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●山口文象のモダニズム建築作品新発見か
伊達美徳
1.東電山崎発電所デザインは山口文象か ◆→画像
観光地箱根の玄関口となる湯元の近く、入生田あたりの国道1号に面して、東京電力山崎発電所と看板が出ている。
金網張りのさして広くもない敷地に、2階建てのこじんまりとした、だが妙に気になる形の青い建物がある。
全体は四角な感じだが、短辺の一方が少し長い扇型である。扇の要の側が大きな円弧を描いていて、その上のほうに連窓もそれなりに円弧を描いている。
その円弧に寄り添って円筒状の換気等らしきものが地上から立っている。丸いほうから見ると、どことなく表現派風なデザインである。
この建物の設計者は、前後事情から判断して山口文象であるとわたしは推察しているのである。ただし、山口文象の作品としては、デザインがどうももうひとつ甘い、山口特有のプロポーションの良さが足りないのが気にかかる。
国道の反対側の斜面に沿って箱根登山鉄道の線路が走り、それに直角に導水管が山の途中から斜面を降りてきて、国道地下を通って発電所に入っているらしい。
発電所建物としては小さすぎるから、これは換気等と管理事務所そして地下入り口だけで、地下部に大きな発電施設が入っているのだろう。
2.関東大震災から竣工まで
この発電所のできた当時のことが、雑誌「建築土木工事画報」(1936.11月号)に乗っていることを、土木学会の図書館データにあることを見つけた。
「日本電力山崎発電所建設工事 日本電力株式会社」と題して、次のように書いている。
「(略)発電所は元、三枚橋及畑宿両発電所と共に(早川支流須雲川水力利用)小田原電気鉄道株式会社が電器鉄道に動力を供給する外、当地一円に電燈、電力を供給する目的を以って早川水系にの開発に着手し、昭和三年当社が合併継承したものである。山崎発電所も水路隧道のみ往年完成し、其後大正十二年関東大震災に遭遇の儘工事を中止し、完成水路は所謂湯本堰用水路として久しく地元民の灌漑様子路に使用されてゐたが、昨夏より残工事に着手したものである。(略)」
これによれば、この発電所の竣工は1936年であるが、1923年までには設計もできて着工していたことになる。
しかし、山口文象が日本電力嘱託技師となったのは震災のあった1923年とされているから、それでは山口文象の設計とはいえないことになりそうだ。
ここで山口文象にこだわるのは、この発電所から2km上流の早川にある取水堰もこの発電所の一連の工事としても1936年に完成しているのだが、その堰のデザインが山口文象なのである。このことは、山口本人の口から直接に聞いた人は、わたしのほかにもいるから確実である。
考えようによっては、嘱託技師でなくとも携わった可能性もあるし、嘱託技師となってから着工までに改めてデザインしたのかもしれない。
工事画報のレポートには、土木工事のいつもの例で、設計は日本電力土木部とあるだけで、山口文象の名は見えない。取水堰と発電所が別の設計者ということもありうるから、決め付けられないが、常識的には発電所も山口文象の可能性は高い。
3.土木が求めるデザイン
いずれにしても、なぜ山口文象が起用されたのだろうか、そのあたりは工事画報のレポートから、次のように読み取れる。
「本水路区域は国立公園の一部に属するを以て、各種工作物の設計施工には多大の意を用ひ、例へば、堰堤表面は全部張石と為し、ローリング・ゲート其他門扉操作用及付近照明用電力線は地下ケーブルとし、沈砂池の川側壁上には植樹を為し水槽及び鉄管路に於いては伐採木は最小に止め、不得止伐採し足る部分には尚植樹を施し、山腹わずかに水槽白壁の隠見するに止め、又、発電所本館は大部分地中に埋設するのみならず、生垣を以って囲繞せしむる等、努めて美観保持に留意したのである」
これは同年に完成した黒部第2発電所に、国立公園内での土木構築物のデザインに山口文象を起用して、自然との調和を目指したのも日本電力であったから、山崎でもおなじであることが分かる。
もっとも、山崎でも黒部でも山口が彼らの期待に応えたといえるかどうかは別問題であるところが、実に興味深い。
日本電力としては、自然に埋没するように、あるいは埋没しなくとも見えるところは自然と調和するようにと、建築家にデザインを求めたことが明確だが、山口文象は
むしろその反対に、自然と対峙しても大丈夫な、というか、対峙することで新たな造形を生み出そうとするデザインを目指したのであった。
これは現代においても、建築等の構築物と自然景観との対応について大きな課題とされているところである。
4.早川取水堰のデザイン
では早川を上流に約2kmさかのぼって、山崎発電所の発電用の水を採る取水堰を見よう。
国道1号の箱根への登り始めのあたりにある、このこじんまりとしたダムは、シャープな美しさを備えている。
当初は可動性のローリングゲートだったので、そのゲートの左右に巻上機用の建て屋が対の形で建っている。
水の中からシャープな水切りの形のままに建て屋まで立ち上がっているのだが、その下流側に突き出る庇も、水切りのシャープさを保持し
たままに鋭いキャンチレバーである。
いかにも山口文象らしいのは、たったこの二つの小さな建て屋だけであるが、ダムのもつ機能的な単純な造形とあわせて、これだけで十分なのである。
工事画報にあるような繕いは、デザインにはほとんど関係ない。よくみれば、沈砂池の川の側には玉石張りとなっているし、その上には、住宅の植木鉢のごとき植え込みがある。だが、森と激流の大自然は、そんな小細工には眼もくれさせないのである。
現在は、二つの建て屋の左岸側は建て替えられているが、なんだか工事現場小屋みたいな格好をしている。国立公園内だからそれなりに考えたのだろうか、ちょっと傾いた庇が出ているのが、いかにも素人くさい。
当初はローリングゲート式の可動堰であったのが、今はゴムゲート式になっているから、その取替えのときに大工事をして建て屋も一方を取替えたのだろう。
仮設ではなさそうだから、土木におけるデザインへの考え方について時代の差を見ることができる。
5.建築家と土木デザイン
山口文象が土木デザインに関わったのは、日本でも比較的早い時期になるだろう。
関東大震災の直後に、復興極橋梁課の嘱託技師となり、復興橋梁のデザインに関係した。その後に日本電力の嘱託技師も兼ねて、庄川水系のダムや黒部第2発電所関係のデザインに関わる。
黒部関係は発電所の建築だけではなく、目黒橋、小屋ノ平ダム、沈砂池水門なども含めて、優れたデザインで彼の代表作である。
ウィキペディアに山口文象の項を最初に書いたのはわたしだが、その後に他の人が付け加えたり訂正を書き込んでいる。わたしから見ると、ちょっとどうかと思う書き込みもあるが,あえて反駁してはいない。
そこに土木に建築家が関わったことをかなり詳しく書いているのが興味深い。わたしは山口文象に関してだけの土木デザインについて書き込んだのだが、どなたかそれ以前のことを詳しく掲載した。以下ウィキペディアから引用。
「日本では戦前に建築家が橋やダム等の土木構築物のデザインにかかわる例はいくつかあり、最初期が皇居二重橋や神戸港の施設群に河合浩蔵、東京・日本橋の麒麟の彫刻、欄干、照明器具等の装飾的デザインに妻木頼黄、大阪や京都の市区改正などに伴う架け替え橋梁のデザインに武田五一がかかわっている例があるほか、1885年着工の琵琶湖疎水の場合設計者の田辺朔郎のもとで滋賀県の建築技師をしていた小原益知が加わってトンネル口レリーフや水楼閣のデザインを、また呉服橋と鍛冶橋は東京市建築営繕担当の田島?造(?はノギヘンに斎)と福田重義らが検討している。(以下略)」
戦前には日本が豊かであったので、土木にデザインをする機運があったが、戦後から貧しくてその余裕がなくなった。
最近になってからようやく土木デザインが、景観問題としていわれるようになっって、専門デザイナーも登場してきているようだ。
ただし、優れたものになかなかお目にかかれないのは、土木デザインなるものをを学校で教えなかったせいもあるだろう。土木構築物の面にペンキで絵を描いたり、レリーフをつけたり、なにか具象的な形を模したりして、デザインとは装飾であると勘違いしているものも多く見られる。
ところがようやくに、東大の土木(いまや基盤工学と言うらしい)に篠原修さんや内藤廣さんのような方が現れて、次への期待が生まれてきた。
山崎発電所の取水堰のすぐ下流部に、1933年完成の旭橋が架かっている。
コンクリートのアーチで、ちょっと無骨なところもあるが、なかなかに優れたデザインである。斜めにかかっているため上流側と下流側のアーチ
が微妙にずれていて面白いし、何より全体に素直にできているところが良い。
このコンクリートアーチ橋に接して上流側に、車線増設した鉄骨ビームの橋がかかっている。これはつまらない。
増設は戦後だろうが、歩道の手すりに大名行列の型抜き板が取り付けられているのが、戦後土木デザインのレベルが現れている。 ◆→画像
ついでながら、せっかくのよいデザインなのに、その橋の袂には、交通標識,衝突防止の重し、工事看板、注意信号などなどバラバラにたくさん立ち並んでいる。なんとかならないものか。
6.歴史の土木デザイン
山崎発電所の建物も取水堰も、今やそれなりに歴史的な価値を持ってきたといってよいだろう。1930年代のモダンデザイン建築は、山口文象作品では、これと黒部と山形梅月堂の3つになっている。
そもそも、豆腐に目鼻といわれたモダンデザイン建築は、洋式建築と違って一般評価されにくいし、雨降りの日本ではメンテナンスが難しい。現に山口文象作品で、木造のモダンデザインは全滅である。
そのようなわけで、昭和初期モダンデザイン建築の保全は、いまや歴史的課題となりつつあるだろう。
ところで、この取水堰のことをインタネット検索していたら「荻窪用水」にあたった。荻窪用水とは、工事画報にもある「完成水路は所謂湯本堰用水路として久しく地元民の灌漑様子路に使用されてゐた」という湯本用水路のことらしいのだ。
その湯本用水路は又の名を荻窪用水と言い、江戸時代に小田原の荻窪地区に10kmも上流の早川から灌漑用水を引いている。それは江戸時代に20年にもわたる土木工事の多大の苦労の末に、19世紀初頭にようやく開通したという、地域にとって歴史的ないわれのある用水路なのである。
その水路を小田急電鉄が大改修し保全する代わりに、水利権の一部を自社の電車等の電力用の発電に使いたいとの提案があり、その結果が今の山崎発電所であり取水堰であるらしい。だから現在の荻窪用水は、山崎発電所の上にある貯水池から分かれて流れ出しているようだ。
荻窪用水のことはネットであたったが、それと山崎発電所の取水堰との関係は工事画報のこのくだりだけでしか分からない。
江戸時代からの灌漑技術用水と近代の発電技術とが、ひとつの歴史としてつながっていることは、興味深く重要なことであると思う。そのあたりを知りたい。
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小論は、東京大大学院生でダム研究をしている伊藤啓輔さんから、山崎発電所が現存していることを教えてもらったことによっている。だから、いずれ伊藤さんが研究して発表してくださることで、わたしの今の疑問が解決することを期待しているのである。(081227) |
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