2000年8〜9月

「つぶやき」を毎日更新していたら直ぐに満杯になってしまった。おかげでアクセスしてくれるファンが増え、書かざるを得ない状態になりました。セッセと書きますのでこれからも宜しくお願いします。

「なにょうコイテルだ」と思う方はメール下さい


●「つぶやき」を書き始めて早4ヶ月になる。「つぶやき2」にページを改めて、又もやいっぱいになってしまった。皆さんの購読を感謝しています。来月より「つぶやき3」に突入しますので宜しくお願いします。

up date 2000.9.30

●ラッパの内藤君の結婚式を新宿の京王プラザでやるというのでベース持参で出席した。仲人はジャズ評論家の本多俊夫さん夫妻である、私たちは始めから全編弾かされたのであるが、フルバンやトロンボーンのアンサンブルがあったりクラシックサキソフォンの綺麗で上手い演奏があった。須川展也を始めて聞いたのである。まだ有名になる前だったが上手いと思った。もっとも彼は浜松出身だし内藤君も銀座店勤務だから不思議はないのだけれど、彼の顔の広さにも驚いた。

 up date 2000.9.30

●鈴木博さんは「職業は漁師です」と言っていた、それ程釣りが好きだった。彼は大物釣り専門でブリ、縞鰺、カンパチ、石鯛釣りなどの磯釣りである。だから大きい岩場の上から荒波に向かって釣りをすることになる。足場は悪く危険な釣りである。陸から沖にある磯まで船で渡ることになる。その日は台風の影響で海は荒れていた、漁師に頼み込んで下田のその磯まで運んでもらったが、折からの荒れ模様3mを超える高波でさらわれた。「あんなに好きだった魚釣りで命を落としたんだから本望だろう」という人もいるが、3日前に会っている私たちにしてみれば只驚き悲しむしか言葉もない。コンサートの司会をやった緒方一英さんはテレビでニュースを読む時、原稿を読む我目を疑ったそうである。魚釣りの好きなミュージシャンは多い、だが命まで落としてはいけない。運命なのだと諦めるしかないのか、彼の天性の才能を奪った「釣り」とはいったいどれ程の魅力を持っているというのだ。どう考えてもわからない。

up date 2000.9.29

●「つぶやき」を書いてる事で、随分済われていると思っている。日記を書いて自分自身が納得すれば良いのだろうが、それは嫌なのである。恥ずかし気もなく己の浅さを暴露して疑問や思いを書くことは発散になる、だから購読者はいい迷惑だと言いたいだろう。しかし読みにきてくれる。有り難いと思っている。このページはミュージシャンの面白い話を知ってもらおうとスタートしたのであるが、そうそう面白い話が有ろうはずがない。だから面白く無い話も登場する訳だ、正に「つぶやき」なのである。タイトルを「愚痴」と変えた方が良いかも知れない。アハハ

up date 2000.9.29

●ミュージカル「池田の渡し」の本番用テープの制作を真っ青になってやっている。練習用のテープはもうすでに出来上がり、それで稽古に入っているのだがBGM、SEも入った本番用を欲しい時期になった。演劇用のテープはオープンテープを使うのが常識だったが最近ではMDテープを使う。小さいし頭出しが楽なので此の方が使い勝手が良い。劇団「ゆやの里芸術座」に付き合いだした4年前からMDを使っているが、今までに事故は一度も無い。非常に安定しているから心配は無用である。その昔オープンテープの頃は操作ミスでテープが切れてしまったり、延びてしまったりの事故があって必ずバックアップのテープを作っておいた。この世界でもデジタルの恩恵に預かっているのだ、S/Nは良くダイナミックレンジはとれる、使い勝手がよくてコンパクト、素人が扱っても大丈夫である。良い時代になったと喜んでいる。

up date 2000.9.28

●明るい所に虫が集まるように人も明るい所に集まる。それを称して「笑う門には福来る」という。自分をハッピィーにしていないと良い縁は出来ない、「類は友を呼ぶ」は本当だと思う。運が悪いのは自分自身が悪運を呼び寄せている場合が多々ある。そして悪い方にどんどん行ってしまう事もある。どこかで悪い連鎖を断ち切ってしまうことが必要だ。原因を見極め取り除くのが一番であるがそれが判れば苦労はない。冷静に考えてみることが肝要だと思う。「姓名判断」で画数が悪いから字を変えたら良いと言われて変える人もいる、それで良いと思う。実をいうと「晴美」も芸名なのである、プロデビューの時私が考えた。竹内がスカスカの漢字なのでドッシリした名前が良いと思っただけだが一応画数だけは考慮した。この名前で郵便物も届くし著作権の権利も守られている。勿論実名でもOKなのだが今さらそちらを使う気もない。作詞作曲、演奏の世界ではペンネームや芸名を使うのは珍しくないので割り切っている。小津昌彦さんも芸名だった、亡くなって御葬式のとき始めて知った。「姓名判断」は迷信だ根拠が無いとか言われても、改名でより良い人生を生きて行くのに誰に遠慮しなくてはいけないものか。スイッチを切り替えるのが肝要なのである。

up date 2000.9.28

●「水のやりすぎ根が腐る 過保護は子供を駄目にする」今夏他界した義兄の墓参りに行ったら、お寺の掲示板にそう書いてあった。思わず立ち止まり「そうだなあ」と思った。親は愛情と甘やかすことを同じだと思っている。甘やかす事で子供が仕出かした事の責任は結局親が取ることになる、それが嫌なら親は責任もって子育てをしなくてはならぬ。真の愛情とは厳しい時もある、子供本人の性格もある、此の方法が最善だとは言えない、本当に難しい。母親の愛情は観世音菩薩のように慈悲と包容力があり、父親のそれは不動明王のように厳しくもある。不動明王は大日如来の化身とも言われている、真言宗では中心に鎮座する大切な仏である。線香臭い話になってしまったが、母親は甘く父親は厳しく、役割はそれでいいのかも知れない。クソ親爺でいいのである。片親で育った私の父親がわりをしてくれた義兄に感謝している。

up date 2000.9.27

●「つぶやき」もだんだん日記風になってきた。それも己に言い聞かせているようになり、内容も重くなってきた。自問自答する毎日である。そのうち購読者も嫌気がさしていなくなってしまうかも知れない。僕の場合、表現する音楽があるから別段このように書く必要も無かろうと思うのだが、根が目立ちたがり屋なのか黙っていれない。インターネットというものは小さい部屋で書いたこの駄文であっても地球の裏側まで届いてしまう。昔は声の届く範囲にしか意志を伝えることは出来なかった。時代は進歩した、我々はその時代に生きているのである。だが精神分野で進化したとは思えない、これから先どんな人生を送っていけば良いのか知りたいものである。

up date 2000.9.26

●子供が大人になるのには予想以上の精神の葛藤があることに気が付いた。私は「つぶやき」で「素直さ」と「自分をそのまま出すこと」が大切だと説いた。しかし自分の周りが段々変化していけば、自分だけ取り残された気分になるし話も合わなくなっていく。自分を取り巻く社会に順応しなくなり孤立することになる。現代の中高校生に携帯電話が流行っているのは友達同士繋がっていないと不安で仕方ないからだと思う。彼等は親のいう事より友達の言う事のほうを信用している。みんなから不良といわれてる子でも純粋な場合がある、むしろそんな子のほうが傷付きやすく素直なのかもしれない。大人が不用意に言った言葉で傷付いていることもある。純粋であることはとても大変なことなのだ。一見社会は秩序正しく出来上がっている様に見えるが矛盾することは沢山あると思う。大人に成長しきれなかった私はせめて子供と同じ目線で彼等の心を理解してやりたいと願っている。

up date 2000.9.26

●数年前、下の息子が通う小学校のPTA会長をやる羽目になった。職業柄昼間の時間は自由になるから良いのだが、朝8時前に教頭先生から電話が掛かる、あれには参った。「頼むから朝は寝かしておいてほしい」とお願いした。それと飲み会が多いのである、それも週末である。会を抜け出して真っ赤な顔して演奏したことも度々ある。学校に行く用事も多い、廊下に張り出している絵を観て楽しんでいた。小学生ぐらいだと上手く見せようという欲が無いから素直でとても良い絵が多い。これが中学へ行くと技術は上がるが色気が出て来て絵が駄目になる。卒業式の祝辞で「みなさんは中学へ行っても其のままでいてほしい」などと言ってしまった。人間は成長する過程で大人になる為に社会性とか色々なことを学ぶ、しかし天真爛漫さとか素直さなどを忘れてしまう。自分を良く見せようという欲がでる、色気がでてしまうのである、これが表現することにマイナスになる。良く見せようとしないことが結果的に良いものになる訳である。私たちの付き合ってきた芸術性の高い人は「子供がそのまま大人になった」ような人が多かった。

up date 2000.9.25

●宮沢さんはいつも「色気出しちゃ駄目だ」と言っていた。私が書いている「開き直れ」と同義語である。人は自分を良く見せようとする、これがいけないのである。「等身大で見てもらえば良い」この心境になれるまで時間はかかったが、要は欲を捨てることである。仏教で言っていることである。「自分に素直になれたら下手でもいい」とまで思った。「下手なベース弾いてます」と言えるようになった。それにかまけて練習が疎かになり本当に下手になった。練習しても上手くならない、ただ音楽が良くなるには「色気出しちゃ駄目だ」ということだと思う。禅問答の様な話になった。

up date 2000.9.24

●「拍手をもらった瞬間、今までの苦労は消し飛んでしまう。」私たちはもう数えることの出来ない程のステージをこなしてきたが、この一言に尽きる。これは舞台に立ったことのある人なら解って貰えると思う。なんでこの道を歩んでいるかの解答でもある。舞台人にはステージを観ている人には判らない苦労が有るのである、それを忘れさせる程、拍手とは嬉しいものなのである。これにはまった人は抜け出すことは出来ない。

up date 2000.9.24

●オルゴールミュージアムコンサートは終り、お客さまのアンケートをFAXで送って頂いた。「翳」(かげ)が予想以上の反響があり驚いた。あの曲は私たちも大好きで日頃も演奏しているが、菅野さんのロマンチズムが如実に表現されている名曲だと思う。日本人好みと云おうか、何とも、もの悲しいメロディーで秋聞くにはピッタリである。ピアノ音楽であんなにナイーブな世界を聞かせられるとは驚きだという声もあった。とにかく私たちも嬉しい、感じてくれたことに感謝している。日本も捨てたモンじゃないと思う。

up date 2000.9.23

●正しく伝えるには伝え方が下手では駄目だ。その意味ではこの「つぶやき」は落第だと思う。言葉が足りないし説明が不十分だと思う。前にも全部伝えられないもどかしさが有るからラブソングが有るのだと書いた。誤解があるから面白いとも言った、無責任な話である。私は自分の総べてを知ってもらおうと「つぶやき」を続けてる訳じゃない、しかし気取ったところで高級な音楽が出来るとも思っていない。「それしか出来ない」と開き直っているのである。自分を表現するには得意な分野でやれば良いと思う、それが音楽であっても絵であっても文学であっても何でも同じだと思う。人は恐れずに表現すべきだと思う。そこには「伝えた喜び」と「ある種の爽快感」がある。

up date 2000.9.23

●お彼岸に入り、晴美の両親のお墓参りに行って来た。お墓は掛川の小高い丘の上の霊園にある。両親が元気な頃や「つま恋」に出演してた頃は掛川へは良く行ったのだが、お婆ちゃんが亡くなって疎遠になってしまった。子供たちを良く面倒みてくれて本当にお世話になった御両親には感謝している。亡くなってせめてお彼岸ぐらいはお墓参りに行かなくては罰があたるというものである。自分が子供の頃、親には散々苦労を掛け今子供に苦労させられているが、「順送りだなあ」と感ずる今日この頃である。いい歳になってやっとその事に気が付く頃には手遅れである。反省!

up date 2000.9.22

●学生時代「歴史」は不得手の方だった。ところがこの歳になって歴史は面白いと思うようになったから不思議だ。そこには人間模様が写し出され興味をそそられる。NHKでやっている「葵徳川三代」なども面白いと思って観ている。浜松は徳川家康に縁りがあるから歴史上の地名や昔話も沢山ある。家康は働き盛りの17年間浜松城に在城したから色々の話が残っている。その何れをとっても我々の生活と関係があり興味ある。事実私が住んでいる此所は武田信玄と戦った三方原合戦の激戦地の近くである。晴美の先祖は静岡で徳川慶喜の乳母をやっていたそうだ、だから子育てが上手いと勝手に思っている。康雄はどういう訳か「歴史」が馬鹿強い、子供の頃から歴史漫画を読んでいた所為だと思う。歴史が映像となって映画のように記憶されてるらしい。学校の勉強は年号を覚えるだけの「面白くないなあ」としか記憶にない、どうして勉強と名が付くと面白くないんだろうねえ。ここで文部省に意見を言った所でしょうがないけど。

up date 2000.9.21

●世の中を白と黒に別けるのは難しい。灰色の部分があってどちらとも言えない場合だってある。音楽の審査員をやったことがあるが、音楽に順番をつけるのは嫌である。良い悪いではなく好き嫌いの問題だと思う。数学のように点数がはっきり出れば評価も楽である。数学で答が間違っていても式の導き方が正しければ評価してくれた先生もいた。答があっていれば良い訳ではないことを学んだ。ましてや音楽に順番をつけるなど出来ない。晴美も審査員長を頼まれたことがあるが、フガーと眠ってしまい他の審査員の先生に起されていた。無責任甚だしいが、それから依頼がこなくなった。まあ私たちに頼むほうが悪いのである。アハハ

up date 2000.9.21

●小学校や中学校に依頼されコンサートをやったことがある。「ジャズは不良の音楽だ」と言われた私が中学の頃とはえらい違いだ。40年前の文部省監修の音楽辞典にははっきりと「ジャズは享楽を求める音楽であり青少年が聞くべきではない」と書いてあった。ここで屁理屈をいうつもりはないがクラシック音楽は総べて教育的なのであろうかと疑問を持ってしまう。例えばロッシーニの歌劇「セビリヤの理髪師」は娘を寝取ってしまう内容だ、とても教育的とは思えない。モーツアルトの「フィガロの結婚」もしかりである。そこらの所が今頃解ってきたのであろうか、ただ其の時代ジャズは不良だと教え込まれた人はずっとそう思っているだろう。若者にとって不良は魅力的に写る、ジェームスディーンも石原裕次郎も不良で売った、音楽が例外のはずがない。

up date 2000.9.20

●私は躁鬱の振幅が大きく、生まれつきひょうきん者である。(と自分を分析している。)私のみならず芸術に関係してる人はその傾向が多少なりとも有るのではないかと思っている。だから大袈裟に感動し喜んだり、逆に落ち込むときはまるでやる気が無くなったりする。喜怒哀楽が激しいとも言える。ミュージシャン言葉には「最高」と「最悪」しかないのは面白いが、事実話をしていてどちらかしか出てこない。だが演奏のコントラストが強烈とは限らない、ナイーブなディティールを表現しているものは数限りなく存在する。だから言い方が強烈であるだけで内容は必ずしもそうではないと言う意味である。訳の解らないことを書いてるようだけど上手い言い方が出来ない。私にとって一言で言い得る言葉を探すことは至難の技である。

up date 2000.9.20

●私の友人で30年付き合っている三ツ井康雄さんという変わり種(?)がいる。彼は「録音虫(ろくおんちゅう)」というオーディオ録音の趣味クラブをやっていたが、道楽が高じてプロになってしまった人である。映像、音声などの制作会社の社長であるが面白い人柄で長い付き合いになった。昔は同業者だった訳だが、彼が違うところは放送劇団をやっていて声が素晴らしく良いことである。だから至る所でテレビ、ラジオのCMなどで彼の声を聞くことになる。今年CM(全国ラジオ部門)コンテストで彼の作ったCMがグランプリを受賞したそうである。スーパーマーケット等でも彼の声が流れてくることがある、だから暫く会ってなくてもその気がしない。私たちにはすぐ判る天性の美声で、晴美などは「その声でボーカルをやれば最高だ」と言っている。彼は以前FM静岡で「サウンドインテリア」という番組を持っていた、ゲストで私たちが出演して菅野先生のことを話題にして「先生は今、運転免許を取る為に教習所へ通っているが足が短くてアクセルに届かない」とか「あの顔でロマンチックな曲を書くのは信じられない」などと話し合い、その同録テープを先生に送った。それを聞いた菅野さん「俺がいないと何言われるか分らん」と浜松のコンサートに来てくれた。この浜松でワイワイガヤガヤとやった張本人は三ツ井さんも噛んでいるのである。調整卓のフェーダーの所にマイクロスイッチを仕込んで、フェーダーを上げれば自動的にテープレコーダーが廻り出す装置を作ったり彼のスタジオは使いやすくシステムが組んである。晴美に「三ツ井さんはあんなに便利な使い易いのを考えたのに、自家のはプラグを差し換えが必要で面倒だ、貴方技術者だったのはホント?」なんて嫌味を言われている。その彼が今回のオルゴールミュージアムコンサートの言い出しっぺである。彼の機器にかけるお金は桁が違う、プロ機材は高いが何か元を取れそうもない感じがする、「良い仕事をするには良い機材を使いたい」その情熱は良く解る。だから気が合うのである。彼の凝ったホームページ見てやってください。http://www.inh.co.jp/~stdad/

up date 2000.9.19

●オルゴールミュージアムのコンサートは3日目を無事終った。初日、レコードプレーヤーの御機嫌が悪く途中で止まってしまうハプニングがあったが、そこは愛嬌である。機械物は調子が悪くなることがある、そこが面白いのである。我々はあらゆる機械製品に囲まれて生活しているから調子が良いに越した事はない、しかし味ということになれば話は別である。言う事を聞かない息子程可愛いのと似ているが、そういうものほど愛着が湧いてくるから不思議だ。私の経験だが調子悪かった物程思い出がある。私はアナログ人間だからそういうのが好きなのである。オルゴールミュージアムにある物はおよそ80〜100年前の骨董ともいえる物だが、当時の職人が考えたカラクリ仕掛けでとても興味がある。電気製品など発明される前のロマンを感じ取れる。電気を使わない音であるから耳に優しくゆったりとした気分になれる、忘れていたものを思い出させてくれる、ほのぼのとした気分といったら解って頂けるだろうか。とにかく嬉しくなる。私たちの演奏はその音の中に折り込まれてプログラムを組まれた。当然生音で演奏されるべきだと思うからアンプなど使わなかった。ベースの高音部はピアノにマスキングされて聞こえ辛い、それでいいのである、大体PAなどオンマイクで増幅して本来聞こえないはずの音を聞こうとすること事態、間違っているのかも知れない。私のクソジジイ度も頂点に達したと思うのである。

up date 2000.9.18

●私はカラーテレビ技術者認定証の他に電話工事担任者資格と電気工事士の免許を持っている。自宅の宅内配線や電話の工事などは自分でやっても違反にはならない。だからクーラーやテレビ共聴、コンセント増設の屋根裏工事などは自前で工事した。資格は持っていても邪魔にはならない、あると便利ではある。他人からは勿体無いなどといわれる、たしかに電話の試験の時は5科目あってその内の1科目は実技試験が科せられ名古屋の試験会場で受験した。見た事もない電話交換機が出題されさっぱり解らず試験に落ちた。翌年トライして其の時はボタン電話機が出題され、やっと2年目に合格し取得したのである。電気工事士は幸い学科5科目免除の実技試験だけで合格した。音楽には資格とか免許は必要ないが最も難しい分野だ。

up date 2000.9.17

●技術畑出身の私はどちらかと言えば論理的考えが先に立ってしまう嫌いがある。左脳思考というらしい。音楽はそれに反して直感的で、右脳思考と言われている。イメージが大切なのである、右脳でイメージされたものがある障壁を乗り越えて左脳に伝達され表現されるものらしい。本当に優秀な頭脳とは単に記憶力が良いだけではなく創造的頭脳を持っていることだと思う。学校で勉強することやテストは記憶力のテストに過ぎない。人間は数パーセントの能力しか使っていないそうだ、眠っている能力は数十倍もあることになる。もっと自分の頭脳を活性化する手立てをしなくてはいけないね。

up date 2000.9.17

●今日(9/15)から3日間オルゴールミュージアムでコンサートが始まる。いつもそうだが始まるまでが準備が大変で、コンサート当日はまな板に乗った鯉の心境でジタバタしない。準備段階では企画屋で本番はミュージシャンになる。そう切り替えないと舞台の上で頭が混乱してしまう、始めの一音が鳴った瞬間から生まれ変わるのである。もう何十年もそのようにやってきた、台本を作る、チラシとチケットの作成、プログラム、マイクアレンジに至るまで雑多なことに振り回される。『飛翔』のようにオリジナル曲を作り舞踊用の練習テープを作らなくてはならない場合は大変な労力を必要とされる。リハーサルを迎えた時はもう終りに近い。企画から半年の準備期間が必要だか、本番数時間で燃え尽きる。舞台というものは随分贅沢なものだと、つくずく思う。そんな思いをしてやるのだが本番が終った瞬間、次は何をやろうと考えてる自分がいる。

up date 2000.9.16

●記録的な大雨が降って災害が起り、愛知県では大きな被害が出たことをテレビのニュースで知った。いつも災害や事件が起っても対岸の火事という気持ちで、同情はしても自分には関係ないと済ましてしまうのが人の常である。それを薄情と思うか、自分のことで精一杯で他人のことに構っていられないのだと取るかはその人の考え方だからとやかく言えない。仏教には徳という言葉がある、「あの人は人徳がある」とか「徳をつめば何時か良い報いが返ってくる」と言われている。徳とは必ずしも他人から見えるものではない、だが仏様からは見えるのである。客観的な自分を見ている自分がそこにはある。その証拠に「良い行いをした時は清々しい気分になる」からである。我々ミュージシャンが良い演奏することは徳を積むことになるのであろうか、人々を良い気分にさせることはその資格があるのかも知れない。そのことを信じて続けて行こうと思うのである、行動することに何か意義を持っていなければいけない訳では無いが其の方が元気が出る。それでないと長い道のりを歩いていくのに挫折感を抱いてしまうから。

up date 2000.9.15

●私が始めてプロのバンドを経験したのは新橋駅近くの銀座のクラブである。メンバーはテナーサックスのリーダー、バイブ、ピアノ、ベース、ドラムスと女性ボーカルの構成だった。歌伴の時、歌手が1コーラスを歌い終えサックスの間奏の時ボーイと話していて次ぎの歌コーラスに入り損ねた。とたんにキングのスーパー20を吹いているそのリーダーは「プチっと切れて」ピャー、ブリッとコルトレーンが始まり、歌えなくなってしまい歌手はステージで泣いてしまった。メイジャーレコード会社から4枚も出してるプロ歌手だよ。今のはMajor7だとか♭9thだとか云っていたが明らかなイジメである。始めてのプロバンドの経験で「プロは厳しいものだ」と実感した。「トラのくせにお前みたいなのは始めてだ」と言われた、よっぽど不敵な面構えしてたんだろうなあ。ヤバイのを目の当たりにしてそれからはフンドシをひき締めて音楽を勉強した。駆け出しの頃の忘れられない経験である。

up date 2000.9.14

●ハムでお会いすると様々な趣味を持っている人がいて驚くことがある。アマチュア無線そのものが立派な趣味なのだが、それだけという方は少ない。アンテナ、無線機は当然だが写真、絵画、車、バイク、パソコン、蝶の採集、園芸、魚釣り、音楽、ダンスから猫好きまでおよそ無いものはないと言える。私は多趣味だからおおよその話題には困らないが、始めてお会いした方と話がはずんで2時間におよんだこともある。晴美に言わせれば「男の人どうしが何が面白くて長々喋っているの?」といわれるのだがそれが良いんだから仕方ない。長話をハム用語でラグチューとよぶ、チューインガムをクチャクチャ噛んでいるという意味である。直接会うことをアイボール(めんたま)するという、電波で交信するのはOn The Airという。和文電信でラグチューしてる猛者もいる。中国語やポルトガル語でバンバン交信してる人もいる。交信した記念に交信証(QSLカード)を交換する。写真に凝っている方からはヌード写真の素晴らしいカードが届くことがある。最近は写真印刷技術は格段に良くなっている、QSLカードを見てるだけで楽しくなる。イヒヒ

私が発行しているQSLカード(交信証)

up date 2000.9.13

●国分寺のライブハウス「アレキサンダー」に通った話は何回も書いた。菅野さんの七回忌を吉祥寺のホテルの会場で追悼ライブを企画するまでマスターの浅野さんはやったのだが、それから間もなく亡くなった。浅野さんは仏様の様な人だった、「アレキサンダー」に集うミュージシャンやファンはみんな彼の人柄に惚れ込んでいた。6、7人編成のバンドが出演しても客一人という時もあった、「僕が聞きたいんだからそれでも良いんですよ」とニコニコしていた。店を3店経営していたがそちらの儲けを「アレキサンダー」に注ぎ込んでいたのだ。計理士には何時も怒られていたそうだ。それを知ったミュージシャン達は「頼むからギャラを下げてくれ」とお願いしたそうだ。そんな話聞いたことが無い。それ程其処に集った人たちは浅野さんを「アレキサンダー」を大事に思っていたのである。だからお客もミュージシャンも温かい良い人が集まった、そこはみんな顔見知りで和気あいあいの空間だった。菅野さんの縁で出演することになった「アレキサンダー」だが、私たちを一人前にしてくれたアレキ(略してそうよんでいた)を忘れることが出来ない。アレキサンダー開業10周年で銀のペンダントホルダーを記念で作った、私たちもそれを頂いたが浅野さんの嬉しそうな顔が脳裏に焼き付いている。

  

アレキサンダーに集った仲間たち(浅野さんと晴美、手前にギター宮の上氏とベース山口氏の顔も見える)



右より菅野さんの奥さん、晴美、小原さん

up date 2000.9.12

●鈴木博さんはコンサートのインタビューでいいことを言った。「音楽をどんな気持ちでやっているのですか?」という問いに答えて「僕は仕事が無くて食えない時、工事現場でブルトーザーの運ちゃんをやった、世の中を下から見るってことは大事だと思う」と答えた。ブルトーザーの運転手が卑下される職業だといってるのではない、我々ミュージシャンはステージに上がって派手に見えるから、人生の苦しいところを聴衆には見せないかも知れないが、音楽をすることは、むしろそれが大切だと言っているのである。とても奥の深い言葉だと今だに忘れない。禅では一つ道を突き進むことは座禅することに通じると言っている、別の言い方をすれば「高い山に登るには幾つもの登山道があり、どの道を登っても頂上を目指すことには変わりはない」ということである。「人間はなぜ此の世に生まれてきたのか」という私の問いに答えてくれた、ある僧侶の解答である。

up date 2000.9.11

●秋が近づき魚釣りのシーズンになったので、釣り竿について書いてみよう。最近は竿の素材が良くなってカーボンロッドが主流となった。利点と言えば軽くて粘りがあり強いということができる。軽いから竿を長い時間持っていても疲れない。長さは1間竿とか2間竿とかいう、ハゼ釣りなどでは2間半(4.5m)とか2間(3.6m)竿などが使いやすい。ひと昔前はグラス竿が多かったがカーボンとは軽さで比べ物にならない。リール竿もカーボンが主流である、浜で使うキスや鯔、せいご(まだか)などを釣る投げ竿や、浜名湖内で使う五目釣りや黒鯛釣りなどで使う竿もしかりである。へら鮒釣りをやる人のなかには竹竿を使う人もいる、これは大名の釣りとも言われてるが竿がバカ高く数十万円の竿は珍しくない、名品には銘が入っている。それに時々火入れといって竿の曲がりを直す必要がある。メンテナンスが大変なのだ。釣りをしていて雨が降ってくると竿を仕舞ってしまうそうだ。その点カーボンロッドは神経使う必要はないが、鮎の友竿で高級品は20万円もする竿もあるからピンキリだね。まあ竿が良くても魚はそれを見て釣れてくる訳じゃないから、腕とか潮を読めるかとか後は勘と運もあるけどね。私の竿も何10本あるか数えたことは無い、随分釣り道具屋に注ぎ込んだ計算になる。だが使いやすい竿は決まってしまいそればかり使ってしまう事になる。とにかく釣りは面白い。

up date 2000.9.11

●宮沢昭一(みやざわしょういち)というのは、宮沢昭さんの長男でドラマーである。我々は「しょうちゃん」と呼んでいるが、どうして自分の名前に安易に一を付けただけの名前を付けたのか、父親である宮沢さんに聞いてみた。しょうちゃんが産まれた時、かっこいい名前を考えて区役所へいったら字が難しくて登録出きず簡単に一を付けて「昭一」にしたそうだ。おかげでライブハウスにクレジットされてもお父さんのほうに間違えられ苦労したと言っていた。大物の息子は参っちゃうようだ共演するミュージシャンから「昔お父さんには虐められた」と言われ「俺の所為じゃないや」と思ったそうだ、苦労もあるものだ。彼は若い頃ギターをやっていて先生から「もう教えることは無い」と言われるほどの才能を開花させていたそうだ。ドラミングはいたってシャープで強力、反射神経バツグンでレスポンスが良い。動物的ともいえる感性を持っている。ピアニストの菅野邦彦とトリオをやっていた。私たちとも沼津や浜松で何回もプレイしたが、宮沢昭カルテットでの仕事は結婚式ぐらいしか親子共演したことないのを「一緒にやろう」と狩出したのは私である。リズムセンスの良いドラミングに宮沢さんも舌を巻いていた。私たちは宮沢さん一家ともおつき合いが始まったのである。

up date 2000.9.10

●菅野さんが亡くなる前「お前メチャメチャ上手くなったな」とか「ウン、良くなった」などと今まで誉めたこともない人が優しくなった。阿部さんという菅野さんの女性マネージャーが「人って亡くなる前は優しくなるものね」と言った。それから「誉め出したらアブナイ」となって「誉めるな」となってしまった。僕だって11年弟子やっていて誉められたのは2回だけだったもんなあ、いつも「馬鹿野郎」ばかりだった。音楽に厳しかった先生だが人柄は最高で愛すべき人だった。

up date 2000.9.9

●修理に出していたトランシーバーだが「部品のLCD(発光パネル)が無いので修理出来できない」と返ってきた。通産省のお達しでメーカーは製造中止から7年間は部品を保有しなければならない。購入してからもうそんなに年数が経っているのか指折り数えてみた。悪い所が判っているのに修理出来ないのは技術屋として悔しい、こうなれば部品が見つかるまで辛抱強く待って修理したくなる。広い日本である、1つや2つは見つかる筈である。私はメーカーの技術者として同じ様なことに直面したことがある、通産省が7年と通達してもユーザーの気持ちはそれとは違う。粗大ゴミを増やすのはこうした事と、修理代が高騰して新品を買った方が安い場合もある。またパソコンのように新製品の方が高性能になり古い機器は使い辛いという現実がある。技術進歩は目まぐるしく、特に最近の商品はどんどん進化している。世は使い捨て時代なのである。

up date 2000.9.9

●私の長男は子供の頃から自動車が大好きで知らない車はなかった、ある自動車部品メーカーの設計部に勤めていたが独立してオプション部品の会社を起した。カッコ良く言えばデザイナーである。その彼がローバーミニにはまり10年以上その車を所有しているのだがその車を手放せないでいる。その車すこぶる調子が悪い、例えば雨の日はエンジンが掛からないとか足まわりが悪く修理代がかさむとかである。しかし愛着があって手放せない。車本体が2台買える以上にお金を掛けている。彼が独立する時、ミニの木製パネル、木製チェンジノブ等から始めたのである。「自分だったら此れが欲しい」それからスタートしたのでユーザーの気持ちが良く解る、私はそれで良いと思っている。これをやればいくら儲かるという発想でやる企業経営者は多いがロクな物は無い。何でもそうだが儲けを先に考えてやる奴は嫌いだ。「お金は後で付いてくる」そう思っている。ミュージシャン的考え方だ。私にそっくりだね、いや私よりしっかりしているのかも知れない。

 up date 2000.9.8

●こんな事を掲載すべきではないかも知れぬ。私の父の50回忌をこの8月に終え、39才でこの世を後にした父の想いを考えてみた。中学生の姉を先頭に幼い4人の子供を残し、死んでいった父の悔しさを思うとただ悲しくなる。俳句や川柳が好きだった父は日記など沢山の文章を残した。どれも達筆で読めない所もあるが遺言だと思って大切にしている。母に子供達に残した遺言を聞いた、「ものの善悪が判ればよい」というものだ。これはよく考えるととても難しいことだと気がついた。こんな命題を残したおかげで哲学まで勉強しなければ答が出せない羽目になった、今だに難問だと思っている。父の遺品を整理した時、沢山の本が出てきた。ニーチエやプロレタリア文学などやたら難解でゴソっと捨ててしまった。ただあの戦前、戦中、戦後の頃、世相を見ている眼は違っていたと思う。父の書いた散文詩にこんなのがあった。「街角に立っている紳士が まだ吸い始めたばかりの霧島を路上に捨て立ち去った どこからかルンペンが現れ その煙草を拾った 昼下がりの出来事である」こんな具合である、ちょっと斜に見ているね。そんな親爺と酒を交わしながら話したかった。

up date 2000.9.8

●ここ2、3日急に涼しくなり過ごし易くなった。今まで暑かったのは何だったのかと思う。不思議なもので秋めいてくるとメランコリックな曲をやりたくなったり、「枯葉」などを演奏しても違和感がなくなる。人はみな詩人になる、景色が違って見えるから不思議だ。人間は自然のなかに生かされている証拠である。

up date 2000.9.7

●今日はノリの問題を考えてみたい。我々はよくジャストに乗るとかノタって乗るとか言う。これはどういうことかというと、正確なバックリズムに対してフロント楽器がどのようにフレーズを歌うかという意味である。スローなどはジャストに乗ってしまうと面白くも何とも無い、解りやすく言えば森進一のように歌うことである。分かっていてわざとネバルのである。宮沢さんはこれだった、だから小津さんのいう「聞かずに聞け」という訳だ。フロントがノタルとリズム隊はそれに翻弄されてしまう、だから「聞かずに聞く」のである。スローではネバリすぎてテンポが遅れてしまう、だから注意しなくてはいけない。日本人は超スローをやるからこれに陥りやすい。そこへいくとアメリカ人はバラードと言ってもあまりスローテンポで演奏しない。ある程度早ければ勢いがついているから遅くはなりにくい。私はスローの演奏のほうが難しいと思っている。早い曲は練習すれば出来るようになるが、スローは歌心が必要だしその人の感性が試されると思うからである。聴衆を超テクでびっくりさせることは出来てもウットリ感動させることは難しい。

up date 2000.9.7

●私が音響工学を勉強した頃はコンデンサーマイクはまだ珍しくソニーのC37Pぐらいのものだった。このマイクはファントム電源と云って外部から電源を供給する方式だった。その後38Bが出て、これは9Vの電池を使えたので楽になった。PAの現場では三味線などをこのコンデンサーマイクで録ると、高域まで延び過ぎバチの音まで入ってしまいベロシティー(リボン)マイクの方が良いと云われていた。今ではリボンマイクは見かけなくなったがデリケートなマイクで吹いたり落としたりするとすぐ故障するので扱いは慎重だった。良き時代を思い出すように私の無線機には東芝Gベロを繋いである。見るからにルイフーであるが福よかないい音がする。私のダミ声がウグイスの美声に変わる訳ではないが、こんな事もせめてものこだわりである。

up date 2000.9.7

●NHKテレビ、にんげんドキュメント「今からピアニスト」を観た。51才から74才までの方(平均年令63才)がピアノに挑戦して発表会をしたドキュメントでありとても感動した。ピアノを始めて1年の人、5年続けている人など高齢になってから始めた方がほとんどである。それぞれの方に人間ドラマがある、若い頃ピアノを弾いてみたいと夢を持っていた。子供や孫にではなく自分の為にピアノを買った人もいる。見ていて「人間って素晴らしいな」と思った。音楽を生業にしている私たちであるが、一部の人だけのものでは無く「音楽」とは皆の為にあるのだと痛感した。「何かをやってみよう」それに突き進む人は魅力的である、希望があり夢がある素晴らしいことだと思う。演奏はたどたどしくても其の一音一音に喜びと希望が聞き取れた。

up date 2000.9.6

●スマイリー小原さんというフルバンドの指揮者を御記憶だろうか。名前の通り客席を向いてる時はニコニコの笑顔であるが、バンドの方を向いてる時はそれは恐い顔してたそうだ。どういう訳かある時それが逆転して、バンドの方向いて笑顔になっちゃったそうだ。しばらくして小原さん亡くなったそうだが、日頃と違うことしたら気を付けなくちゃいかんね。プロのフルバンの話は色々聞いた、ボントロのスライドで小突かれたり、スティックが飛んできたり、ピアノのトラで行ったらドンと積んである譜面を捲ってる間に次ぎの曲が始まっちゃうやら大変な思いをしたミュージシャンは多いのだ。京都のあるフルバンのリーダーは万事スローな物腰で「ほな、いくえ」と云って、どの曲もカウントを「ワン、ツー、スリー、フォー」と、関係なくど早くだすのだが誰も聞いていず、ちゃんとしたテンポで全員が演奏するのだそうだ。笑っちゃうね。

up date 2000.9.6

●内山淳平という建築デザイナーがいる。彼は道楽でドラムを叩いているが、国分寺のアレキサンダーに私たちが出演してた頃、その厨房でアルバイトしていた美大生だったのである。そんな所でバイトしてたぐらいだからジャズが余程好きだったのだろう。今も巷のジャズ情報をみると彼の名前がクレジットされている。彼のドラミングは骨太で好感を持てるが中々共演の機会がない。大晦日、宮沢さんを交えたセッションだったが、その時グランドホテルラウンジまで来てくれ一緒にプレーする事ができた。後から思えば其の時が宮沢さんとは最後だったのだが、もっとガンガンやっとけば良かったね。

up date 2000.9.5

●アルバイトで蒲田のキャバレーで1ヶ月演奏した事がある。そこは女性トランペットとかストリップとかが毎日入れ代わりで入り、初見の譜面が4、5曲あった。おかげで誤魔化しかたが上手くなった。でも初見であるから譜面から目を離すことが出来ない。ストリップの踊子さんはバックにいる我々の方を向いてジャーブラをはずす、あの時ほどドラマーを羨ましく思ったことはない。ドラマーは譜面無しでキョロキョロしながらニヤニヤだったもんなあ、こちとら若者にはたまらんかったぜ。ただホステスさんにはとても親切にしてもらったよ。私にだって若い頃(紅顔の美少年)があったんだよん。アハハ、ウソツケ!

up date 2000.9.5

●新聞の釣り情報を見て奥浜名湖に行ってきた。ハゼは一匹も居なくてボウズである。しかたなく場所を移動して小さな川の出口で竿を出すことにした。潮の香りと湖面を渡ってくる風がここち良い、もう秋がそこまで来ているようだ。竿にシオカラトンボがとまる、水音がしたので見るとカワセミが子魚を採っているのだ。緑と青の美しい鳥で始めて見た。鴨が二羽、目の前をゆっくりと泳いでいった。魚は釣れなくともゆったりした気分を満喫できた、たまには魚釣りに行くのもいいもんだ。

up date 2000.9.4

●メールで「菅野光亮氏のCDはあるか?」という問い合わせがあった。唯一ポリドールから発売されたCD「砂の器」(H30P-20058)がある。菅野先生が亡くなった1983年頃はまだLPの時代でCDは珍しい時であった。私たちの「河童のあやまり証文」だって1984年出版でまだLPだったのだから。ちょうどCD時代に変わる過渡期だった訳である。だからこの「つぶやき」を読んでくれた方が菅野先生の作品を聞いてみたくても聞く術が無い、最近はレコードプレーヤー持ってる人は少ないものね。私だってLPで持っていてもCDを新たに買って来たものもある。アナログ時代散々オーディオを楽しんできたが、使い勝手はCDの方に軍配はあがるだろう。よっぽど売れる曲ならCD復刻の可能性もあるが多分それも不可能だと思う、良い物がまた遠ざかる寂しさを感じている。手間は掛かるがアナログレコードからA-D変換してCDーRに焼いて楽しむしか手はない。

up date 2000.9.4

●SBSテレビの「オーイ!トムソーヤ」の放送を見た。(トムソーヤクラブ)自分や家族がテレビに写っているのは何か恥ずかしいようなこそばゆい気分である。テレちゃうんである。私たちはもう何千回のステージに立って来たのだが今でも「あがる」。よく考えるとこれは良いことなのだと思う、一種の興奮と緊張があり、むしろ必要なことである。完璧に落ち着きはらっているのは見てる方では安心するだろうが緊張感が無い。「初ういしさ」は危なげなところも感じさせるものだと思う、例えは悪いが化けることの上手い古狸よりシッポを化け損なったキツネのほうが何故か私には好感が持てる。フィーリングに可愛らしさを感じるし好きなのだ。立て板に水でパラパラやるより、もどかしそうにプスっとやってるほうが好きである。だからボントロみたいに辿々しい演奏が好きなのかも知れない。

up date 2000.9.3

●私の知り合いで変な男がいる。「おかまの植田」というんだが、どうしてそんなアダ名がついたのかは、ある時電話が掛かってきて晴美が出た。「主人は今留守ですが何か御用ですか?」と聞いたら「いえ俊介さんにちょっとお話しが」とナヨナヨした声でコキャーがった。それから「オカマのウエダ」と呼ぶようになった。高校、大学時代にジャズはまってスイングジャーナル社を受験し、落っこちて評論家になりそこなった男だが、自分でもフリュートとサックスを吹く変な奴だ。近くで広島風お好み焼き屋をやっている。時々行って「その葱の切りかたは何だ」とか「出し殻コーヒーくれ」とか言ってからかっているが、ジャズのLPは千枚以上持っていて色んな事を良く知っている。おない年なので言いたいことを言い合っている、変なところで気の合う仲良しである。私もオカマッ気あるんだろうか?狙われないように気を付けないといかん。「俺にゃーそのケはないんだバカヤロー!」

up date 2000.9.3

●みっちゃから嬉しいバースデープレゼントが届いた。「ハッピィーバースディーツーユー」のMIDIでアレンジした曲である、なかなかやる事がスマートだね。彼はMac党でシーケンスソフトを操っている、クラリネット奏者で康雄と仲がよい。「つぶやき」の愛読者である、毎日来てくれる。更新する時間まで知っていて参ったぜ。ハゼが浜名湖で釣れている情報がある、近いうち康雄と3人で行って来ようッと。

up date 2000.9.2

●ものを産み出すことは大変なエネルギーを使う。作詞と作曲のどちらが難しいか晴美に問うたら作詞だと答えた、私もそう思う。一見やさしそうだが何にも無いところから創り出すことは楽ではない。考えを巡らせてさんざん悩むのである、そしてある時フワっと思考の泉から湧き出て、最初のワンフレーズが浮かんでくる。それから流れるように次が出てくる。言葉はインパクトを持っていなくていけない。1番の詩より2番が難しい、韻をふんでいなくてはいけないからだ。リズムにはまる言葉は以外と少ない、これでまた悩むことになる。出来上がったものをああだこうだというのは易しい、イマジネーションが良い言葉を浮かばせてくれた時は、あたかも神様が教えてくれたと思う事がある。創作とは神憑かり的なのである。

up date 2000.9.2

●9月1日は私の誕生日だが「二百十日」「関東大震災が起った日」だとか「防災の日」だとか言われている。新学期が始まる日で「夏休みの友」だとか宿題が出来ていなくて、いやーな思い出しかない。この歳になるともう誕生日が来ても嬉しくないね、ケーキを買ってくれてもローソクは本数が多すぎて立たないし嫌んなっちゃうね。「つぶやき」購読の方には歳はバレちゃってるからあえて言いません。クソ親爺になっているのは確かだ。

up date 2000.9.1

●同じステージで同じ曲を3回リクエストされたことがある。全部リズムを変えて演奏した、8ビート、スロー、スイングなどである。終ったあとどうして色々なバージョンでやるのか聞かれた。それは同じにやると気分が萎えちゃうからである。ジャズミュージシャンはみんなそうだと思うが、新鮮な気分でいたいから前と同じにはしたくないという気持ちを持っている。このように色々に料理できる曲は良いが、こうやるしかやりようが無い曲もある、その場合悲劇である。泣きながら同じ演奏することになる。さっき聞いた曲を又リクエストするのはマナー違反である。ミュージシャンの気持ちを考えてほしい、我々はCDプレーヤーとは違うのである。

up date 2000.9.1

●頼んでおいた痩身機具が届いた。これは最近はやりの足首を機具に乗せて、腰にパッドを当てるだけで痩身出来るというモノグサの人にピッタリな機具である。早速やってみたが金魚のように腰がクネクネ曲がり、お腹の贅肉が取れそうな気分がする。これを頼んだのは他でも無い晴美なのだが、痩せようと思い立ったのであろう。晴美は独身の頃痩せていてそれはスマートだった、今の彼女からは想像できない。お腹に赤ちゃんが出来て太ってきたのだが、産んだ後「何ヶ月ですか?」とみんなから言われる程、栄養が全部お腹に着いてしまった。まあ私にも責任が有るってことだから仕方ないけど、痩せてる頃作った洋服が全部着れなくなるのは女性にとって悔しいらしい。若い頃「俺、福々しい女性のほうが好きだよ」と殺し文句を言ったのは反省している。うん。


   

痩せていた証拠写真(本邦初公開、晴美の独身時代)ポプコンのアレンジやっていた。

up date 2000.9.1

●毎日更新してる「つぶやき」をネタが良く続くと心配してくれる人がいるが、「イマジネーションが湧かないようじゃジャズは出来ない」などと粋がったけれど、いつかはネタギレになるだろう。閃いた時すぐパソコンの前に来て書き込むようにしている。そうしないと書く事を忘れてしまうからだ。作曲も同じで五線紙をいつも持っていないとアイデアは記憶の彼方へ飛んで行ってしまう。晴美は作曲をピアノの前ではしない。歩いている時、台所の支度をしてる時など何時アイデアが浮かぶか分らない。人間の脳は不思議なものである、集中してる時や準備万端整ってさあどうぞという時は以外とアイデアは浮かばないものである。私はボヤーとしてる時が一番浮かびやすい、端から見るとただ寝転がってるだけだが、その時は心がリラックスしていて湧き出てきやすい。だから猫が好きなのである、ゴロゴロいってる猫は仲間のような気がする。

up date 2000.8.31

●ジャズ評論家の相倉久人さんの弟の相倉久八(あいくらひさや)さんと友達だった。彼とはひょんなことで知り合うことになった、私がカラーテレビ技術者だったことは前にも触れたが、相倉さんは浜名湖競艇の業務用カラーカメラのカメラマンとして赴任して来ていたのである。ジャズが好きだというので一遍で友達になった。お兄さんはコルトレーンを評論したら日本で右に出る者はいないという相倉久人さんだという。学生時代、相倉久人の本をむさぶるように読んだ、哲学的な難解な評論だった。弟、久八さんによれば「兄貴は自分の哲学をコルトレーンに託つけて書いていた」そうで「俺はアートファーマーみたいなのが好きだ」と言っていた。当時僕ら技術屋仲間でUFO研究会を作って、ああだこうだと飲みながら討論した「地球だけに知的生命体が存在するのは宇宙の星の数からして確立的にあり得ない」と言い合い、「オランウータンの遺伝子は人間の半分だから細胞分裂で人間に進化したのはあり得る」などと技術屋の方が夢があるなあと思った。彼は脳腫瘍で10数年前に他界してしまった。知的で清々しい笑顔の彼を思い出す。

up date 2000.8.31

●運転免許証の更新に行って来た。前免許はゴールド免許証で優良運転手だったのだが、最近赤信号無視と駐車禁止でつかまったので講習ありのブルー免許証(3年)になってしまった。久しぶりに講習を受けたので勉強になった、この静岡県は死亡事故の多発県で何とか減らそうと飲酒運転など取り締まりを強化していると聞いた。携帯電話の事故も増えているそうだ、私は聖徳太子と違って同時に二つ以上のことが出来ない、自動車に無線機をつけるなんてもってのほかである。ラジオで良い音楽をやっているとアクセルの足の力が抜けてスピードが落ちてしまうぐらいである。こんな人に携帯電話持たせたら危なくて仕方がない、だから絶対に携帯電話は持たない。長良川の鵜のように紐付きにはなりたくない。私が行方を暗ましても晴美はちゃんと私のいる所を見つけだし電話が掛かってくる。すでに紐付きということである。シュン

up date 2000.8.30

●晴美はパソコン嫌いというか機械オンチなのでこの「つぶやき」も読んだ事が無い。それを良い事にグダグダ思いっきり書いている。だが彼女はアメリカ製ソフトでもう一台のマックを使い編曲を器用にやっている。パソコンは道具である、使い込んでやれば良いのである。いくら良いシーケンスソフトを使っても使い込むのは人間だ、そこを勘違いしてる人がいる、良いアレンジは頭の中に音楽が鳴っていればこそ出来るのである。最新の機械を使えば良いものが出来ると思っているのは誤解はなはだしい。音楽の基本をしっかり押さえないと駄目である。猫も杓子もとDTMが流行っている、違う方向に向かってしまうのではないか心配である。

up date 2000.8.30

●デュオという演奏スタイルは独特の世界を持っている。私たちがデュオに興味を持ち演奏を始めた1975年頃はまだケニュードリューとかローランドハナぐらいで、日本のミュージシャンでやっている人は聞いたことは無かった。だから「今日はドラム休み?」とかドラムレスなどと変な言われ方をした。バンドといえばトリオが当たり前と思われていた頃で当然かも知れない。デュオとは何か、一言で言えばコンセプトが違うのである。ソロではスイングのリズムが出ない、デュオはそれが出来る。クラシックのソリストに伴奏のピアノがついているのは見た目同じでも其れとは違う。ラテンの曲などはドラムが必要と思う時もあるが、まずどんなジャンルの曲でもやってしまうことが可能である。クラシカルな曲やスローではこの方がムーディーで良い場合もある。デュオの方が好きだという人もいるぐらいだ。「帯に短しタスキに長し」かも知れないがとにかく変わったコンセプトではある。もう少し研究してみたい。

up date 2000.8.29

●アマチュア無線をやっていると良い話しを聞くこともある。山口県下松市にお住まいの1922年生まれの74才だと言っていた、かくしゃくとした元プロ通信士で大型船に乗って世界の海を渡り歩いていたそうである。ブエノスアイレスの店に行きバンドが入っていたので、ある曲をリクエストしたら演奏してくれたそうだ。それから何年かしてその店に行ったら黙ってその曲を演奏してくれ感激したそうである。何年も前のリクエストを覚えていたバンドも大したものだがちょっと良い話だね。我々も同じことがある、いつも同じ曲をリクエストをする人は曲名で覚えてしまう。名前は忘れるが曲名は忘れない。1996年7月の交信だが忘れない交信もあるのだ。

up date 2000.8.29

●トリオロスパンチョスのファンだという立川の方からメールを頂いた。私よりちょっと先輩であるが好きで仕方ないという気持ちが伝わってくる。私のようにパンチョスを好きな方がいるということである。こういうファンの方に「つぶやき」をお読み頂いていることを思うと嬉しくなる。青春の一ページとして懐かしくナツメロを聞いているのではない、現在聞いて良いと思っているのである。心がときめきルンルンになることは心が若いということである。シビレルことに歳など関係ない。

up date 2000.8.28

●沢チンこと沢田靖司さんという才能に恵まれたボーカリストがいる。彼はピアノ、サックス、ボーカルとこなす多才なミュージシャンで世田ヶ谷区代田でジャズボーカル教室をやっており、ドリーベイカーや高岡敬子などを擁している。昔日本テレビでやっていた「11PM」でサラブレッツというバンドが出演していたが、そこで彼がピアノを弾いていたのをご記憶の方もいるだろう。彼の車で代田のスタジオにお邪魔することになった。地下に其のスタジオは有り、ルボックスのテープレコーダーも置いてあるゴキゲンな環境だと感心した。11PMに出ていたT.saxの杉原さんを除いた沢田靖司トリオのLPを送ってくれ彼の才能を知る事となる。その後彼と付き合うこととなったがバリトンサックスを吹いたり歌ったりピアノを弾いたり総べてが一級品であった。

up date 2000.8.28

●ジャズ評論家の本多俊夫さんのお宅へ伺ったのは、まだ菅野さんが元気な頃だった。三鷹駅に程近くの住宅地にお宅はあった。ラッパの内藤君と私たちの3人での訪問であったが歓迎してくれた。リビングルームから中二階の壁はレコード棚になっており、何万枚あるのか解らないLPで埋め尽くされていた。あれ程のレコード盤はレコード店でも見た事がない。全部ジャズのレコードなのである、輸入盤を含め日本で入手できるほとんどをコレクトしていたのではないかと思う。隣の部屋はスタジオとアナウンスブースになっておりAmpexのコンソールテープレコーダーがデンと置いてあった。民放のテープはここで作ってしまうと言っていた。NHKはBTS規格だから収録にスタジオまで行くと言っていた。レコードは多すぎて同じものがあるそうだ、アートペッパーなど数枚もらって来た。此処に納めきれないレコードは庭に建てたプレハブに収容してあり、本人も全部で何枚あるのか数えたことは無いと言っていた。

up date 2000.8.27

●宮沢さんにアドリブって何だと素朴な質問をした事がある。フレーズは頭の中の引き出しに詰まっている、それを「全部出し切って鼻血も出なくなった時、出てくるものが本当のアドリブだ」と言った。いつもではない、しかしそういう時が何回かあった。本当に乗ってきてプチっと切れる時がある、其の時は背中に鳥肌が立つほど素晴らしい。彼に天才を感じる時である、まさに神憑かりになる。アドレナリンがでる至高の時である。

up date 2000.8.27

●康雄が神戸の音楽学校に行っている頃、いいベースピックアップがあるというので大阪の楽器店に問い合わせ手に入れた。ウイルソンというそのピックアップは4個でセットになっていて、各弦に添って駒に穴をあけ取り付ける方法で面倒だがいい音がする。それまで使っていたピックアップはウッディといって荒川康男さんが日本に紹介し、瞬く間にみんな使うようになったのだが、倍音を拾い過ぎてゴリゴリの音になり、ピッチカートはまだしも弓などは聞けたものではなかった。それでも当時は一番良いピックアップだとベーシストに支持されていたので3個も購入した。しかし不満に思っていた私はウイルソンに変えて現在は気に入っている。周波数特性はあまり暴れていない、これだと弓を弾いても比較的ナチュラルな音がする。ここまでくるには何種類のピックアップを試したことか、思い出しても気が遠くなる。弦とも相性があるから一概に言えない難しい問題だ。ジャズベースをやっている宿命かも知れない。

up date 2000.8.26

●菅野先生の国分寺にあるお宅に私たち二人で遊びに行ったら「今日は銀座で仕事だ」という訳で、銀座にあるライブハウス「サイセリア」まで連れていかれた。トリオだったがベースは青島信幸さんで晴美は数曲弾かされた。松竹と東映の人が来ていて「菅野さんは裏番組でもやってるんだからヒドイよ」「俺の所為じゃないよ」なんて言っている。当時火曜サスペンス、木曜サスペンスとか土曜ワイド劇場なんかで必ず菅野さんの名前がクレジットされていた、超売れていた頃である。前にも書いたが作曲することはストレスの溜まる作業なのである、美しい作品を残してくれたが命を縮めたのは確かなのである。そうまでして書いた曲だ、菅野節を聞くと泣けてきて当たり前なのかも知れない。

up date 2000.8.26

●菅野さんのお嬢さんの香里ちゃんが5年振りにフランスから帰国し電話で話した。「フランスはロックに毒されもうだめだ」と言っていた。あとはベルリンかニューヨークしか無いといっている。絵の世界でも駄目になって来ているそうだ。東京のほうがまだましだとも言っていた。彼女はロックの世代である、その彼女がそう思うのだ。世界中病んでいるのかも知れない、我々がシャンソンだタンゴだジャズだと言ってもラジオをつければロックしか流れてこない。30年前は考えられなかった、当時は色々のジャンルの音楽がそこそこで聞けた、だからリスナーは選択することが出来た。現代この状況でジャズの隆盛を叫んでみたところで焼け石に水だろう。此の世にはもっと素晴らしい音楽はいっぱい有るのに今の若者は可哀想だと思う。発信する人、それに携わっている側の責任かも知れない。昔の音楽ディレクターは良く知っていてポリシーを持っていた。この現状を悲しいと思うのはオジンの証拠だと言われるだろうが「何とでも言ってくれ」と開き直っているのである。

up date 2000.8.25

●英会話の学校をやっている佐部さんというジャズファンがいる。70才をとうに過ぎているというのにカクシャクとしている。戦時中は海軍にいたが戦後通訳としてGHQに勤務してたそうだ。将校クラブでは主にグレンミラーなどの白人ジャズをやっていたが、黒人の下士官の集まる所ではホットなジャズが聞けたそうである。そちらの方が乗っていて楽しかったそうだ。ビバップをいち早く日本人として聞いたことになる。また秋吉敏子、ジョージ川口、宮沢昭、上田剛などそうそうたるメンバーの若い頃を聞いているのだ。昔からのジャズファンは頼もしいと思う。

up date 2000.8.25

●ミュージシャンは変わっていると他人からは思われているが、私に言わせれば違う。世の中の渡り方は下手で嘘が言えない人が多い、心底純粋な人が多い、だから嘘が通用しない。本音で付き合うからであるが騙そうなんて出来ないのだ。それに音楽は音に出てしまうから自分にも嘘がつけない、だから素で生きていくのが一番だと思う。ミューズの神は自分の心の中にいるから絶えずその足元に近づこうと努力することになる。般若心経のギャーテイギャーテイと同じである。ミュージシャンが仏教にはまる人が多いのも頷ける。精神世界の神髄、仏教哲学の中には答えが有るのかも知れない。もう何10年も経典やそのたぐいの本を読んでいるがいまだ解らない、道元のいう「黙って座れ」で内なる声を聞くのが正しいのかも知れない。日頃の内容とは今日はちょっと趣が違いますね。

up date 2000.8.24

●私ゃだいたいパソコンなんて物は好きじゃなかった。ワープロ時代から言えばかれこれ10年以上やっているが最近じゃパソコンの前にいることが多くなった。ローマ字入力に切り替えたら次第にキーを打つスピードは早くなった。タッチタイピングをマスターすればもっと早くなるのだが途中で挫折してしまった。私の知り合いで昔の日本電信電話公社で通信士をやっていたMさんがいるが電文を紙に書くのではなく、そのままタイプすると聞いた。だからブラインドタッチは当たり前だそうだ。彼がいうには数カ月練習すれば出来る様になると基本を教えてもらったが、なかなか後が続かない。どんな世界にも達人はいる、ワープロ検定なんかは本当に早く打ってるもんね。電信符号でも上手い人は胸がすくように軽やかに打っている。イヤーマイッタ、恐れ入りました。

up date 2000.8.24

●4年前にインターネットを始めたが、設定が難しく接続するまでに1週間かかった。同時にISDNにしたからTAの設定も含めての話だが、それにしても面倒だった。今年になってケーブルインターネットに切り替えたがイーサネットというネットワーク規格を使う、設定はいたって簡単ですぐOKだ。パソコンのインターネット設定も楽に出来るようになった。だから今後ユーザーはどんどん増えるだろう、通信料金はもっと下がるだろうし通信速度ももっと早くなるだろう。世の中便利になった、しかし先日メールをくれた方は以前アマチュア無線やっていてあのアナログの時代が懐かしいと言っていた。そうなのだ人間的であった、確実に意志が伝わることは良いことばかりではない。不確実だからこそ面白いのかも知れない、だってこちらの気持ちが全部伝わってしまったら恋の歌は生まれてこなかったかも知れない。そこに誤解があったりうまく伝わらないもどかしさがあるから恋歌があるのである。便利になること、それが人間にとって幸せなのかは誰にも解らない。

up date 2000.8.23

●RVCレコードから「オンリートラストユアハート/水橋孝」というLPが発売されていた。ベースリーダーのこのアルバムは水橋ゴンさんのテクニックが録音されていたし、彼の歌心を余す事無く表現されていたので、私はとても気にいっていた。ゴンさんに会ったので『あのアルバムは最高だ』と誉めたら『あのレコードのおかげでRVCレコードは立て直った』と言った。先日会ったので「ジョージ川口さんは元気?」と聞いたら『ジョージ革靴?』なんてダジャレ言ってた。大笑い、ミュージシャンとは面白い人種である。

up date 2000.8.23

●ホームページを開設したお陰で色々な方からメールが来るようになった。バンドをやっている人、昔のお弟子さん、アマチュア無線をやってた人等様々である。この「つぶやき」には嘘は書いてないから、全部本当のことであるがあまりデホばかり書いてると馬鹿じゃないかと思われるかも知れない。でも私ゃ昔から格好つけるのが苦手だから素のままの方が気が楽である。それに私たちの付き合ってきた人はみんなそんな人ばかりであった。だからありのままを書いたほうが良いと思っている。口が悪いのは先生ゆずりですから悪しからず。

up date 2000.8.22

●宮沢さんの音楽は「どうしてあんなに存在感があるのかその基は何だろう?」と思っていたら答えが解った。オペラのテノール歌手のそれである。歌うことの大切さ、その存在感はオペラを聞けば解る。テナーサックスで歌を歌っていたのである。ジャズの話よりオペラの話の方が多かった。パバロッテイ、カレーラス、ドミンゴなど聞かされた。椿姫のあのアリアは誰それのが良いとか、オペラ音楽は根本的に悲劇をあつかったものがヒットしたなどと御夫婦で私たちに教えて頂いた。「ジャズは屁みたいなものだが、それなのになかなか出来ないんだよ」と言っていた。音楽は奥が深い、それを極めるなんて神業だと思う。

up date 2000.8.22

●康雄の神戸の音楽学校で同級だったドラムのH君だが、コッペパンで東京生活している。今時珍しい音楽バカで根性ある奴だ。浜松にも数回呼んで共演した。広島出身の彼は原爆で親戚を亡くしている、どえらい右翼でアメリカ嫌いである。我々ミュージシャンはアメリカびいきだと思われているが、さにあらず、結構右翼がいるんです。康雄がH君と付き合ってきたせいで酒が強くなってしまった。『子供の頃熱が出て薬だよと、酒を飲まされ、大きくなるまで酒は薬だと信じていた』だから当然酒は強い、年期が入っている筋金入りだ。悪い友達と付き合ったもんだ。

up date 2000.8.22

●晴美は最近はソロピアノでも仕事をする時があるが、以前は必ずベースと一緒だったから左手の形はルートと5度がアボイドされていた。ソロばかりやっているピアニストはこれが出来ない。またソロあるいはベースがボーイングでオブリガートをとっている時などは、アボイドしていると和音の態をなさない。私は晴美がソロの仕事をすることを心配したのであるが無用であった。しかるに器用に弾き分けている訳だ。さんざんベースとのコンビネーションには苦労したから体に染み付いているのだろう。だてに歳を取ってる訳じゃないのである。

up date 2000.8.21

●北海道札幌から日野元彦が亡くなった追悼とも言える本、数冊が届いた。高校の先生を今春退職された森田さんが生前日野さんとの交友を一冊の本にしたためた物で、各所に彼の人柄を示す記述が見られる。小津さんが亡くなる前私たちを森田さんに紹介してくれLP「河童のあやまり証文」を送ってあった。宮沢さんとの最後のコンサートのライブテープを小津さんが送ってあり、其の中の「For Sons」を気に入ってくれたのでLPを送って差し上げた。この五月CD「飛翔」を作ったので札幌まで送った、そのお返しで彼のデビュー本を送ってくれたのである。彼は札幌のジャズファングループのリーダーである、そしてドラムスも好きで自身でも叩いている。日野さんがあの若さで亡くなって、止むに止まれぬ気持ちで執筆した気持ちは痛いほど伝わってくる、ファンとは本当に有り難いものだと感じた。

up date 2000.8.21

●私ゃどうもオカマに好かれるらしい。「つま恋」でデュオの演奏を終ったら、ナヨナヨした男がつかつかとステージに歩み寄り「右手を出して」と言った。何だろうなと思っていたら金色のズッシリと重いライターを掴ませ「これで私に火をつけて」とコキャーがった。「俺ライター持ってるからいらないよ」と言っても聞かないでテーブルまで連れていかれた。「ピアニストを見る目が気に入らない」と突然言われる、晴美は最初から笑っている。あれにゃー参ったよ、そう言えば私にも落ち度がある、右手の小指が立っていた。それからというものは小指が立たないように注意している。ベーシストの皆さん、小指だけは注意しなくてはいけません。オカマに狙われたらそれは小指の所為だから。貰ったそのライターはデュポンでフランス製、結構な値段だそうだ。記念に大切に保管している。「オカマ記念日」

up date 2000.8.20

●譜面を印刷するには普通の印刷屋さんでは駄目である。浄書屋という楽譜専門職があり特殊な判を使って5線譜を作る。「すてきな街浜松」の楽譜を印刷する時も専門の出版社に依頼した。しかし現代、パソコンソフトで綺麗に楽譜が印刷できるものがある。市販されている楽譜と同程度のものが出来る。こうなってくると浄書屋さんは仕事が無くなってしまう。便利になって来たが何か複雑な気持ちになる。「職人はいらない」と言われてるみたいでね。

up date 2000.8.20

●国分寺のライブハウス「アレキサンダー」に出演してた時、満席になるくらい沢山のファンが来てくれた。AFC(Alexander Fan Club)のメンバーで温かい好い人柄なのだが口が悪い、ウルサイ客が多いのだ。リクエストが来て知らないというと「女性ピアニストでその曲知らない訳がない」と言われて「勉強してきます」となる。大野三平さん、小川俊彦さんも出てるステージである。「ブルースはそんなんじゃない」と言われ「私ゃこれしか弾けないよ」と答える。そこへ持って来てリハなしの歌伴である、神経ピリピリでズボラの晴美でさえ胃が痛み、あくる日昼頃まで御飯が食べられなかった。アレキサンダーに通ったお陰でなまじのことでは動じない度胸がついた。やはり実弾の下を潜ってこないとダメだね。この5年間の経験は勉強になった、マスターの浅野さんには心から感謝している。

up date 2000.8.19

●ドクトル梅津のコンサートに行ったことがある。チャーリーミンガスなど前衛の曲をやっていてそれなりに面白いと思った。途中客一人をサックス、トランペット、トロンボーンなど全員で取り囲みフォルテでビャーとやる、その人は耳を抑えて泣きそうになる。何人かそれをやられて参っていた。周りの客は大喜びでコンサートは盛り上がった。あんな出鱈目をやるコンサートは始めてだったが面白かった。

up date 2000.8.19

●ドラムの岡田君とサンバブラジルの飲み放題へ行って来た。プリンプリンのお姉ちゃんの踊りを見るのが忙しく話どころではなかった。岡田君はデジカメを持って行きお姉ちゃんをパチパチ撮ってあくる日インターネットで送ってくれた。鮮明な写真で感激である、便利な時代になったねえ。私も試しに晴美の若い頃の写真送ってみたが駄目だった。再度ファイル形式をJPEGの素でやってみたが届いたかな?こんなことやって遊んでる、中年のエロヒヒジジイはやだねー。

up date 2000.8.18

●ジャズライフ誌上でコントラバスを電磁ピックアップする記事を目にし、日立市に住む著者に手紙を書いた。写真まで同封してくれ丁寧に説明してくれたのだが、簡単に言えば駒の所にエレキの電磁ピックアップをつけて弦の振動で直接音を拾う訳だ。オマスズさんがテストで使っている。これだとアコーステックな要素はあまり関係無くなりハウリングもなくなる。ただしエレベと原理は同じだから私としては抵抗を感じる。コントラバスの駒は半月状になっているから、ピックアップと弦との距離を一定にするのが難題である。私もやってみたが上手くいかなかった。こんな事やってると音楽屋なのか電気屋なのか解らなくなる。

up date 2000.8.18

●デュオで演奏していたら1曲終るごとに拍手がありお辞儀をしていたら、その拍手しているグループはコンコードレコードの社長が率いるスコットハミルトンやウオーレンヴェシエなどであった。「お前達面白いからテーブルまで来い」というのでお礼をしに行ったらスコットハミルトンは20才ぐらいのガキだった。彼はレスターヤングの再来とか言われて売り出し中だった。グランドホテルでコンサートがあり、メンバーが揃って飲みに来てた訳だ。またこんなこともあった、えらく喜んで拍手してる外人のジイサマがいるのでテーブルに行ったら、シカゴフィルのオーボエ奏者で世界一の人だと紹介されたが名前はわすれた。「私のオーケストラでもジャズをやってるヤツがいる」といっていたが、リチャードデビスのことだよね。ジャズが好きで自分が好きで聞いている古いカウントベイシーのカセットテープを10巻ぐらいもらった。お礼に私たちのLP「河童のあやまり証文」をアメリカまで送った。グランドホテルのステージ、時々ヤバイ客が来るから気を抜けない。開き直って誰が聞いてようが平気だと思うようになるまでかなり時間が掛かった。

up date 2000.8.18

●アレキサンダーでライブが終ると近くのロードという店に行く。そこで小津さんの講釈を朝まで聞かされる。『お前はあの曲で3連譜を36回弾いた、ベースは小賢しいことをせずしっかり4ビートを弾け』とか『ピアノのバッキングであんなに弾けば俺のオカズの入れるところが無い』とか、とにかく酔っぱらっているからクドイ話を散々聞かされることになる。晴美は途中で寝てしまう、僕は真剣に聞いているが空が明るくなる頃はさすがにダウンしてしまう。そんな事が毎月5年間続いた。小津さんも今はもうこの世にはいない、ベースはベーシストに習うものでなくピアノかドラムの相方に教えてもらうものだと思っている。「コード進行間違えると俺まで間違えちゃう」と言っていた。菅野さんは「あいつドラムのくせに左手が判るんだよな」と言い、オリジナル曲弾いても「スタンダードのあの曲とコード進行同じだ」と言われ参っていた。恐るべし耳の良さ。

up date 2000.8.17

●小津さんは40才から「ジャズプラザ」と称してツアーを企画していた。東北、中国、九州など地域を決めてコンサートツアーする訳だ。宮沢さんを冠したカルテットや、細川綾子さんを加えたバンドなどで計画されていた。そのスケジュールを送ってもらっていたが実に緻密、JRのダイヤなみである。宮沢さんは「小津マメ彦」「あんなに緻密に神経使ってたら音楽に集中出来ないよ」と言っていた。地元の人には大歓迎される、だから酒はガンガン飲まされることになる。行った先々でである、毎日そんなことが続くから身体がもたない、宮沢さんはそれをいつも心配していた。小津さんは胃ガンで亡くなったが解らんではない。神経使うのは良くない、ミュージシャンは根はナイーブだからね。生まれつき酒が強い人は別にして馬鹿飲みするとロクなことはない。皆さんほどほどにして下さい。

up date 2000.8.17

●どうも最近ナーバスになってしまいましたが、これではいけないと元気を出そうと思います。お盆休みもそろそろ終りです、早く涼しくなって欲しいですね。久しぶりに無線機のスイッチを入れたらディスプレイが故障しています。こりゃ修理に出さないといけません。機械というものは故障がついてまわります、調子良すぎるのは面白くありません。かえって調子悪いほうがいじっていて面白いです。しかし最近の回路技術の進歩は目ざましく部品は米粒より小さくて書いてある数字すら読めません。配線図は拡大コピーして虫眼鏡で読む有り様です。電子技術は基本的に変わっている訳ではありませんがとにかく小さくなりました。触ると却って壊してしまいそうです、「触らぬ神にたたり無し」ですね。

up date 2000.8.16

●私たちが菅野先生のレッスンを受けている時、「砂の器」を晴美がコピーしてきた。何とB♭マイナーと転調したところがC♯マイナーだった。菅野さんが譜面を見て「俺がこんな難しい曲書く訳ないだろう馬鹿」と言った。(オリジナルキーはAmとCmである)レコードプレーヤーの回転が早くて半音上で採ってしまったのだ。今はCDの時代だからそんな事はないだろうがあれにゃ参ったよ。カセットはいいかげんだからピッチが合わないことがある。機械を信用しちゃだめだよ。

up date 2000.8.16

●機械いじりが高じてプロの技術者になってしまった。音楽道楽がすぎてプロミュージシャンになってしまった。私は一番好きな事は道楽でやるのが最高だと思っている。この稼業だって2番目に好きだから続いていると思っている。私は多芸多趣味で凝り性だからどれが何番なのか良く解らないが、とにかく興味を持ったものはとことんやらないと気が済まないという性格でやってきた。よく無趣味の人がいると聞くがその人の気持ちがさっぱり解らない。

up date 2000.8.16

●毎年8月15日が来ると悲しい思いがします。1983年8月15日、それは菅野光亮先生の命日だからです。私たちは11年の長きに渡って先生の指導を受けていました。というより仲の良い兄弟という間柄だった。彼の音楽を素晴らしいと思うのは勿論ですが人柄がとても好きでした。夜中によく電話が掛かってきました、八丈島からも掛かってきました。亡くなる数日前「今やってる仕事を片ずけたら、浜松へ行くからな」それが最後の会話でした。浦川へ虹鱒を釣りに行く約束をしてたのです、楽しい期待は早朝の電話連絡で暗転しました。折りしも台風が来ていてホームでしばらく待たされ新幹線に飛び乗ったのです。忘れたくても忘れられない思い出です。今年は7月の義兄の死に続き宮沢さんが亡くなりました、夏はあまり好きな季節に感じられなくなりました。「翳」という菅野先生のオリジナルを聞いて彼を偲びます。

up date 2000.8.15

●宮沢さんのお宅を車で訪ねたが三鷹市牟礼と聞いていたので、これは甲州街道を行けば良いなと勘が働いた。国分寺のアレキサンダーに良く通ったから土地勘が出来ている、地図を頼りに辿り着くことができた。環八通りから甲州街道に曲がると並木道で昔と変わっていない、当時食事したレストランもすぐに見つかった。台風が近づいているなか、日帰りの強行軍だったが懐かしさがこみ上げてきた。晴美は一度通った道は忘れない、三鷹の「此の道は通ったことがある」という。あの記憶力には脱帽である。

up date 2000.8.15

●今だに考えても解らない事がある。それは宮沢さんがどうして浜松に移り住んだのか理由が解らない。まだ相模原にお住まいの頃、3rdリサイタルで宮沢さんをゲストによんだ時、気よく来てくれたこと、晴美が感激のあまり涙を流したことがある。そのぐらい雲の上の存在だったのです。宮沢さんはインタビューで私たちのことを「夫婦でがんばってるのは日本でも珍しい」と言ってくれた。それが理由か解らないが、それから半年もしない内に浜松の人となった。名古屋だったら活動範囲だしファンや内田先生も居たし便利だと思うのだが、何故か浜松だったのである。ただ天竜川の鮎釣りのポイントは地元の私より良く知っていた。とにかく10年間この浜松を活動拠点とし、私たちに音楽の神髄を指導してくれた、これを神に感謝せずに誰に感謝しろというのか。

 up date 2000.8.15

●先ほど東京より帰ってきた。晴美と二人で三鷹のお宅へ伺い、去る7月6日亡くなった宮沢さんの御霊前に生前のお礼をして来た。奥さんにも浜松時代には大変お世話になったお礼を申し上げてきた。私たちは10年間音楽の神髄を勉強させてもらい何とお礼して良いか言葉も見つからない。音楽の歌うことの大切さ、それを身を持って教えて頂いた感謝の気持ちは例えようもない。本に書いてあることは読めばよい、しかし書いてないことは経験して解るしかない。何ごとにも換えがたい経験は、私たちの音楽の向上に本当に役に立った。おかげで音楽の深さと素晴らしさを教えて頂き、身体中震えがくるほど喜びと興奮を覚えました。あんな天才はもう生まれてこないかも知れない、「日本の音楽界の星であった宮沢昭さんが天に召されたことの損失は計り知れない。冥福を祈ります。

 up date 2000.8.14

●森剣治、鈴木勲などのグループでコンサートがあった。前の席に座った私たちであるがエリックドルフィーなどのかなり過激な演奏が始まって、しばらくすると晴美がフガーと寝てしまった。あんなやかましい音の中でである。その日はグランドホテルの仕事があったのだが、さっきのオマスズ(鈴木勲)さんがそこに現れたのである。一緒に演奏させてくれという訳だ。晴美とオマスズさんとは初対面である、『コードをもう少し考えたらよい』などといっていた。彼のブルースフィーリング、歌心はベース弾きの鏡である。彼は酒もコーヒーもだめ、残るは博打とナオンしかないね。うん。

up date 2000.8.13

●ボニージャックスの伴奏をトリオでやった。コーラスグループの歌伴は珍しい仕事だ。ステージ途中、グランドホテル社長の戸田さんがI Left My Hart In San-Franciscoを歌ったのが印象に残っている。

up date 2000.8.13

●東京後楽園にコントラバス専門の「文京楽器」という弦楽器店がある。ロンカーターがピッコロベースと称して小型のベースを弾き出した頃、その楽器店で開発されたピッコロベースを見てみたいので後楽園まで行ったのである。普通サイズの4/4といわれている楽器は弦長107cmぐらい(上駒から下駒までの長さ)が標準であるが、その楽器はエレベのロングスケールに近い感じだ。「この楽器は半音のピッチが狭く、普通の楽器の音程が悪くなるから弾かないほうがいい」と担当者は言う。私も色んな楽器に触ってきたがただでさえピッチが微妙に違うのである。作音楽器は自分の耳で音程を確かめながら弾いている。ピッチが良いことが重要である。「ジャズで使う場合、楽器の善し悪しよりピックアップと弦の種類で音質は決まってしまう」と悲しそうにいう、良心的な担当者だった。ゲーリーピーコックの楽器の世話をしたなどと聞いた。最近フレットレスのエレベを弾いたことがある。弾く事は出来たがコントラバスとは次元の違う楽器だなと思った。大体弓が使えない、私はボーイングを多用する。クラシカルな曲、内声の動きが美しい曲、エンディングをルバートする場合などである。その場合ピアノはルート音をちゃんと弾かないと音楽にならない、なんて理論の講議みたいになってしまいました。

up date 2000.8.13

●船の上で演奏したことがある。これは岡崎の内田修先生が持って来た仕事なのだが、安城の高校の課外授業で船の上でジャズを聞こうという企画だった。宮沢昭、森剣治、海保安津雄(Tp)竹内晴美、竹内俊介、小津昌彦のメンバーでやることになった。大阪港の近くのホテルに前日泊まり、そこから豪華船に乗り込んでコンサートをやる訳だ。ちゃんとピアノだってあるんだよ、動かないようにしっかり固定してあったけど。大きな船の上とは言ってもゆっくりとローリングしている、あんまり気持ち良いものではない。そんなこと考えてる暇もなくコンサートは終った。到着は高松港、そこから岡山に渡り新幹線で帰って来た。この稼業、変った仕事もたまにある。

up date 2000.8.12

●なんでやらされたのか思い出せない。とにかく其の時のグランドホテル、スカイラウンジはミュージシャンで満席になっていた。そこでタンバリンソロというのを始めて聞いた。フルバンのラッパ奏者なのだがラテンの曲のブレークでそのタンバリンソロが始まった。客は全員ミュージシャンだ、馬鹿受けである。ジョージ川口さんとブルースなど数曲やる羽目になった。『ウマいぞ!ヘタくそ!』などと野次が飛び、もう収拾がつかない乗りまくり、ああいう同業者内輪のパーティーはまいっちゃうね。

up date 2000.8.12

●秋田のT先輩に勧められてパソコンの世界に突入したことは前にも書いた。彼は高橋さんという秋田テレビに勤務する音声の技術者である。学生時代からクラシック音楽に明るく創元社から刊行されている厚さ6cmもある「名曲を尋ねて」という本を読めと勧めてくれたが、おかげで仕事でも役にたった。クラシック音楽はフォルテシモとピアニシモではかなりのダイナミックレンジがある、録音ミクサーは音楽を良く知っていなければいけない。彼は卒業してしばらく銀座で録音ミクサーをしていたが社長(高橋さんのあだ名)の録音は音楽に乗っていてナチュラルだと我々後輩は評価していた。その後郷里秋田でやはり音屋になった、パソコン使いの草分け的存在だが、今春ホームページを開設した、私もそれに影響されてはまってしまった。彼の開設するページのテーマは温泉とお酒であり、さすが東北の土地柄が色濃く出ている素晴らしいページだと感心している。温泉と日本酒に興味のある方は必見です、是非見に行ってください。http://www.hi-ho.ne.jp/ksymbol/

up date 2000.8.11

●どういう訳かFM静岡の番組で、江守徹と対談生放送に晴美が狩出されたことがある。どうみてもミスマッチ、いくら人材不足とはいえ変な放送だった。話の内容は当然覚えていない。

up date 2000.8.11

●アマチュア無線を始めたのは僕がラジオ少年だった1961年(昭和36年)でまだ中学3年生だった。ラジオや無線機を自作する毎日だった。開局するとコールサイン(呼出符号)を郵政省電波管理局から発給してくれる、JA2CWOだった。受験勉強そっちのけの無線三昧だった。その後私はナショナル(松下電器)のカラーテレビ技術者になったが、仕事で電気機器を扱っていると家に帰ってまでもやりたくない。ハム(アマチュア無線)のほうは休んでしまった。無線局の免許は5年間で失効する。時は過ぎドラムの守新治がハムにはまり「竹内さんまた開局して下さいよ」と勧められ再開局した。コールサインはJA2CWOをもらえず違うコールサインで5年間運用する羽目になった。ハムをやる以上上級資格を欲しくなる、嫌いな道ではない、無線工学を勉強し直し頑張って1級を取ってしまった。不得手な電信の国家試験がある、半年の間モールス符号と格闘して名古屋の試験会場で受かったのである。高知のピアニスト、マンちゃんも中学時代からハムをやっていて1級の免許も持っている。ピアニストの渋谷毅さんも電鍵を叩いていると聞く、アバコの堀君も、またタモリもJA6のコールサインを持っている。こうしてみるとミュージシャンでハムをやっている人は結構いるんだなあと思う。ちなみに亡くなった小渕首相もハムだった。コールサインは世界に一つしかない、自分の名前の次ぎに大切なものだ。平成9年、コールサインの再割り当ての法律が変わりJA2CWOに戻ることができた。ハムはKing Of Hobbyと言われている。国家試験のあるこんな面倒な趣味も珍しい。

up date 2000.8.11

●菅野さんの音楽は多彩で「シャガールの絵のようだ」と称した頃があった。こんな言い方では解らないかも知れないが、解る人には解る。他の言い方より的確に言い得ていると思う。僕は絵が好きで高校生まで描いていたから少しは解る。菅野先生の母親は画家だった、お宅にお邪魔するとお母さんの何10号かの作品が壁に架けてあった。先生と話す時はレンブラント風とか印象派の誰それ風とかいう表現を使った。お嬢さんはフランスに渡ってもう長い、絵の勉強をしている。未亡人はもともとバイオリニストである、菅野先生の作品はバイオリンの使い方がすごくいい、「泣きのバイオリン」と我々は言っていた。ピアノは勿論本人が弾いていたが泣かせていたもんなあ。あれだけピアノを鳴らせる人はいなかった。スコアと劇伴のオープンテープはほとんど私たちの手許にある。

up date 2000.8.10

●ギターの富さんに聞いた良い話がある。彼は東京荻窪の出身だが、祖父は飛行機の設計をやっていた技術者だと聞いた。戦時中は中島飛行機に勤務していたそうだ。富さんが音楽の道に進みたい旨を告げると、そのおじいちゃんは「戦時中戦闘機という人を殺す機械の設計に従事していた、音楽は人に幸せを与える仕事だ」と賛成してくれたそうだ。私の母も同じ事を言った、私は河原乞食だとか此の仕事を卑下して言ったら「人に喜びを与えることは素晴らしい、親孝行だ」と言われジーンとした。ジャズなどやっているとどうしても天の邪鬼な考えになってしまう、身内に面と向かってそう言われると「ああ、解ってくれてるのだな」と素直に嬉しくなる。私の姉は日本舞踊の舞踊家である、小さい頃からやっているがイバラの道であることは変わりはない。その姉と話をすると必ず母のことになる、「私たちはあの母の子で良かったね」と感謝している。

up date 2000.8.10

●私が技術屋あがりであることは前にも書いた。時々機械を直したりしていると、道具箱にドライバーが無かったりスパナが無かったりする。仕事ができないとプチっと切れる、私ゃ気が短いからね。犯人は息子達である、全員バイクにはまっているからやたらいじっている。まあ変な所が私に似ちゃってるから怒るに怒れない、「ボルトの頭見て何ミリのスパナかすぐ解らんようじゃ駄目」だと教育してるからね。最近じゃ全員ピタっと当たる、たいしたもんだ。13ミリと14ミリの違い、目で見て当てられますか?本田宗一郎は目的のスパナを渡さないと、そのスパナでぶん殴られたとその当時一緒に仕事やってた人から聞いた。浜名湖の舞阪港の堤防の上で釣り糸を垂れていたら、隣で釣っていた人からその話を聞かされた。浜松の技術屋はみんな気が短いんだね。

up date 2000.8.10

●ピアノの録音が出来れば一人前だと言われ随分悩んだ、ミクサーとして難しいことは確かだ。だいたい音が出ているところが弦だけではない。足のキャスターを替えただけでも響きが変わってしまう。響板、フレーム、ハンマー諸々が総べてに関係がある。浜松はピアノを勉強するには最高だと思う、すぐ近くにコンサートピアノの技術者が住んでいたりする、ヤマハも河合もである。彼等は技術者として真摯な姿勢をしているし率直な意見を持っているから私は好きだ。良い物は良いと言う、たとえそれがライバル会社のものであってもだ。録音屋の耳で聞いてもどんな良いマイクを使おうと生音にはかなわない。はずかしい話だが、私が数10年録ってきて納得できるのは数えるしかない。そんな奥が深い世界なのだ。

up date 2000.8.9

●ジャズにのめり込む前ラテンにはまった頃がある。トリオロスパンチョスが好きでレコードを良く聞いた。あのレキントギターを聞くと血が騒ぐ、息子達がやっているエレキギターの音は耳が痛くなる。ギターはガットだよね、なんと言っても。独断と偏見だけど、どうしても同じ楽器だとは思えん。もともと電気屋なのに電気の音は大嫌いだからね。「偏屈ジジイ」と言われようが嫌いなものは嫌いだ。「こうなりゃ意固地になっちゃうよーん」と言っている頑固クソジジイでした。ターギの皆さんゴメン。

up date 2000.8.9

●自分で開発したギターをアメリカから浜松の楽器メーカーに売り込みに来た変なギタリストに1週間付き合ったことがある。「俺はオスカーピーターソンの友人で共演もした」なんて言ってた、彼が出版した音楽理論書をもらったが何処かへ行っちゃった。ミスティーではE♭majで始まるがD7を使うと良いと教えてくれた。ドラムの代わりにギターでやるトリオはピーターソンもやっているがギターの音域とベースがぶつかってゴワゴワして良いサウンドがしない。バッキングの時は生でシャッシャッとカッテングすればOKだ。そこらの所を良く解っているのが富さんである。彼とは一緒にやってもサウンドのことで嫌な思いをした事がない。ベイシーバンドでフレディーグリーンはアンプを使わずオール生だということを考えてほしい。

up date 2000.8.9

●メールで菅野光亮作品集「愛のバラ」の問い合わせがあった。その方は何年も前から「砂の器」の楽譜を探していたそうで、その曲集に載っているかとの問い合わせであった。菅野先生が亡くなって程なく未亡人の紀代さんがピアノ曲集を出版することを計画した。我々弟子たちはすでにアレンジャーとか演奏家になっていたが出版にあたってその編曲を担当することになった。「砂の器」を始め劇伴やLPで発表した曲から12曲を選び、それぞれがアレンジして一冊の曲集が出来上がった。表紙はお嬢さんの香里さんがデザインした。晴美が担当した5曲のうち「砂の器」は難しく書き過ぎて本人も上手く弾けないという難曲に仕上がり「翳」は校正ミスで嘘が書いてある。でも菅野節が感じられるとても良い曲集だと思う。ホームページに載せておいて良かった、こうして問い合わせがあるということは菅野光亮がみんなの心の中に生きているということだ。私たちは菅野さんの曲を演奏している、本当にロマンチックな曲で涙が出てくることがある、美しい曲を残してくれて感謝している。8月15日は菅野先生の命日である。

up date 2000.8.8

●戦後の昭和20年代、楽器が出来れば何でも良い、東京駅八重洲口に楽器を持って立っていると、トラックとかジープが来て「ピアノ、はいサックスはいるか?ベースはいるか?」てなもんで即席でバンドを組んで連れてっちゃうんだそうだ。どこに連れていかれるか分らない。随分乱暴な話だが、本当だそうだ。それでもバンドにランク付けがあってABCとあったそうだ、宮沢さんのバンドは特Aで将校クラブで演奏しギャラも良かったそうだ。GHQは将兵の慰安の問題にいち早く対処していたのだ。占領下の日本、戦後のドサクサという言葉があるが正にドサクサの話だね。

up date 2000.8.8

●おとなしい人と言えば谷啓さんである。国分寺のライブハウス『アレキサンダー』に通っている頃、近くに同じ経営の『ロード』という店があってライブが終るとその店に行くのだが、谷さんと二度ばかりお会いした。カウンターにいるのだが静かにしているから気が付かない程だ。菅野さんが元気な頃、谷さんと『アレキサンダー』でよくセッションをやった話は聞いていた。アレキサンダーの常連さんと一緒に三鷹にある谷さんのお宅まで遊びに行ったことがある、クレージーキャッツのみんなの楽器が置いてあった。ガーデンパーティーだったのだが蚊に刺されて酷い目にあった。タイガーバームというメンタムみたいな強力な塗り薬があってかゆみが治まった。学生当時『コーンをあれだけ鳴らす奴はいない』と語り種になっていたもんなあ。テレビで見るとは大違い、静かな人だ。タイガーバームを見ると其の時を思い出す。

up date 2000.8.8

●私たちの知人で太田保世さんというお医者さんがいる。博さんが亡くなってLPを作ったがそれを聞いて私に連絡してくれ知り合った方である。菅野光亮さんと鈴木博さんの両方を知っているのはミュージシャン以外では珍しい。彼は東海大学の医学部教授を定年前に辞して福島県郡山市の(財)太田総合病院副理事長、付属太田西ノ内病院長にこの4月に就任したと案内を頂いた。呼吸器の専門家である彼はNHKにまじめな顔で出演していたが実はジャズファンでシャイな人なのである。菅野邦彦のLPにはちゃんとライナーノーツを書いている。その彼が東海大学を退任するにあたって「風のこころ」という随想集を出版し送ってくれた。演奏休み時間に楽屋でその本を読破した。仏教をこよなく愛しその哲学は慈愛に充ちていると感じた。読み終わる頃インフォームドコンセントの項を読んでいる時、義兄の肺がんが見つかったのである。私は患者の苦しみと主治医の苦しみを知った。太田さんの送ってくれた本は「老いの構図」「続 老いの構図」そして「風のこころ」である、すべて座右の銘となる内容を含んだ良書だと思う。人生を真っ向から見据えた真摯な姿勢、それに感動した。その反動でこのエッセイを書こうと思った、私ゃ根が天の邪鬼で不真面目だからね。

up date 2000.8.7

●夕方庭の細葉を鋏で刈っていたら遠くで蕨餅を売っている声が聞こえる。汗だくになったので一風呂あびたら、丁度自家の前を通ったので呼び止め蕨餅を買った。良く冷えた蕨餅だったので生き返った。昔は自転車に箱を付けた蕨餅売りが夏の風物詩だったが現代では珍しくなった。もっとも今日の蕨餅売りは軽自動車にスピーカーでテープを流しながらだったが、一瞬風流を感じた。こんなこと言ってるのはもう歳ってことかな?

up date 2000.8.7

●ボーカルの細川綾子さんは玄人受けする実力派で、サンフランシスコのクラブや全米ツアーで歌っていた人だ。英語が綺麗でアメリカ人が聞いても誉めるそうだ。そのはずだ、アメリカに23年住んでいたそうで「英語で夢を見る」と言っていた。そのぐらいでないと説得力のある歌は歌えないんだね。セッションしていてその違いが判る。言葉の壁というのは横たわっている、楽器のフレーズだって英語圏と日本語圏の人じゃ違うもんね。ミュージシャンが仲間内であいつは凄いと云われてる人はやはり何処か違う。努力だけじゃどうしようもない何かがある。

up date 2000.8.7

●昨日猫たちをシャンプーした。タマちゃんはお湯をかけられヒョロヒョロになって何とも情けない格好である。シロちゃんは7Kgもあるデブ猫だから濡れてもドシっとしているが、2匹とも嫌がってギャーギャー鳴く。水を好きな猫はいないと思うから毎回嫌われてもやっている。クロちゃんは殺気を感じてどこかへ逃げてしまった。フテーヤロウだと手ぐすねひいて待っているのだが姿を現わさない。猫のシャンプーは大変だぜ、私だってびしょ濡れになるし汗だくでやってるんだから。

up date 2000.8.6

●細川俊之の歌伴をやることになった。どちらかと言えばシャンソン系の歌を歌っている彼、本当はジャズが好きだと言っていた。ニガリバシッタいい男、オバさんにえらく受けていた。何の曲やったか忘れてしまったが、一曲えらくミスってやり難かったのは覚えている。

up date 2000.8.6

●シャンソンの中原美沙緒の歌伴をやることになった。譜面を見ると、菅野光亮のアレンジ譜があった。とても懐かしい気分になった。そう言えば菅野先生、シャンソンの仕事を随分やってたなあ、石井好子、戸川昌子、古賀力や水森亜土まで付き合ってたもんね。銀座「銀巴里」時代からやっていてジャズのミュージシャンからは「シャンソンの人」と思われていた頃もあったぐらいだから。もっとも彼に言わせればジャズもシャンソンも同じだと言っていた。「音楽には良いと悪いとしか無い、ジャンルは関係ない」と言ってた。

up date 2000.8.6

●アクセスカウンターを設置しました。

●長年ジャズをやっているとクラシックに憧れる。それはクラシックの完成度にである。ロマン派の限り無く美しいメロデイー、弦の美しい響き。印象派からそれ以降のモダンなハーモニー、ジャズがクラシックを超えているとは思えない。ヨーロッパに始まったクラシック音楽が世界に広まったのは楽譜、そう記譜法が確立されたからだと聞いた。それとグーテンベルグの印刷技術の恩恵がある。メニューヒン(バイオリニスト)が音楽の歴史をシリーズで放送したことがあった。それによると最初は5線なく音符も今のように全音符や2分音符、4分音符などが確立していなかった。年数が経って今の記譜法が出来上がった。また和太鼓の譜面はテレツクスッテンテンと書いてあるし、笛はヒャリトロヒャリヒャリと縦書きで書いてある。インドネシアのガムラン音楽には楽譜が存在しないから口伝で教えるしかないと聞く、先生と生徒が楽器(ガンバンといってマリンバのようなもの)を挟んで向かい合い直接教えるのだ。民俗音楽に耳を傾けよう。そうしてみると楽譜が有ると無いとじゃ便利さが違うものですね。ただ音楽は譜面を読めばそれで良いという訳ではない、其処が難しい所です。今日は中学の音楽の授業みたいでした。「起立、礼!」

up date 2000.8.5

●我が家の愛猫はシロちゃんとタマちゃんともう一匹、全部で3匹生れたのです。(写真参照)子猫ほしい人を探したら自家まで親子2人で貰いにきた人がある。3匹を念入りに調べてブチの子を気に入って貰っていった。それから2年以上たったある日、その子猫が成長した写真を見て飛び上がった。目がパッチリで毛の艶の良いものスゲーいい猫が写っていた。その貰っていった人、「猫を見る目があるなー」と感心するやら損したなあと思うやら複雑な気分だった。私ゃ生まれつき猫好きで猫と話ができる。猫と話してたら隣の部屋で晴美がそれを聞いていて『おとうさんもついに独り言をいうようになってボケが始まった』とコキャーがった。チガワイ!

up date 2000.8.4

●キャンデー浅田というボーカリストと数回付き合った。ドラムは小津さん、例により打ち合わせ無しのぶっつけ本番で曲が終わり頃、浅田さんが客には見えずバンドに見えるように腰の辺りでサインを出す。指を3本なら3度マイナー、2本なら繰り返しなどである。あれでバッチリだったもんなあ、リハやるなんてバカだぜ。カルテットの時ピアノソロが長過ぎて次ぎのコーラスのサビからサックスが入ることがある、宮沢さんは独特の指の型でメンバーにサインを送っていた。出すタイミングは早からず遅からず、野球の監督が出すサインよりずっと分かりやすかったよ。

up date 2000.8.4

●思い出したくないライブがある。岡崎資夫カルテットで「つま恋」に出演してた頃、ゲストで宮沢昭を呼んでコンサートを開いた。ドラムは小津昌彦の予定だったが奥さんが急病でトラのタイコが来た。宮沢さんはレコードでしか聞いたことなかったので『あんなノタリ捲ったサックスどうすればいいの?』と小津さんに聞いたら『聞かずに聞け』と禅問答のような答が返ってきた。それでも不安はあったのだが小津さんと一緒なら何とかなるだろう、と思っていた。ところが急きょトラのドラムである、悪い事にリズムの芯が解らないドラムときたもんだ、あんな惨めなライブは始めてである。悪い事は重なるものだ、その日「つま恋」に渡辺貞夫さんが来ていた。先輩である宮沢さんが来てるなら一緒に吹こうとなったのである。客は勿論喜んだ。宮沢さん、渡辺さん、岡崎さんをフロントにライブは続けられたが、こちらリズム隊のほうは真っ青である、早く終ってほしいと願ったくらいだ。その時の録音が残っている、それをCD-Rに焼いたそうで勘弁してほしい。情けなくて泣きたくなる、末代の恥だ。

up date 2000.8.3

●博さんが亡くなって「追悼のライブやるから出て来い」と秋山さんというファンから連絡があった。場所は文京区白山にあるサパークラブを借り切って行われた。ドラム日野元彦、ピアノ本田富士男、ボーカル森山浩二、ピアノ大野三平などが集まった。森山さんのバックを私たちでやることになった。彼は中折れ帽をかぶっていたが理由が分かった、ゲーハーだったのだ。アッこんな事書いちゃってごめん。本田さんと付き合ってたベーシストの名前を忘れちゃった、ただ楽器はペルマンでいい虎斑模様がでているゴキゲンな楽器だった。それだけ記憶にある。

up date 2000.8.3

●FM静岡の開局したての頃、番組「サウンドインテリア」に二人でレギュラー出演していた。番組に出る為にデュオの演奏を38cm/sで録音して、テープを持ってスタジオまで行かなければならなかった。これはかなり大変なことで、ピアノの調律を毎回やらなくてはいけない。お金も手間もかかることである。私は根木さん(ネギドラムの社長)に調律を習って自分のピアノはチューニングしていた。だからしょっちゅうやったお陰で上手くなった。今も自家のピアノ、チューニングは調律師に頼んだことはない。だが止め方が悪く、「すぐユニゾンが狂う」と晴美が文句をいうが「ピアノは狂うもんだ」と反論する。LP「河童のあやまり証文」のレコーディングの時、河合楽器ピアノ研究所でやったのだが、楽器の為の空調で室温一定なのに一曲録るごとに3回調律やり直しで調律師が付きっきりだったもんなあ。シビアに考えると大変な楽器だ。もっともEXというコンサートピアノ、まだ開発されてまもなく(使用した楽器は22号)スタッフもピリピリしてた頃であった、日本中のピアニストが注目してたからね。ヤマハCF3と河合EXは共にショパンコンクールに採用されたのもその頃だ。これでスタンウエイ、ベーゼンドルファー、ヤマハ、カワイと4社出揃ったのだ。私だって愛知芸大のピアノ科の教授と一緒に工場見学したんだから。

up date 2000.8.2

●ミュージシャンは面白いことを考え出す天才だといったが、まだミュージシャンになる前の笑える話がある。バンド仲間が集まった学生食堂でのことだ、そこではアンパンやカレーパンを売っている売店があった。突然「銀蝿印のカレーパン」と言ったヤツがある。これは全員に受けた、大笑いである。どうしてこうも馬鹿なこと考えるんだろうねえ。インパクトがありすぎて忘れられない。それからというものカレーパンを見ると銀蝿印の、と言ってしまう。

up date 2000.8.2

●宮沢さんは越路吹雪さんの歌判を13年間やっていた。巷ではジャズからシャンソンに逃げたなどと勝手に噂されていたようだが、真相は違う。越路さんを芯から尊敬していたのだ。最初は宝塚の出身ということで気乗りしなかったそうだが、奥さん(元ソプラノ歌手で戦後コンクールで日本一になった人である)の強い勧めでやることになったそうだ。奥さんによればクラシックの声楽家も越路さんの歌は誉めるそうだ。歌は数分間の劇である、娼婦から貴婦人まで演じ切るのである。彼女は天才だと言っていた。私たちは「サントワマミー」「愛の讃歌」などヒット曲しか知らなかったが「セラヴィ」「ジュテムレ」「初日の夜」など最高なのである。越路さんは気が弱くて初日などは楽屋でソワソワ、立っていれない程だったそうだ。両脇かかえてステージの真ん中へ立たせ緞帳が上がればシャキっと舞台上の人になる。そんな彼女の歌をオブリガートで支えていたのだ、『もし彼女が倒れたらサックスぶん投げて助けに行く』そんな気持ちで吹いていたそうだ。私のようにジャズが最高だと思っていたのは勉強不足、其の素晴らしさを知らなかったからである、良いものは良いのである。

up date 2000.8.1

●世良譲トリオに川上修というベース弾きがいた。私たちの出演していた磐田グランドホテルに女性ずれで来たことがあった。ちょっと弾かせてくれと頼まれて、どうぞという事になった。テクニシャンの彼、ピアノがソロとってるのかベースがとってるのか分らんぐらいだった。「最近1千万の楽器を手に入れた」と彼は言った。ミュージシャンはホラを吹くから信じられないが、年々良い楽器は高くなっていく、本当かも知れない。ゲーリーカーの楽器はクレモナ地方の名品、かのアマティ(1611年製、400年たってるからね)だが値段がつかないと聞いた(国宝級)。弦楽器は上限がない、辻久子のようにストラディバリウスを買う為に家を売ったバイオリニストもいる。

up date 2000.8.1

●康雄が中学3年生の時静岡県学生音楽コンクールに応募した。予選を「シャンソンとパスピエ」で通過して本選に出場資格を得た。本選自由曲は「アンダンテとアレグロ」だった。伴奏は晴美が務めたが母親が付き合う出場者は他にはいなかった。おかげで中学生管楽器の部で銀賞を受賞した。中学卒業まじか高校受験の前日に、日本舞踊とジャズの共演『飛翔』のステージで吹かせることになった。その後高校3年間はクラシックに進むつもりで晴美もクラシックの難曲に付き合っていたが、今思えば其の時すでに進む方向は決まっていたのかも知れない。両親揃ってジャズにはまっているんだから環境は悪かったのかもね、「カエルの子はカエル」と言われればその通りである。

up date 2000.8.1

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