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KYさんには、私の黎明入会以来、ひとかたならぬお世話になってきた。集会に欠席しがちな怠惰の時期が私に続くと、あの人は決してそれを見逃さずに、電話などで山や酒に誘い出してくれるのだった。だから自然KYさんとの山行も一番多くなったし、天幕内の宴などでKYさんの酔って歌う姿は、未だ印象に強い。現在私の知っている多くの山の歌は、みなKYさん直伝のものだ。殊にあの人は、《惜別の唄》が好きだった。
西川口のKYさんのアパートには何度か泊まりに行ったことがある。合宿前の打ち合わせや集会後の一杯で遅くなると、誘われるままにここを訪れた。部類の酒好きだった。金がないからと、焼酎ばかり呑んでいた。お湯割り一升が、我々二人だと一晩で空になった。生活の方もたいへん小マメな人で、手製の白菜漬けなど、その味の良さに感心させられたものだった。寝る前には、真冬でも毛布一枚だけ。
「耐寒訓練しなきゃ冬合宿なんか行けねえぞ!」
KYさん独特の漲った面持ちで言うのだった。
だが、何よりも、二人で冬の穂高を縦走した思い出が今は深い。それは私にとって初めて経験する高山の冬であったし、この山行を通して、真新しい体験を無辺際に汲むことができたからだ。北陸本線にセーターを忘れてしまった私に、KYさんは、俺には羽毛服があるからと言って、代わりに差し出してくれたっけ。
奥穂高岳山頂に何時間もかけて掘った雪洞の宵。雪片はいつのまにか星屑に変わっていた。常念ヶ岳の向うに下界の夜景は、凍りついたように美しく澄んでいた。
朝、眼が醒めると二人ともシュラフがずぶ濡れで、それがバリバリに凍ってしまった。外に出ると凄烈なモルゲンローテ。濃藍の雲表に、赤茶けた大槍や前穂北尾根は雄々しく傾いでいた。
「こんなに天気のいい正月は、俺も初めてだ」
何の不足もないといった顔してひとりごちたKYさんの頬にも、冬陽は平等に宿っていた。
そうして西穂へ続く悪い稜線を苦しい緊張のさなか、ザイルつないで咆哮しながらもあの人と辿った時間の、何と永遠に鮮烈なことよ!
そういえば蒲田富士で、体調を乱した私のためにツェルトかぶって憩った一時間、雪尾根からの散華のような飛雪の群れが、逆光を受けてきらきらと、ほんとうにきらきらと舞い落ちる穂高連嶺を眺望して、私もKYさんも、じっと無言で心を揺すられていた貴重な時があった。
「これがあるから、山はやめられない」
と後々まで言っていた、ああいう神秘に、これまでKYさんはいくたび触れて来たことだろう。それを思うと、槙有恒の「生きた時間が問題ではないのだ」という死者への手向けが、知らずよみがえる。
好きな穂高の山の中でたった二人ぼっち、明けましておめでとうとエアマットに両手つき、ローソクの炎に焦がされて、トソを呑み、雑煮を喰った。巨きな山に比しては、較ぶるべくもないちっぽけな我々のツェルトの中で、KYさんの迎えた、それが最後の正月であった。
(1983)
(「黎明 KY追悼号」(1983年3月1日発行)掲載文章を加筆修正したものです)
−了−
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