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●1989年12月29日●
(TIME:羽田 17:10→18:35 千歳空港 18:58→19:27 札幌 22:00−急行利尻/車中泊)
1年半ぶりの北海道への旅が始まった。ましてや冬ともなれば3年ぶりだ。
千歳に着くや否やサッポロ・ビール片手に駅弁のサーモン寿司をつつく。鮭とチップ半々の押し寿司でぼくはこれが大好きなのだ。
それから札幌に移動し、あまり時間がないのですすき野方面はあきらめ、地下街でぼくは味噌ラーメンをつれあいは醤油ラーメンを食べる。店を訪れた芸能人の写真が壁中に貼ってあるので、それらを横目でぎざぎざっと眺めながら、にんにく臭の強い北海道ラーメンのスープをすすったのだった。
急行千歳の禁煙車両になんとか座席を確保して、ジュース類を買い込む。なにしろ道内の列車は暖房過剰なのだ。砂漠のように喉が渇くことは間違いない。ぼくは持ってきた文庫本を開いた。志水辰夫の『飢えて狼』で、舞台が丁度北方領土のエトロフに差し掛かるところだった。前にミッキー・スピレーンのマイク・ハマーものを何冊も持ってきたことがあったが、夏で、沢を伝い大雪山系に向かい、岩魚を釣っては食いながら、1920年代のニューヨークものを読むという変な読書をしてしまう結果になったので、 今回はきちんと考えてきたのであった。名寄の辺りで、ぼくは睡りにはいった。この辺りは村上春樹の『羊をめぐる冒険』の舞台に近かったっけなあ、などと思いながら……。
●1989年12月30日●
(TIME:5:06 豊富 8:35→9:00 《あしたの城》)
無人の豊富駅に未明に到着する。数人が下車するが、それぞれ迎えの車に乗り込んでさっさといなくなってしまい、駅待合室はぼくら二人だけになった。だれもいない小さな待合室に、タイマーで着火したばかりのストーブが燃えている。3時間半をここで過ごすのだ。気の短い人には北海道の鉄道旅行は薦められない。
雪降る戸外の自動販売器で缶コーヒーなどを買って、ストーブの前の椅子にうずくまり、じっとして過ごす。つれあいは眠ってしまった。3年前の冬にもこれとそっくり同じことをしていた。全然懲りないのだ、ぼくらは。
6:30 にキヨスクのおばさんがやって来たと思うと、壮大な音を立てて売店の店開きを始めた。ここでは売店のおばさんが切符を売っているし、実に様々な日用品目が置いてある。万年筆だってあるし、麺つゆ1リットル瓶だって売っている。おばさんがストーブにかけた大きなやかんの湯が沸く頃になってぼくらはカップ・ヌードルを買い、湯と箸をもらって朝食とした。パンもあったが、製造年月日が優に5日は過ぎているのだ。
明るくなって除雪車が繰り出すが、駅前は雪溜まりもなく、今日はぐるっとUターンして去って行ってしまった。その後カゴに牛乳の紙パックを詰めた牛乳屋がやってきてキヨスクの冷蔵庫に売れ残った沢山の牛乳パックをけっとばかりに眺めやると無言で去って行った。ドカジャン風防寒服の似合う、なかなかに迫力のある牛乳屋だった。ぼくは地元サロベツの牧場で絞られたその牛乳を飲むことにした。濃くて美味しい牛乳だった。
日に4本しか出ない稚咲内行きのバスの客はぼくら二人だけだった。 絶対に採算の取れないバスだと思う。そのボランティアに近いバスが、地平にサイロの点在する雪の原野を日本海に向かって走ってゆく。6月にはエゾカンゾウの群生するサロベツ原生花園も一面の雪野原に過ぎない。
「《あしたの城》の前で降ろしてください」
バス停のない《あしたの城》の入口でバスは停まり、雪煙を蹴立てて海へ向かって行った。
雪降る道を《あしたの城》に歩いた。丘を登ると焦茶色の三角屋根が見えた。大きなガラスの向こうから宿主のジョウさんが手を振った。馴染みの宿だ。中にはいると、薪ストーブが炊かれとても暖かい。皆これから朝食らしかった。頼んでおけばよかった。客は他に3人ほど。ジョウさん夫妻といっしょにかれらがパンをかじりミルクをすする間、ぼくらは薪ストーブのそばでコーヒーを飲んだ。
大きな窓ガラスの向こうで雪が舞い、向かいの丘の稜線をひね曲がった木々が形取っていた。
食後、18歳の高校生A君と30代の阿部さんが連れだって稚咲内海岸に散歩にいった。 阿部さんとは前に枝々幸の《朝日のあたる家》で同宿したことがある。その時は夫人同伴だったが、今回はぼくと違って独り旅とのことだ。
ところで、この手の民宿は『ユース民宿』『旅人宿』『とほ宿』などとも呼ばれていて、旅人がそのまま旅先に定着した形で経営していることが多く、システムとしては男女別相部屋・低料金といったところがユース・ホステルに近いのだが、ユースに泊まったことのないぼくにとって嬉しい最大の特徴は酒が飲めるということである。当然食器洗いや門限や消灯時間などもなしというところがほとんどで、割と気楽に過ごせる。当然ミーティングなどもないし、勝手にどう過ごしても自由というところも気に入っている。ま、普通より若干安手の民宿で基本的に個室は少ないと考えて戴ければいいのです。
ストーブの前で本や時刻表やガイドブックを開き、ぼおっとしているうちに出かけていた二人が戻り、全員で昼食を取り、午後となった。もうひとりの同宿は藤原さんという30前後の平塚の人で、ここには10年前から来ているらしい。彼はストーブに薪をくべて、本を読んでは、昼寝をしている。ここではこのような過ごしかたが基本なのである。
夕方からぼくは、1500ピースのジグゾー・パズルに取り掛かってしまった。みんなで交互に組立てるが、一応今年いっぱいの完成を目標とする。
●1989年12月31日●
ジグゾー・パズルがあだとなってしまった。ぼくはこういうものをやり始めると止まらなくなる性格なのだった。それをすっかり忘れていた。とにかくこの日は一日中ジグゾー・パズルをやっていた。
昼頃24歳の綾ちゃんという女性が到着。早速ジグゾーに加わった。他の3名は稚内に遊びにいった。日本最北の温泉・稚内温泉と、もうひとつには2年前まで《あしたの城》でヘルパーをしていたまっちゃんが駅のそばに《お天気屋》という喫茶店を出したのだ。
昼から雪が降り始めた。 ジョウさんとヘルパーの田中君が将棋を指している。奥さんは林檎を裏漉ししている。林檎寒天を作るのだそうだ。ジョウさん(37歳)は1年前に結婚したばかりだ。奥さんは10歳も年下の山が好きな可愛い女性である。ヘルパーの田中君は川崎からの旅人。たいていここのヘルパーはライダーで、彼もその例に洩れない。
夏は、この手の宿はライダー宿のようになってしまう。昔は、ゆっくり付近を探検する旅人で多かったのだ。そういう旅人たちが情報を集めて『とらべるまんの北海道』『ピリカ』など手作り情報誌を作った。ところが今は、ただ乗り物で通過してゆくだけの一見の客ばかりになってしまったという。『とらべるまんの北海道』も只今絶版中である。正月となるとほとんど宿主と顔馴染の客ばかりなので、連泊が常識となる。ぼくらもここに骨休めに来たようなものなのだ。
夜、稚内の一行も戻って来て、客が二人増えた。宴会が始まった。年越しの夜を夜行列車で過ごす慣れない旅行客もいるようだが、 大晦日は絶対に民宿がいい。どこでも大変な御馳走が出るのだ。《あしたの城》の大晦日も凄かった。サロベツ原野に総勢10名、ビールで乾杯し、薪ストーブのまわりで新潟から差し入れの雪中梅を空け、 年内になんとかジグゾーも完成させた(年越しの2時間前!)。年越し蕎麦は、音威子府ソバだ。これはほとんどつなぎを使わない真っ黒で腰のある蕎麦の見本にしたいくらいの本当の蕎麦だった。
年が明けた。テレビもラジオもない。薪の爆ぜる音と、窓辺の雪景色。酒を飲んで、寝たのは遂に3:00頃だった。
●1990年1月1日●
(TIME:豊富 13:37→14:54 音威子府 15:05→16:34 浜頓別《トシカの宿》)
10:00 過ぎにごそごそと起き出した。まずい。酒が残っている。元旦早々の二日酔いだ。去年は1月2日に二日酔いになって旅先の鳴子温泉で薬屋を捜した。胃薬を飲んで、車の荷台で寝たのだった。そんな記憶がたちまち蘇った。大阪の薄アジ味噌雑煮というのをすすった。雑煮用の味噌なのですね、これは。う〜ん、二日酔いの胃袋には、澄まし汁の雑煮が欲しいのだが、と嘆きながらも最初の一杯目は無理をして食べる。おせちにはほとんど箸を付けなかった。折角の朝の乾杯のビールも、口をつけただけで終る。悲しい正月の朝だ。
胃薬を飲むと調子が戻ってきたが、ぼくらはもうここを出ねばならない。ぼくらと阿部さんの3人だけが宿を出る。他はまだまだ連泊だが、ぼくらを駅に送りついでに豊富温泉への初風呂としゃれこむことになったらしい。全員1台のライトバンに乗り込む(こんなこと書いていいのだろうか? ちなみに20人乗ったこともあるらしい。夏場など、稚咲内の海から利尻島に沈む夕陽を眺めるツアーがこの宿の目玉である。その時の輸送に使われるのが、年期のはいったタウンエースなのである)。
豊富駅で全員と別れ、ぼくら夫婦と阿部さんの3人は1時間後の電車を待つことになった。阿部さんはEPIのキャンピング・ガスやコーヒーを用意しており、それらを駅の待合室でふるまってくれる。彼はこれから上川の《ゆわんと村》に向かうとのことだ。夏場は大雪の登山基地として格好の宿になるとのこと。上り宗谷本線で南下。音威子府にて阿部さんと別れた。
かつて天北線の走っていたオホーツク沿岸を今はバスが走っていて、ぼくらはそれに乗って北上する。いくつもの線路が消えて行った。胆振線・標津線・羽幌線・天北線・・どれもかつて乗ったが今は存在していない鉄道だ。この5年の間にこれらの鉄道は消え、池北線は民営化された。
周遊券の効く範囲が大幅に減って、乗り物でやってくる旅行者が多くなったのだから、ざっと見て通過するだけの旅人が増えたって少しも不思議でないのだ。 羽幌線・天北線辺りの景色はビデオに収めてあるのだが、そのなかに展開する風景は今ではすごい価値があるのだと思う。
浜頓別に着き、暮れなずむ雪の道をクッチャロ湖へと急ぐ。道北最大の湖クッチャロ湖の岸辺に《トシカの宿》は建っている。南極犬=樺太犬のコタロ(湖太郎)が玄関先に繋がれている。彼は稚内で犬ぞり訓練を受けているので、機嫌さえ良ければ人を二人ほど乗せて犬ぞりを引いてくれる。力持ちなのである。
今夜は来客のピークだという。 みんなでクロカンや犬ぞりのビデオを見ている。客は何と15人もいる。ほれぼれするほど筋肉のついた上腕を持つ田中さんという人がストーブ脇で本を読んでいたので、宿帳をめくって見ると職業のところにログ・ビルダーとあった。ログ・ビルディングの勉強をして、いまでは他人の別荘などを建てているが(1億円もする別荘を丸太で建てる人がざらにいるとのことだ、うらやましい)、今年は自分のログ・ハウスに取り組みたいという。今回は骨休めに来ただけなので、どこにも出かけず、宿で本を読んで過ごし続けているのだそうだ。
夕食の席でビールを飲みながら、みんなに明日のクロス・カントリー・スキーに誘われる。冬山経験者もいないので、ぜひとのことだ。OKする。
●1990年1月2日●
出発したのは10人だった。 杉並の高橋さん夫妻が企画者だ。 ご主人(28歳)がテレマーク・スキーを、奥さん(28歳)がノルディック・スキーの板を持っている。他に車で北海道に渡ってきた日野自動車勤務の新田君(29歳)がテレマークを持ってきているほかは、全員が貸しスキーのお世話になった。宿で足りない分を途中の浜頓別ユースで調達する。
コースはクッチャロ湖からオホーツク海までを見渡せる88高地。夏には牧草の茂る丘だ。標高わずか86m。丘の名は、ユース全盛の頃クロカンのコースとしてホステラーたちによってつけられたとのこと。丘の麓まで、ログ・ビルダーの田中さんとヘルパーの新田さん(年齢不明・大阪出身)に車2台で、送ってもらう。二人とも雪道を80キロ以上で飛ばす。4駆とはいえ怖いものがある。何しろ新田さんは大晦日に宿の車を横転させたばかりなのだ。
ぼくは山スキーは結構半端じゃなくやってきたといえるかもしれないが、ことクロスカントリー・スキーとなると初めての経験だ。ノルディック用の靴は爪先が完全に乾いていなかったのか冷たかった。たいへん細い柳の葉のような形をした板を履いて、早速全員で雪野原に乗り出した。それぞれの背中にはデイ・パック、その中に防寒着や宿でこしらえてもらったお握りを入れている。天気は絶好のクロカン日和だ。
クロカン用のノルディックの板というのはエッジが全くないので基本的にターンを楽しむスキーではなく、歩く板だ。結構斜面を登るのは、ソールに鱗模様が刻まれて雪を噛むようになっているからだ。対して、テレマークの板は山スキーと似てエッジがあり、斜面を登るたびにシールを付けなければならない。最近はシールの要らないテレマーク板も出てきたらしいが、山スキーと決定的に違うのは滑降時に靴を固定することができない点である。だから必然膝を折ってのテレマークのフォームで滑らなければいけないのだが、これがヨーロッパ流でなかなか味がある。かつてのスキーはみんな踵が固定できなかったから、当然我々の父親の世代はテレマークで滑っていたということになるのです。
丘へは気持ちのいいオホーツクの風を頬に受けながら、冬陽の反射するバージン・スノウを踏んで登ってゆく。86mだからすぐに着いてしまう。夏には車が通るであろう農道が一面の起伏を縫うように走っているが、どこも深い雪に閉ざされている。360度の展望をみんなで味わい、はしゃぎながら記念撮影などして、それからその辺の斜面を使ってスキーで遊ぶ。TBS勤務のビデオ編集マン高田さんが斜面の下でビデオを構え、片山君(25歳)がカメラのシャッターを惜し気もなく押しつづける。高橋夫妻に連れられてやって来たどこから見ても都会風の美人・磨墨千鳥さん(28歳・姓が読めないでしょ、「するすみ」と読みます)は尻餅の連続。
ひとしきり遊んだ後にお握りを食べる。新田君の用意してきたEPIコンロでスープと紅茶を沸かし、適当に回し飲みする。持ち寄った食べものが回されて、なかなか和やかな雰囲気になってしまう。
オホーツクの海を背景によつば牛乳の工場の煙突が白煙を吐き出している。その煙が風で横になびいている。この辺りでは他に大きな建物がないので、絶好の目印になる。よつば牛乳は工場見学を歓迎してくれるところで、そこの案内嬢が美人で有名だったが、今度結婚し6月に辞めることになった。
食事を終えて、適当な方面に下ってゆく。沢の源頭をいくつか巻くようにして広漠とした牧場を長いこと歩いて行った。日本海側に較べて日照日数が多いのもオホーツク側の特徴だ。下方に見えるサイロや牧舎を目指して下る。
最後に一軒の酪農家の裏に出て、そこで電話を借りることにした。ぼくが中にはいって《トシカの宿》に連絡を取り、ヘルパー&田中さんの迎えを要請した。老いた母親と息子さんがいて、息子さんは大阪に勤めているが帰省中なのだという。窓の外は雪が舞い始めていた。頼んでサーモスにいっぱいお茶を入れてもらった。
外に出ると、雪合戦に興じる宿の仲間たちにお茶を回した。やがて地平の彼方に2台の車が雪煙を舞い立てて疾駆して来るのが見えた。ちょうど体が冷え始めたところだった。
宿に戻ったのは 15:30 頃のことだ。早速風呂をもらって、お茶を飲み、蜜柑を剥きながら今日のビデオを見た。これは高田さんが後日編集して、実費千円でそれぞれに郵送してくれることになった。みんなの手帳が回され、そこにぼくらもアドレスやメッセージを書きつける。明日帰ってゆく人が多いのだ。夜は、今日のクロカンの話で持ちきりとなった。喉もとを過ぎる冷えたビールがうまかった。
●1990年1月3日●
(TIME:浜頓別 11:46→12:10 中頓別寿スキー場 18:00→《トシカの宿》)
とんでもなく予定の狂う一日が始まった。しかし朝のぼくはそんなことを何も知らない。4日 13:30 の千歳発東京行き航空券を確認する。今夜の夜行急行《利尻》に乗らねば帰ることができなくなる。音威子府に南下すると《利尻》との接続が悪いので、夕方のバスで稚内に出ることにする。高橋夫妻や磨墨嬢も同バスで帰るそうだ。彼らは今日はのんびり過ごすという。ぼくらは近くのゲレンデでスキーでもということになった。昨日のエッジの利かない直進専用スキーの反動で、今日は豪快なターンを楽しめるスキーをと思ったのだ。昨夕宿入りした工藤君(26歳)吉川君(26歳)が同行することになる。彼らはそれぞれ一人旅で、今日は移動の予定だったそうだが、移動ばかりしないほうがいいよとのまわりの声につられてしまったのだった。 みんなはほんとうに移動などしないのだ。《トシカの宿》をベースに浜頓別だけを歩き回っている。旅にはいろいろな趣向があるのだろうが、移動しないというのも、なにかこう、贅沢さを感じてよいではないか。
《トシカの宿》のことだが、宿主は30代後半(?)。女性です。自身が旅人でスペインに取り憑かれている(逢坂剛みたいだ)。今年も秋のオフ・シーズンにスペインへ行くので、仲間を募っている。1泊1500−3000円の宿がいくらでもあってスペインの旅費は安いとのことだった。さてトシカというのはどんな意味かというとアイヌ語で「岸辺」という意味なのだそうだ。クッチャロ湖の岸辺に建つ宿という意味もあるが、今の宿主は2代目で、その前の宿主は岸さんという名だったのだそうだ。その辺を引っ掛けて《トシカの宿》なのだそうだ。その岸さんは今中頓別辺りで養鶏をやっているとのこと。《あしたの城》のジョウさんも現《トシカの宿》宿主も、岸さん時代の《トシカの宿》でヘルパーをやっていたということである。
スキー場から直接稚内に行くので、 荷物をすべて詰めて出る。 高橋夫妻らには、後で同じバスになるので軽く挨拶。トシカにも別れを告げる。
中頓別町寿スキー場は、いかにもといったローカルスキー場だ。一応ロッジがあるので着くや否や昼飯とする。天気はまあまあ。リフトはただ1機だけ。待ち時間ゼロ。 そんな状況を素早くチェックしながら、 ふうふうとラーメンをすする。板は全員借りることにする。工藤君は、黒岳や天狗山で滑ってきたそうなのだが、もう自分の板は送り返してしまったとのこと。少ないオプションの中から、何とかそれぞれ自分にあった板と靴を選び出した。貸しスキー料がなんと1500円。それを昼からだというので、500円に負けてくれるというのである。田舎はいいなあ。何だかへこへこと頭を下げながら借りてしまった。
各自11回券を買って滑る。コースは初級・中級・上級の3本に別れてはいるが、まるっきりの初心者だとちょっと考えさせられる難しさがある。リフト際には30度くらいの急斜面が結構長いこと続いており、そこで地元の丸坊主の中学生たちがポールを立てて滑っている。つれあいは初級コースへまわり、ぼくは上級で冷や冷やしながら滑った。貸しスキーというのは初めてだが、靴の丈が浅いのとワックスがここ1半世紀ばかり塗られていないらしいのとで、とんでもない悪条件である。傾斜がなだらかになると、いきなりブレーキのかかる感じが危なくって仕方ない。
そして案の定、やったのだ。夕暮れ間近、斜面の白一色が薄暮にまみれてやたらなめらかに見えていた。深くえぐられた段差に突っ込むと同時に左足の板が外れた。転倒した瞬間に息が止まった。ウエストポーチにしまっていたカメラが肋骨に当たったのだ。糞っ、と思った。そこは傷めてはならない場所だったのだ。8年ほど前に蔵王で肋骨を折った場所だ。そして5年前には、南会津の尾瀬北方の稜線で再び折った。 同じ場所をだ。 そこを三たびなのだ。しばらく蹲っていた。酸素が吸えるようになって身を起こし、顔をしかめながらはずれたスキー板を履いた。痛みが徐々にやわらいでいった。
しかしこれを書いている現在(1月10日だから一週間目になる)痛みは全然消えていないので、前のように肋膜が傷ついているか、ひびでもはいっているのかもしれない。何しろ前下部が変な形に突き出ている感じではある。
16:00 でスキー場は終わりとなる。ロッジで帰り支度を始めている間にもともとあまりいなかったスキーヤーは、車かなにかでさっさといなくなってしまい、ロッジの管理人や食堂のおばさんたちはストーブのまわりで丸くなっている。16:36のバスを外で待つのはつらいのでなるべく長引かせてはみたものの、20分にはさすがに間が持たなくなって我々は外に出た。
しんしんと冷える寒さだ。零下10度だ。本州より遥かに早く、日が暮れてゆく。早くもヘッドライトを点灯したバスがやってきた。そして……。バスは高速で、全くなんのためらいもなしに、我々の前を、通過して、行った、のだ。我々は狐につままれたように顔を合わせた。バスは快速だった。ぼくらが帰りそびれたことは確実だった。次のバスは…………3時間後だ。零下10度の戸外でだ。ロッジに戻った。消灯していた。鍵がかかっていた。既にだれもいなかった。バス停に戻った。ヒッチ・ハイクしかない。しかしこちらは4人だ。数分置きに通過するわずかな自家用車が、全く停まる気配を見せてくれない。中頓別の町までは、 バス停2つ分。 本州の感覚では計ることのできない隔たりが、ここにはある。バス停2つ分と軽く割り切ることのできないなにかがあるのだ、この北の大地には。急速に夜になり、僅かな外灯を辿って、ぼくらは歩き出した。
結局、途中で見つけた電話ボックスから《トシカの宿》に救援を求め、ログ・ビルダーの田中さんの迎えで、ぼくらは宿に帰りつくことができた。再開を約束していた高橋夫妻は、さっき我々を見捨てた快速バスで既に稚内に向かっているはずだった。そして、ぼくらは航空会社に電話を入れることになった。予約をキャンセルし、オープンにしてもらったわけだ。会社を初日から休むことが確定となった。意外に吹っ切れた気持ちになれる。「北海道の罠にはまったね」 宿主がくったくのない笑顔を見せてくれた。
●1990年1月4日●
(TIME:《トシカの宿》11:00→11:15 ピンネシリ温泉 12:32→13:10 音威子府 13:45→15:43 豊富 16:45→《あしたの城》)
5日に会社を休むならもうどうでもいいやという気持ちになった。これで土日をはさんでいきなり7日まで空いてしまったからだ。また《あしたの城》に舞い戻るか、ということになる。
10:00 過ぎに田中さんが帯広に帰って行った。彼は大阪で高速道路の工事をやっていたのだが、北海道に一度来たのがきっかけとなって人生が変わった。こちらにログ・ハウスを建てるために、 ログ・ビルダーとしての道を選んだのである。 冬のうちに丸太を百本ほど買っておいて、 連休を使って組立たいとのことだ。5月に来るのなら手伝って欲しいと言われたので、多分その時はトシカにいるだろうからと二つ返事でOKした。 もしログ・ハウスを建てる機会があるなら、勉強になるので、ぜひ力仕事だけでも本気で手伝いたいと思う。ぼくはもともと北海道にログ・ハウスを建てることがひとつの夢だから(田中さんのような実行力はないのだけれど)こういう話になると身を乗り出してしまうのだ。一軒いくらくらいで作ってもらえるのかと聞いたら、ログ・ハウスは自分で建てるものですよ、と軽くいなされてしまった。まさにその通りなのだよなあ。
ほぼみんないなくなった。 今夜の客は新田君一人になりそうだ。 その新田君が、寿スキー場の回数券が余っているのでそれを消化しにゆくという。ついでにその先まで足を延ばして、ぼくらと工藤君をピンネシリ温泉に連れてって上げようかという。すっごく狭い車なのだが、人数オーバーのテントの中の宴会のような格好をして、4人が乗り込んだ。今度は本当に別れの挨拶をして《トシカの宿》を後にした。
昨夜の恨みつらみの残る眼でスキー場のバス停をぎららと眺め、かなり走ってピンネシリ(敏音知と書くのです)温泉に着く。奇麗な公衆浴場みたいなもんで、はいるとすぐに座敷がある。遠慮がちにうろうろしていると、従業員のおじいさんがぼくらのザックを指差して、座敷にまあ上がってゆっくりしなさいという。町営の温泉施設なんだからなんも遠慮することなんかねーんだよ、というのだ。宴会場みたいな座敷にはいくつものテーブルが並んでいて、お茶や蜜柑が置いてあった。どうやらこれを勝手に飲み食いして構わないらしい。う〜ん。何とも感激なのである。
風呂はというとこれがまたいい。気泡風呂(ジャク−ジ)やサウナ室までついていて、入浴料300円という銭湯も真青の料金なのだ。地元のくりくり坊主や白髪じーちゃんがいて、みんなじろじろ余所者のぼくを見る。くりくり坊主に話しかけたら、最初きょとんとしていて、それから何と「英語で話しているのかと思った」だと。う〜ん、ぼくの髭は伸び放題なので、この辺ではアメリカ人に見えるのかもしれない。
洗い場を出ると、更衣室で工藤君がじーちゃんと話しをしていた。ここは厳密にいえば冷泉を涌かしているので、温泉ではないのだそうだ。この奇麗な建物自体は去年建ったばかり。 「だけんど冷泉そのものは、去年どころか、何億年前からここにあるよ」 なんてことをおじいちゃんが言うので吹き出してしまった。田舎の人たちってとても表情豊かでぼくは大好きなのだ。
缶ビールを飲んで、 座敷で蜜柑を食ってくつろいで、 外に出る。晴れているが、雪上を渡る風が風呂上がりの肌に冷たい。
バスで音威子府へ。
音威子府の駅のホームで音威子府蕎麦を食べ、工藤君と別れる。彼はこれから朱鞠内湖畔《朱鞠の宿》へ向かう。ぼくは《あしたの城》に舞い戻るよとの電話。
豊富駅で1時間ほどの時間があったので喫茶《夢一文》で時間を潰す。駅に戻ると、待合室のストーブを囲んでいるのはヘルパーの田中君と、まだいたのか綾ちゃんであった。豊富温泉での入浴と買い物のついでに、みんなで迎えにきてくれたのだ。ジョウさんが買い物を終え、まだいたのか藤原君とともに出現した。他に客を男女各一名乗せて、暮れなずむサロベツの原野をおんぼろタウン・エースは今日も走って行くのだった。
●1990年1月5日●
(TIME:豊富 16:47→17:27 稚内 22:06→急行《利尻》車内泊)
昨日まで富良野塾の塾生が2名泊まっていたそうだ。ひとりは俳優の卵でひとりはライター志願。倉本聰のドラマがTVであるとかで、昨日帰ったのだとのこと。『谷は眠っていた〜富良野塾の記録』というのを読んだことがあるが、1年に1軒ログ・ハウスを自分たちで建てて、夏は農家で働いて暮らすじり貧の生活は辛そうだった。
朝のうち天候が悪く、窓の向こうに密度の濃い雪が降っていた。つれあいは豊富に3度も来ているのに稚咲内からの利尻をいまだに見ていないと話すと、ヘルパーの田中君が同情してくれた。かつて1月の利尻岳の登山記録を漁ったことがあるのだが、月に1日程度しか晴れることがない。冬は雪雲に閉ざされた孤島だ。
やがて諦めかけていた空が一転して晴れた。雲間に覗いた青空の窓が西側からみるみる広がって行った。ぼくらはまたもやクロカンの板を借りることにした。綾ちゃんは双眼鏡を持って鳥を見にゆくのだそうだ。ぼくらは裏手の牧場に上がって行った。夏には牧草が青々と茂っていてとても気分のいいところだ。今は広々とした雪の台地になっている。そして緩い傾斜を登るにつれせり上がってくるのは、まさしく雪の利尻だった。山頂付近は雪雲に覆われているが、こちら側の山襞は峻険な模様を露にしている。ぼくらは飛び上がって喜んだ。
ぼくにとっては思い出多き山だ。最初に山をやろうと思ったときに、同じ下宿に山岳部の上級生がいて海からの利尻岳の写真を見せてくれた。その時の美しい姿に憧れて、ぼくは山の世界にはいって行った。クラブで北海道合宿を行ったときにも、利尻の計画を立てたが、その時ぼくはチーフ・リーダーでありながらその計画に参加することができなかった。ぼくの立てた計画通りに後輩たちが利尻に登ってきて、8mフィルムを見せてくれた。礼文島に沈む夕陽が美しかった。社会人になってぼくはやっと利尻に渡った。山頂付近に雨雲がかかっていたが、ぼくは独りで頂きを踏んだ。霧の流れる痩せた尾根道で休んでいると、這い松の中から走り出て来たシマリスがぼくの掌の上に前足を乗せて、興味深げな表情でこちらを見ていた一瞬もあった。長いこと憧れてやっと踏むことのできた頂きというのは特別感慨深いものがあるんだ。
大きな谷を巻くと、サロベツ原野がいくつかのサイロの向こうに一望できた。この辺りで一番高い三角点と呼ばれる場所に、木の櫓が建っている。そこに行き着くと、雪原の向こうに海が見えた。濃い藍色の海だった。清潔な雪と清潔な海だ。そこから海までの間に、欝蒼とした樹林と湿原が広がり、その向こうに砂防林、その向こうが再び原野となって海に続く。行ってみようと思った。木立の中をキック・ターンで折り返しながら、下って行った。
狐の足跡を辿っていた。 沢がいくつかあり、 水が顔を出しているところもある。複雑に上下する地形を納得の行く形で進むとどうしても狐の足跡を追うことになった。人間も獣も歩きやすい道は同じというわけだ。そして最後の登りを終えると、眼下に湿原が横切っていた。そして対岸はより濃密なタイガを思わせる針葉樹林帯だ。ぼくはつれあいに向けて首を横に振っていた。
狐の足跡はいくつもあった。その一つを選んで戻るように下ってゆくと、牧草地の柵に出くわし、その向こうに《あしたの城》の屋根が見えてきた。一面にスノウ・モービルの跡が残っていた。ジョウさんのものだ。そこから道路に出て、稚咲内の漁港を目差した。左右に先程の湿原帯を見て、次に密林を抜ける。この密林を自転車で散歩して迷ってしまった夏もあった。 稚咲内の小さな集落を過ぎ、海からの風に歪曲した樹木の茂る砂防林を抜けると、まぶしいくらいの雪野原。向こうには群青色の海が光る。利尻の輪郭はややぼやけ始めていた。漁港に出た。荒々しい波が寄せていた。北方系の寂静とした風景だ。ぼくの好きな風景でもある。原始的で荒びた美しさが好きなのだ。まばゆい陽光が辺りを照射し波音が耳朶を震わせるこの場所に、ぼくらはまた戻ってきたのだ。
《あしたの城》に帰って昼飯を食べたが、天候はすっかり落ち着いている。ジョウさんたちはあいかわらず将棋を指し、 ぼくらは本を読みながら転がっていた。綾ちゃんはずっと後になって帰ってきて、深雪にまみれてにっちもさっちも行かなくなった話をしてくれた。夕方になって、ジョウさんに豊富の駅まで送ってもらった。今日まだ残るのは綾ちゃんひとりだ。みんなが道北を去る時だ。
稚内では《お天気屋》を訪ねた。《あしたの城》の元ヘルパーの松本君通称まっちゃんが1年半前に開いた喫茶店だ。トライアルの名人で、バイクで日本中を走り回っていた彼も数年前に事故で足を折り、けっこう大きな手術をしていた。その退院以来久々に会うので、すぐにはぼくたちを判別できなかったようだ。トシカの帰りの高橋さん夫婦もここに立ち寄って行ったとのこと。2日には、まっちゃんも《あしたの城》に遊びに行ってきたし、昨日は藤原君がまたもやって来たという。昔の写真など見せてもらい、コーヒーを戴き、つれあいは手製のアップル・パイなどを食べた。
《お天気屋》で聞いた炉端焼き《蝦夷の里》でいっぱいやることにする。八角という聞き慣れない魚やにしん・ルイベ、他に鳥や豚肉の串焼きなど、すべて美味い。値段が書いてないので不安で、適当に会計を済ませると、何とちっとも高くなかった。こんなに安いのなら値段くらい表示しておけばいいのにと思った。それからラーメンを食べ(塩ラーメンというのもこくが強く少しもあっさりしていないのです)、《お天気屋》に戻り、急行《利尻》の時間を待った。
●1990年1月6日●
(TIME:6:00 札幌 6:03→6:52 千歳空港 13:30→帰京)
「さすがに疲れた」
と言ってつれあいは《利尻》が動き出すなり、車窓にもたれて眼を閉じてしまった。ぼくは『飢えて狼』の続きを読み始めた。旅が終ろうとしていた。
オープン・チケットになってしまったから、キャンセル待ちで並ばねばならない。列車だと当日の寝台が取れないことはないみたいなのだが、おそらくばらばらの位置になってしまうだろうから二人旅には向かない。キャンセル待ちで一日並んだところで飛行機のほうが早いのだしということで、朝一番の札幌発で空港へ向かった。しかしなんとキャンセル待ち整理券は110番なのである。100人ほどが既にキャンセル待ちの手続きを済ませていたということだ。さすがに正月明けだ。
朝方から外は吹雪いていた。ぼくはサンドイッチとビールの朝食を取った。つれあいはコーンスープだ。降雪・積雪のためだろう、飛行機が遅れ遅れになって、キャンセル待ちは遅々として捗らなかった。やっと登場手続きができたのは11:20の便だった。しかしその時刻になると除雪作業が始まり、搭乗は当分無理ということになった。ぼくらは同じ場所で昼食を取ることになった。駅弁コーナーで買った、帆立てやイクラの乗った弁当だが、本州の駅弁と違って美味かった。
搭乗にバスを使ったのは千歳では初めてだ。空港内がよほど混乱しているのに違いなかった。搭乗後もなかなか飛ぼうとはしなかった。結局そのジャンボ機が空に浮いたのは出発予定時刻の3時間も後のことだった。 浮いた後も激しく揺れ、 エアポケットは、荒海に乗り出した小型船舶のピッチングを想起させた。機内放送で東京は晴れているという。海峡上空を過ぎた。分厚い雲はどこまでも続き、機はあいかわらずピッチングを繰り返していた。
●おまけ・奇妙な漂流物●
《トシカの宿》の玄関先に奇妙な物体が置いてあった。半ば雪に埋もれているが、木の根のようでもあり、化石のようでもある。これはなんだろう?
その全体の写真があったので見せてもらった。蟹の甲羅のようでもあり、鯨の尻尾のようでもある。そいつがオホーツク海の砂浜にでーんと置かれているのを正面から撮った写真だ。おまけにビデオまであったのでそれも見せてもらった。《トシカの宿》では春先に、モケウニ沼近辺の海岸へ、流氷とともに流れつく様々なものを拾いにいくそうである。その時に発見し、撮影したものらしい。
宿主によると、重さ300キロで、直径1m程度の物体だったとのこと。何人かで動かそうとしたが駄目で、ログ・ビルダーの田中さんがさすがというかこれを持ち上げてみせ、車のところまで運んだ。他にも何人かがやってきているらしい痕跡があるので、とにかく運びこもうということになったのだそうだ。ところが大きすぎて車に入らない。 それでロープで括って車で道路を引きずって行った。
ところが気がついてみると、摩擦で物体の端がたくさん削られ、みるみる小さくなってゆく。それでいったん道端に放置しておいて、後でクレーン車を頼み、宿の玄関先に持ってきたということなのだった。
だから玄関先のその異様な物体は、今はだいぶ小さくなってしまっている。蟹の眼のような部分があってそれが取れてしまっているのだが、その部分だけでも異常に思いのだ。片手にやっと乗るほどの大きさで、相当の質量を感じた。
あるひとは鯨の尻尾の先だとかたづけたが、ある大学に写真を送ってみると、そうではなく、おそらく空か海の動物だろうとのこと。でも確かなことは今もってわからない。ぼくが見た限りでは、どうしても宇宙人の化石としか見えないのである。おそらく宇宙人関係なのではあるまいか?
興味のあるひとは、下記へお問い合わせしてください。
〒枝幸郡浜頓別町日の出《トシカの宿》TEL:01634−2−2836
さらに好奇心旺盛なひとは出かけて行って実際にその眼で見てみよう。そのくらい奇妙な物体なんだからね、ほんとに。
−了−
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