
2001.11.4 女王様と会った話(一部フィクション)
曇りがちな10月の午後、携帯電話が鳴った。電話の主はKLのD氏。
「実は今度の土曜日、女王様に会うんですけど、一緒にどうですか?」
あまりに突然の申し出であったせいか、一瞬返答に窮してしまった。土曜日といえば昼間仕事をしている日である。しかも翌、日曜日も朝からの仕事になる。普通に考えれば、片道3時間近くもかけてKLに出向くことは不可能に思えた。
「それって、何時からなんですか?」
こりゃ行けないなと思いながら、わたしは聞き返した。
「夜10時からのラジオの番組に一緒に出演することになったんで、その辺の時間です。」
「ラジオ?」
いぶかしげに聞き返してしまったかもしれない。ことのあらましはこうである。
D氏の知り合いにラジオのDJ女史がいるらしいのだが、その人物のはからいで、彼女の番組の中でD氏が女王様と対談するという企画が持ち上がったのである。
女王様といえば、これまで何度かそのステージをこの目で見たこともあったし、まったく興味がないわけではない。夜の話なので、仕事が終わってからKLに出向いて、また帰ってくれば仕事に穴を開けることもなさそうだ。
「なるほど。日帰りという形であれば、仕事の後で行けそうですね。ご一緒する方向で検討します」
常夏のマレーシアにしては珍しく冷たい雨が降りしきる土曜日の夜、わたしはKLに向けて車を走らせていた。天気が悪くなるだろうという予想のもとに、フロントガラスに処理した撥水性の液体ワイパーはいつもより明確な視界をわたしに提供してくれた。
前日の電話で夜の8時過ぎにはKLに入れるだろうという連絡をD氏にしていたが、8時前にはKLの料金所を抜けることができた。そのままD氏との待ち合わせ場所である、彼の自宅に向けてステアリングを切る。
しばらくしてわたしは一つの異変に気がついた。
「道、間違えちゃったなぁ...」
雨に濡れたKLの街並みはわたしの方向感覚を狂わせたようで、すでにD氏の自宅とは反対方向に車を向けてしまっていたのだ。
一旦表通りから、人影もまばらな住宅街に車を乗り入れD氏に電話かける。
「スミマセン、道を間違えちゃったみたいなんでちょっと遅れます。」
「そこどこだか分かります?」
「さっぱりわからないんだけど、戻れば何とかなると思うんで、分かるとこまで来たらまた電話します」
車をUターンさせ、来た道を引き返す。ほどなくどうやら以前も走ったことのある通りに出ることができた。そしてようやくD氏と合流。
「RTM(マレーシアの公共放送局)でしたよね?」
「夕飯は後で考えるとして、とりあえずRTMに向かいましょうか。女王様を待たせるわけにはいかないですし」
わたしは再び冷たい雨のKLに車を走らせた。
しかしこのちょっとしたトラブルがこの日の悲劇のプロローグであったことは、本人達は知るよしもないのである。
RTMは今年5月のNHK主催の音楽祭「Asia2001」の舞台になった場所である。KLの中心街から20分ほど行ったところにある。建物そのものは大きな通りに面しているのだが、その入り口は裏手の通りにあり、メインストリートからは入れない構造になっている。5月に行ったときは、その入口を発見するのにとまどった覚えがある。その経験があったせいか、メインストリートを避け、古くからの通りを行った方がよいと判断したわたしは、あえてバイパスを使わない方法を選んだ。
途中予想と違う通りに出てしまい四苦八苦したが、結果的にメインストリートに出ることに成功した。ところが大きな落とし穴があったのである。
5月に来たときに迷いながら通った工事中の道路が、いつの間にか完成し有料道路になっていたのである。しかもKLに戻る方向に道が続いている。
ここまでいくつかのミスが重なり遠回りしていた上、道も混んでいたため思ったよりも時間がかかっていた。さらに新しい道路はわたしの方向感覚を完全に狂わせてしまい、ようやくKLの中心街に戻ったときにはすでに9時半をまわっていた。しかも未だに道順がはっきりしない状態である。
「こりゃ、間に合いそうにないッスね、10時に」
平静を装いながら、わたしは汗ばんだ手でステアリングを握る。
「さすがにマズイッスね」
D氏は焦りを隠しきれない表情でそう言うと、おもむろに電話を取り出し今回のアレンジをしてくれたDJ女史に連絡を取り始めた。
「いろいろ教えてくれるんですけど、ここなんて通りかわかります?」
D氏の問いに、
「全然...」
かすかな記憶とあやふやな方向感覚の中でわたしは素っ気なく答えた。
「一応待っててくれてるんですが...」
D氏も徐々に緊迫してきた。
しばらくすると、奇跡的にRTMの入り口のある通りに出ることができた。しかし、走っている方向はまったく逆。普通ならすぐにUターンするところなのだが、中央分離帯に阻まれてそれができない。
信号のある交差点にさしかかる。Uターン禁止の表示は幸運にも出ていない。わたしはタイヤを軋ませながら180度の旋回を敢行した。
「後はここをまっすぐ行くだけです!」
時計は9時55分。もし今RTMのゲートをくぐっても、番組自体にはどう考えても間に合わないが、とにかくた急ぐことが大事だった。
そしてようやく、やっとの思いでRTMにたどり着いたのである。
ゲートの守衛に車の乗り入れを禁じられたため、仕方なく外の駐車場に車を止めた。訪問者のパスをもらいゲートの内側に駆け込んだのもつかの間、
「ところで、今日はどこで女王様と会うの?」
「確かこっちの方だったと...」
自信なさげにいうD氏の後に付いていくと、ガードマンに呼び止められる。
「どこへ行くんだい?」
「ラジオの収録で来たんだけど、スタジオは...」
「それならあっちだよ」
ガードマンが指さしたのは我々の向かう建物とは反対方向。
来た道を駆け戻ったが、相変わらずどの建物が目的地なのか判然とない。再びD氏がDJ女史に電話する。
「あっちだ!」
坂の上にある建物を指さしたD氏は走り出した。わたしも遅れじと後につづく。
そして、建物の前で待ちくたびれたDJ女史と合流。時計をみるとD氏の自宅を出て2時間近くが経過していた。
DJ女史に促されて建物の中に入る。
すると我々を待ち続けていたスタッフが迎えてくれた。その中にはSRCのB氏、女王様の事務所のH氏がいた。D氏の後で彼らと握手をした、肩で息をするわたしはもう一人の首から携帯電話をぶら下げた女性と握手をした。
「ノラニザです」
「あぁ、どうも...」
脳内酸素量が不足気味だったわたしは彼女の言葉の意味をしばらく理解できなかった。一瞬の間の後に、わたしは驚愕した。
(今の人が、あの女王様だったのかぁ〜!)
わたしの驚きをよそに、D氏と女王様はスタッフと一緒にスタジオに向かって歩き出していた。
オンエア中の女王様
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時間はすでに10時10分。オンエアの時間からは10分も過ぎている。しかしそんなことを気にかける様子もないDJ女史は、小さなスタジオの中に我々を案内し、今日の簡単な段取りとマイクの使い方などを説明する。
「この曲が終わったら始めるからね」
人が3人も入ればもう一杯のスタジオの中で番組の始まりをしばし待つ。わたしの息もすでに平常状態に戻っている。D氏は緊張の面もちだ。
「ハーイ、皆さんこんばんは。今日はスタジオにあのノラニザ・イドリスと日本人のお客様が来てくれました。今日はイラマ・マレーシアについて二人でいろいろ語ってもらいます」
そうやって番組が始まると、D氏はあらかじめ用意して置いた質問を女王様に投げかけ、女王様もそれに真摯に答えていく。女王様からも日本での伝統歌謡に関する質問がD氏に出され、彼もそれに緊張しながら答えていった。
途中、聴視者からの電話コーナーがあったりして、たとえ遅れて始まったとしてもちゃんとした番組の様相は呈していた。
この日のメインイベントはD氏と女王様のアカペラ・デュエットだった。曲はもちろん女王様の曲で「Dondang Dendang」。さわりの部分だけであったが、おそらく女王様とデュエットした日本人というのは後にも先にもD氏だけであろう。
こうして番組はどうにか無事にオンエアされた。
オンエアの後事務所のH氏が
「サインをもらってあげようか?」
と言ってくれたので、D氏は持ってきた女王様のCDのジャケットにサインをいただいていた。わたしもついでに、持ってきた日本で購入した女王様のアルバムにサインをいただいた。わたしの持っていったCDには、日本語の解説が入っていたのだが、それを見た女王様とH氏は驚きと喜びの表情を浮かべていた。
記念撮影。右のモザイクはわたし
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帰りがけ、SRCのB氏が
「車はどこに置いてあるんだい?」
と訊く。
「下の駐車場です」
D氏が答えると、女王様が
「じゃあ下まで一緒に乗っていったらいいわ」
と、なんとも優しい言葉をかけてくださった。
大人5人が乗るにはちょっと小さめの車であったが、まさか女王様と同じ車に乗れるとは夢にも思わなかった。駐車場での別れ際、
「今日は本当にありがとうね」
と女王様。
「こちらこそありがとうございました」
「気をつけて帰ってね」
「ありがとうございます。彼はこれからイポーに帰るんですよ」
というD氏の言葉に、女王様は「え?」と驚いた顔をしてわたしを見た。
「遠いところから、ありがとう。気をつけてね」
なんとも胸を突く女王様のお言葉である。
イポーへの帰り道、霧のかかった高速を流しながら、その日の出来事を振り返ってみた。もし道に迷うことがなければもっとゆっくり女王様とお話しできたのにと、本当に悔やんでも悔やみきれない忸怩たる思いが胸に渦巻く。しかし、女王様を待たせた不届きな日本人に対して、あんなにも優しく接してくれた彼女の心遣いは本当に嬉しかった。
それにしても、マレーシアの伝統文化を伝えていくことが自分の使命だと言い切ったときの女王様の真剣な眼差しが印象的な夜であった。
次は我らの姫だな...
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