見えないもの

母が突然、僕に言った。

「アキラさん、市河さんのどこが気に入らないの?」

は?

「……そんな事、急に言われても。気に入らない所なんてないけど?」

「じゃあ、どうして何も言わないの?」

確かに、市河さんのことは、どちらかというと好きだ。いや、単に『好き』だ。
でも、女性として好きなのか、いまひとつ確証が持てなかった。

「明子、まあ、いいじゃないか」

母が、イタズラっ子の笑みを浮かべ言った。

「……ふふ、アキラさん、私ね、碁会所の受付してたのよ」

父は、よその方向を向いて知らぬ顔をしている。
僕は、その話は初耳だった。

「お父さんはお客さんだったの、初めて来た時に他のお客さんと同じ扱いをして、
席亭さんに起こられちゃったのよ」

(……?お父さんが僕の年のとき、お母さんは…4つ?)

怪訝な顔で考え込む僕に母が気づいて。

「アキラさん、勘違いしないで?私はその時19よ。
犯罪的だけれど、犯罪者ではないわよ〜」

ゴホン。

耐えかねた傍聴者が、止めに入ったようだ。

「…明子…、その辺で」

「はいはい♪」

部屋から去り際に、小声で母が言った。

「彼女の事は冗談ではないの、わかってね」

(……)

確かに両親を見ていると、『結婚もいいものだ』と思える、…が。
19歳の僕には、まだまだ先の話だから。そう、思っていた。


    *    *    *


半月ほど後。
仕事先から棋院へ向かい、都内を一人で歩いている時だった。
前方の宝飾店から、見知った人が出てきた。

あ、市河さん。

名前を呼ぼうとして、この前の会話を思い出す。

(……別に、意識なんてしてない)

再び声をかけようとしたその時、聞こえた。

「ずいぶん奮発しちゃったじゃない、婚約指輪」

(―――え…?)

「給料3ヵ月分だからな〜」

連れの男性が答える。

婚約?誰が?

――――(関係ないって言ってるだろう!)

首を振る。
そして、声をかけた。
揺らいだ声で。

「市河さん、こんにちわ」

びっくりして振り向く彼女。パッと笑顔になった。
市河さんの笑顔を見たくないって思ったのは初めてだった。

彼が先に言った。

「塔矢先生だろ、晴美、紹介しろよ」

「あ、アキラくん、紹」

だめだ、やはり耐えられない。ごめんなさい、市河さん。

「すみません、急ぎますので、日を改めてお願いします!」

脱兎のごとく逃げ出した、自分から声をかけておいて。

息を切らして走りながら、思い出す。

となりにいた人は、よく見なかったけれど、市河さんより年上っぽかった。
大人の男性。

確かなのは。

自分は、かなりショックを受けている、という事。
市河さんが結婚していくという事実に。


     *    *    *


…いまさら、どうしようもない。
その事実を突き付けられて。

自分には、あのひとが必要だったのだなぁ、と実感する。

後手をひいて、とりかえしがつかなくなってしまった。
いつまでも今の関係が続くなんて有り得ない、子供だって考えればわかることだ。

「…矢!……」

「おい、塔矢!しかとかよ?何度も呼んでんのによ〜」

「ああ、進藤…」

「もう手合終わったんだろ?そっちいって打とうぜ」

そっち、とはウチの碁会所の事だ。

「…メだ…」

「はぁ?聞こえねーよ」


「ダメだ!!」


大声を上げてしまい、さすがの進藤でも目を丸く見開いた。

「……どうしたんだよ、らしくね〜」


    *    *    *


進藤に話した。すべて。

「ウソだ〜、だっておまえら、付き合ってんだろ?」

「……まさか、なぜだ?」

「あかりが、あの二人は絶対付き合ってる、夫婦みたいな空気だってさ」

「見込み違いだった、という訳だ」

「で、どうしたいわけ?」

「ど、どうしたいって…」

「愚痴って終わりかよ?情けね〜」

「……」

「市河さんにきいてみろよ」

「ああ…」

「おい!早くしないと本当に手遅れだぞ?」

「わかっている、つもりだ」

「ほんじゃ、明日きいてこーい」

「な!?」

「作戦ねっとけよ。じゃ、今からうちで打とうぜ!」

(……)

人のこととなると、まったく。


    *    *    *


時間の自由がきく仕事についていると、後回しにしたくてもできないものだ。
いや、本当はすぐにでもききたいのだが。

普段あまり来ない、午前中などに来てしまった。
自然に。
碁会所に入った、つもりだ。

「いらっしゃい、アキラくん!どうしたの、今日は早いわね〜」

笑顔で迎えられるのが、今はつらい。

珍しく誰もいない。が、ここで話すわけにはいかない。

「あの、ちょっと、話があるんですが、出られます?」

「え?私?」

「はい」

「ここじゃダメなの?」

「うん、まあ…」

「いいよ、ちょっと待ってて」

市河さんはドアの下に走り書きのメモを残し、
鍵をかけた。

すべては、ここからだ。


     *    *    *


どうしたのかしら?
となりのアキラくんの顔を見ると、深刻そうな表情。
ここで話せないような事、なんて。

どうしよう、愛の告白だったら!

なんてね、有り得ない。
有り得ないってわかってても、ドキドキするなぁ。

私、別に使い込みとかしてないし。
新しいバイトさんを入れるって話かな?

会話を交わさないまま、喫茶店に到着した。
およそ半分、席が埋まっているくらい。
奥の窓際の席に座った。

「アイスコーヒーで」

「……同じで」

飲み物は程なく出てきた。さあ、何でも来い、よ!

「い、市河さん」

「はい」

「……今、好きな人、いますよね?」

ドキ。も、もしかして、気づいてくれた?

「……いま、す」

照れながら、向かい側の彼の顔を見ると。

アキラくんの表情が、悲壮なものに変わった。

え?な、なんで?

「わかりました、それだけ聞きたかったんです」

「え、え?」

「僕、いえ、私は市河さんの幸せを祈ってます」

「は?」

「結婚されたら、お仕事は…?」

「!」

「いえ、いいんです、ゆっくりで。今度紹介して下さい、昨日は失礼しましたから」


あ〜〜〜〜!!


「あ、あのね、あれは」

「とてもお似合いでした、はは」

「ちょっ」

「みんなもがっかりだろうな」


ガタッ!!


「塔矢アキラッ!!!」


「!!」

椅子から立ち上がって、大声で呼び捨てた。
まわりの人もこちらを向いた。

後から考えるだけで、顔が紅くなります…。

「話を聞きなさい!」

「は、ハイ」


「あれは兄、兄の遼」


「……は?」

「彼女が行けないから同じサイズの私が行ったの!」

「あ……」

「どうして、」

涙が。

「わ、私は」

ぽろぽろ。

(市河さん!?泣いて…!)

「ごめん、市河さん……、僕は」


「私が好きなのは、

 あなたです、アキラくん……」


「!!」


「ご、ごめんね、泣いちゃって、期待しちゃった、反動、が」


    *    *    *


私、塔矢アキラはどうしようもない男で。

一生の不覚、である。

泣かせてしまったこと。

言わせてしまったこと。


「市河さん、ごめん……」

「ううん、もう謝らないで」

後になってしまっても、きちんと言わなければ。


「僕も、市河さんがずっと好きでした」


そう、たぶんずっと前から。

「ふふっ」

笑った顔が、少し赤かった。

「嬉しい」

その笑顔が誰に向けられていたのか?考えたこともなかったけれど。
それは、僕だったのだ。

「じゃ、よろしくねっ」

差し出された手を握ったとき。

「よろしく…」

見えないもので、結ばれたのがわかった。




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