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三十年後のまちなみは今
ー群馬県太田市南一番街の変貌  伊達 美徳

●昼の商店街は夜の歓楽街に変わっていた
 ほぼ30年ぶりだろうか、東武伊勢崎線の太田駅南口におり立った。
 夜十時を過ぎていたが、駅前は暗いが商店街の中ほどから向こうが、やけに明るい。ホテルに行く前に、ちょっと回り道して見たら、なんと夜のお遊びの街なのである。アジアエスニック系のネオン看板が立ち並び、呼び込みのおにいさんが立ち並んでいる。
 1970年に、この長い駅前商店街を大勢の地主たちが共同してつくりあげたときは、ごく当たり前の健全な商店街だった。街がにぎやかなことはよいことだが、いつからこうなったのだろうか。
 このコリアンキャバレーはたしかレストランだった、このナントカエステは蒲団屋だった、このスナックはミニスーパーだったなど思いながら眺め歩くと、入店を期待する呼び込みの声が次々とかかるのだった。
 あの時あんなに頑張ってつくったこの街がねえと、ちょっと呆然とした思いでもあった。

●自助努力で共同のまちづくり
 1966年、わたしはこの街をつくるために移り住んだ。そのころ駅の西には昔から商店街と住宅街があるが、この駅裏の南側には田畑と空き地ばかりだった。駅裏の田んぼを区画整理して、駅前には商店街を、そのまわりに住宅街をつくろうと、まちづくりが進んでいた。今、太田市人口は14万7千人、両毛地区では最大である。さすが勢いは落ちたが、工業都市としてなお増え続け続けている。そのころ高度成長の中で人口が急増し、10万人を超えようとしていた。
 駅南では土地区画整理事業が進んでいて、まだ建物が無い広大な宅地には、上州名物空っ風に砂ぼこりが舞っていた。そんなとき建築設計6人のチームを組んで、この町に住み込み5、6年もかかっただろうか、駅前通りに面する約1kmの両側に、商店街をつくりあげたのだった。
 その街は、区画整理の保留地を買った地主たち約70人が組合を作り、共同建築をしたのである。当時の法律で、防災建築街区造成事業といった。
 今の市街地再開発事業のもとになった手法であるが、現在の手法と大きく違うのは、地主たちが資金をそれぞれ調達して、自助努力で共同したことである。

●都市再開発の前夜
 地主たちの多くは市内の商店主であり、新たな街づくりの意気に燃えていた。それぞれの土地に個別バラバラに建物を建てるよりは、共同して計画的に街をつくろうと協力し合って、これほども長い共同建築のまちなみをつくりあげた。
 まだ都市開発のコンサルタントという職能が無い時代だったから、建築の設計チームとして入ったわたしたちが、事業コンサルタントから計画・設計・現場管理まで、なんでもやった。
 その頃わたしが属していたRIA建築綜合研究所という設計事務所は、大勢の多様な意見の地主たちを共同建築としてまとめるための事業と建築のシステムを次第につくりあげていっており、それが次の都市再開発手法へと展開する直前の時代だった。
 1970年の完成までの5年間くらいだったろうか、太田市内のテラスハウス2軒を借りてチームは移り住んだ。わたしは名古屋から家族とともに太田に転勤したのだった。完成後、また東京・大阪と転勤して、久し振りの訪問だった。

●街の変貌の背景を知りたい
 翌朝、明るい中をひっそりと開店前の街を歩いてみて、その変貌の様相を「鑑賞」した。全体としての姿に大きな変貌は見えないが、個別に見ると、姿も内容もあまり変わらない、本体はそのままだが外装も内容も大変化、姿は変わらないが内容が大変化、壊されて建て直された、壊されて空き地になったなどなど変化がある。つ一つにその理由を探ると、社会学・民俗学として実に興味深い。特に駅に近いほど空き地・空き店舗になって寂しく、駅から離れるほど夜の街として栄えているのは、どういうわけだろうか。
 中心市街地の空洞化問題は、ここにも明らかに押し寄せている。駅前でありながら、自動車の街太田に対応するように広い道路や駐車場を備えた街をつくったのだ。
 当時としては先進的な、電柱のない街にもした。建物は改変しやすいように、構造体は単純に、ファサードの取り替えも考えておいた。
 だが、そのようなハードウェアが町を支えるには限度があるようだ。太田のような今も発展段階にある都市でさえも、都市構造全体の再編、町の使い方のソフとウェアなど、次に打つ手を考えさせられた。
 そのソフトウェアとして、エスニックムードの夜の街へ変貌をとげたのだろうか。それはそれでひとつの道だろうが、どうもどこか気になる。(010503)
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