カーナビー・ストリート  
 
 リージェント・ストリートの中ほどから右折して2ブロック進むとその左がカーナビー・ストリートだ。1960年代に流行の最先端の通りなどと言われた通りで、当時はモッズ・ファッションのあんちゃんなどが闊歩していたのだろうし、スゥインギング・ロンドンと言われた時代の最先端を行く通りであった。当時の写真など見ると、とても楽しそうな通りに見えるのだ。ファッションには大胆にユニオン・ジャックをあしらったものもあり、ストーンズやフーの曲をバックにこの通りを歩くのが似合っていた時代があった。
 映画「オースティン・パワーズ」の2作目でバーク・バカラックとエルビス・コステロが歌いオースティンが踊るのはこの通りを舞台としている。現在はそれほどでもないが、やはりロックの匂いも併せ持ったような通りではある。

 午後の紅茶の時間、アフタヌーン・ティは英国人の喜びの時間であるらしい。
   支那(当時は清国)のお茶を輸入する際、アフリカ周りの船の中でお茶が醗酵して紅茶となったという話の真意は知らないが、英国はお茶の輸入だけでなく他も含めて輸入超過だったため、阿片を持ち込み逆の立場になるように仕掛けた。それが清国の失墜にもつながっていく。清国から多量に銀が流出していくことになり、挙句には、アヘン戦争による敗北につながる。この時期、英国は世界で最も暴慢で今の物差しから見れば最も非難されるべき国家だった。一方、お茶は英国人の手によってインドで多く栽培されるようになった。どちらも英国が食らい付いた。特にインドの場合は深く深刻だった。

カーナビー・ストリート - Carnaby St. -

 
   それはともかく、英国土産に紅茶をという時は、このカーナビー・ストリートの中ほどにある老舗ウィタードで買うのが良いだろう。

カーナビー・ストリート - Carnaby St. -

 
 
 因みに僕は、紅茶が飲めない。醗酵食品の多くが苦手で、その分飲食ではかなり損をしている。その代わりと言っては何だが、コーヒーは好きだ。
 14年前に訪れた時、リージェント・ストリートのディキンズ&ジョーンズの地下だったかと思うが、メニューに "Iced Coffee" とあるので注文してみた。男性店員がどんなものか分からないとなどと言っていると、近くにいた小太りの黒人の女性店員が陽気そうに、こーやって作るのよなんて言い出した。暫くして出てきたのは、なんとホット・コーヒーとアイス・クリームをミキサーで混ぜたものだった。なんだか生ぬるい気持ちの悪い飲み物だった。その次に訪れたパリのカルチェ・ラタンのカフェで、冷たいコーヒーってことで、"la cafe glace" と頼んだら、常温に近いがそれなりのものが出てきたが、ジュネーブで同じものを頼むと、コーヒー・ゼリーのような固めたものが出てきた。しかもやたらと甘い。こうなると意地のようなもので、ローマで "il caffe freddo" と注文した。確かスペイン階段の近くだ。するとエスプレッソの冷えたのが出てきた。なんだか薬を飲むみたいな気分だったが、それにもめげずにその次にミルク付きだという意味で "il caffe latte freddo" と注文すると、日本で言うアイス・カフェ・ラッテが出てきた。これは本当に美味かった。ローマでは牛乳が美味しかったが、このアイス・カフェ・ラッテも絶品だった。ヨーロッパでやっとたどり着いた味(大袈裟!)だった。以来、カフェ・ラッテが好きだ。
 スターバックスが日本に展開して、深炒りのスカッとしたアイス・カフェ・ラッテに再会できたのも嬉しかったが、米国でもオーストラリアでも存在感希薄だった冷たいコーヒーが飲めるようになった。但し、ガムシロは日本だけだ。英国ではどうかというと、そこかしこにスターバックスがある。そして、アイス・カフェ・ラッテもある。かつてのあのホット・コーヒーとアイス・クリームをミキサーした店員は今、どう思っているだろうか。
 カーナビー・ストリートにも、突き当たりの方にスターバックスがある。まだ寒かったので、温かいカフェ・ラッテを何軒かで飲んだが、後で大英博物館に行った日は春の訪れを告げるような陽気で、その真ん前にあるスターバックスでアイス・カフェ・ラッテを頼んだ。勿論、ミキサーの音はしなかった。
 スターバックスについての余談を続ける。僕はこれまで米・豪・英の3カ国でスターバックスのカフェ・ラッテを飲んだが(日本を入れると4カ国になるが)、これら3カ国と日本とでは違う箇所がある。日本では注文の際に選択するサイズ大・中・小が各々、Grande, Tall, Small となっているが、他の国ではそれが、Venti, Grande, Tall となっている。注文する商品名を言うと、また店員はしばしば "Middle size?" と聞いてくる。日本のTallのつもりで "Yes" と答えると、Grande size が出てくることになる。米国人は何でも量が多いなと感じるが、ここでもその通りで、日本では市場に合わせてサイズをスケールダウンしているのだろうか。このサイズが違う点とガムシロの有無が、スターバックスにおける日本と他国との違いだ。
 しかし、さすがにスターバックスも米国企業だ。米国人同様世界のどこでも米国流のまま押し通す。マクドナルドなどのバーガー・ショップ然り、コーク然り。それが良い面だけを評価すると、どこの国でもそれなりの評価品にありつけるという安心感にもつながる。これらは米国による文化の押し付けでもなんでもなく、米国人にとっては米国文明の一端なのだ。
 さらに余談ながら、コーヒーの話を続ける。ロンドンにはスターバックスと並んで、カフェ・ネロというコーヒー・ショップが多く見られる。こちらは青地に黒系で NERO と看板にあるが、こちらもイタリア系の味を売りにしている。タバコが吸えるという点と、スターバックスよりも多少もっちゃりしたというか、トロンとしたような味は、どちらかと言えば日本のドトール・コーヒーみたいでもあった。
 さて、カーナビー・ストリートに話を戻そう。紅茶の土産物を買ったら、その並びにある土産物店のような店に立ち寄るのも良い。ロックなTシャツが結構置いてある。これ、良い土産物になる。実は14年前にも行っているのだが、この店も含めて、カーナビー・ストリート全体がなにやら明るくなった印象だ。ロックなTシャツはあちこちで売られているが、カムデン・タウンよりもこちらの方が安かった。子供用も含めて何着か買い込んだ。

 

   そして、ロンドンと言えばパブである。その人気店の一つがこのシェイクスピアズ・ヘッドではないだろうか。2階の小窓からシェイクスピアが通りに向かって顔を突き出している。勿論パブ・ランチもやっているので、そういうのを楽しみたい時にも、観光客のあしらいが上手いであろうこういうパブはうってつけかもしれない。
 他に雰囲気が良い感じでは、タワーブリッジの北側のシスル・タワー・ホテル前を通り抜けた奥にあるディケンズ・インがある。どちらも文豪の名前にちなんだパブである。
 但し、ロンドンでは喉越しすっきりキリリと冷えたビールというのは少なく、常温のビールを楽しむので、一杯やる前にガイドブックなどを読んで知識を仕入れた方が良いだろう。

シェイクスピアズ・ヘッド - Shakespeare's Head -

 

シェイクスピアズ・ヘッド
- Shakespeare's Head -

 
 
 カーナビー・ストリートを抜けるとその突き当たりにあるのは、マールボロー・ストリート地方裁判所である。ここは何と言ってもローリング・ストーンズ御用達と言える。。1967年5月11日にブライアン・ジョーンズが出廷。罪科はマリファナ所持でその前日に逮捕。翌年の5月21日にも再逮捕されて、また出廷。1969年12月19日にはミック・ジャガーとマリアンヌ・フェイスフルがカナビス所持の容疑で出廷。1973年10月24日にはキース・リチャーズが出廷。罪科は多く、マリファナ、マンドラゴラ、ヘロインにS&W製38口径のピストルとアンティークのショットガンの所持。そのたびにマスコミをにぎわせて、この裁判所の前も賑やかだったのだろうが、この日は静かなものだった。 

マールボロー・ストリート地方裁判所

 
 

マールボロー・ストリート地方裁判所
- Marlborough Street Magistrates Court -

 
 
 確か、ローリング・ストーンズの初来日公演がミックの前科のために中止になったのは1973年のことだと思う。キースの方が上の罪状を見る限りすごいものだし、その後も1977年にカナダでヘロインとマリファナの所持で捕まった。翌年の裁判の判決で、麻薬に手を出さないことを誓い、カナダで目の不自由な人のためのコンサートを行うことで、執行猶予が付いた。当時「ミュージック・ライフ」でそんな記事を読んだ記憶がある。1971年に、キースはフランスで麻薬不法所持で挙げられたことがあった。外務省はキースではなくミックの前科で来日を許可しなかったが、もしその時来日していたら、当時ヘロヘロの薬漬けのキースがしっかり捕まって、2度と来日できなくなったかもしれない。キースはヘロイン漬けだった。60年代後半から何度かヘロイン中毒の治療を繰り返していたようだ。逆に、ミックはコカインまででヘロインには手を出さなかったらしい。先にキースやブライアンのヘロインの中毒症状(コールド・ターキーと言われる。ジョン・レノンも歌にした)を見て、あーなったら終わりだなと思っていたのかもしれない。アッパー系のクスリに手を出して、コカインまで行くミュージシャンは多いらしい。そしてヘロインに手を出すと、そのままオーバードースで死への道を歩むことになるらしい。ただ、アッパー系のコカインで張り詰めた状況にいる時にダウナー系のヘロインを知ると、その落ち着いた感じが良いらしい。がすぐに、身体的中毒になって、その中毒症状から逃れられずに繰り返してしまうらしい。キースが言うには、3日らしい。その3日をキースは何度か乗り越えたようだ。ついでながらかつてキースと一緒だったアニタは妊娠後も止められず、出産が近づいても大変だったらしい。
 それにしても、1970年代、最も死に近いミュージシャンの一人に上がっていたんではなかったか。スイスで全身の血を交換したという噂もあったが、いまだに生きているのが不思議なくらいの人ではある。因みにヘロイン中毒からの帰還者の数も結構いるだろう。エリック・クラプトンもそうだし、ジョン・レノンもそうかもしれない。
 ストーンズの来日に話を戻すと、中止になったとは言え、ローリング・ストーンズ側も日本の招聘側も来日は実現するものだと踏んでいた。チケットまで発売された。ストーンズは来日に合わせて曲まで書いた。「アンジー」である。当時のデヴィッド・ボウイの妻アンジェラがモデルである。
 こんな逸話がある。ある朝アンジェラがボウイの寝室を覗くと、そこには夫がミック・ジャガーと寝ていた。後に「ダインシング・イン・ザ・ストリート」で共演する二人だが、その時どういう関係があったかは不明だし、その筋の人たちの見立てではボウイはノンケらしい。ゲイまたはジェンダー性は売り物だった。また、それを目撃したアンジェラも何も動じなかったらしい。
 当時、来日に合わせて日本向けの曲を作る意向を持ったミックが、日本で売れている音楽を日本のレコード会社(東芝EMIか?)に尋ねたら、クールファイブの曲がやって来たらしい。「ウォウォウォウォ〜〜〜」といった「長崎は今日も雨だった」「中の島ブルース」といった曲なのだろうか。とにかくそれらを聴いて(本当にどこまで聴いたのやら)「アンジー」ができたらしい。それから6〜7年後、RCサクセションの「エンジェル」はこの「アンジー」のパクリだった(パクリじゃなくリスペクトしたと言うのだろうか)。前川清が廻り回って清志郎である。
 結局1990年、ストーンズの来日は実現した。当時の日本はバブルの最終コーナーでまだ誰もが浮かれていた。東京ドームでの10回連続講演は、やはりすさまじいものだった。僕もそれまでに体験したライブの中で、最もすごいと思ったライブだった。何がすごいって、本人たちが登場する前から観客は総立ちだった。会場のライトが消え、レーザー光線とオープニングの音が響きだしただけで、誰もが立ち上がっていた。そんなのは初めてだ。そしてパーンパーンと花火がはじけるような音と共に、チャーチャチャとキースが奏でる「スタート・ミー・アップ」のイントロ。その瞬間、5万人の歓声が轟く。観客席にいながら鳥肌が立つ思いだった。
 その年は、ストーンズに続いて、1980年のライブが流れたポール・マッカートニー、そしてデヴィッド・ボウイと、まさにバブル期最後の華が咲いた。
 ストーンズは、その後もワールド・ツアーには日本を含め、何度か「これが本当に最後か」と思わせるツアーで来日し、そして2006年も来る。しかし、やっとかなった日本での最初のライブが良かったなと思う。1983年、スティル・ライフ・ツアーが映画となって上映され、もう日本に来ないかもしれない、ストーンズのコンサートは見ることが出来ないかもしれないと思いながらこの映画を見に行った身としては、、、。
 
       
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