麓の景色は、先月と変わらない。正月に東京にも降りた雪が、ここらではまだわずかに解け残っているだけだ。
登山口までマイクロバスを出してもらった。山陰の沢に沿ってバスが進むと、道は一面の雪に覆われ出した。
山奥深く入れば入るほど、ぼくは喜びに浮かれた。

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日が暮れてからも、雪明り頼りに、ランプなしでぼくらは登山道を辿ることができた。木々の伐採されたところで、大日岩が天上に浮かんでいるように見えた。暗い空を背景にして、それは妖しい光を帯び、俺はここにいるぞ、とでも言わんばかりだった。
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大日小舎には先客がいる。焚火の煙で小舎中をいぶしても、彼らは何も言わなかった。扉を開けて煙を追い出すと、寒風が侵入してきた。
着替えのシャツが、新たな冷たさを感じさせる。
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朝、便所(キジバ)の裏に野リスが隠れるのを見た。登山客の捨てる残飯類をあさりに来ているのだ。少し経ってまた覗きに行くと、野リスは一瞬躊躇してから、素早く岩陰に隠れ去った。その躊躇が、あまり驚きに満ちていたものだったから、たまらなくおかしかった。
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長い長い登り。雪が、次第に深くなる。ピッケルの頭を撫でてやる。

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アイゼンの軋みが、歩く者の耳にも快い。歩いているのは、ぼく自身だ。
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分岐点。二、三の足跡を追って上へ向かう側を選択した。それは、どのやがて一人分のの足跡に減った。Fはと言えば、ぼくの足跡を追ってずっと下にいる。
風が頬に痛い。風下の崩壊した岩斜面が危うく見える。この尾根上は、いつでもこうして風が吹き荒れているのだろうな。
頂を知らせる巨大な五丈石が眼の前だ。岩陰でFを待つ。先月のように「山ってこんなものか」とは、もはや言うまい。ぼくの姿を見失って、足跡だけを頼りに、独りで不安に駆られているに違いない。登頂にはつきあってやらねば。
風は依然、そこら辺の雪を吹き散らかしている。
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無雪期とは見違える山頂。あんなにゴロゴロ転がっていた岩ガレは雪でなめされていて、踏み違えると膝までもぐりこむ。
飛雪は、落ちる様子もなく、岩の周りを激しく駆け回っている。何か仕掛けでもあるかのように見える。
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足跡のない銀(しろがね)の雪面を最初に歩く者の気持ちはどんなだろうか。人に答えを聞いてわかるものではなさそうだ。
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頂上小舎の出入りは窓からだ。窓枠は、八ヶ岳を格好の形で縁取っている。小川山や瑞牆山の何と低いことよ。

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夜の刻々と開ける中を、息を切らせて登る。朝起きて驚いたのは、雲海とその上に聳える八ヶ岳の素晴らしい眺望だった。たびたび振り返りながら、はやる気持ちで登る。空は、乳色。
標をどけるようにして頂に立つと、ぼくの心は瞬時にして洗われた。一面の雲の彼方、わずかな隙間に、まだ見えぬ太陽で赤く熟した空がある。今にも太陽は、その水平な空に片鱗を覗かせようとしているので、朝の調子の悪い歩行で呻吟しているFを大声で呼んだ。彼が慌てて山頂に辿り着いてから一分も経たぬうちに、朝陽は、細長いわずかばかりの空に片頬を覗かせた。黄金の矢羽がこの一瞬間に投げ打たれて、南アルプスの白峰を茜に染め変えた。寒気で躰が縮まる思いがする。相変わらず雪煙が足元で舞っている。太陽がふたたび上部の雲に姿を消すまで、ものの5分もなかったろう。この瞬間、この景色をぼくらは独占できたことを歓んだ。

ぼくはいつもそうなのだが、しばらくの間、下るために立ち上がることを自分に対し、激しく拒否したがった。絵のような富岳の美しさと遠さとを、飽かず眺めやっていた。何か考えようとしても思いつかなかったのを憶えている。

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誰に誘われたのでもないのに、なぜぼくは山に登り始めたのだろう。なぜこんな幸福を年中味わうことができるのだろう。そんなことを思っていると、ぼくの周りにいる親しい友人たちのほとんどが、こんな素晴らしいものを知らないでいることが、不当に思われた。なぜ皆は、山に登らずに済まされているのだろう。なぜぼくは山に登るようになってしまったのだろう。
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ラーメンに餅を入れて食べた。なかなか湯が沸騰しないので、とうとう半煮えのまま食べた。そうして最後の食事の用意をしている間、Fは、疲れた体を板張りの床に横たえて、空中に息で白いリングを作っていた。周りでは、十人以上もの学生パーティが、慌しく荷の整理をしていて、余ったビスケットをぼくらに分けてくれたりするのだった。だいたい活気がぼくらと違う。時々、四、五人で山に来る人たちを見かけては、羨ましさを感じていた。考えてみれば、ぼくは独りか、多くても二人くらいでしか山に来たことがない。周りに山の好きな人間がいないせいもあるし、ぼくが山岳部などに入らないでいるせいもある。そのおかげで、ぼくの山歴はどれを取ってもぼく自身で計画されたものばかりだった。また、人の後について登ったことが一度もないし、それには自分ながら満足を感じている。けれど、山に来るたびに大勢のパーティがすき焼き鍋を囲んで談笑しているのをみていたりすると、時にはそこに参加したいという気持ちも浮かんでくる。皆の連帯感みたいなものも羨ましく感じる。知らぬ間に単独行化してゆく自分に気づく。「孤高の人」加藤文太郎への興味も沸く。ぼくは、それでも一度くらい大勢の仲間と共に一つの仕事をしてみたいと思っている。全然予定も立っていないのに、今から、そういう夜は水炊きにしようか、すき焼きにしようかと、迷う有り様の何という淋しさだ。
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大日岩でアイゼンを脱ぎ、富士見平でオーバーシューズを脱いだ。道具たちが、だんだんもとのキスリングに詰め戻されてゆく。感傷的な気持ちが不意に襲ってくる。だからピッケルを振りかざして、前を行かせたFに気取られぬように、また来るぜ、と、無言で山に挨拶を送る。挨拶をせずに下山したことは一度もない。
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