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いつでも旅人のように熱心にものを見てゆきたい、と思っている。旅人の眼を持つことを、自分に強いてきた。日常のこまごまとしたものごとを、見慣れてしまいたくないからだ。
人の心の中は、きっと気圧が低いに違いない。接するものが、ことごとく高気圧なんだ。そうであって欲しいと思う。外から内へ、強い風に、びしびり入り込んで欲しい。風の摩擦は、たわんだ精神を張り詰めさせてくれる。
同じ一つのものを見ても、ぼくは他の人よりずっと多くのことを感じ取りたいと思ってきた。いくばくかの微かな感動にでも、ぼくは自分の全重力を傾けたいんだ、と。
自分が山の風景をこよなく愛するのは、そういうあたりから来ているのだと自覚している。誰だって山の頂に立ったとき、その素晴らしい景観に、言葉では言い表せない感動を覚えるに決まっている。しかし、山腹を巻いている途中で梢の間に間に見え隠れする雲海とか、空の下で薄黒くうずくまる岩山とか、休息のときに足元で揺れる草の花一つにも、それこそ山頂で受けるのと寸分違わぬ感動というやつを、ぼくは両手で掬い上げたいと思うんだ。
もちろんこうした感動は山に限ったことではなく、理想を言えば日常生活の瑣末のものごとに対しても向けられるべきだ。旅に出て、周りの珍しいもの、真新しいものに、一つ一つ眼を見張ることはたやすい。しかし人生そのものを旅と考え、普段の生活の中で、今自分の立っている場所を、いくばくかなりとも掴もうとすること、そこには、感動が生成するに違いない。
美というのは孤立してある絶対存在ではない。そういう小林秀夫のに本当に共感できる。美に直面するたびにそう思う。美しいものに対峙するとき、それはもともと美しいものがそこにあるのではない、というように思える。もともと何の変哲もない大宇宙のさなかでは、ほとんどあるがままの自然さを備えて、ものはただそこに在る。そのことが、人間の眼を通してインプットされ、心の中である作用を受けて咲き誇り、美という意識が生成されるのではないだろうか。
見られる物象と、見る人間の心との間に引かれた一本の糸が、おそらく美というものの正体なんだろう。
山でよく思うこと、感じること……美しい景色と感じるままに、何でもない岩稜の一角に眼を止める。美しいという意識が生成する。すると胸の奥から大きな心の高揚が生まれる。そうしてそれが消えるとき、ふたたび未だ知らぬ美を求める気持ちが生まれる。また、山に来ようと思う。
生きる――という感覚は、それがおよそ生活全般に渡ることだけに、かえってほとんど意識されないものであるかもしれない。しかし美に対峙したとき、感動が生命(いのち)の在ることを改めて教えてくれる。ぼくという存在が微妙に揺すられ、時がとどまることなく生成されてゆくのを感じる。
「生起とは、とめどない再構成、再組織の合図なのだ。……海の上には、生起の絶え間がない。存在の鐘がいつもいつも鳴り響いている。」
(三島由紀夫『豊饒の海』第四巻)
この文章に込められている感動は、おそらく人類共通の何ものかであるに違いない。そこに思想の表皮は要らない。創造は、絶え間なく降り続ける。
あたりはとめどなく流れつつあるのだ。そのさなかにぼくらが身を置いている以上、旅人としての生き方を見失って、さらには<生>の感覚から隔てられてゆく人々は、真実の旅する者たちに比べれば、随分と損な人生を過ごすに違いない。
ぼくはずっと欲張りであり続けたいと思っている。
(1979.2)
(山岳会誌「稜線の光第5号」(1979年6月25日発行)掲載文章に加筆訂正したものです)
−了−
(1978.09.01)
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