未だ知らぬ尾根への不安忍びつつ振る手もどかし汽車旅立ちぬ
いずこやら不図目醒むれば深更の車窓に白き雪の領せり
朧ろげの眠気に霞む雪景色薄命裂いて汽車渓をゆく
奥飛騨の里に至れば彩りどりのスキー往き交う晦日の活気
細径にわずかばかりの踏み跡を追いてなお聞く蒲田の瀬音
雪煙を立てし穂高の峰遠く平の雪野に午後の陽やさし
白出の沢に分かるる急登に降り落つる汗樹氷と消える
落日の傾ぐ樹林に稜線の風ぞ伝うる飛雪手に受く
ツエルトを立てて拝する南岳峨々たる胸に残照鎧う
宵闇に年つ瀬迎え酒を酌む無人の尾根にリーダー頼もし
新年の祝賀を交わす未明刻雑煮の湯気の睫毛に凍てし
絶え間なく一夜を降りし風花に昨日の歩程跡も残らず
紅を木々越しに知る初日の出登高の支度に追われつ拝む
アイゼンの重さ加えし登高にはや息乱る標高の罠
山なみに清しさぞ知る心なき幕営跡の汚れ悲しき
雪稜に出でて顕わる縦走路初春祝いて舞う光かな
体力を使い果たせし蒲田富士仰ぐ銀嶺の高きにぞ恋う
ツエルトを被り見つめる蒼空に幻視の如く吹ける風花
滝谷の切戸へ続く銀屏風カメラ覗けば槍霧に消ゆ
フィックスを掴む我が手に叱咤飛ぶリーダー厳し他会恨めし
股ぐらにゴーグル覗かすリーダーと無言の首肯悪場長引く
主稜線打ち出でてみれば滝谷を脚下に断ちて北穂勇壮
山頂を巻きて見下ろす赤尾根に夏の記憶の呼び醒まさるる
ジグザグを切って下り立つ乗越しに寒夜待ち受く岳人の満つ
豪雪に埋もれ消えし小舎の屋根赤きトタンに滲む夕映え
幽遠の涸沢カール人影もなき厳冬の威に曝されぬ
元日も風の音駆ける宵に暮れ永きひとよの夢と終りぬ
ツエルトの外は逆巻く烈風のお暗き朝に今日の明け行く
未だなお寝ぬるテントを羨みつ荒天に発つ足取り重し
鎖場に壊れし我のアイゼンに気づかず霧に消えるリーダー
風の音に混じりて聞こゆリーダーの声近づきて胸撫で下ろす
頼りなきアイゼン軋む急斜面風の呼吸ににじり攀じゆく
山頂に至る雪壁凍て果てて支うピックに万感こもる
頂に立ちて疾風の応酬を受くる互いの頬は凍結
吹雪かれてケルンのもとに風避ける奥穂の極み行く方もなし
お互いに初めてという雪洞を掘り下ぐ業に寒気忘れる
風雪の息の変化に耳清ませ掘る雪洞にたくす休息
あたたかきひと夜限りの雪洞に夢も委ねん燈明仄か
小夜更けて外に出づれば寂静の天にきらめく無辺の星座
宵闇に真綿と沈む雲海の彼方常念優美を醸す
常念の夜空に星と融け光る松本遠き夜景さやけし
天辺に寝ぬる心の落ち着かず傾く酒も汲み尽きにけり
暁闇に雪中キジの眺め良き傾ぐ大槍血煙を吐く
吊り尾根を駆ける暁ブリザード雲海未だ涸沢に寝ぬ
黎明とともに踏み越す西穂への切り立つ巌雪知らぬげに
快晴の極みに望むロバの耳苦るアイゼンなる如くなれ
ザイル繰る手に久方のもどかしさ苛立つトップに焦れセカンド
ジャンダルム待つリーダーに怒鳴られて他会の者に慰められし
振り返る奥穂威影を打ち拡げ雪洞今も夢幻の如き
険難の西穂稜線絶えずして心強いらる緊迫のきわ
すっきりと延びる雪稜我知らずザイル操作も板につきしや
登降の繰り返される果てしなき永きに耐えし苦闘忘れじ
喘登を終えて至れる西穂高ベース近きと知り湧く安堵
息切れの熄みて静まる西穂より返り見る嶺胸突き上げり
溢れ出ん涙をこらえ万尺の峰に見入れるこころ幾重に
初めての苦難の峰に別れ告げ下る岩塔まだなお険し
リーダーに先を促し雪原にただ独り行くベースは近し
不意に衝く歓びに我れ知らずして満つる涙や洩れる微笑み
ピッケルを掲げし影に見覚えのありきベースの出迎え嬉し
辿り来し踏み路の重さ噛み締めん天幕越しに交わす祝声
よく耐えしアイゼンに情注ぎぬる労ねぎらいの紅茶身に浸む
宵闇の迫り来西穂山荘に未だ見ぬ仲間無線気に掛く
酒を酌みなおも尽きせぬ唱声に和音と深む雪尾根の息
本隊の下山の後に仰ぎ見る霞沢冴え疲労癒やせり
北尾根を踏みし二人の行方見ずBCの苦を嘆くリーダー
陽傾ぎて雪踏みしだく跫の聞き覚ゆるに安堵火と湧く
再開を祝す正月夕間暮れ互いの苦談肴とつまみ
幾日を過ごせし穂高惜しまるる下山の未明荷造り進む
森林の抱く根雪に身を委ね滑る傾斜に想も流るる
不図気づく暗き樹林に人気なし仲間のいつか姿も失せぬ
下り着く梓河畔に雪白く降りしきる朝仲間そぞろに
ひとけなき田代の橋に降り積みぬ雪無垢にして梓麗わし
雪雲に翳りし穂高凄愴の気に棲み宿る池畔寂静
雪白き大正池を傍らに急ぐ隊列かしこに朧ろ
谷深きいわお湯煙る雪化粧鄙びの宿に霧打ちかかる
常闇を彷徨う亡者さながらに叫び響かす隧道長き
隧道を出でて眩ゆき白妙の雪道遠く里のあるらし
松本といえば知りたる山小舎にまぐれ逢うたる友ら奇しかな
それぞれの初春胸に語り合うカフェの温もり髭こそばゆし
(1980.02)