりの青葉から雫が滴りっている。
渓の桟道は背負子には狭苦しく、Nは歩きにくそうだった。島々の駅へは、遠く遠く感じられた。
松本駅前……。養老の滝はどこへ行ったのだろう。ぼくたちの信濃路の終りには、必ず刻印されてきた思い出の酒が、もう呑めない。あのジンギスカンが、馬刺しが、もう食えない。
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