まちもりコラム2004年4月号●またまた謝る風景が、、
ちかごろは警察、政治家、病院、大学、企業と、謝ることが大流行である。お詫びコンサルタントが成り立つのではあるまいかと以前に書いたが、その後いかがであろうか。
●テレビ見過ぎで映像の本質を忘れる
わたしは思い違いをしていたのだろうか。TVのコマーシャルフィルムに俳優が出てなにやら宣伝しても、それは演技だと思っていたのだが、あれは俳優個人によるレクチャーであるらしい。
最近、江角マキ子さんとかいうお方(俳優らしい)が、国民年金の広告宣伝をしているのに、実は保険料を払っていなかったとて、新聞であげつらわれて記者会見して謝ったという。
わたしはTVをほとんど見ないし、見てもコマーシャルをまったく見ないから、どんな内容か新聞に書いてある程度しか知らない。
江角なるお方は、年金について個人として年金の勧めをTVコマーシャルで説いているのであったのか。だからこそ、あんなにもウソツキと糾弾されるのだろう。
だとすれば、江角さんは年金の権威者、専門家に違いない。そうとしか考えられない、知らないことを伝達はできないからだ。依頼した社会保険庁がそう思っていたに違いない。
とすれば、ほかのコマーシャルに出てくる俳優たちも、その商品の権威者に違いない、少なくとも依頼したスポンサーなどはそう思っているに違いない。美空ひばりは蚊取り線香の専門家だったのか、、。
でも、どうも変だなあ、わたしは、とてもそうとは思えないけどね、。
俳優は演技でフィクションの世界をつくりあげるのが職能だから、TVでドラマやコマーシャルでどんな演技しようが、私生活で保険料を払ってなくても直接には関係ない、と思うのである。
年金広告宣伝に登場しても、そのことで謝る必要はないであろう。演技は演技、私生活は私生活である。
もちろん、年金保険料を払わないのはよくないし、これで少なくとも、江角さんは年金の権威者でないことは、ばれてしまったことにはなる。
これが社会保険庁の長官が、コマーシャルに出ていて保険料払ってないなら、こりゃ大変だけどね。
TV番組を毎日何時間も見ている人たちは、映像の虚実の見分けができなくなっているらしいぞ、コワイ。
コマーシャルフィルム(フィクション番組も)には、「これは演技であって、出演者の私生活とは一切関係ありません」なんて書いておいてはどうかしら、、。
●なんでも自動化し過ぎて本質を忘れる
東京六本木のビルの自動回転式出入り口ドアに少年が挟まれて死亡、ビル所有者の森ビル社長たちの謝る姿が新聞に見える。
事件の原因となる技術的問題はいろいろあるだろうが、そもそもどうしてビルの玄関扉を軒並み自動にするのだろうか。
わが家のある集合住宅ビル一階の玄関から入るには、最初が手で開け閉めする扉、次が自動扉である。そのはじめの扉がいつも開けっぱなしである。
常識として玄関の扉は閉めておくのが普通なのに、開けたら誰も閉めないが不思議である。風除け室に木の葉が舞っている。
で、今回の森ビル事件で気がついたが、自動ドアが普及して、みんなが手で開け閉めすることを忘れたらしいとしか思えない。ときに手で開け閉めする扉があっても、次に続く人にその扉を支えてあげる習慣も、ほとんど忘れられている。
今度のように頭をはさまれたり、手を挟まれたり、跳ね飛ばされたり、もともと扉とは危険なものだ。危険だから安全のために自動扉にしてきたのだ。
ところがその目的を忘れてきてしまって、便利のための自動扉と思い込んだところに、森ビルばかりか建築設計者、メーカー、オーナー、そして使うわたしたちの心に問題がある。
基本となることをみんな忘れてしまったので、しまりかけのドアに子どもが飛び込むようになってしまう。特にあれは入る人の進行方向に対して横に動く床に乗るのだから、大人でもちょっと無理もある。
子どもの頃、電車の扉が自動で閉まるのが、閉じ込められるようで怖かった。長じて1950年代に「麗しのサブリナ」なるアメリカ映画に、会議室に入るのに自動扉がでてきて、へえー、アメリカは室内までも自動なのかと、変ことに感心した覚えがある。
なんでもかんでも自動にしてよいことばかりではあるまい。普通の場所の扉くらいは自分で開け閉めしてはどうか。車椅子や乳母車の人には、その近くにいる人が開けて支えてあげればよろしい。
自動といえば今、三菱自動車のトラックの車輪が外れて人が死んだ事件が、同様に新聞を賑わしている。自動車による死人の発生は、自動回転ドアどころではない毎年万人の単位である。
自動「回転扉」は1人死んで廃止撤去生産停止だが、自動「走行車」は100万人死んでも普及増加生産促進である。
これは危険なままに普及しすぎた自動車が、デファクトスタンダード殺人機械となったからであり、「1人殺せば犯罪者、千人殺せば英雄」という箴言を思い出させる、コワイ、、。
「ドアーが閉まります、飛び込みは危険ですからおやめください」と、これからはビルの出入り口で放送をしなければならないと、建築基準法第800条を改正しました。(040401)
●意外な展開にあわてて本質を忘れているような気がする
もうこれで今月3つ目の謝る風景話である。イラク人質事件被害者の家族が謝る姿が、この数日間、新聞を賑わしている。
この謝る風景は、先に書いた2例(江角マキコ、森ビル)とはかなり違う根を持っている。
謝っているのが当事者ではないのである。当事者の家族であるが、その当事者がそれぞれに信念もって家族とは関係なく行動している大人であるのに、なぜその家族が謝っているのだろうか。
謝る理由がよく分からないのだが、どうも謝ることを強要されているようにも思える。誰が強要しているのかといえば、エライさんやらいわゆる「世間様」であるらしい。
自己責任とかいう言葉が流行しているようだが、それならなおさら家族に謝らせる理由が分からない。
危険なあっち側に崇高な(に思える)信念を持ってわたった人たちを、安全なこっち側に身をおいて何もしないわたしは、このことにどういってよいか言葉が無い。
ところで、この人質となった人たちへの評価について、自己責任とか、勝手な行動とかいう日本のトップやら世間様の発言とくらべて、なにやら対照的な発言が新聞(2004年4月16日朝日新聞夕刊)に載っている。
「誰も危険を冒さなければ、私たちは前進しない」
「よりよい目的のため、みずから危険を冒した日本人たちがいたことをわたしはうれしく思う」
「彼らや、危険を承知でイラクに派遣された兵士がいることを、日本の人々は誇りに思うべきだ」
この発言者は、なんとまあ、アメリカ国務長官のパウエル氏である。
その真意はどのへんにあるのか、原文がどうなのかも分からないが、いずれにしても日本のエライ方々やら世間様とはとはずいぶんと違うものであるよなあ。
それと、アメリカのおえらいさんから見ても、自衛隊員はやっぱり「兵士」なんだ、、。そういえば、昔まだ日本も戦争していた頃、戦場に行った男たちの留守宅の玄関先には、「出征兵士の家」と書いたプレートが貼ってあったことを思い出した。(040418)
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