■道北の春■

■道北の春■


●1990年4月26日●


(TIME:川口の自宅19:00→21:00大洗フェリー・ターミナル)

 つれあいが乗船した後、ぼくは埠頭に列を作った車の中でダッシュ・ボードをごそごそやっていた。ないのだ。旅行中に読もうと思っていた志水辰夫の『背いて故郷』がない。なにしろ冬の旅では『飢えて狼』を読んでいたのだから、どうしても今回も志水作品を道連れにしたかった。それがどうやら出発の慌ただしさに紛れて、忘れてしまったらしかった。

 そうこうしているうちに車は誘導されてしまった。乗船の時間だ。夜更けの大洗埠頭。ぼくはデッキに車を乗り上げると、フェリーのはらわた深く、会社の営業用コロナ・バンを収納させた。北海道へ車で渡るのは初めてだ。今回は、大洗発室蘭行き航路。本来は新潟発小樽行き航路を取りたかったのだが、予約が間に合わなかったのだ。フェリーの予約は大抵二ヶ月前からとなっているそうなのだが、ぼくは知らずに一ヶ月前に電話をかけまくった。飛行機と同じつもりでいたのだ。さすがにゴールデン・ウィークで、思うようには行かなかった。やっと取れた行きの航路が、この便だったというわけだ。

 船名は《ビクトリ》(東日本フェリーの船の名は、みな《V》の文字で始まるようなのだ)。そして船自体はとっても奇麗で大きく、また新しい。はっきりいってホテルなみの内装である。ぼくは車両用デッキから、エレベータを使って客室に上がって行った。2等寝台を取ってある。先に乗船していたつれあいはロビーで待っていた。ぼくは早速入浴することにした。大浴場があるのだ。

 風呂はかなり凝っていた。サウナやジャグジーがあり、更衣室の横にはサン・デッキ、軽いトレーニング・マシーンまで置いてあるのには驚いた。かなり気持ちの良い思いをして、風呂上がりにビールを飲む。

 日本海フェリーもこうなのだろうか? ちなみに車両航送料は、東日本フェリー(大洗−室蘭・苫小牧間)は日本海フェリー(新潟−小樽間)の約2倍に近い。ひどい価格差なのである。だから新潟から小樽に向かう人が多いし、ぼくもそうしたかったのが本音なのだ。だから日本海フェリーも、このように豪華な船が就航しているのかな、と思ったわけだ。ひょっとしたら料金が半分になる分だけ、設備が悪いのじゃないかなと思ったりしたわけだ。

 87分署シリーズを手に取ってベッドに横たわる。『死が二人を』だ。志水辰夫の本は吹っ切らなくてはならない。それにしても2冊しかバッグにはいっていない。北海道のどこかで読むべき本を手に入れねばならないだろう。

●1990年4月27日●


(TIME:大洗0:00→19:15室蘭 旅館ふみ野泊)

 一室に2段ベッド6台。つまり12人収容できるのだが、すべてのベッドが埋まっているわけじゃない。今日に限っていえば、ぼくらの部屋にはわずか5人しかいないし、上の段はまるまる空いていた。一番入り口に近いところの若者だけが一人旅のようで、ベッドに腰を下ろして、床上の木とブリキで作った灰皿へ頻りに煙草の灰をはじいていた。年中そうして腰掛けていははじいていた。

 一番奥の若い夫婦(恋人かもしれない)は、ぼくの知る限りずっとベッドにはいりカーテンを閉め、明りを消しておとなしく眠っていた。ぼくら夫婦が一番活動的でアクティブだったかもしれないが、それでもけっこう眠くなり、ベッドにはいって本を開いては昼寝を楽しんだ。明りのついた客室もあったみたいだが、幸いなことにぼくらの客室では誰も明りをつけようとはいわなかった。奥の夫婦は寝ていたし、入り口の若者はあいかわらず煙草を吸っていた。

 朝食と昼食には最上階のレストランへ行った。外は晴れていたが、風が強く寒そうだった。西側の窓から、陸地がずっと見えていた。レストランはとても豪華で、食券で食べる焼き魚定食やラーメンがなんとなく似合わないし、朝から宴会みたいにビールをたくさん飲んでいるブルー・カラーの一群はもっと似合わない。次いでにいえば、ぼくも朝からビールを飲んだ。そして髭も剃っていない。ぼくは旅に出たら髭を剃らない主義なのだ。サラリーマンを辞めることがあったら髪と髭を伸ばしたいと常々思っているくらいだ。まあ、そういう年代なのだ。

 朝、ジャクジー風呂の浴槽から見えるのは、太平洋の海原だった。とても豪勢な気分になれる。病みつきになりそうだ。船旅がこんなに贅沢なものだとは思わなかった。ぼくはせいぜい離島に渡るフェリーか、木更津に渡る東京湾フェリーくらいにしか乗ったことがなかったので、今回はすっかり見直してしまった。

 長くけだるい午後が過ぎて、やがて行く手左方に蝦夷駒ヶ岳が見えてくる。北の地へ渡るのにこんなにもしっかりと距離感を感じたのは久しぶりのことだ。飛行機は便利だが、 感覚を摩耗させる。 『旅行』といったニュアンスを少しでも『旅』の方に近づけるには、距離感をしっかり自分のものにすることだ。

 室蘭の港が近づく。地球岬から絵鞆岬へと連続する断崖。街へ駆け下りるスコットランドのような緑のプラトー。 懐かしい街だ。 この小さな半島の付け根には、石油コンビナートが群れを成し、国道を車が連なっている。その背景に山が持ち上がり、有珠山、昭和新山へと続く。闇が落ちてゆく。夜が室蘭を包み、半島全体がきらきらと街の灯りで輝き始める。測量山の頂きでは、何本ものテレビ塔が光に浮かび上がる。ため息が出るほど奇麗な街だ。船は19時間の航跡を残して、北の港に接岸しつつあった。

 すっかり暮れてしまった港に車を滑り出させ、室蘭の駅へ。約束通り旅館の迎えが来ている。印半纏姿の人のよさそうな初老のおやじさんだ。彼の車に付き従って、予約していた宿へ向かう。小さな商店街を抜けて、細い道にはいる。坂を登る。旅館は坂の途中にあった。室蘭。アイヌ語で《モ・ルエラン》。《ゆるやかな坂を下る道》という意味なのだ。

●1990年4月28日●


(TIME:室蘭10:00→小樽13:30→15:30雄冬)

 7:30に朝食を終えると、すぐに宿を出る。つれあいにぜひとも室蘭を見せてやりたい。ぼくの北海道旅行は室蘭から始まったようなものだ。室蘭の隣駅の母恋に山岳部の後輩の実家があったため、初めの頃はいつもここを起点にして北海道を回っていたのだ。後輩が大阪に転勤になってからはしばらく遠のいていただけに、この街が無性に懐かしい。

 記憶を頼りに、室蘭の小さな半島を断崖に沿って車を走らせる。夏ならチャラツナイの海辺に下りていって泳ぐこともできるのだが、今日は曇っていてとても寒い。 街と自然との境界である絵鞆岬を皮切りに、 カモメたちの声を聞きながら、冷たい風を浴びてまわった。銀屏風・金屏風は、断崖が海のほうからその名のごとく見えるらしいが、陸からはそれほどはっきりとはわからない。

 地球岬はすっかり変わっていた。市の観光政策の煽りを受けて、断崖への柵と眼下の灯台以外なにもなかったこの場所に、観光地らしいコンクリートの展望台ができて、無料の望遠鏡が据えられていた。そのまわりを奇麗なトイレや趣向を凝らした電話ボックスが取り巻いている。少なくとも6年前くらいまでは何もなかったし、そのまた昔はここは単なる自殺の名所だった。ぼくにはしかし、なにもないほうがまだしものような気がした。

 トッカリショ(注:トッカリとはアザラシのことらしい)の眺めは素晴らしかった。 スコットランドめいた緑の草原のつらなりから、 小さな漁港が見下ろせる。 夏にはこのあたりをゆっくりと歩いて、 草辺に転がっては昼寝をむさぼった。いいところだ。しかし今日は今にも雨が落ちて来そうだ。太平洋から陸に向かって吹き上げる風は、ひどく冷たい。逃げ込むように車に飛び乗る。

 かつて後輩の地元の友達の車で走った道を記憶だよりに辿ることにする。駅前で地図とスポーツ新聞を買い込む。スポーツ新聞を買ったのは、天龍独立という大見出しに眼を奪われたため。ぼくはプロレス狂だから、この手のニュースは気になってならない。

 小樽まで昼飯を我慢することにして、 かつての胆振線沿いに遠巻きに北上する。伊達紋別から昭和新山の麓をくぐり、洞爺湖を右に見て車を走らせる。分厚い雲の下で洞爺湖はくすんで見えた。このあたりはあまり興味を覚えない。やがて羊諦山が見えるあたりで、ついに大きな雨粒がフロントグラスを叩き始めた。

 羊諦山は雪に覆われているが、2年前の今の季節に較べるとだいぶ少ない。2年前にはニセコで春スキーを楽しんだ。あのときは新婚旅行を兼ねていた。

 倶知安、余市を経て小樽へ。2年前には《陸の女王・C62》に乗って通ったところだ。雪が降って、蒸気機関車の白煙が風景によく似合った。しかし今は篠つく雨だ。

 小樽で、地図に乗っていた寿司屋にはいり、関東では味わうことのできないネタを楽しんだ。車だと、ビールが飲めないのが残念だ。そしてすぐに海沿いに北上する。北へ、北へだ。ぼくは道北が好きなのだ。

 石狩川を渡って、ようやく民宿を予約。ここまでは電話帳が地域外で役に立たなかったからだ。雄冬や増毛の民宿は漁師の家が多く、夏だけやっているというのがほとんどみたいだ。8軒目の民宿をやっと予約できた。ふたたび走り出す。左に日本海。右手には、迫る山。

 300キロ強を走って雄冬に着く。雄冬岬では、暑寒別の山群から集められた雪解け水が、大きな瀑布となって海に落ちている。山がそれだけ海に迫っているということだ。雄冬はほんの数年前まで陸の孤島であった。道路は通じていなかった。北側の増毛からフェリーで海岸線をまわってたどり着かねばならなかった。それだけに旅人の穴場であり、けっこう憧れの地でもあった。しかし今は南北に道路も通じ、民宿の食事の味も若干落ちてきたと聞いている。

 民宿はやはり漁師の家だった。食事のほうはどうかというと、やはり天売や焼尻など離島の民宿に較べると若干落ちるといわねばならない。浜鍋も積丹の民宿のほうが具が多いが、宿によりけりだから一概にはいえない。確かなのは、旅館より民宿の食事のほうがどこでも格段に優れているということだ。

 窓をあけると目の前が桟橋だ。小さな漁船がもやわれている。雨が上がった。雲間に夕陽が落ちてゆく。サーモン・ピンクのきれいな空だ。にぎやかだったカモメの声もいつのまにか静まっているなと思ったら、 あっという間に夜になった。

●1990年4月29日●


(TIME:雄冬8:30→11:20羽幌11:30→12:00築別炭坑跡12:30→15:00《あしたの城》

 朝。 何故かバッテリーが上がってしまっているので、 宿の車に繋いでもらって、エンジンをかける。きっとどのドアかが一晩中半ドアだったのだろう。よく晴れて眩しい朝だ。

 雄冬から増毛へぬける道は、断崖上の山道だった。路傍に残雪。山肌もまだまだ白い。山道からふたたび海辺に下りると、背後に暑寒別岳の白い稜線がたおやかだった。車を停めて外に出ると、しばし見とれた。滝川から雨竜沼湿原を経てあの暑寒別岳を越え、増毛側に下った山越えは、4年前の夏のことだ。南暑寒別岳とのコルでテントを張り、雪渓から水を取った。夜中に熊の跫音を聞いて、慌ててゴミをテント内に引っこめた。未明に嵐となり、視界のない風雨の山頂を踏んだ。ぐしょ濡れになって増毛側の避難小舎に駆け下った。まだなにひとつ忘れてはいない。少しばかり印象的な山ではあった。もしかしたらまた行くことになるかもしれない山だ。

 増毛を越えると、羽幌まで単調なドライブが続いた。よく晴れて、右側に原野や牧場。左は海。焼尻島は靄っており、あまりよく見えない。巨大な弧を描くアスファルトの道に逃げ水が見える。つれあいはしきりにビデオをまわしている。あまりかけることのなかったカーステをかける気になる。ドゥービー・ブラザースのテープを放り込む。 トム・ジョンストンがカム・バックした去年のアルバム。晴れた地平線によく似合うやつだ。

 羽幌でパンと牛乳を買い込み、ぼくらは寄り道をする。羽幌の鉱山跡に、ゴースト・タウンを見にいくのだ。今回忘れてきた志水辰夫の『背いて故郷』にこの近くの築別炭坑跡が舞台として登場するらしいのだ。 あいにく本は忘れてきたが、舞台は一応この眼で見ておきたい。それに車でなくてはとてもはいれないところだ。

 羽幌から20キロ以上もはいった山間に、捨てられたその村はあった。屋根や壁の抜けた住居棟(平屋&2階建て)が、疎らな木立ちや丈高い雑草の中に散在していた。今は走るものとてない赤錆びた鉄路が一方の木立ちからもう一方の木立ちへと消えていた。青空の下で、汚れた残雪が眩ゆかった。とても奇妙な気持ちでぼくらはその風景を見ていた。けっこう長いこと見ていた。

 ここからさらに車を走らせると築別鉱山の跡があった。こちらのほうがむしろ開けた地形で、住居棟(4階建て)の丈も高かった。ぼくは映画『フルメタル・ジャケット』に出てきたベトナムの穴だらけのビルを思い出した。しかしここはとても明るい場所だし、気持ちのよい風が吹いている。廃虚さえなければ、とても気持ちのいい自然が広がっているのに過ぎないのだ。ぼくらは炭坑跡の全体を見渡せる場所に車を停めて、パンと牛乳の昼食をとった。つれあいは車の外で、パンのかけらをカラスにやっていた。そうしているとカラスは2羽に増えた。つれあいはやがてカラスを怖がり始めた。

 天塩への道、話に夢中になっていたせいもあるが、ついに警察の鼠取りに引っかかってしまった。ブレーキをかけたが間に合わなかった。84キロ。しかし60キロ制限なので24キロ・オーバーだ。ファック! ちなみに反則金は1万5千円也。2点減点。ファック!・・・だ、実に。毎日車に乗っているせいか、1年に1回は何らかの形で掴まってしまうのだが、北海道に来て早くもこれだ。道内の鼠取りは、町の入り口と出口でやっているが途中では滅多にやっていないと聞いていたので、油断していたのだ。何もない海岸線で掴まってしまった。

 冬にはクロカンを履いてやって来た稚咲内の漁港。海に利尻富士。ここで海に背を向け、サロベツ方面へ行く。民宿《あしたの城》が見える。道路の入り口のところで、主の川上さん=通称ジョウさんが郵便局員の手塚君と一緒に看板を直している。まだ時間が早いので、軽口を叩きあった後、ぼくらは宿へはいらずに原野を見にいく。冬にクロカンで歩いた牧場の三角点へ。今は緑が鮮やかだ。ドレッシングをかけて食べてしまいたいような春の風景だ。海の向こうに雪の輝く利尻が見える。利尻を背にすると、サロベツの原野が一望のもとだ。地平線。また来てしまったよ。

 さすがにゴールデン・ウィークで、《あしたの城》には10人もの客がいる。大晦日に年越しの酒を飲んだアマチュア写真家の前田さんが、《サロベツ四季彩》というタイトルの絵葉書を出していた。あの時、横文字の1行を写真に添えたいが「四季彩」をどういったらいいだろうか?  というので、 フランス語で《Les dessins de la saisons》はどうかと書いて渡しておいたのだが、これが見事に絵葉書に刷られていた。ただし冠詞の《Les》はなし、その後に《of sarobetu》とついているのが何とも残念ではある。やはりフランス語で接続すべきだし地名は大文字だったろう。当の前田さんはいないが、同じ郵便局仲間の手塚君に伝えてもらうことにした。出してしまったものは仕方がないし、きっとあまりうるさく言う人もいないだろうということで、納得し合ってはいたのだが。

 18時を回ると、みんなで夕陽を見に海辺へ出る。《あしたの城》の名物だ。稚咲内の砂浜から、利尻の頂きに沈む夕陽が見えた。波が砕けて逆光にきらめいている。利尻が濃いシルエットになる。今日だけで、かつて登った山を二つ見たことになる。利尻岳。ぼくの中で憧憬を育んだ山だ。いつ見ても思い入れたっぷりの山だ。赤く膨らんだ火球はその鋭い剣先の向こうにゆっくりと見えなくなっていった。

●1990年4月30日●


 朝の窓辺は分厚い雲に覆われている。今回は車なので、今までまわれなかったサロベツの周辺をじっくりと見てまわる心積りだったのだが。朝食を終えると、ほとんどのライダーやドライバーが次の目的地を目指して宿を出発してゆく。ひとところをじっくり落ち着いてまわる旅人が激減したと宿主のジョウさんは言う。北海道のガイドブックとして有名な『とらべるまんの北海道』も、品切れで今やプレミアがついている。旅人の激減による情報不足故に新版が出る予定もないという。

 ぼくらが宿を出ると同時に雨になった。ひどい雨で、ひどい寒さだ。名山台の展望台の階段を登るときには、傘の骨が折れるかと思うばかりの風雨だった。名山台から見るサロベツ原野。ペンケ沼、パンケ沼が雨の中にくすんでいる。モノクロのネガを見ているような気分だ。

 車に走りこむ。車をスタートさせる。踏切を渡る。牧草地を横手に見る。川を渡る。カーブを曲がる。舗装が途切れる。パンケ沼の湖畔だ。

 激しいさざなみ。窓を打つ豪雨。人気のない遊歩道が雨にしぶいていた。

 サロベツ自然観察センターへ行くがあいにくと今シーズンは5月1日付けでオープン。雨宿りがてらここでゆっくりすることを期待して来たのだが、仕方がない。明日もう一度出直すことにする。

 それから豊富の大規模草地へ。ここは文字どおり大変な規模の大草原で放牧地である。季節はずれのレストハウスは閉ざされていて、以前遊んだことのあるウサギ小屋の中ももぬけの殻だ。ゆったりとした起伏をなかなか目にすることのできない草地が広がり、そのあらゆる視界をみぞれがかった雨が閉ざす。

 豊富のホテルは入浴が午後からだというので、《ふれあいセンター》という名の町営浴場へはいってみる。温泉の湯は原湯に近いのでとても濁っており、黄色い藻屑のようなものがたっぷりと浮かんでいる。ここの湯は油分が多く混じっているのでたいへん石油臭いのだ。これをごしごしと石鹸で落とさねばならないので、あまり快適な風呂とは言いがたい。あと30分待って、ホテルのソフィストケートされた温泉を利用するのだった。

 それから午前とは反対に国道を北へ向かう。宮の台展望台はもこのあたりの見どころのひとつだ。国道から東へそれて牛が草を食む草地をずんずん登っていくと、ブランコや滑り台のある展望台だ。確かにサロベツ原野が開けて見える。昨日ならこの向こうに利尻が見えたはずだった。雨の中ではあまり展望を楽しむことができない。

 兜沼は妙に観光地化されて楽しくないところだった。ジョウさんのいった通りだった。 ジョウさんの奥さんは元ワンゲル部員だから、 やはり同じことを言った。兜沼の今の姿は誰かが勘違いした結果だ、と。ここから原野の周囲を一周して、宿へ帰る。雨だ。たまらない雨だ。

 《あしたの城》の夕食は牛乳鍋(その色からしてキツネ鍋ともいいます)。昨夜はジンギスカンだったから、今回はついている。牛乳鍋は、このあたりの土地の特色ということでジョウさんが試行錯誤して開発した味だ。主に味付けは、牛乳+コンソメ+味噌で、コンソメ汁で鶏の腿を煮る。具は、その鶏腿+豆腐+白滝+白菜+じゃが芋+春菊+茸類といったところで、実は我が家でもこれを覚えて以来よく作るのである。

 夜にはマイヤーズ・ラムをなめながら『キングの身代金』を読む。羽幌や豊富の街なかで本屋を漁ったが、『書店』の看板にも関わらず実態は文房具屋でしかなかった。申しわけ程度に雑誌を置いてあるだけだった。活字中読者のぼくとしては禁断症状はごめんなのだ。それなのに本はとても面白く、明日にでも読み終えてしまいそうなのだ。明日は稚内だ。絶対になにか読める本を買わねばならない。

●1990年5月1日●


(TIME:《あしたの城》10:30→12:00稚内14:00→15:50浜頓別《トシカの宿》

 今日も分厚い雲。ただし雨は降っていない。ゆっくり出発することにする。

 まずは今日からオープンするサロベツ自然観察センター(ではなかったと思うが)へ。原生花園にあるセンターは、前に訪問しているので、今日はもう少しローカルな長沼湖畔のセンターだ。ウッディな作りは原生花園のそれと同じ。中はちょっとしたスライド映写会の装置が据えられている。ボタン一つでぼくらだけの映写会が始まった。一人しかいない係員のおじさんは、2階で床に掃除器をかけている。スライドはなかなかのものである。美しいサロベツの自然、四季の動植物や、利尻岳。サロベツを取りつづけている前田さんの写真も素晴らしいが、ここのスライドも感動的なものだった。2階は、展望台。据えられた望遠鏡の向こうに雨になぶられる景色が見える。掃除したそばから泥で汚してしまうぼくらの靴跡が申しわけなかった。

 稚咲内海岸へ出て、北上。今日は注意深く路肩に視線を投げかけながら、そしてアクセルを徐々に深く踏んでゆく。フロントガラスに時折ぶつかる大粒の小雨。両側は何もない。海と、猛々しい自然の勢いに虐げられた草地、断崖、砂州、湿地。そして荒れた海が延々と左側に続く。

 納寒布岬で水族館の看板を見て、衝動的に入館してみる。雨が吹きつけてとても寒い。外にはゴマフアザラシやペンギンの檻があるが、寒くて落ち着いてみることができない。水族館自体は小さな2階建の建物だ。2階から先に見るようになっていて、中にはいると水槽が連続する。兼ねてよりつれあいは水族館に行きたがっていたので、けっこう夢中になってビデオを構えている。一階は、ぐるりと水槽に取り囲まれた部屋で、流れるプールみたいに流水が様々な魚たちを一方向に回遊させている。部屋は暗くしてあり、ぼくらを取り囲む水槽が青く光ってとてもきれいだ。

 稚内では、ジョウさんに教わってきたとおり、市役所の駐車場に車を入れる。ラーメン屋にはいって昼食。こちらのラーメンは油やニンニクをふんだんに使った濃い目の味だが、基本的にぼくは好きなほうだ。

 昼食後、喫茶《お天気屋》へ。《あしたの城》の客が三人ほど帰るところに行き合った。中の一人福井さんは、《トシカの宿》で再開しそうな雰囲気である。常連なのだ。《トシカの宿》のヘルパーもちょうどコーヒーを飲んでいた。この店は、《あしたの城》《トシカの宿》間の中継点に当たるので、連休中は両宿の客でいっぱいなのだ。マスターの松本さんには、ジョウさんが今日2時過ぎにくることを伝言。近所の人を病院に入れにくるのだそうだ。何でも近所は助け合いなのだそうだ。

 松本さんが黒沢明のマニアで、この喫茶店には『天国と地獄』以外すべての作品のビデオを置いてある。黒沢作品は国内では版権をフジテレビに買い占められていてあまり出回ることがない。だからここにあるのもほとんどが逆輸入品だ。ぼくはちょうど『天国と地獄』の原作になる『キングの身代金』を読んでいるところで、話が合ってしまう。ちょうど『隠し砦の三悪人』をやっていたので、ラストまで見てから浜頓別に向かう。

 駐車場から車を出して、南稚内に向かうときに、買い物を思い出す。8mmビデオのテープと本とを買わねばならない。テープはソニー・ショップがあってすぐに手に入れたが問題は本屋である。商店街を何往復しても見つからない。やっと街外れに見つけたのが、例の、文房具を主たる売り物に店を営んでいる雑誌主体の本屋である。あきらめ気分で中にはいったが、見つけた、見つけた。レン・デイトン『ベルリン・ゲーム』があるではないか。これはいずれ読もうと思っていた本だ。続いてトマス・ハリス『羊たちの沈黙』を見つけて喜んでしまう。これで旅のあいだは十分読みつなぐことができる。 2冊の本を嬉々として買入れて、車へ戻る。

 さいはての国道を宗谷岬へ向かう。右手に飛行場を見るあたりでは、左手が湾になるのだが、波の荒れ方は尋常じゃなかった。宗谷岬は、さらに風のさなか。雨はやんだが、寒さが激しくなってきている。写真を撮り終るとさっさと南へ向かう。途中、見たこともないほどたくさんの海鳥の群れを見た。海岸線に沿っておびただしい数の鳥たちが荒れて砕ける波の上空を舞っているのだ。

 道を間違えた末にようやく、カムイト沼につき、寝ているつれあいを揺り起こす。木立の中の神秘的な湖沼だ。沼の縁に下りれば遊歩道があるのだが、雨に濡れて光る木道を歩く気にはなれなかった。ただしばらくそこにたたずんで、奇麗な湖面を見つめていた。

 《トシカの宿》に着く。樺太犬湖太郎の吠え声に迎えられる。宿は夏支度で、この連休から夏用の別館食堂がオープンしている。冬からずっといるヘルパーの新田君が、ぼくの車を見て呆れている。社名のはいった営業用のバンなんて、きっと珍しいのだろう。

 夜になると飛び込みでドイツ人のライダーたちが5人もやってきた。食事には間に合わないので彼らは買い出しに行ってきた。彼らはキッチンを借りてウインナー・ソーセージをたくさんボイルし、缶ビールをたくさん飲んだ。おかげですごく賑やかな夜を過ごすことができた。

●1990年5月2日●


 厚く群れを成した雲に阻まれて、浜頓別には暗い朝が明ける。

「NO SUN IN HOKKAIDOU!」

 ドイツ人の一人が、窓際で空を見ているぼくのそばにきて、そう言った。

 宿主に誘われて、アイヌネギを採りに行った。同行の客は二人で、両人とも既に5日以上の滞在になるらしい。一人は、カヌーを持ってきている。初日にクッチャロ湖でカヌーを浮かべて以来、 悪天に行動を妨げられているらしい。 昨日は、二人とも歌登温泉に足を延ばしてきたという。今日もひどい天気になりそうだ。ぼくらも今日は彼らに習おうという気になる。

 10:00過ぎに、 宿を車で出る。クッチャロ湖の東側へ回ると、冬にクロカンで歩いた丘陵地に出る。畜農家がところどころに散在する牧草地だ。この辺りではティモテの丘と名づけられているが、それはこの辺りの丘がティモテ・シャンプーのCFロケで使われたからだ。冬には想像もつかなかったけれど、今はなるほどそれらしき緑でいっぱいの丘だ。そして牛たちが外に出て草をはんでいる。晴れてはいないが、冬に較べればまだしもの季節なのだ。しかし旅人の眼には、冬も、そして今も、この辺りは広々として気持ちのいいところだ。

 一軒の農家の前を通り過ぎる。その農家には覚えがある。冬に、丘をスキーで下りて、この家で電話を借りた。お茶を沸かしてもらって、魔法瓶に入れて、外のみんなで回し飲んだ。

 舗装道路を外れて、谷伝いに奥へ行ったところで車を停め、牧草地と湿地帯の間を進んでゆく。樺太犬のコタロ(湖太郎)の散歩も兼ねているのだ。樺太犬はとても大きな犬で、このコタロは、映画『南極物語』に出演して今は稚内公園のアイドルになっているタロ・ジロのタロの方の子供である。

 ぼくらはスニーカーを濡らしながら湿地帯を進み、小さな沢を飛び越え、鎌を持って、アイヌネギの群生する斜面に取りついた。 けっこう急で柔らかい斜面だ。ブッシュを掴んで登っていかねばならない。日陰には、まだ残雪が堅くなって残っている。人数がいるしそう広い場所ではないので、20分ほどでそれぞれビニール袋にいっぱい採り終え、車に戻る。

 ぼくらは、湖を一周して宿に戻る皆と別れ、そのまま歌登温泉をめざした。海に出て、神威岬を通り、あいかわらず荒れて高くなった波を見ながら南下。枝幸の先で内陸にはいってゆく。海岸線と山峡とを交えた一時間のドライブで、ひっそりとした歌登の温泉へ。

 ホテルが一軒。他にはなにもなさそうなところだが、村営のスキー場なのだろう、山肌が削られてリフトが見える。温泉といってもこの辺りは大概ホテルなどの施設で鉱泉を沸かしているのだ。施設はさすがにホテルで豊富温泉の町営浴場よりはずっといい。 宿泊料も嘘のように安い。 近くのゴルフ場のパンフを見ると、フィーが¥4000となっている。日本一プレイ代の安いゴルフ場なのだそうだ。

 少し風邪気味なので、サウナも使って暖まる。ロビーで、ビールを飲みくつろいでいると、 つれあいが窓辺でキツネを見つけた。 表に出るとキタキツネが2匹。近寄れば数歩だけ向こうに逃げるが、すぐにごろりと横になる。馴らされているのかもしれない。昔《あしたの城》に出没していたキツネには苦労してパンを手から取らせた覚えがあるが、キツネはなかなか人に馴れない。前にニセコでスキーしたときに遠くから見たことがあっただけのつれあいは、初めて間近で見るキツネの前をなかなか離れようとしなかった。

 キタキツネ。ぼくが初めてキタキツネと出くわしたのは、羅臼岳の山頂で仲間たちと別れて、岩尾別に下り、知床五湖を独りで歩いていたときのことだった。コギツネだった。木道の下に潜んでいたそいつとしばらく顔を見合わせていたものだった。向こうも驚いた顔をしていたのがおかしかった。そしてとっさに何の動物なのかわからなかった自分がおかしかった。

 枝幸の小さな無料動物園で、羊やロバやリスたちを見て宿に帰った。海からの風が異常に冷たかった。宿に帰ったのは夕方だった。昨日稚内の《お天気屋》で遭遇した福井さんが今日は来ていた。彼はここの常連でもあった。単独のカヌーイストは午後になると帰って行ったそうだ。

 夜になると咳が出始めた。 布団にはいって『キングの身代金』を読み終えると、急に悪寒がした。発熱。大学時代に授業で読んだル・クレジオの『発熱』を思い出した。歯の痛みや発熱、それらは個人的なものできわだったものであり、またその意味で実存的であると言い、ただそれだけをモチーフにして小説化してしまった作家の本だ。いやな本だ。寝苦しい一夜が始まった。

●1990年5月3日●


(TIME:浜頓別9:00→15:00札幌)

 朝食にトーストとハムエッグ。そのどちらもぼくは食べることができない。野菜サラダを少しずつやっと噛める。発熱だ。間違いない。昨夜は咳が出て喉が痛み始め、夜には布団の下の暗闇の中で何リットルもの汗をかいていた。宿の朝食が終わってからつれあいに体調が最悪であることを告げた。でも4日には室蘭から船に乗る。6日に山登り仲間の結婚式があるからだ。つまり今日中にぜひとも札幌に行かねばならなかった。

 音威子府への道。シートに深く沈みこんで、ステアリングを握り締める。熱のせいで汗が出る。中頓別スキー場。冬にここで滑ったっけ。バス時間を間違えて途方に暮れた場所だ。あの時すがる思いで飛び込んだ電話ボックスが見える。ピンネシリ温泉。ここまで新田君に送ってもらったっけ。工藤君という旅人と一緒にここの温泉にはいった。バスを待つ雪道で写真を取ったのだった。

 音威子府。車を停めて、冷たいものを飲む。つれあいが心配げに何度も様子を聞く。大丈夫だよ。そう応える他ない。R40にはいると、車の数がやや増えてくる。美深。やはり初めて車で走る道だけに馴染みがない。電車ではぼおっと窓の景色を見ていることが多かった。例え熱が出ていたって、車を走らせている限りぼおっとしているわけにはいかない。警官に掴まって停められているライダーの姿を見る。名寄。駅に立ち寄る。週刊のプロレス紙が出ていてそれを買う。車を走らせ、つれあいに主な記事を声にだして読んでもらう。

 R40はさすがに混んできている。60キロの速度では堪え難いものを感じ、他のルートを探した。士別から西へ苫前まで抜けるR239を添牛内まで行き、ここからR275を深川に向かって南下することにした。こんなことなら朱鞠内湖の湖畔を通ってくればよかった。R40を外れると本当に快適な道が続いた。体調がひどいからなるべく早く運転を切り上げたいし、なるべくストレスのたまらない道を行きたい。

 途中背後についてくる黒い大型乗用車が覆面パトかなと思って警戒していた。少し離れているのでバック・ミラーでナンバーを読むことはできない。先頭をいらいらするほどゆっくり走っていた車が道を外れた時に、ぼくの前でやはり苛立っていた車がいきなり加速を始めた。ぼくだって同じ思いでアクセルを踏んだ。しかし背後の黒塗りの車が、遥かに猛烈なスピードでぼくを追い抜いた。直後に黒塗りの車の屋根に現われたのが、お定まりの赤色点滅灯だった。サイレンが原野に響き、1台の車が停められた。ぼくはその横を通り過ぎて、なおも走り続けていった。追い抜かれた時点でぼくの車は100キロ出ていた。この道は50キロ制限だから掴まった車のドライバーは免停になってしまったはずだ。家族を乗せていた。阪神タイガースの帽子を被った子供がバック・シートに坐っていた。面目を喪失した父親がひとりできあがってしまったわけだ。覆面パトのやることなんてそんなものなのだ。

 深川で高速道路に乗った。入口はひどい渋滞で、乗るのに大変な思いをした。しかし乗ってみると、下り線はさらにひどかった。おびただしい車の列が道央自動車道の終点料金所に鼻先を向けて、バニシング・ポイントまで連なっていた。数十キロも連なっていた。上り線は何ということもなかった。砂川のエリアで昼食。晴れていて暑いくらいだ。車を下りるとめまいがした。やっとのことで蕎麦を食べると、ビタミンCの錠剤を口に放りこんだ。動いたせいなのか、コンディションは朝に較べればまだしもだった。

 野幌のエリアで再度休憩。リクライニングにもたれてみたが、陽射しが強くとても眠れない。ホテルのチェック・インは15:00過ぎだろう。冷たいものを飲んでから、頃合を見計らって出発する。

 すすきののホテル・サンフラワー。車をホテルの地下駐車場に入れると、つれあいにチェック・イン手続きを頼み、ぼくはツイン・ルームのベッドにぼろぼろの躰を投げ出した。つれあいは土産物を買いに狸小路に出かけ、ぼくは400キロのドライヴと発熱とでひしがれた神経を、ずっと求め続けていた睡りの中へと放りこんだ。

 一時間ほどの睡眠を終え、眼を醒まして躰を起こしてみると、少しはコンディションが戻ってきていた。『羊たちの沈黙』を読み始めることにした。やがてつれあいが戻ったので、18:00前くらいに地階の《つぼ八》に下りた。サワーを飲みながら北海道特有のメニューをあれこれと頼んでいるうちに、食欲が戻っていることに気づいた。ひと通り平らげて満腹になると今度は外に出て、手作りソーセージを主な売り物にしている小さなスタンドでアイスクリームを食べた。薄野の通りには既に大勢の人が繰り出していた。

●1990年5月4日●


(TIME:札幌11:15→14:00室蘭19:15フェリー出港)

 一日で熱は下がった。9:00前にホテルをチェック・アウト。地下駐車場から車を出し、街角に何とか駐車スペースを見つけ、モス・バーガーで朝食を取る。

 2Fの窓から街の単調な朝を見ている。乳製品配達用のトラック。トラックから飛び降りる二人の若い配達員。抱えられたコーヒー用の生ミルク。信号の下で聴こえない笛を鳴らす交通監視員。デパートやパーキングビルの警備員たちの似通った衣装。ビルの間から覗く灰色の空。縄を伝って下りてゆく小人たちを摸したビルの巨大なディスプレイ。風に吹かれるレストランのファサード。雨模様の空の下で、すべてが重たい色調を施されている。まるで鉛の街角だ。

 何度来てもなかなか開いていなかった植物園に少しだけはいることにする。雨がぽつりと頬を打った。北の獣たちの剥製でいっぱいになった白い建物は、見物客で満杯だった。ぼくらも剥製や白骨を見てひとまわり。外に出ると、きれいな緑の芝生が眼にしみる。湿地を巡り、満開の桜を眺め、花壇の間を歩いた。ぼくが一番好きだった高山植物園は、あいにく工事がはいって閉ざされていた。

 知らない土地では時間の感覚がないから、早めに出発することにした。定山渓を通っていきたかったが、 渋滞の掲示を見て取りやめにした。 単調で味気ないが、 国道を少し行って高速に乗ることにした。 羊が丘牧場を大きく迂回してR36へ。北広島でハイウエイにはいった。雲が行き来している。大粒の雨がフロントグラスに跳ね返った。苫小牧を過ぎるまでに本格的な雨になった。

 地図をいじっているうちに、白老のアイヌコタンの存在が目についたのだが、いざ現地にいってみると、広い駐車場が満杯になるほど人が群れていた。観光バスが何台も停まっていた。ぼくらはそのままUターンして国道を室蘭へ向かう車の列に加わることにした。

 路傍は「かに」の看板で溢れている。 どこを見ても「かに」の2文字ばかりだ。居並ぶ建物がほとんど食堂か土産物屋で、そろって蟹を売り物にしている。その「かに」の列の向こうに荒れた太平洋の波が砕けていた。室蘭に着いたときには、雨は叩きつけんばかりの勢いになっていた。ぼくらは室蘭でもまた水族館にはいった。

 雨の中でトドの親子を眺めたあと、坂の多い商店街の中で本屋を見つけ最新のプロレス誌を2冊買った。旅のあいだずっと天龍の新団体のことが気になってならなかったからだ。坂の途中に車を停めて、ほとんどの記事を読んでしまった。2時間ほど前になって、やっとフェリー・ターミナルへ。

 八戸行きフェリー。ひどい船だ。行きと較べると天国と地獄だ。何しろ3分の1の大きさしかないし、部屋も廊下も浴室も狭く汚い。食堂なんて、立ち食いスタンドに毛の生えたような空間だ。 近距離フェリーだとこうも扱いが違うのかと、思わずため息が出た。

 離岸と同時にぼくらはデッキに出た。生暖かい風が吹いている。夜の室蘭半島が一望だった。7日前に登った測量山のテレビ塔が、今はさまざまな彩光を受けて美しい。船が港をゆっくりと出てゆく。夜の港は例外なく奇麗だし、センチメンタルなものだ。暖かい海風の吹きつける闇の中で、つれあいが泣いているのがわかった。航路表示灯の赤い点滅光が、彼女の濡れた頬の上を掃いて過ぎたのだった。

●1990年5月5日●


(TIME:3:05八戸→13:00川口の自宅)

 未明に八戸に着くので、入浴と食事を早めに切り上げてさっさとベッドにはいった。港を出ると、船の揺れが激しくなった。横になると、躰でピッチングが感じられた。ぼくは本を読んでいて、まわりはみな眠っていた。つれあいも船酔いを警戒して早めに寝てしまった。風の吠える声が船室に満ちていた。年期のはいった船体が、吹き荒れる風と高波に揉まれてぎしぎし音を立てていた。夜の、時化た海だ。 ひどい風雨だった。 ヒギンズの小説世界にいるような錯覚さえ覚えた。

 翌朝が早いとぼくは決まって不眠症になる。ぼくはだいぶ『羊たちの沈黙』を読んでしまった。一度、外に出た。海峡を渡るところだった。北海道の最後の島影が、暗く荒れた夜空に蹲っているのがわかった。陸の灯は、風に揺れて激しく瞬きを繰り返していた。

 ひと寝入りしたと思うと、八戸に着いてしまった。30分も寝ていない。車を夜の見知らぬ場所に上げると、標識に沿って八戸道を目差した。長く、暗い闇。躰はとてつもなく重い。八戸道が東北道に合流するまでに夜が明けた。黎明の山並みに分厚い雲が引っかかっては離れて行った。

 フェリーの予約はもっと早く取ろうと心に誓った。この日、走行距離は700キロに達したろう。そのほとんどが篠つく雨の東北道である。道内の走行距離のほうがまだ人間的といえた。

              
−了−

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