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山口文象 小評伝(「新編 山口文象 人と作品」2003より)
序走の時代
二十世紀がはじまるとほぼ同時に、山口文象は七十六年間にわたる生涯を、東京の浅草に出発した。
観音様と吉原の間の下町長屋に、大工棟梁の実父と鳶職の養父に育てられた「山口瀧蔵」の少年時代は、江戸からの職人の旧世界に包みこまれていたが、そのまわりにはそのころはなやかな浅草文化、さらにその外を日本の勃興期の高揚してゆくエネルギーに満ちた新世界がとりまいていた。
山口文象の生涯は、その旧世界の殻を破って、新世界への脱出を試みつづけた道程であった。
小学校を出たときに、府立一中をめざすのだが、大工の子は大工になるようにと職工徒弟学校に入れられて、最初の脱出には失敗する。ここでひととおりの建築技能を学ぶと、父親の引きで清水組に雇われて、まずは職人としての人生を歩みはじめたのは1918年、十六歳であった。
ところが二年ほどで、この人生出発のコースを突然に投げだして、勤め先の名古屋を出奔して東京に戻るのである。建築家になりたい一心での脱出行であった。
大正デモクラシーという時代の空気があり、自身の向学心による上昇志向が、多感な少年の胸に建築家への夢を育てたことは想像にかたくない。
けれども、1920年(大正9)は世界的な恐慌のときであり、親から勘当同様で学歴もない見習大工の少年が、急に建築家をめざすことがどれほど無鉄砲なことであるか、職さがしは難航してしばらくは放浪状態だった。
やっともぐりこんだところが逓信省経理局営繕課の末席の製図工であった。
その頃の山口が、その後のかがやかしい逓信建築の歩みを予知できたはずはないが、続く人生コースを見ると偶然にも旧世界からの脱出口をここに確実に発見したのであった
逓信営繕は、山口にとっての大学であった。周辺にたくさんいる帝大出の新進エリート建築家たちが教師である。岩元禄や吉田鉄郎に兄事し、分離派建築会のメンバーに啓発され、山田守に引き立てられて、そなえている才能が実力をつけていく。
学友である製図工の仲間とともに、昼は帝大出の高等官建築家に学び、夜や休日は絵画や外国語を塾や夜学に、時にはもぐり大学生ともなって学び、建築家への夢に気負いたっていた。
才能があり努力もした山口の能力は次第に認められ、上昇志向をもって臆することなく動き回る山口文象のまわりには上昇気流が舞いはじめる。そして関東大震災が、ついに旧世界から脱出の突破口を開くことになる。
離陸の時代
関東大震災(1923年)は、建築家として生みおとされる山口文象の呱々の声となった。この世紀の大事件を契機にして、彼の身辺はあわただしく展開を始める。
震災の年、エリート集団の「分離派建築会」の同人に迎えられ、その得意と緊張とそして気負いは大変なものであったろう。ついに旧世界を脱して新世界がほほえみかけてきたのである。
その余勢をかって震災の煙がまだおさまらぬ中で、製図工仲間を率いて「創宇社建築会」を興したのであった。それは先に新世界に渡ったものとして、旧世界へ自らさしのべた手であり、ともに分離派建築会のような新世界のロマンにひたろうと、山口は思っていたのであろう。
震災直後に、雨後のたけのこのごとく数多くの芸術集団が発生し、彼らと交流して山口の世界は広がっていった。
震災復興のため、内務省に帝都復興院が設けられると、上司だった山田守がその橋梁課に移った。その山田のひきで嘱託技師としてなり、東京や横浜の川に架ける数多くの橋梁デザインにたずさわることになった。
数年後にはダムのデザインにかかわり、建築家として土木デザインに積極的に関わった先駆者の一人といえる。
昭和に入った年から、分離派建築会で縁の石本喜久治のもとで朝日新聞社の現場での設計にたずさわり、この頃から実際に自分で建築作品をつくるようになる。
山口が建築家として出発をした時期といってよいであろう。
石本建築事務所創立時の設計主任となり、白木屋デパートや朝日新聞社員クラブ等の設計にたずさわり、めきめきと腕をあげていく。その成長ぶりは、当時のスター建築家の石本をして、ライバル視させるほどになった。
この頃の、建築、土木、美術、文学そして左翼活動などの幅広い交流から、山口の上昇志向に追い風が吹きはじめて、この後の建築家であり運動家の山口文象を支えることとなる。
ところが創宇社建築会の活動は、当初の山口の思わくとちがって、甘美であるはずの新世界へ上昇するのではなく、時を経るにつれて社会運動の様相を呈してきた。
それはそれで運動家として旗を振ることは、彼にとって不得手というわけではないが、気がついてみると、脱出したはずの旧世界からの出口近くまで戻ってしまったようだ。
そこで彼は、ヨーロッパに渡るという、実に壮烈なテイクオフを実行したのであった。
1930年という時代、それを当時の建築界あこがれの国ドイツへ、しかも世界的名声の建築家ワルター・グロピウスのもとに学ぶことで、彼は新世界へのテイクオフを遂げることになる。
飛翔の時代
1931年初からちょうど一年半の滞欧期間中に、黒部ダム関連の調査はもとより左翼的な活動もしたようだが、当時の世界の建築界のリーダーだったグロピウスのアトリエで働いたことが最大の収穫であった。その成果を身につけ、ヨーロッパ各地をめぐり、1932年夏に横浜港に帰着する。
その間にリーダーを失った創宇社は、不安な社会状況の中で官吏減俸の反対運動にまきこまれて、逓信省を全員解雇され、末期の創宇社らしい形で事実上の解散をしていた。
「建築運動家」だった岡村蚊象は、帰国すると山口蚊象という「新興建築家」となり、爆発的に設計活動をはじめる。日本歯科医専を出世作として、番町集合住宅、山田邸、青雲荘等の作品で「国際建築様式」に通暁したスター建築家となっていった。
東京山の手に住み暮らし、丸の内赤レンガ街に「山口蚊象建築事務所」(1934年)を設けて、ついに浅草の職人の旧世界からの脱出に完全に成功したのである。
「プランのできていない建築は、建築ではない」と、山口はよくいっていた。この時代の白い箱の建築が、スタイルとして他の建築家たちの、いわゆるインターナショナル様式と同列に並べられて論じられることに、彼はおおいに不満をもっていた。
自分の建築作品をささえているのは新しいプラニングでありディテールであり、そこに盛りこまれた先進的な手法を評価してほしかったようだ。
山口にはこれらのいわば表の顔としての国際建築様式の系譜のほかに、裏の顔とも言うべき数寄屋から民家へと流れてゆく和風建築の系譜がある。
その出自からして手練の技となっている和風建築は、山口にとっては旧世界のものであったのだが、二つの系譜が同時期に並行している。
ところが、その当時に和風建築について山口が語ることは、きわめて少なく、ある種の後ろめたさを感じていたらしいことは興味深い。
洋風・和風の建築と土木デザインと、とにかくやりたいことは、ほぼやりつくしてしまった感があるほどに、質的にも量的にも充実した三十歳代、1930年代であった。
しかし、それも太平洋戦争による資材不足で、必然的に建築家としての出番はなくなってくる。
1940年代からは、縁戚関係で得た軍需工場関係の仕事が主となる。反戦左翼を自任する山口には苦いことだったらしく、後に戦争荷担した建築家を糾弾するとき、自分は工員宿舎の設計をしたのであり兵器工場はしなかったと、うしろめたく言い訳けするのだった。
いずれにせよ、建築としての作品にはなりようもない代物であったのか、公表されていない。
戦争が終わると、もう仕事らしい仕事はなくなってしまう。学閥も門閥もない自由業に近いこの建築家は、せっかく自分をのせた新世界ではあたりまえの変わり身と泳ぎのうまさを、生まれながら身にしみついている旧世界の律義さが邪魔をして、ただただ逼塞するばかりで貧をきわめるのであった。
止
揚の時代
戦後の再出発は難航した。事務所のスタッフは復員してきても、仕事はなく、とうとう1949年には解散に追いこまれた。
山口は、建築家から運動家にまたたち戻って再出発の道を探る。そして建築家と運動家との止揚を図ろうとして、二つの組織を起こすのである。
そのひとつは、1950年に猪熊弦一郎らと図って、美術団体の新制作協会に建築部会を起こすのである。もうひとつは、その翌年に若い建築家たちと協働して仕事をする場、「RIAグループ」を結成するのである。
前者は、美術、工芸デザイン、建築等を横に結んで、運動家山口文象として外に広がる世界であった。
これに対して後者のRIAは、手も口も達者な建築家の若者たちを率いて縦に結んで、建築家山口文象として再出発する内にひろがる世界の・ ・はずであった。
そのRIAグループを率いて社会に訴える第一弾が、正札つきの現物建物として新制作協会の展覧会に出品した「ローコストハウス」であった。
これをもって運動家であり建築家である山口文象を、ひとつのパースペクティヴに見事におさめてみせたのである。
こうして山口の戦後は、ようやくそして意気揚揚と出発した。
RIAグループは、かつての山口の師・グロピウスが、亡命先のアメリカで組織した「TAC」(1949年)を模して、あるいは啓発されて結成したことは確実である。協働体としての建築設計組織を標榜して、戦後デモクラシーのモデルでもあった。
その故に建築運動としての動きをもつことになり、運動家・建築家山口文象にとって、1950年代は止揚をとげて、30年代と並ぶもうひとつのピークの時期であった。
しかし、「グループ」は組織として動きを持ち、やがて「株式会社建築綜合研究所」となっていくと、組織自体として自律的に成長をとげるのは自然のことである。
1960年代に入ると、高度成長社会の中で建築運動は行きづまりをみせ、設計組織として体制がととのえられてくる。手練の建築作家としての自己と、組織体の長としての立場の間で、さらにこのころからはじまる宿痾とともに山口文象の新しい相剋がはじまる。
そこで、病に小康をえた1970年代から、自分はやはり作家としてものをつくろう、いわば1940年代への回帰をはかろうと、再試動をはじめたころの初夏のある日、20世紀とともに歩んだ76年の鼓動は卒然として止んだ。
山口文象の戦後最大の作品「RIA」は、近藤正一に率いられて「潟Aール・アイ・エー」に成長していく。
注:小論は「建築家山口文像人と作品」(RIA建築総合研究所1982相模書房)に掲載した評伝を、「新編 山口文象 人と作品」(伊達美徳 2003 アール・アイ・エー)のために一部書き換えたものである。ただし写真は、このHPのために採録編集した。
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