新しい何か



「……晴美、」


碁会所はわりと静かなところで、その時もたまたま、
奥に座っている僕にもその声が聞こえてきた。
反射的に入り口の方を見ると、市河さんと同じ位の年齢の男性が立っていた。
碁盤に向き直ってから、ふと気がついた。

(そっか、市河さん、晴美って名前だっけ)

悲しげな顔が気になったが、自分に何ができるわけでもなかった。
小さな声で、やっと彼女は応えた。

「どうして、ここに……?」

「電話、出ないから」

「……そっか」

「ちょっと、いい?」

彼は、外を指差した。市河は眉を顰めた。

「仕事中だから」

「大事な話なんだ、すぐ終わるから」

「……わかった、じゃ、外で待ってて」

こちら側に向き直った市河さんの気配を感じたが、僕は無意識のうちに、
そちらを向かないようにしていた。

「……すいません、受付をお願いできますか?」

「…ああ、いいよ、いっといで」

その役はたいていは平瀬さんが請け負った。

そして、二人は出ていった。


    *   *   * 
   

まさか、職場に来るとは思わなかった。
会わなくなって、もう2ヵ月くらい経つかしら?
最初はすれ違いが続いて、
その後“あの娘”と歩いているのを見かけてからは、電話もしなくなった。
気付いてるわよね、私の態度が変わった理由……。
近くの喫茶店に入り、二人とも黙ってアイスコーヒーをすする。
沈黙を破ったのは彼。

「…元気?」

「…うん」

(バカね、優しくするなんて。勘違いしてもいいの?)

「確かに久しぶり…なんだけど、私、仕事中だから、ね?」

急かすなんて、どうかしてる、私。
言わなくていい、言わないで。
聞きたくないから、今日まであなたを避けたのに。

「時間、ないよな、そうだよな…」
 

こんなにあっけないものか、と思うぐらい、彼は自然にさらっと、切り出した。


「別れたいんだ」


「うん、わかってたよ」

何度も頭の中で練習した言葉だから、すっと言えた。

「…ごめん、晴美」

自然に、さりげなく。ここでボロ泣きしたら負けだもの。

「やっぱり、そう言われちゃうとつらいけど、まあ、思ってた程じゃなかったよ」

「……」

「今、気になってるヒトもいるし」

嘘。

「そう、なのか…?」

あ、安心した表情、ちらっと見えた。

「そうよ」

「うまく、いくといいな」

「ありがと。他になければ、戻りたいんだけど」

「あ、悪かったな」

「ううん、じゃあね、もう会うこともないと思うけど」

「ああ、元気で、晴美」

「……」

大人げない。二十歳にもなって、『元気で』、って返すもんか、
と思ってしまった。

伝票を掴んで店を出る。
あの人の視界から外れた所から、走りだした。
一回でも振り返ったら、引き戻されそうな気がして。
バカなのは私のほう。冷めたふりをした。

最後の顔――申し訳ない、の中の数%の安堵。

涙が出ない筈はなかった。

出ない、筈は。


    *    *    *    


帰り道、途中でトイレに籠もって泣いた。

誰にも見られたくない。

たぶん、もう平気。そう思って碁会所に向かった。


    *    *    *    


「どうもすいません、戻りました…」

「おかえり」

戻ってきた市河さんとあまり目を合わせず、広瀬さんはカウンターから離れた。
市河さんの様子はよくわからない。
誰も話し掛けなかった。
僕は、話したかったけどできなかった。

(なんだろう、この空気は……?)

コーヒーカップの洗い物を始めたのを見て、空のカップを持っていった。

急に近づいたわけではないのに、びっくりさせてしまったらしく、


驚いて振り向いた顔は。―――泣いて、いた。


    *    *   *    


どうして?いつも笑ってる市河さんが、今日は別人のようだ。
正確に言うと、涙は流れてはいなかった。

瞳に、溜まっていた。

すぐに笑顔に戻ったが、

「あ、アキラくん!もう、びっくりさせないでよ」

あの表情が、脳裏に焼き付いて離れない。

「……」

どうして、自分にはなにもできないんだろう?
こんな気持ちは、初めて感じる。
もどかしい、無力感。
なにをしていいか、わからない。
既に、いつもと変わらない市河さんであった。

でも、笑っていて欲しいし、泣かないで欲しかった。


「どうしたの?アキラくん」

「あ、いえ、なんでもありません…」

不自然な敬語で返した僕に、怪訝な顔をする。
受付から立ち去りながら気付く。
なにか、ある。
自分の中には、何かが。

今はまだ、よくはわからないけれど。


    *    *   *   
 

放課後の中学校。
思い詰めた様子で少女が駆け寄ってくる。
息を切らしながら、緊張した声で言った。

「塔矢先輩!あ、あの、す、好きな人はいますかっ!?」

少し考え、答える。
「……あ、あぁ、いない…」

少女がほほえんだのと同時に。

(あ、そうか……)

塔矢アキラは何かに気がついた。


「…いないけど、泣かせたくない人は、いる、かな」


(!!)

「す、すいませんでした!」

彼女は驚き、全速力でかけ去った。
どうやら、離れた所にいる友人達になにかを告げているようである。
この後、塔矢アキラに意中の彼女がいると、学校中の話題になるのは必然であった。
探ろうとした者もいたが、最後まで、わからないままであった。

学校の外に、その人はいたのだから。


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