■甲斐駒から鳳凰三山■


*1978年10月28日〜11月2日

*パーティ=I先生(顧問)KK、OH、私 (以上、山岳同人 稜線の光)

 甲斐駒ヶ岳黒戸尾根から鳳凰三山に登り、下山したら家に帰らず、そのまま奥秩父全山縦走しようという、無茶なプランを立てた。結果、奥秩父の西半分を縦走し、雁坂峠から秩父に下山した。途中下山したにも関わらず、10/28-11/7の11日間の山旅だった。

 これは南アルプスの部分の山行記録である。奥秩父の記録は人任せだったので、アップロードすべき原稿は存在しない(2007.03.04)。

●1978年10月28日(土) 雨●


 OHのアパートに集合して、I先生の車で、20:00、埼玉県草加市を出発。環七に出てから、カメラを忘れたことに気づき、わざわざ引き返す。深夜0:00甲府着。バスターミナルにて仮眠。

●1978年10月29日(日) 雨●


 天候回復の見込みなく、韮崎駅にて停滞。

●1978年10月30日(月) 快晴●


*TIME:竹宇駒ヶ岳神社(7:15)−粥餅石(9:50)−笹ノ平(9:50)−前屏風ノ頭(10:40〜11:10)−刃渡り(11:20)−刀利天狗(11:40)−五合目小舎(12:35〜13:45)−七丈小舎(15:00)泊

 タクシーにて竹宇駒ヶ岳神社に乗りつける。登山口からの甲斐駒は、深雪を輝かせてあまりにも遠くに見える。神社脇の尾白川にかかる吊橋を渡り、早速ジグザグの登りで、先の苦労が思いやられる。KK、OH、私、I先生の順。木の間越しに八ヶ岳がくっきりと望まれて、元気づけられる。この縦走の後に連続して登る予定となっている奥秩父山脈は、たおやかな稜線を延ばしている。金峰山五丈石も誤りなく見分けることができる。

 黒戸尾根のはっきりとした尾根道に出るまで一時間を要した。雑木林が行手の径を隠している。

 一旦尾根上に出た道は、ふたたび尾根西面を巻くようになり、花崗岩のザレ場を二、三横断して、やがて広い笹原となる。長椅子の据えられている笹ノ平までさらに一時間を要する。手前に粥餅石という苔むした巨岩があり、碑などが林立している。かつての行者たちが水場のあるこの場所で、粥餅ばかりを一千日間、食して修行したとされる言い伝えに、石の名は由来しているのだそうだ。

 笹ノ平にて、左手に横手口からの登山道を合わせると、八丁登りの急登となり、相当のアルバイトだ。木の根に掴まるような登高を強いられて一時間。俄かに展望が開けた場所に至ると、そこは前屏風ノ頭である。

 行動食を各自分け合ったりしているところへ、黒犬が一匹ぬっと現れたかと思うと、すぐ後から不思議と息も切らせる様子もない相当年輩のご老人が姿を見せた。背負子を負って地下足袋を履いているところから、この先の小舎主であることは一目瞭然。これが、なかなかの口達者な明るい人で、普段なら饒舌では引けをとることのない我々四人組も、すっかり閉口させられ笑いっぱなしの十分間であった。中でも、登山中、老骨に鞭打って云々と盛んにこぼしておられたI先生は、倍以上歳をとっているような老師から一本も二本も取られていた。

 この場所からの眺めがまた素晴らしかった。それまでが樹林に遮られた汗だくの登り続きであったがために、ここの清々しさ、明るさたるや、申し分ない気付け薬になってくれる。実際には東面だけが打ち開かれており、そこに北から、奥秩父、富士、鳳凰山と、山々が静かに配置されてあるのだった。

 三十分の大休止後、我らも、老人と黒犬の遥かに後を追って出発。すぐに刃渡りに出る。うきうきするような、左右底なしに抉り取られたナイフエッジの岩場である。岩の亀裂から松の木がにょきにょきと生え、日本的美を湛えた地形でもある。決して危険な難しい場所ではない。

 ふたたび道は樹林の底へと没し、やがて錆びた剣や石碑の祀られた刀利天狗に出る。至るところ、往時の宗教登山の臭いがする尾根なのである。黒戸山の巻道を辿って、五合目小舎へと急ぐが、この辺りから木々の密集が薄れ、前方の見通しもやや利くようになる。昨夜の雪により白いベールを纏った雄々しき駒ヶ岳は、登山口で見たときより一段と近くに迫り、それでいてこれから経ねばならぬ道程の、昨今にして珍しい長大さを予想されてくれる。頂は遥かに未だ見えざるままで、我々を奮い立たせてくれる。

 黒戸山を巻き終え、少しく下り、五合目小舎に到着。七丈小舎までが今日の行程であるから、時間的に十分なゆとりがあり、二度目の大休止とする。ガイドブックを開いていると、ここの主はやはり相当の名物男であると記されている。現に主は、再度、ぼくらのもとに立ち現れ、楽しい話を四方山に咲かせてくれるのだった。五合目小舎とは、実は深山短大という別名を持ち、かく言う主はこの校長先生なのだそうだ。小舎の前には、主の木彫り人形がひょうきんな顔をして突っ立っている。主と黒犬を交えて記念撮影などをする。最初のうちは人見知りしていた犬も、すっかり狎れて調子に乗り、私の顔をべろべろと嘗め回すほどになっていた。それほど長い時間、自分らはうっとりと行手を打ち眺め、憩いの幸福に全身浸かり切っていた。

 一時間余の後、思い腰を上げた。すぐに岩の懸崖にかけられた梯子段の登りである。暗い岩陰には雪が吹き残り、荷を背負った身には、少しばかり厳しい顔の鎖場がいくつも立ち現れる。喘いでこれらと格闘していると、もう先ほどまでの心の緩みなどは、欠けらもなくなる。岩角に引っかかりやすいキスリングは相当のハンディとなる。呼吸を整え、整え、進み、一時間の後、思ったよりは早く七合目小舎前に飛び出した。

 ここに至ると、もう樹林の層もすっかり薄くなり、露岩の上に立ち上がると、北西遥かの雲表に、や槍・穂・立山連峰までの白い輪郭までもが眺め得られる。松葉混じりの天水を汲んで、横にならずとも歩けるように桟道を設けてある<カニの横這い>を通って、七丈小舎に入る。標高2,443m。

 広い小舎だ。客は他に単独行者が一名。軒先につららが、無数に垂れ下がっている。

 夕暮れが楽しかった。夜には、歌合せをやった。心温かき登山者の残置していったウイスキーが少々あり、我々は皆、手を叩いて歓ぶ。小キジを打とうとして外に出てみれば、甲府の夜景が冷たく眩い。星々を散りばめた天は雲ひとつ産まず、甲斐駒の未だに巨きく、黒々と押し黙っている気配だけは、相変わらず物言わぬ威厳を夜気のうちに放ち、その存在の方角だけが濃い影となって、星座の交響楽を剥ぎ取り、飲み込んでしまっている。22:00就寝。

●1978年10月31日(火) 快晴●


*TIME:七丈小舎(7:15)-八合目御来迎場(8:00)−甲斐駒ヶ岳山頂(9:40〜10:10)−仙水峠(12:15〜12:50)−栗沢ノ頭(14:15)−浅夜峰(15:20〜15:40)−早川尾根ノ頭(16:45)−早川尾根小屋(17:25)泊

 扉の隙間から洩れる光に眼が醒めた。外は、壮麗な雲海と、夜明け前の燃えるような明るさで、我が眼を眩ませた。寒気に震撼としつつも、御来光に立ち会う。ラジオから流れ出すグレゴリオス聖歌が、鉄を流したように、この朝と融合していた。それほどまでに、この東面の溪を伝う綿雲の、曙光を浴びた形象は神々しい。

 食後にコーヒーを飲む。昨日に続いて、今日も7:15、行動開始。

 小舎の少し上が樹林限界線となっており、尾根の左側から次第に右へ巻くようになる。積雪20cm。這松帯などでは50cm以上の吹き溜まりもあって、岩を選りながら歩かないと足を取られる。しかし、アイゼンを履くまでには至らない。朝陽が雪に映えて眩しい。雪が綺麗だ。十月初頭に一度降り積もり、それが一旦すっかり解けた後、三日前に舞い降りたばかりの、さらさらの深雪だ。

 八合目、石造りの大鳥居を潜る。北ア連山、八ヶ岳、奥秩父主脈、富士、丹沢、大菩薩嶺……、眼路は八方に移ろう。鎖場は雪に埋まりかけている。荷の重さを忘れる快適な登高だ。

 小さな祠を過ぎると、また一つ祠と石地蔵を祀った、駒ヶ岳山頂に立つ。絶嶺である。山頂の祠に手を合わせ、登山の成功と以後の行程の無事を祈る。けれど、石地蔵がKKに似ているとのI先生の言で、神仏も多少は気分を損ねたかもしれない。山頂脇の岩陰に風を避け、行動食を摂る。

 山頂より、駒津峰とのコルへの道は、幾通りにも取ることができるが、最も一般とされている頂より西南面への下降路を行く。こちらは積雪もなく、むき出しのザレ場で滑りやすい。途中、悪いトラバースなどもあり、慎重を期して、荷を下ろしてからの通過も行った。最低鞍部で小休止を取った後、駒津峰への短絡な岩稜を潅木頼りに登ると、あとは仙水峠に向けての一息の下りだった。一度樹林帯に入るが、ふたたびガレへ抜け、またも深い樹林となる。急傾斜の下り続きで、私とOHは膝をだいぶやられる。

 仙水峠に下り着いて昼食とする。甲斐駒ヶ岳摩利支天峰南壁が、ここからは威圧的だ。北沢峠より来て駒ヶ岳へのピストン登山をやっている登山者が多い。我々と言えば、いよいよここから早川尾根のロング・ランである。12:30を回っている。この先のコース・タイムは5時間半。1P(ピッチ)を30分に区切って、5分休憩で行けば、疲労も少なく済み、効率が良いとのI先生の提案で、とにかく予定通り前進することにする。赤石沢より湧く雲も、午後の常連のようであまり心配は要らないようだ。

 変成岩のケルンを左右に払いながら登れば、すぐに暗く寒い樹林帯の急登となる。それもしばし。森林限界線を抜けて這松帯となった。薄く積もった雪面を撫で上げる風は冷たく、休んでいる間にも震えが訪れる。

喘ぎながら登り着くところは栗沢山ノ頭である。白峰三山を縦に据えて眺める格好だ。

 道は一度下って、太い二重稜線を南寄りに取る。浅夜峰へは、這松混じりの岩稜の、退屈しない尾根歩きだが、自分は一歩ごとに、キスの重さが瀬に食らいついてくるのを耐え、息を荒げている。前を行くKK、OHに振り返られながらもゆっくりと行けば、知らないうちにアサヨ峰の頂上ケルンを前にしていた。

 甲斐駒は、振り返れば、遥かに遠のいている。よくぞあんなところから歩いてきたものだと、めいめい嬉しげに道程を噛み締めている。黒戸の昨夜泊まった小舎はあの辺りだとか、五合目小舎の仙人と最初に出会ったのが、あの陽の当たった鞍部だとか、今やちっぽけなものにしか見えない山稜を指差しては、それらが随分昔のことであるかのような感慨に更ける。

 OHは、加藤文太郎よろしく、甘納豆ばっかり食っている。自分の分だけでは足りなくなり、I先生のボッカを手伝ってまで人の甘納豆を、さも美味そうに頂いている。ここで試しに自分とKKの分の荷を担ぎ代えることにする。その重量の差に、KKは改めて驚いている。はは、なるほど、重い、などと、やっと罪悪気な顔になってくれたので、私も一応満足とする。

 出発。秋の日の釣べ落としに、ちらと危惧を抱いている。早川尾根ノ頭に着くと、小舎の屋根が下方できらりと夕陽を受けて輝いていた。それでもなかなか距離を縮めてはくれない。凍結した急斜の岩場を下り、樹林帯へと移り、アトモスフェアは鮭肉色に澱んでくる。美しい。みるみる暗くなる中を飛ばしに飛ばすと、俄然、早川尾根小舎に着く。

 小舎には客が多かった。おまけに大人数でワインを乾杯し合っている連中の姿など、我々には毒だ。拗ねたようにして四人ともさっさと寝入る。

●1978年11月1日(水) 快晴●


*TIME:早川尾根小舎(7:15)-白鳳峠(8:35)−赤抜沢ノ頭(10:10〜10:30)−地蔵岳往復40分→観音岳(12:30〜13:15)−薬師岳(13:30)−南御室小屋(14:15)幕営

 小舎の前で例の如く準備体操をしていると、ひときわしろがねに輝く北岳が、木の間越しに眩い。白峰とはよく言ったものだと思う。

 のっけからペースは素晴らしい。樹林が続き、登高もほとんどなし。下ったなと思うと、広河原峠に着いていた。ここからが高嶺への相当なアルバイトである。樹間よりちらちら見えていた西斜面の、うんざりするほど真っ正直な登りだ。這松帯に出ると、北風が強い。全員がヤッケをつける。この季節なら、この程度の強風は当たり前の話である。雪はほとんど解けているが、わずかに残ったプラチナ色の氷雪から、冷ややかさをやたら吸い上げて、風は、我々の足元を薙ぎ払わんばかりに吹き渡る。場所や方向によって顔面に吹きつけてくるときの、涙や鼻汁の煩わしさと言ったらない。

 今日は、OHと順番を交代して、二番手についている。相当くたびれ、小休止を取ったところで、まだ肩である。鳳凰は、このわずか向うに隠れているはずだ。ふたたび立ち上がって、岩場伝いの急登りにかかる。天気晴朗であることに慰められる。

 高嶺は立派な頂であるのに、何故、無造作な名がつけられているのだろうか。おそらくその名の凡俗さゆえに、我々の足はそこを通り過ぎてしまいがちだ。

 続いて、花崗岩のザレた尾根道となる。鳳凰の特色でもある白砂の稜線の始まりだ。岩の奇抜なまろやかさと、雪に代わって陽を受けるザラ目状白砂との、日本的なアルモニィだ。

 赤抜沢ノ頭着。地蔵岳オベリスクが、いつの間にか手を伸ばせば届くような距離に近づいている。荷を置いて往復。

 一旦賽の河原に下り、オベリスクに取り付く。槍ヶ岳を縮小して女性向けにしたような明朗快活な雰囲気がある。槍は黒に近いほどの岩であるのに対して、地蔵仏は、実に白い。鮮やかな呆気ないほどの白い花崗岩で、纏っていた肉の風化した後に残された、骸骨的滑らかさに鎧われている。こういう形状を前にすると、誰だって首を傾げたくなるに違いない。上まで駆け上がったが、てぺんの二つの縦長巨岩が素人向きではない。ウエストン の投げ縄登攀については、既に有名な話である。

「鳳凰山の地蔵仏は、ウエストンによって初登頂されている。このオベリスクは、金峰山の御像石(五丈石)とともに有名であるが、今日ではともにあまり登られてはいない。わずかに金峰山の岩塔の方が登られているらしいが……」(『岳人』340号 南ア北部の山・甲賀一郎)
 KKとOHが持ち前の果敢さを発揮するが、危うくって見ちゃおれない、とI先生、目を反らしたりしている。自分は得意のトカゲ用石床を見つけ、肩肘ついて満悦気味である。目の前のアクロバットが、なかなか滑稽で愉快だ。二人とも登る危険を遅まきながら察知したか、ようやく観念し、欠伸など始める。昼食後、出発。

 観音岳への最低コルへ、真っ逆様に下る。下りながらも、行手の登り返しとなる斜面の迫り上がってゆく様を、吐息混じりに眺めやる。観音岳へは、稜線通しの道と、左山腹を巻く登路とがあるが、涼しい後者を、赤布頼りに登る。二者の交錯するところでガレとなり、不明瞭な広いところを、各自好き勝手に登る。

 観音岳の頂は、まさに格好の展望台であった。岩陰に身を沈めて風を避け、惜しみなく降る陽光と、紺青の天空に抱かれて、大休止とする。

 

 白峰三山の展開図は、銀紙を貼り付けたように眩しく輝いて、地球の上でひっそりと静まり返っている。出発を惜しんで、四方山話で数十分を愉しむ。

 薬師岳へは、白砂のプロムナード。山頂とは大袈裟すぎる。白峰三山に対抗して、無理矢理「三山」にしたのではないか。これでは尾根の端のまるで小さな瘤というに過ぎない。越えたところに薬師小舎。

 残されるは、ただただ続く下り道ばかり。樹林の中で尻餅ついては走り出すといったありさま。南御室小舎前に広いキャンプ場があり、ツエルト二張設営。持ち金がほとんどなくなり、ポケットウイスキー二本で最終夜を迎える。キャンパーが多く、深山の大気は既にどこにもない。

●1978年11月2日(木) 晴れ、夕方、俄か雨●


*TIME:南御室小舎(6:30)-苺平(6:50)−杖立峠(7:40)−夜叉神峠(8:10〜8:25)−バス停(8:55)

 夜叉神峠9:28発のバスを狙って、早めに出発。登りと下り。尾根通しと巻き道。苺平からの白峰三山が、何とも名残惜しいほどに美しく、純潔に聳えてそこに在った。

 バス停まで二時間余。良い天気である。結局バスの来るのを待てず、通りかかったタクシーを値切って甲府へ。OHの友人宅に預け置いていたI先生の車で、韮崎駅に昼頃に到着し、ビールを飲む。全員、さすがに疲労の塊と化している。後着の奥秩父縦走隊を待ち、駅構内でゆっくりと体を休めることにした。

○後記○


11月2日夜、23:00、韮崎駅にて、Y嬢、MM嬢、S嬢、MC嬢、K嬢の女性隊6名と合流。早速乾杯をして、02:00就寝。

11月3日、6:00、駅員に叩き起こされ、I先生の車とタクシー1台に分乗し、増富温泉へ。そこからはタクシーが入れず、マイクロバスも待機客が列を成しているため、瑞牆山荘まではI先生に二往復して頂くことになった。片道30分ほど。ちなみに徒歩では2時間を要する。先発隊の私は、瑞牆山荘のカフェにて朝食。とにかく人が多い。

 私の当時の記録はここまでである。残りの行動記録のみここに記し、それぞれに写真とコメントを

●1978年11月3日(金) 快晴●


*TIME:瑞牆山荘(9:50)-富士見平(10:35〜12:15)−瑞牆山(13:45〜15:15)−富士見平(17:15)幕営

 久々に女性陣と合流し、とにかく嬉しかったのを覚えている。瑞牆山頂で実にゆっくりとくつろいだ。

 
  

●1978年11月4日(土) 快晴●


*TIME:富士見平(7:55)-大日小舎(8:45)−砂払ノ頭(11:00)−金峰山(12:15)幕営(女性隊&I先生はここで下山)

 金峰山頂の五丈石に登って、女性陣とI先生とを見送った。その夜は、男3人、急に魂の抜け殻のようになった。何よりも悲しかったのは、ポリタンクを間違えて、水の代わりに酒でご飯を炊いてしまったこと。甘くて食べられず、酒は失うわで、翌日の行程に響くほど切なかった。山頂は幕営禁止だが、五丈石の岩陰は特等席だった。ちなみに禁止の焚火もしてしまいまいました。

  

●1978年11月5日(日) 晴れ●


*TIME:金峰山(10:00)-朝日岳(10:45)−大弛小舎(11:20)−前国師岳(12:05)-国師岳(12:15)-甲武信岳(16:05)-甲武信小舎(16:25)幕営

 女性も先生もいないと糸の切れた風船のようになった私たちは、非常に寝坊し、非常にむっつりと黙り込んで、長い樹林の中の尾根道を辿ったのであった。歩く人に一人も合わなかったのに、頂上小舎には沢山の泊り客がいる。下から甲武信の頂上だけを目指してピストンする人が多いのかもしれない。

●1978年11月6日(月) 晴れ●


*TIME:甲武信小舎(10:20)-木賊山(10:40)−笹平小舎(11:25)−破風山(12:20)-雁坂嶺(13:35)-雁坂峠(14:20〜16:30)-雁坂峠小舎(16:40)幕営

 尾根道から奥多摩湖が輝いて見える。雁坂峠であまりにもくつろいだ。とてもいい峠である。

 

●1978年11月7日(火) 晴れ●


*TIME:雁坂峠小舎(8:00)-川又バス停(11:00)

 凄まじい下りだった。こんなところは絶対に登りに選びたくないというくらいの。そう言えば、以前はここを登りに選んだっけ。一日で峠に辿り着けず、突出峠に野宿したのを思い出す。

 三峰口でバスを降りると、食堂を二軒梯子した。飢えていた。大学の友達に偶然会った。車で札所巡りをしている二人組だった。人種が違うのを互いに痛感する。こちらは何日も風呂に入っていない。きっと臭うとも思う。

熊谷の駅でも立ち食い蕎麦を食べた。そのまま、新田の石狩に雪崩れ込み、腹いっぱい美味しいものを食べた。

 ま、こういうのも、私の青春の一部だったわけだ。

 ちなみに……。KKとOHはまだ健在だ、KKは、女性隊の一人と結婚し、独立し、子供をもうけ、マイホームで、現在も幸せな生活を送っている。OHは海外生活を含め厳しい大企業人生を送っている。山とスポーツの万能だったI先生は、私たちが卒業した後、郷里で亡くなった。

(2007.3.4)


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