■続・道北の春 -1993年版-■



 これは、新婚旅行を兼ねての初めての春季北海道旅行の記録である。新婚旅行といっても、豪華な旅館に泊まるでもなく割合気楽にいつもの自分らのペースで、おおらかな大自然を身近に楽しむだけのものなので、これまでの旅ととりわけ異なるというわけではないのだが、それでもぼくの好きな北海道はやはり強い感動をいくつも与えてくれる形となった。

 これは、長いこと旅をして来た北海道の魅力のほんの一片でも伝えられたらとの思いを込めてしたためた小さな記録である。

      

●1993年4月29日(木) 雨●

   自宅12:00→花巻16:30→盛岡6:00駅前《東屋》にて夕食・わんこそば→20:00一戸IC→20:15折爪PA

 前日の夕方までに片付けられる仕事を片付け、 片付け切れぬ仕事はそのままに……とりあえず日々様々のよしなしごとを脳味噌の片隅の見えない位置に押しやって、心の最大限開放された部分から、先に旅の準備をスタートさせていた。一夜の眠りを終えて、朝を迎えると、ようやくぼくらはザックや大小のバックの中に、旅に持ち出すものを詰め込み始める。

 学生時代は、どんなに長い山登りであろうとザック一つに、あるいは背負子にザック二つを重ね合わせて、何とか背中だけですべてを背負って駅へ向かったものだった。ところが今は、ぼくはパジェロを駐車場から引っ張り出して来て、纏まりのつかない荷物をどしどし詰め始めてしまう。最初からフル・フラット状態にしてあるのは、スキーをキャリアではなく、荷室に抛り込んでしまうためと、そしてどこででも仮眠を取れるようにするためだ。

 シュラフ二つ。野外キャンプ料理道具一式。インスタント・ラーメン数個。スキーウェア類とスキー・ブーツ。カメラに三脚。ビデオ・カメラ。地図類。文庫本、五、六冊。北海道用の旅の宿ガイド『とほ』。北海道用のミニコミ・ガイドブックで今ではプレミアがついているという『とらべるまんの北海道』。

 自宅を発進、田んぼを突っ切り、羽生 I・C から東北道ヘ乗り、一路、北を目指す。いずれにしたって、もう行けないというところまで北へ行くのだ。泊まる場所は決めていない。この夜は行き着けるところまで行って車の中でシュラフにくるまって眠る。明日の午後、下北半島大間を出るフェリー。花村萬月『真夜中の犬』がめざした北海道への渡航地点。矢作俊彦『スズキさんの休息と遍歴』が経過した道と船。本というのはぼくの身体の中で息吹いているものである。旅をしないのなら、ぼくには本は無意味ですらある。ぼくの志向はいつも北を、荒地をめざそうとしてきたし、本はいつだってその伴侶である。

 仕事や都会やパソコンに背を向けても、なぜか本だけは伴侶、となる。花巻で降りる。過去、友人の実家で正月を過ごした記憶にある道。妻に見せてあげたかった宮沢賢治記念館は、もう終了間際だろうから寄ることができない。花巻で降りたのは、アルコールを仕入れるため。今夜の宿は八戸近郊の高速上の PA になりそうなので、一度降りてビールを買うことにしたのだ。そこから盛岡での夕食を楽しむために、 Root 4 を北上した。盛岡駅前でわんこそば。ぼくは 57杯、妻37杯。14:00 頃高速上の PA で食事を取ったわりには、まあ健闘したと言えると思う。

 さらに一戸まで下の道を通り、八戸自動車道へ乗る。最初の PA に車を入れる。暗闇の中に二三台、先客がいるようだ。こんな日本の片隅で、同じようなプランで行動する者が他に複数いるという事実だけで、やや驚き、やや失望もした。車中で乾杯。剣先スルメを食い契りながらビール、ウイスキー。外はけっこう寒く、外に少しの間出して置いたビールは冷え切っていた。シュラフにくるまると雨がやんで、ガラス窓の向こうに濡れそぼった夜が見える。心地好さが疲労に蝕まれた身体を優しく眠りへと誘ってくれる。ほんの数病で妻の寝息が聞こえた。直後、ぼくも眠りに落ちた。

      

●1993年4月30日(金) 曇り、ときどき雨●

   折爪 PA 7:30→9:00八戸→11:30大間フェリー港13:50→15:30函館港→16:00ペンション《あおやぎ館》17:00→谷地頭温泉→18:30《つぼ八》函館店→駅前20:50→21:20函館山21:45→22:30《あおやぎ館》

 7:00にごそごそと起き出し、八戸へ向かう。どこかコンビニでおにぎりでも仕入れて朝飯にしたいが、なかなかそのような店がみつからない。この辺りでは桜が満開で奇麗だ。これ以北にはまだ桜は咲いていない。ぼくらは桜前線とともに北上するようなものだ。

 三沢でやっとホカ弁を仕入れた。しばし走って、ダートに乗り入れると広漠とした原野を前に車を駐めた。三沢空港の方面、飛ぶ飛行機の方をみながら随分遅くなってしまった朝飯に囓りつく。

 この先は下北半島。思えば初めての土地である。もう風景は本州のものではなく、むしろ本州の根室半島に近いものがある。道路際には多くの水辺。芦が繁茂し、沼が点在する寂しい風景が続く向こうに、六ヶ所村。日本では、神に見捨てられた土地とはこの辺りのことなのだろうな。多くの立て看に核再処理施設の是非が問われ続ける。電力会社の落ち着いた口調の間に、反対同盟のこの世を呪う祈りのような字体が続く。

 やがてむつ市で青森からの道を合する。大間崎は下北の最北端。文字どおり本州の最北端で、実は北海道最南端よりも北に位置する場所である。やんでいた雨が降りつけ、岬にはカモメが舞っていた。強い風。海の向こうにぼんやりと蹲る蝦夷の地。

 待合室で乗船手続を済ませ、昼食にラーメンとビール。ちいさなフェリーに乗り、ぼくらは海峡を渡った。船の上方にあるラウンジで海を見ていると乗客のだれも彼もがうたた寝をし始める。妻もソファに凭れながら眠ってしまう。船独特の揺れのリズムと眠気というのはとても同調しやすいのだ。ぼくは必死に眠気をこらえ、自動販売器のブラック・インスタント・コーヒーを 2 杯立て続けに飲んでいた。本を読んでいた。函館山が見え、岬の岩壁が大きく右方に近づき、やがて船は函館に着いた。

 函館。父の育った街。  ぼくはパジェロで駅に向かい、案内所でもらった民宿案内をもとに宿探しを始めた。電話で次々に断られる。元町付近の名所はどこも駄目だそうだ。函館はずれの立待岬に向かう途中、漁港の上の高台にあるペンションがようやく宿泊を OK してくれた。部屋も和洋が選べたので、和室を希望した。ぼくはずっとベッドで育ったくせに、疲れを取るためには、畳の方が何故か落ち着く気がするのだ。

 宿を出て、 市営谷地頭温泉に向かう。大きな湯船。熱い温泉が 300 円也。43〜44度の浴槽の隣に 45-46 度の浴槽があり、少し離れて 47-48 度という熱めの湯船がある。みんなが沐浴しているのはぬるめの湯船だ。

 谷地頭温泉の近所で三匹の小犬と戯れた。ぼくら夫婦は犬が好きで、大抵は車を駐めて犬と遊ぶ。北海道というのは犬の多い土地である。それも洋犬は極度に少なく、好きな和犬雑種が多いので嬉しい。鼻の黒い三角目の小犬たちに後ろ髪を引かれる思いで別れを告げ、夜の味覚を求めて函館の町中へ。だいぶ縮小されかけてはいるが、今も走り続ける市電に乗った。

 街の知識がないのでとりあえず発見した《つぼ八》で夕宴。うまい烏賊を食い、ビールや生酒 (「北の誉」であった) を飲んで、店を出ると、当初は予定になかった函館山の夜景へ出かけることにする。駅前からちょうど終バスが出るところだったのだ。バスはつづら折りに山を登り、その旅にかくも有名な夜景が眼下に広がる。

 頂上には夜景観覧施設のような巨大な建築物があって、そこを多くの人間がひしめいて奪い合っている。屋上では夜景を背景に記念写真をとってあげるよという商売気たっぷりの写真屋たちが店を繁盛させている。ぼくは自家製で写真を済ませたが、やはり夜景をバックに記念写真と言うのは結果的には難しかったのである。

 大勢の観光客は道内の人が多いようだ。春とともに、手近なところに出かけて来たのだろう。酔いどれて函館山で大騒ぎする団体がいる。どうも俺の求めている北海道というところとは、ここは大きく違った場所であるなあ、などとがっかりしながら。ぼくらは下山バスを途中で降り、長い坂道を歩いて下り始めたのだった。漁港の方面はすっかり寂れ、暗い道であった。そのほうがまだしも自分の趣味であることに気づいた。壮麗な夜景というのは、ぼくには何ほどのこともないのだ。

      

●1993年5月1日(土) 晴れ、ときどき雨●

   函館《あおやぎ館》9:00 (立待岬・函館山頂・元町等)→14:00ニセコ、ペンション&レストラン《You You》→15:00ニセコアンヌプリスキー場・ポテト共和国・ペンション《ふきのとう》
*走行距離 160km

 朝食は、太平洋を眺めながら朝陽に包まれたテラスにて。父の育った街である函館を一回りして、今日はニセコまでだ。

 立待岬には観光客が群れていた。駐まる車たちは道内のナンバーばかり。やはり春を待ち詫びた北海道人たちが、陽射しに誘われて出かけて来ているのだ。中には釧路ナンバーなどもいる。北海道人は出不精と聞いたが、変わりつつあるのだろうか。

 光の溢れる海に別れを告げる。石川啄木の歌碑があるが、無視。帰路は山回りでの一方通行となりパジェロは、ついでにと箱館山を登り出す。昨夜の夜景とは別の、陽射しの中の山頂で記念写真を撮る。カメラの三脚が、パーツを忘れて来たためにものの役に立たぬことに気づく。

 元町のエキゾティックな坂道をパジェロが窮屈そうに下る。煉瓦路。教会。運河。 倉庫群。屋根の向こうに煌めく海。

 土方歳三絶命の地を訪問。道端の小ぎれいな公園だが、バイク乗りが一人とタクシーで乗りつけた若者が一人、立ち寄っている。土方の写真が飾られた小さな碑。『燃えよ剣』の終章を飾った木門の下の影に造花が飾られているところが安っぽい。サム・ペキンパ映画の主人公のような土方歳三をぼくらは夫婦揃って好きである。安っぽさにたじろぎながら、道へ戻る。時は堆積した上に、腐蝕しているのだ。

 人の群れ。車の波。高く聳えてやはり安っぽい五稜郭タワー。興味がない。駐車余地さえない。五稜郭には日を改めてまた来よう。高校時代は五稜郭の堀をプール代わりにして泳いだという父の言葉を思い出しながら、ここを一周した。戦前の話である。父が出た商業高校らしきものは、地図にも出ていない。時はここでも堆積し、そして腐蝕していた。

 ニセコを目指す。 国道は車の群れ。 道内のナンバーは押し並べて運転が荒い。80km ではスピードに不足のようだ。せっかくの旅を苛立った車の幅寄せに煽られ煽られ、感染しそうになる憎悪を何とか抑えつつ、走る。

 コンビニエンス・ストアでニセコのペンション村に電話をかける。今夜の宿を確保するのだ。7 年前、新婚旅行で訪れたニセコ、その時二泊したペンション《しろがね》の電話を呼ぶが、今夜はあいにく客は取らないという。主人が出かけているので、との返事である。数軒かけてペンション《ふきのとう》を予約。3 時間、ゆっくり走って 4 時間だそうだ。

 山を越え、大沼公園に寄るつもりが、ここも人と車のごった煮。すぐに車を返して、小沼湖畔で写真を撮る。単線のレール、小沼の水面と針葉樹の向こうに蝦夷駒ヶ岳が雪を頂いて眩しい。ふたたび山を越え、海に下るとバックミラーに蝦夷駒ヶ岳の今度は北面。列を成す車の一群から離れ、パジェロを路肩に寄せる。気持ちのよい風が頬を嬲る。夏のような視界に冷たくごまかしのきかない海風だ。

 長万部までで昼飯を食いそびれたままに、山中へ入る。寂しく、ひたすら懐かしい北海道らしさが、満ち幅いっぱいに溢れ出した。残る残雪。午後になってようやくニセコ・ペンション郡の一角に辿り着いた。レストランを兼務しているペンションでハッシュド・ビーフと冷たいビール。窓の向こうに古びた畜舎と働く老婆が見えた。

 北海道各地にあるというストーン・サークルのひとつが近くにあった。 ロッジ《サークル》というログハウスの脇を潜ってサークルへ。ロッジの裏では宿の父子が薪を割っていた。脱サラでこういう牧場地帯にロッジを営み始めた親子、という風に見える。この辺りのロッジやペンションは、みなそういう親子であるように見える。

 ストーン・サークルはニセコおろしの烈風の中にあった。記念撮影に値するような観光的価値は皆無。

 その後、元小学校を改装したという相部屋宿《ウルリー》を見物しておいた。男一人であれば、ぼくはこういう旅人宿を梯子することにしているのだ。あいにく今夜は家族連れだ。旅の要素は根本的とは言わないまでも、やはり異なる。

 まだ早い時間に《ポテト共和国》と名付けられたペンション村に到着。手作りのソーセージを薫製屋で買って (7 年前にも買った店だ)、妻はガラス工芸屋で友人ヘの土産を買って (7 年前には自分のペンダントを買った店だ)、そしてペンションに入った。

 夕食前に近くの温泉に出かける。ホテルの裏に巨大な露天風呂があった。赤茶けた数段に別れ、ゆるりと流れる、野ざらしの湯。北海道臭さが少しずつ身体に染み込んで来るのを感じていた。

      

●1993年5月2日(日) 晴れ●

   アンヌプリにてスキー後ニセコ11:00→支忽湖千歳間ドライブイン・《カントリー・ガーデン》13:30→道央自動車道・千歳IC14:00→15:00深川→16:00留萌・旅館《秋田屋
*走行距離 約300km

 7年前に新婚旅行休暇をもらって GW 休暇と合わせて北海道へ旅した時、初めてニセコでスキーをして遊んだ。5 月を過ぎると、下部は雪が少なくなり地肌が顔を出すが、上部はがら空きとなり、いやというほど何度も滑ることができる。独占状態である。春のザラメ雪で重いということもあるからかもしれない。

 当初の予定では今日一日ニセコでスキーをと思っていたのだが、少しでも北へ急ぎたい気持ちが強い。だからスキーはゴンドラに二回乗って終わりにするにした。静かなゲレンデ。春の匂いがそこかしこして、前方に後志羊蹄山を眺めながら、ざらざらとした雪を蹴散らして滑る、なかなかに至福なひととき。この前はキタキツネも見たのだった。 今日は静まっている。戸隠で 3 月に怪我をして以来で、脚の筋肉が痛い。スキーを休めてときどき春山の長閑さに身を委ねる。

 よく晴れたゲレンデ下の駐車場でスキーウェアを脱ぎ、車のあちこちに濡れた手袋やタオルを引っかけて乾燥を狙う。生活感のあるパジェロになって、タウンカー的要素が少しもない。泥をかぶって薄汚いが、それがまた似合う車だと思う。

 ニセコに別れを告げ、東へ。かつては小樽経由で札幌へ向かった。そのときは陸の女王 C-62 に乗った。山桜の満開の時期に吹雪となり、SL の黒煙が北海道の風景によく似合っていた。昨日もニセコの駅に SL が停車しているのを見た。この時期は小樽から SL を往復させる時期なのだろう。数年ぶりの SL 復帰というポスターを宿で見た。

 道央自動車道をめざす。支忽湖への道。針葉樹の山の中。道端に雪が残る。上り下りを繰り返し、支忽湖辺りでは長大な渋滞を見て、湖畔への立ち寄りを諦めさせられた。そこを過ぎて、ドライブインへ。野外バーベキューつきの広い土地、大きな店。昨日開店したばかりだという。外では大勢の客が、ジンギスカンを囲んで、ビールを空けている。外でなくてもまだまだ寒い。ぼくらは震えながら、北海道人の根性に頭を下げてしまう。

 道央自動車道に乗り、深川で降りる。日本海沿いに北上したいので、留萌に出ねばならない。深川で宿を探すがこの辺りは観光拠点からも外れるのか、めぼしい宿がない。駅内の案内所の中年の職員も勝手に探せば、と言わんばかりのそっけなさ。町の作りも今ひとつ見るべきものがなく、どうせなら漁業街である留萌まで脚を延ばすかということになる。

 留萌までの道で、鳥がパジェロに激突した。大きな影が下からフロントグラスに激突し一瞬で消えたのだが、窓に血が残った。ワイパーで拭ったが、フロント・ガードの鉄柱に羽や肉片が残っていた。留萌に入るところで洗車場を見つけ、血や肉片や内臓の切れっ端を洗い落とした。春先は巣立ったばかりの飛翔の初心者が多い。パジェロではねた鳥もおそらくその類であったのだと思う。

 留萌駅構内の案内所の女性は親切であった。宿は簡単に決まった。留萌の町のガイドもくれた。宿の主はヤクルトの元監督の関根に似た老人であった。旅館だが夕食は辞退し、代わりに美味そうな飲み屋を紹介してもらった。部屋は年期のはいった畳。押すとへこむような畳だが風呂を先にもらう。

 宿で教わった辺りに出向き、夜は居酒屋で呑んだ。さすがに刺し身が美味い。ビールと地酒の冷やで、味わった。帰りがけ入ったラーメン屋は外れであった。明日は、いよいよ道北。宿は昨夜のうちに決めてある。宿というより友達の家に帰ってゆくような、そんな気楽な場所、サロベツ原野の片隅に建つ《あしたの城》である。

      

●1993年5月3日(月) 雨のち晴れ●

   留萌9:20→13:00稚咲内、サロベツ原野ドライヴ →《明日の城》
*走行距離 約200km

 一夜明けて篠突く雨。宿主が国道に戻る近道を教えてくれる。留萌駅から海へ向かい、赤い鉄橋の手前で右へ折れて、線路を跨ぎ、うねる道路を道沿いに港へ出ると、確かにいつも河口を大回りして来たはずの国道を、ずいぶん短い距離で再捕捉することができた。

 道北へのこれからの道が醍醐味である。道北の東西の海岸沿いというのは、道内をめぐる車やバイクにとってはたまらない道だ。道内を訪れる観光客、特にパック旅行や新婚ツアーの連中などは、もうこの辺りで途絶える。この季節じゃ、これより北はぐっと寂しくなり、北海道らしき荒びた風景だけが美しく続く。

 苫前を越え、羽幌に至る頃には雨が上がった。原野が続き、やがて小さな町があり、また原野に続く。遠別にて国道は海から遠ざかるが、ぼくは海沿いに稚咲内をめざす。 こちらの遠別 - 稚内を結ぶ日本海沿いの道路が、この辺りの常連客にとっては欠くことのできないものなのだ。

 道路を外れたところ、枯れ草の砂丘の上、カモメたちと一緒になって車が翼を休めている。ぼくらもパジェロを砂丘に乗り入れた。道はなく、枯れ草の中に深い轍。砂の上に降り立つと、海を経て利尻岳が巨大スケールで迫る。利尻の美しさは、山好きでなくても人を虜にするだろう。ぼくは利尻を見るただその一点のために、長い休みをこうした旅に費やしているのだと思う。きっと魅力的なのであろうまだ見ぬ世界のいろいろな場所場所を早めにきっぱりと諦めて、性懲りもなく同じ場所を同じ場所をと、訪れてしまう。これは鮭の回帰性同様、ぼくという男の習癖であるのだと思う。

 青春のほとんどの時代を穂高ヘ登ることでばかり費やして来たのと同じように、ぼくはこうして利尻の見える海辺をほとんど毎年のように、もう 7年も8年も訪れている。冬も春も夏も、可能な限りの季節をここへと、努めて脚を向けている。そして確かに眼前の利尻という山には、それだけの価値があるとぼくは思う。それはぼくにとってだけのささやかな価値だろうけれども。

 ぼくはパジェロに戻り、 車体を砂のうねりに傾けて大きく U ターンすると、道路に戻った。走っても走ってもあまり変わらぬ海と火山島。7km ほども先の稚咲内の漁港が目に入っている。この辺りでは何もかもがすぐ近くに見える。距離感のスケールはせせこましい都会と確実に違う。

 稚咲内漁港で右折する。かって知ったる《あしたの城》へのダートに向けてパジェロの鼻先を突っ込む。客に最大限評判の悪い駐車場への急斜面。何なく駆け上がってみせると、《あしたの城》。

 様子がおかしい。人の気配がない。ドア・ノブに手をやると錠が降りている。かつて、こんなことがあった。出稼ぎで大阪に行っていた宿主の城さんが、まだ帰っていなかった。雪原に取り残されてしまった冬の一日。夕方城さんは現われ、部屋で早速薪ストーブをくべてくれたものだった。出稼ぎから帰ったところであった。その頃の《あしたの城》は小屋と言った方が良かった。城さんが若き頃、仲間たち4人で築き上げた城、だと言った。仲間たちは社会復帰して今はここにはいない。その一点だけでもぼくは城さんを尊敬できる。

 その後、《あしたの城》は二度ばかり増築をした。二階建てにして、広間 (ここでは後楽園特設リングと呼ぶ) を二倍に広げた。風呂を改築し、客が入れるようにした。 かつては「なるべく風呂は入らないでように!」との掲示があった。豊富温泉まで城さんはせっせと滞在客を車で運んだ。ぼくも城さんとは温泉の湯船によく漬かったものだ。

 前回来たのが一年半前。今日、手作りから始まったあの《あしたの城》は閉ざされていた。裏へ回る。かつて城さんが屋根に登って、古い廃材で作っていた物置小屋はそのまま残されていた。古い小屋時代の のポスターが、物置小屋の前面を飾って、ぼくの胸を熱くする。窓から覗く部屋は少し荒れぎみだが、完全に引き払ったようには見えない。とにかくここにはだれもいない。

 ぼくらは車に引き返し、 危険な急斜面を下った。パジェロは 4 輪駆動にすると危うげなくこれを曲がってくれる。かつて雨上がりのこの坂を城さんのバンが何度もスリップし、ブレーキが利かず、ぼくらは木々の間に突っ込みながら、冷や冷やしたものだった。城さんは大きな声で吠え、ぼくらは甲高く大笑いした。客たちがバンを押してくれた。いつの夏だったろう。

 この辺りは牧場が点在するだけの丘陵地帯だ。麓には広大なサロベツ原野。原野と丘陵帯とを区切って、豊富 - 稚咲内海岸を結ぶ一本の道路が走っている。《あしたの城》の看板は少し豊富方向に行った先に、新しく立っていた。同じような角度でダート道路が丘を上っているが、新しい道は前に較べてずっとゆるやかな坂を上っている。

 その先、牧場の端の、視界の開けた土地に《あしたの城》の生まれ変わった姿があった。まるでペンションのように大きく小ぎれいになって建っていた。

 新版《あしたの城》といったところだった。城さんは稚内へ買い物に出かけており、奥さんが一人午後の留守番をしているらしい。事情を聞いて見ると、一昨年の9月。なんとまあ、火事を起したのだそうだ。

 薪ストーブの集合煙突の中に煤がタール状に溜まり、これがくすぶり始め、火を落とした後の真夜中に発熱。壁の裏側や天井の梁の部分から出火したらしい。その時は宿泊客を逸早く避難させたが、電話が受信しかできない状態になってしまい、消防署と繋がった後もこちらの会話は相手に聴こえなかったそうである。結局、電話局で逆探知してもらっている間に、 城さんは隣家(といっても山一つ隔てた牧場である)に走り、そこの電話で近隣の助けを集める。消防車は約 20分後に到着したが、豊富町から 15km も離れた一軒家である。驚くべき早さであると言っていいと思う。

 そういうわけで半手作りの宿、旧《あしたの城》は、みかけより中身に随分ダメージを被ったとのこと。その後、隣家が他の土地でやり直さねえかと、現《あしたの城》のある高台を提供してくれたため、これまた運よく入っていた火災保険で新しい宿を建て直すことにした、という話であった。9 月の火災の後、営業をやめて、奥さんの郷である大阪に出稼ぎ、翌春、雪解けを待って建築に入り、7 月から未完成ながらも一部を使って民宿業をほそぼそと再開し、そしてひと冬。この春が本格的な創業開始なのだということである。

 ぼくが前回ここを訪れたのは一昨年の 8 月末。ほとんど火事の寸前だったわけだ。そして一年半の御無沙汰の間に、北海道に宿を営むアドベンチャー夫婦たちは、波乱と放浪の歳月を過ごしていたことになる。 おまけに奥さんは、いま4ヶ月の子を身篭っているのだった。城さんも親父かあ。

 これだけの苦心譚を奥さんと紅茶を飲んで話していると、ドイツ人夫妻を伴った札幌の夫婦が 4 人連れ立って、立ち寄った。なんでも日帰りで道北を案内しているとのことだが、ガイド役の日本人夫婦の旦那はなんでも、城さんの奥さんとトムラウシ登山の折に山で知り合ったらしい。ぼくもそのへんの山行の事情はよく知っている(前から奥さんとその辺の話はよくしていた。奥さんは山屋なのである)から、トムラウシ、ヒサゴ池、大雪山系の《神々の遊ぶ庭》についての話がひときわ盛り上がってしまう。

 彼らはそれでも慌ただしく帰って行った。新しい宿の新しい広間からの展望は素晴らしいの一語に尽きた。目前大きな窓ガラスの向こうにサロベツ原野が広がっている。地平線。そして、西に向いた窓辺には牧場の彼方に利尻の大きな姿。旧《あしたの城》に較べれば、格段のロケーションが得られるのに驚いてしまう。

 壁に絵葉書。サロベツの地元写真家、前田さん (農協の職員である) の新しい絵葉書が二種類も増えていた。かつての正月一緒に絵葉書のタイトルを考えた古い絵葉書もまだ飾られている。絵葉書の写真を見るにつけ、サロベツというのは素晴らしいところだと確信する。

 ぼくらもカメラを片手に午後のドライブに出かけた。豊富の駅に向かい、買い物を済ませると、 帰りは 4 駆車ならではの原野の中のダート道を選んで、どこからでも見える利尻を地平の向こうに鑑賞しながら、ぐるぐると回った。埃が立ち、風に運び去られる。牛を、サイロを、木々を、車を駐めて、ぼくは撮った。前田さんには較ぶるべくもないだろうけれど、あとで見れば風景に頼った良い写真がけっこうあった。妻は車の中でいつの間にか寝息を立てている。ぼくは勝手に、外の、牛糞臭い日だまりの中でいつまでも佇んでいた。

 夕方、宿に戻り、一番風呂をいただく。マジックミラーは外からは覗けないが中からは利尻を見ることができる、なんともぼくには贅沢な風呂である。寝室も、利尻岳の残照をいつまでも見とれていられる、清潔な個室をあてがわれた。

 夜は連休のピークで 20 人以上の宿泊客が各テーブルに別れてジンギスカンだ。ぼくらは城さん夫婦に混じっての小さなテーブル。ビールを呑み、羊肉を食い、夕餉が終わると、郵便局員の手塚君夫婦がいつものように現われる。こういうひとときとなると、なんだかすっかり自分の田舎に帰ってきたような心地のよい空気である。この空気は深夜過ぎまでずうっと、新しい部屋の新しい木の匂いと混じり合って、ぼくらを果てしなくやさしく、やさしく包んでくれるのだった。

      

●1993年5月4日(火) 曇り●

   《明日の城》10:20→12:00苫前→12:30苫前町郷土史料館14:20→三渓(旧三毛別・六線沢)15:30→17:00《あしたの城》
*走行距離 約300km

 《あしたの城》の小さな書庫の内容だけは変り映えがしないように思えた。しかしぼくがいつものように『大雪山のヒグマ』という写真集を眺めたりしていると、城さんが二冊ばかり本をピックアップして薦めてくれた。 『野生の事件簿』(北海道出版社) と『エゾヒグマ百科』(共同文化社) でどちらも著者は木村盛武氏。実はこの人は、日本最大の獣害となった苫前ヒグマ事件の真相を追跡した人である。

 この人の記録をもとに戸川幸夫が『羆風』を、吉村昭が『羆嵐』『羆撃ち』などの小説を書き、また三国連太郎主演で TV 映画化されたり、倉本聰脚本で舞台化もされた。実際ぼくの読んだ『羆嵐』は、凄まじい記録小説だ。吉村昭の代表作の一つと言ってよいと思う。北海道に流れてきた開拓民たちの悲惨な暮しぶり。これを阻もうとする厳寒と豪雪。そして人食い熊。身篭った女性の腹を破り、胎児を掻き出して食った熊の話である。 また 8 人の開拓者を殺害した最悪の一頭を追う猟師の側の話でもある。

 その苫前を昨日、ぼくらは知らずに、何気なく通過していたのだ。朝食の時に何となく、そのあたりの話題になり、今日は、どうしても現地を見ないでは済まなくなった。朝食後、旅の疲れを休めるように、少し寝足してから、ゆっくり出かけた。

 羽幌を過ぎ、昨日発った留萌目前の苫前まで、日本海を右に見て、南下する。どんよりと曇った空の向こうに利尻島はすっかり消え失せていた。羽幌の食堂でラーメンと炒飯の昼飯。土地の消防隊員たちが一斉に食べている上に、競争率がゼロに等しい外食店であるから、次々と連休の旅行客が家族連れで立ち寄る。小さな店はたちまちいっぱいになり、室内は湯気で暖かくなった。

 苫前郷土史料館に入る。もとは役場であったという古い小さな建物だが、中はまだ増築しているようだった。とりあえずの人気コーナーと言えるのが、羆が草葺きの開拓農家を襲うシーンの再現展示である。いろりを囲んだ親子の頭上に、草の壁を掻き分けて巨大な羆が顔を覗かせている。ラジオドラマ化されたときのテープ音声がストーリーを流している。

 開拓初期から鰊漁で賑わっていた苫前へ、そして衰退、離農、現在の苫前へと続く展示コーナーを見て歩く。入植当時の開拓移住許可証や、衣類等の貧弱さが眼に焼きついてしまう。そして最後に、45 分に縮小編集したTV 映画版『羆嵐』を見る。既に数人の旅行者の若者たちが真剣なまなざしでこれを見つめている。

 ぼくはこのドラマを見るのは初めてだ。それでも、実はこのドラマには思い出があるのだ。 自分等も北海道の山をやるために、福岡大生が3人日高山系で羆に食い殺された事件を、調べたりもしていた。羆の生態を勉強もしたりした。そういう中で『羆嵐』という TV ドラマが放映され、山の仲間たちの間でかなりの話題になった。かなり衝撃的なドラマだったというのである。北アルプスのテントの中で、ぼくはその話題に耳を傾け、このドラマを見なかったことを悔やんだ。

 そして《あしたの城》で『羆嵐』を薦められ、読み、短編版『熊撃ち』も読んだ。そして今縮小版のビデオを見ているのだが、衝撃は変わらなかった。ほぼ吉村昭の小説通りに進められている。熊を撃つ猟師は脚色されたそれである。しかし事件はほぼ記録通りだ。暖房のない館内はひどく寒く、ドラマの内容がその震えを増幅させてくれた。羆事件の間、山間の(現地ロケである)降雪の風景に、鮮血のシーンが混じり合っていた。

 館外にはアイヌの小屋があり、開拓民の草葺き小屋があり、縄文時代の小屋があり、と、北海道独特の先住民族たちの住居の一大展示会場となっていた。それぞれの小屋に衣装が置いてあり、これを着ての写真撮影を薦める旨の掲示がある。

 ぼくらはすぐに事件の現場である六線沢に向かった。ここから 20kmほども山奥の沢。現在は人家がない。開拓は失敗に終わっているのだ。道はどんどん細くなり、最後の民家を背にしてなおも山へ向かう。三毛別は現在は三渓と名を変えているが、路肩の神社に六線沢の被害者たちを弔う碑が建てられている。その先、まだしばらく車を走らせると、やがて舗装が途切れ、非常に狭い山道になり、そして羆事件の現場に辿り着く。

 およそ二年前、ここに現場が再現された。現在はやはり当時のままの開拓民の家が建てられ、その背後に作りものの羆が歯を剥き出している。ここではそういう趣味の悪い作りものより、まだ豊富に残る残雪や、鬱蒼と茂る木々の深さ、谷の狭さなどの方が、遥かに説得力がある。開拓民たちはこんな地の果てのような場所にしがみついて生きていたのだ。草葺きの小屋はいかにも情けなく、これでは、テントの方が遥かに快適だろう。静寂が野生の気を満たし、雪解け水のせせらぎだけが、か細く、死者たちの森に泣いていた。

 数年前に、志水辰夫の『背いて故郷』を追って築別炭坑跡の廃墟を訪れた時も同じだったが、かつて人が住んでいて今は野生に帰っている場所への、ぼくの思いは共通した何ものかである。人の力と、あらがう自然の力。人は自然に拮抗し、従えて来たように見えるが、開拓者たちは常に最初の犠牲を強いられる貧しく弱い者たちであった。羆もまた自然の一部である。そして人も一部なのだ。ぼくはこれ以上はないと言える激しい印象を胸に、このかつての惨劇の地を後にした。

 パジェロから降り立ち、慰霊碑の前で掌を合わせた。空は雲が多く、風は冷たかった。この数日間に較べると、まるで、ひと季節戻ったかのような、酷な気候であった。

      

●1993年5月5日(水) 曇り→晴れ●

   《明日の城》9:30→11:00稚内→12:30宗谷岬13:10→カムイト沼・モケウニ沼→14:30ピンネシリ温泉→16:30下頓別宇津内川→17:30浜頓別《トシカの宿》
*走行距離 約300km

 サロベツから稚内へ日本海に沿って北上する。海辺は葦の茂る荒れた浜で、湿原状になっている。ときどき現われる池塘群に水色の空が映える。その向こうに灰色の海。そして背後に遠退く利尻。

 南稚内方面に折れ、ひさびさ稚内公園へ。映画『南極物語』に出演したタロ・ジロのコーナーが今はもうない。大勢の樺太犬たちの小屋ももうない。かつて吹雪の冬にここに徒歩で登ってやって来たときに、雪の幕の向こうに犬たちはざわめいていた。犬たちの吠え声が雪のしじまの中に響き渡ったが、そこにはぼくたちと犬たちと、白い息を吐くトナカイしか存在しなかった。今では幻想のようにさえ思える稚内公園の冬だった。今日、目の前には青を空に滲ませる海原だけがあり、気持ちのよい風が丘を吹き抜けて行く。

 昨夜は《あしたの城》の現われた稚内の喫茶店《お天気屋》のマスターは、今日は朝釣りに出かけている。だからもしやと思って覗いて見た《お天気屋》の入口には昼だというのに朝刊が差し込まれたままだった。《お天気屋》のマスター・松ちゃんは、 《あしたの城》のヘルパーをやっていた九州男児だ。バイクで 4 度北海道まで日本縦断を果たしているが、大事故を起こして以来、稚内に移住。店を開いた。北海道にはこういうひとがごろごろいる。

 宗谷岬で美味いと評判のラーメンを食いながら樺太の方に眼をやる。よく晴れているにも関わらず今日は樺太が見えない。遠くの水平線は靄に滲み合っている。

 ダート道をカムイト沼に着いたところで妻を起こす。何年か前とまるで同じことを再現しているのに、笑ってしまった。しかし道は新しく広げられつつあり、この神秘的な沼もそのうち、もっと明るいなにものかに変わってゆくのかもしれない。牧草地帯にあるモケウニ沼には例によって残雪。ここも神秘的な美しい沼だ。テントを張って何日も過ごしたら気持ちよいようなところだ。

浜頓別を越え、中頓別を越えたところで、牧草血の向こうの河原に鹿の親子を発見した。ぼくはカメラを構えたけど、鹿たちはほとんど一歩も動かず。陽射しが山の端をゆっくりと移動するほどの時間を、ぼくらは道端で過ごしたが、やがて根負けし、手を振って別れた。

 ピンネシリ温泉で、疲れを取る。中頓別は砂金採りと鍾乳洞だけが売り物だが、新しいパンフなどを用意して観光化を進めていたりもする。そのパンフ上にあるバンビランド (「鹿を放牧しています」との案内) に行って見たが、そんなものは形もなかった。そこには養護施設があって、そこでは障害者が作った食器を売っていたりするのだ。バンビランドはなかった。後で宿の連中に聞いたら、「中頓別のパンフはほとんど構想ですから」と笑われてしまった。この辺りはこういう風におおらかなのである。

 午後、下頓別の宇津内川を上流に走ってみる。ダートを山間に向かって遡るのだ。妻の父が木材の輸入業を営んでいたりする関係上、昔二束三文でこの辺りに山を買った。これを今回は偵察しようという目的で、山を見に出かけてみた。しかし、せっかく預かってきた航空写真を忘れたせいで、件の山がわからない。狭い谷あいに離農した農家や壊れかけたサイロが点在する。

 かなり山奥に入ったが、U ターンが危ぶまれるので、引き返すことにした。どこもかしこもが美しく、観光地などとは較べものにならない自然そのものの起伏を身体で楽しみつつ、パジェロを走らせた。

 《トシカの宿》着。客はまだ多い。明日は中頓別の森林組合を訪ねて山を確認する予定だ。ログハウスを建てるに値する場所であるかどうか、それだけでも確認しておきたいからである。

      

●1993年5月6日(木) 曇り→晴れ●

   浜頓別《トシカの宿》9:30→10:30中頓別森林組合→下頓別宇津内山林11:30→中頓別→15:00歌登温泉16:00→17:20《トシカの宿》
*走行距離 約250km

 朝食を取って早速中頓別ヘ向かう。幽霊の出ると言うトンネルを越えると、冬に遊んだ町営スキー場。サイロを傍らにしたリフト一機の牛臭いスキー場だ。そこを右に見てすぐに中頓別ヘ。昨日確かめてあった森林組合へお邪魔する。妻の父親の名前を言うと、すぐに話が通じて奥へ通され、初老の担当者と向かい合う。さすが森林組合と思わせる物は彼の名刺であった。木を薄く薄く切った木目の残る名刺であった。ぼくが素直に感心すると向こうも素直に嬉しがってくれる。ここは北海道の片田舎だ。

 航空写真と 2.5 万図を使って、正確な山林の位置を教えてもらった。この辺りは山林の売り買いは木材の投資のために行なうのであって山にはそれ以外価値はない。通っている道は切出しのための道であり、川には切出しの時期だけ丸木で橋を架けるのである。裸の山なら本当に二束三文だ。

 こういう山を買って、投資家は杉を植える。金にならない雑木林を伐採し、瞬く間に成長を遂げる安手の杉を植え、自分の代で財産に代えようとする。樹木の寿命を人間の寿命に合わせようとする。雑木林が消え、杉林だけが山を染め、杉花粉が撒き散らされ、花粉症が増える。国土のほとんどを山に覆い尽くされている日本という国家の、山への取り組み方というものは、実はそんな仕組みになっている。

 そんな説明を妻に喋りながら、組合の案内を断ったぼくは昨日の道を再び山へ向かった。昨日入ったところよりずっと手前に、義父の山はあった。まわりが伐採されているだけに境界がはっきりしている。4 年をかけて下枝を切ったという。割り箸になる程度の材料だ。

 道と山との間に川が流れる。雪解けで増水し、勢いづいた春の流れだ。凄烈な水のにおい。成長したフキノトウが群生している。湿地には水芭蕉が早い花を咲かせつつある。飛びが空を舞っている。緑の木々。ぼくらは、正真正銘の春に出会っていた。

 いろいろな方向から写真を撮った。川に架けた橋の名残の木材が積まれている。この山は、実はぼくらのログハウスの候補地である。見える地形は扇形の谷を挟んで、本を閉じかけたように見える。谷沿いに今度組合が道を通す。川に橋を渡せば、ログハウスを建てるべき場所が見つかるかもしれない。

 ぼくの独身時代からの夢は山に住むことだから、いつまでもログハウスにはこだわりを持っている。北海道の手作りの宿《あしたの城》や《トシカの宿》に、こだわりを持って何度も訪ねてくるのは、その夢を忘れ去らないためのそれぞれが生きる楔 (くさび) である。ぼくのここへの旅は、日常生活の裏にあるぼくのほんとうの何物かなのだ。

 昼食を中頓別の《八番》で取る。この辺りではまあまあのラーメンが食える。脂の浮いたコクの強い北海道独特のスープ。その後、いつも行く歌登温泉へ。駐車場ではいつものキタキツネ。キツネは残雪の間に迸る沢の方から、沢蟹のようなものを咥えて飛び出して来た。

 昨夜のトシカの客 (二人の若い男性) と湯船で一緒になった。彼等は今日は少しでも南へ行くという。風呂上りのビールを飲んで一休みして、帰宿。

 連休の終り。客は常連ばかりになった。夜、宿主の誘いで浜頓別の小さな飲屋横丁へ出かけてゆく。バラックめいた作りの小さな店は、新宿ゴールデン街の怪しさを、軽く陵駕しているように見える。入った店のカウンターには中頓別スキー場の親父が座っていた。 誰かのボトルが宿主の前に出てくる。狭い中に 6 人の客。話題作りに年長のぼくが気をつかうので、あんまり安らかな気分ではない。バーのママが今日本州から届いたんだというタケノコの刺し身を出してくれた。本州の刺し身を、道北も最果てのようなところで食っている。少し舌が痺れるような苦さがあった。道北最後の一夜が更けていった。

      

●1993年5月7日(金) 曇り●

   浜頓別《トシカの宿》9:30→14:30月形行刑資料館→16:10小樽・やまか旅館
*走行距離 約400km

 道北を去るときがきた。《トシカの宿》を出る。中頓別経由、音威子府に出てから、 未だに脚を向けたことがなかった朱鞠内湖へ。山道を 抜けると、キャンプ場などが整備された人造湖が現われる。かつてはここにあった旅人宿《朱鞠の宿》も、オホーツク・枝枝幸の《朝日の当たる家》ともどもなくなってしまった。若い情熱をかけた旅人たちが一泊 3000 円程度の民宿を経営しては、やがて夢破れて去って行く。鉄道の廃線が連続し、旅人はゆっくりと道北を回る人から、バイクや車で走り抜ける人々に取って代わってしまった。「世代」という言葉だけでは片付けられない何かが、こういう辺境の地にも影響をもたらしているのだろう。

 そういう夢のない旅行者の群れを歓迎するために、極彩色の過剰サービスで迎え撃つ朱鞠内湖キャンプ場の、人工的な景観は、新たにここを訪れたぼくには何の興味も沸かないところだった。

 ひたすら石狩をめざし、やがて月形にて行形資料館へ立ち寄る。客は他に若いカップルが一組だけ。ずっと手を握り締めているため、入場券を買い求めるのに手間がかかっており、待たされているぼくの方は、軟弱な若造を何だか蹴り倒したくなってくる。ぼくはヤワで身勝手で恥知らずなガキは、どちらかというと嫌いなのだ。まあそうした彼らの雑音を背に、かつての監房を見たりする。開拓時代の絵などもかかっていて興味深い。五社英雄の『北の螢』のモデルになった監獄でもあり、手塚治虫『シュマリ』の舞台になった場所である。ちなみに『シュマリ』はぼくの北海道志向の契機となった古い漫画だ。農業資料館も見たが、こちらは興味が沸かない。小樽へ急ぐ。

 小樽。一泊 \1,500 なりの船員会館、労働会館がとうとう老朽化して立て替え予定になっている。《あしたの城》で仕入れた情報 (ネタ) で向かいのやまか旅館に投宿。食事はなしの一泊 \2,500 である。

 宿で教わった《魚真》に呑みに行く。豪快な量の刺し身が美味い。宿への帰りがけ《ブックス1/2》へ。 すべて表示額の半額という古書店で、多くの荷物を抱え込むことになる。暗くなった夜更けの小樽の坂道を、ぼくらはゆっくりと下って行った。

●あとがき●

 その後、 翌5月8日 (土)、朝出の新潟行きフェリーに乗り、翌々5月9日(日) 朝、新潟より関越道にて一路南下した。

 数日後、《トシカの宿》から恒例の手紙が届いた。その中で宿主が弱気になっていた。手作りだった客室が老朽化して来た。宿主の父が去年亡くなった。客は年々減っている。彼女は最後にしめくくっていた。いつまでこの宿が続けられるのだろう、と。

 夢は見る方が難しい。夢を終わらせるなんて、ひどくたやすいことなのだろう。

−了−

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