市河晴美、26歳。
彼氏いない歴9年。
好きな人はいるけれど、ずっと、何も言わないまま。言われぬまま。
陽だまりのような、あったかくて平凡な日常が、ずっと続いていくのだと思っていた。
もうすぐ、平穏な日々とお別れだとは知らず-------。
* * *
昨日と同じ碁会所で。
先月と変わらぬ面々の、去年と同じ碁を打つ風景の中。
私にしか届かない声で、耳を疑うような言葉が。
『市河さん、結婚しないか?』
食事にでも誘うように軽くいったのは、緒方先生。
しかも、指導碁の合間、コーヒーを立ち飲みしながらである。
( え?緒方先生?
これは妄想かしら?抑圧されていた結婚願望の現われ?
で、でも、夢じゃ、ない!)
「緒方先生、またご冗談を・・・」
あいまいに笑いながら信じようとしない私に、さらに一言。
『本気なんだが』
真剣な眼差しで、それでも、そこに愛情は見て取れなかった。
答える私の表情がこわばる。
「な、ど、どうして、ですか?どうして私?」
『結婚だって、契約のひとつだと考えたんだ』
「は、はあ????」
『だれでもいいってわけじゃあない、いろいろな人間を見てきて、それで市河さんを選んだ』
「あ・・・あの、確か、ずっとお付き合いしている人がいるんじゃ・・・?」
しかも、他の人と付き合ってた事もあるらしい。どれも長続きしなかった様ですが。
『ああ、あいつは結婚の”け”の字もだそうものなら、俺の前から消えるだろうな・・・
「結婚したければ、好きにすれば」、だそうだ』
(って、ことは、愛人一人、もれなくついてくるってこと!!)
「・・・・・・」
『すぐに返事をくれとは言わん。まあ、考えておいてくれ、・・・それに』
軽い!軽すぎる!怒りとも恥ずかしさともわからない、妙な感情がわき上がって来る。
『------市河さんにも、好きな男がいるかもしれんしな』
(うっ・・・・・・)
急所を突かれて、ぐうの音も出なかった。
でも。
即答できたはずなのに。断れない、弱い私がいた。
結婚、かあ。
* * *
ここで、時は前の日まで遡る。
場所は日本棋院本館。
対局が終わり、階段を降りてきた塔矢アキラを出口で待っていたのは、
兄弟子で、ライバルでもある緒方精次であった。
「----こんにちわ、緒方さん。ご無沙汰しております・・・・」
軽く会釈をする。事実、公式対局以外で顔を合わせるのは久しぶりだった。
『相変わらずだな。表情だけ見ても、勝ったか負けたかわからん。勝ったならもっと嬉しそうにしたらどうだ』
「---わかってらっしゃるじゃないですか、緒方さん」
『なに、確率が高い方を言ったまでだ』
「・・・・・・」
『なんの用だ、といいたげだな』
「いえ・・・」
『----明日、市河晴美に結婚を申し込むぞ』
「!!!」
アキラは無意識で、顔が紅潮した。
『本当はもっと早くてもよかったんだが、アキラが19歳になるまでは卑怯な気がしてな』
「-----話は、それだけですか・・・」
『ああ』
「すいません、失礼します」
その場に居続けることができず、アキラは走って逃げ出した。
緒方から逃げたのか、自分の心から逃げたのか、彼女から逃げたのか。
------わからなかった。
二話へつづく???