創宇社、山口文象そして竹村さんのこと(注1)      伊達美徳

●竹村さんとわたしの出合い
 『どうも、文ちゃんはねえ…』という語り口で、山口文象さん(1902-78)のことや創宇社のことを、竹村新太郎さんから始めて伺ったのは、もう21年も前であったことに今更ながらに驚いた。
 その時の竹村さんの話を記録してあり、本誌に掲載した「竹村新太郎さんのお話を伺う会の記録」である。
 数えて見ると当時、竹村新太郎さんは70歳、創宇社の残党たちも山口文象、平松義彦、海老原一郎など、多くは健在だった。
 その時から7年後に、「建築家山口文象人と作品」(RIA編 相模書房)という本が出版された。わたしはこの本の編集執筆担当として、山口文象の紹介で竹村さんに出合った。
 この本は創宇社のリーダーだった山口文象の生涯の軌跡をまとめたものだが、そのまま日本の近代建築史を語ることになり、実に面白い仕事であった。
 創宇社の軌跡をたどるために、私が直接にお目にかかって話を伺うことができた創宇社メンバーは、竹村さんのほかは山口栄一(文象の実弟)、海老原一郎、河裾逸美という方々であった。
 それが、昨年の竹村さんの他界を最後として、今は創宇社同人たちは一人もいない…。
 そのようなわけで、上記の本には多くの竹村文庫の資料が入っている。
 あの創宇社ほどに有名な建築運動であれば、その資料はどこかにまとまっているに違いないと、気楽に本づくりを始めた。
 しかし、実際にはまとまったものはなくて、いろいろな孫引き、ひ孫引きの横行が分かったのには驚いた。
 原資料にあたることにして、山口文象の紹介で、建築史家の河東義之さんと一緒に竹村さんの資料庫に足を踏み入れた。 こうして創宇社のポスターやパンフレット類など現物、後に竹村文庫となる宝の山にあたったのだ。
 わたしが特に驚き喜んだことは、山口文象設計の黒部川第2発電所のパースが出てきたことである。
 当時の「新建築」誌に載っている、実に達者なパースをみてはいたが、色つきの実物がナントここにあるとは…。

●山口兄弟と黒部のパース
 黒部の発電所は、山口文象のいわゆる国際様式に分類される戦前の代表的作品で唯一現存しているものである。
 ちなみに、山口文象がドイツに留学したのは、この黒部第2ダムの水流研究が目的であったことが、山口家にあった彼の滞欧時の手帳から分かった。
 その後、このパースはパリのポンピドーセンターにまで旅をしている。
 ただ私が気になっていることは、このパースは山口文象の弟の山口栄一の手になるものと思われることである。山口栄一さんは、創宇社メンバーであり、建築パースの達人だった人である。
 山口文象の描くパースは、竹村さんの話にも出てくる震災記念塔、石本建築事務所にある白木屋デパート、写真しかないが聖橋などに見るような、コンテによる力強いタッチが身上だ。
 わたしも栄一さんに何枚かパースを描いて頂いたことがあるから分かるのだが、ちょっと繊細なタッチの黒部は、きっと山口栄一描くものにちがいない。

●創宇社の出だし
 創宇社の活動は、竹村さんが建築家あるいは運動家への出発点となったともいえるが、リーダーであった建築家山口文象もまたこの運動をスプリングボードとして世に出たと言ってもよい。
 大学出との間には厳然とした差別のある社会で、エリートたちの分離派メンバーの中では、山口文象は当時としては変わり種だったろう。逓信省営繕課に所属するドラフトマンたちは、いわば職人労務者である。
 その山口文象が逓信局の下働き職人たちを集めて、分離派の向こうを張るように創宇社を旗揚げするには、どんな思いがあったのだろうか。
 竹村さんの話に、堀口捨巳が創宇社メンバーを建築家として見てはいなかったようだ、とあるような状況が裏にあるのだろうか。
 梅田穣が書き下ろしたという、ロマンチックでセンチメンタルな創宇社宣言を読めば、これは第2の分離派を意図したのかも知れない。
○「文ちゃんと創宇社」 (
海老原一郎)
 山口文象氏よりやはり文ちゃんがいい。1923-1930(大正12年から昭和和5年)の8年間、展覧会と講演会を通じ新しい時代の建築と建築家の考え方を問い続けた創宇社建築会、そのエネルギーの源泉は何だったのだろう。
 逼迫したその時代の社会情勢、同人た ちの建築身分に対する目覚め、それと同時にその若さ、これを失するるわけにはいかない。(以下略ー竹村新太郎『建築家山口文象人と作品』より)


●設計集団としての創宇社
 創宇社は実は、山口文象グループのアルバイトの設計集団でもあったのだ。
 隅田川にかかる清洲橋の照明器具や欄干などの付属物の設計は、創宇社の連中で行ったのだそうである。
 そのほかにも当時の震災復興のいくつかの橋についても、同じように携わったそうであるが、これは山口文象が持ってきたアルバイトであるという。この話は、山口文象からも竹村さんからも、わたしが直接に聞いた。
 1924年に、山口文象は逓信省を辞めて、内務省復興局橋梁課に移り、関東大震災復興事業の橋の設計に関わることになった。もっとも、わたしが当時の復興局の職員名簿の中を捜したところでは、山口も岡村も見当たらないから、正式の職員かどうかは分からない。
 その頃の橋梁設計は、土木エンジニアと建築家とが協力することが普通に行われていたようだ。
 例えば、山口も竹村さんもこどもの頃の1911年にできた日本橋が、土木の樺島正義と建築の妻木頼黄のコンビよるデザイン(意匠設計)であった。
 建築家の山田守は、御茶の水の聖橋のデザインをしている。ついでながら、最近この聖橋がお化粧直しされたが、組積造風の目地がはいったり、妙なところに照明器具がついたりして、山田守お得意のヌルッとしたアーチの表現派デザインが殺されてしまった。
 山田守のヒキで山口文象が橋に関わることになり、その裏方設計要員として竹村さんも含めて創宇社のメンバーが橋の付属物の設計にたずさわったのである。そう思って震災復興に関わる多くの橋の付属物を見ると、その頃の建築デザインの傾向を見ることができるが、実はその裏には創宇社がいるのだった。
 この話を聞いてだいぶ前になるが、東京都の橋梁関係部署にお願いして、当時の橋梁設計原図を見せてもらったことがある。しかし、付属物の設計図はほとんどなかったし、あっても創宇社の跡を発見することはできなかった。
 なお、その設計原図は、勝鬨橋の監視塔と機械室の片隅に積み重ねてあったのには驚いた。今はどうしているだううか。 
 山口文象が復興局から石本喜久治の事務所に移ってからは、創宇社同人は白木屋(現在の日本橋東急百貨店)の設計を手伝ったという。
 大阪にいる石本から送られてくるスケッチをもとに、設計図をみんなで描いた。その金ピカデザイン(本当に金色のタイルが貼られた)に、山口文象をはじめ一同閉口したという。
 なお、今の東急百貨店は、戦後に坂倉順三のデザインで大改装されて、石本デザインは一掃されている。ところが面白いことに、今の建物を裏通りから見上げると、いかにも山口文象らしい骨格の美しいプロポーションのデザインがある。 多分、裏ファサードは山口文象にお任せだったのだろう。坂倉も裏まで改装しなかったのだろう。(注2)
 1930年、山口文象のヨーロッパ行きで、運動体としても設計集団としても創宇社は事実上は停止する。
 1932年に帰国してきた山口文象が建築事務所を始めると、これに創宇社メンバーの数人が入所した。形を変えた設計集団として継続したとも言える。
 山口文象建築時事務所に入った創宇社メンバーは、広瀬初夫、山口栄一、道明栄次、河裾逸美、渡刈雄であるが、他のメンバーも設計や現場の応援をしていたようだ。

●創宇社の溜まり場
 
創宇社とその名は壮大でも、それほど収入があるわけでもない下働き職人たちが、若さだけでは運動はできない。
 その彼等を精神的にも金銭的にもひきいたのはリーダーの山口文象だが、彼とて浅草下町の職人の子であり、金持ちパトロンではない。
 だが山口文象は不思議な才能の持ち主だったようで、その頃もその後もいつの間にか彼にはパトロンがつくのであった。
 まえにも述べた山田守が、その初めであろう。彼は当時の逓信省の課長で後に建築家として有名になったが、山口文象を分離派にひきいれたり、復興局で橋にタッチさせたりしたのであった。
 山田のおかげで得た山口文象の橋の仕事を手伝って、創宇社メンバーはアルバイト仕事で懐が潤ったのだろう。
 当時の美術界の大御所の仲田定之助は、山口文象のパトロンであったらしい。仲田の夫人で画家の仲田菊代のアトリエの設計も任せられている。自分の持ち物の銀座の三ツ喜ビルの屋根裏部屋や、大井滝王子の家を提供したりしている。
 これらの場所が創宇社の溜まり場で活動の根拠地であり、またアルバイトの場であったようだ。
 大井滝王子の家は、山口文象が家族と暮らしていたところだった。竹村さんたち創宇社の連中は、そこにわが家のように泊まり込んで、橋や白木屋の設計をしたりして、まるで梁山泊である。
 みんなでウクライナコンペ案をかいたという銀座三ツ喜ビルも、創宇社の巣だったようだ。ちなみに、このビルの一室から川喜多練七郎が「アイ・シー・オール」を出したのであった。川喜多も山口文象に負けない変り種の建築家であった。
 この三ツ喜ビルは、3階建てのマンサード屋根がついて、銀座ではちょっと不思議なファサードを見せて、資生堂と張り合うように建っていた。一昨年だったか火災があり、最近取り壊されてしまった。(注3)
 
その設計は、竹村さんは山口文象という説だったが、石本喜久治あるいは川喜多練七郎という説もあった。今では、だれの設計か判明したのだろうか。わたしは山口文象からは、自分が設計したとは聞いてはいない。
 
●近代建築の運命
 山口文象は中央郵便局のデザインのいきさつについては、なんども発言しているし、私も直接聞いたことがある。だが、山口文象の言っていたことに、竹村新太郎さんは疑義を発している。
 わたしはこのあたりの事情はよく分らないが、日本の近代建築デザイン史でもう解明されていることなのだろうか。
 ところで今、丸ビルを取り壊すことが三菱地所から発表されて、保存要請が学会などから出されている。(注4)
その隣にある東京中央郵便局の余命も、考えて見るとそれほど長くないかもしれない。
 情報通信環境の大変革で、現況の郵便物を扱うだけの施設では日本の中枢業務地区の情報センターとしては機能しない時代になっていて、郵政省も三菱地所と同じように建て直しを考えているに違いない。
 高度情報環境に対応するために壊して建て替えるのか、それとも他の用途に転換して保全活用できるのか。
 あるいは銀行協会ビルのように、元の一皮だけ新ビルの外壁にはりつけてお茶を濁すのか。
 東京駅のような厚化粧の様式建築ならば素人目にも派手なので、ミーハーも含めてのお助け運動が起きやすい。でも、東京中央郵便局のようなスッピンの近代建築では、玄人筋はともかく、一般からのお助け支持をどう得るか前途多難だろう。
 山口文象の設計作品には、純和風木造といわゆる洋風建築との両極端がある。和風建築は大工の子として身に着いているものであったろう。
 洋風デザインは、時代の子として当然の志向である。山口事務所での洋風建築の担当は、創宇社メンバーだった河裾さんだったそうである。
 戦前に山口文象の設計した洋風の、いわゆる国際建築様式なる箱型建築は、今では黒部第2発電所が唯一残っているだけである。特に庇のないフラットルーフの木造洋風建築は、格好はよいが風土的に無理で、早いうちに消滅している。
 それにひきかえ和風木造建築は生命力がある。新宿の林芙美子邸、鎌倉の浄智寺茶席、久が原の自邸などが健在である
 彼にとっていわば表芸の洋風建築が見られなくて、裏芸の和風建築が健在とは、あの世で竹村さんたち創宇社一同を迎えて苦笑しあっているだろう。
 『全員そろったよ文ちゃん、また一緒にやろうよ』と、竹村さんの声が聞こえそうだ。(970620)

(注1)これは竹村氏の追悼文として、「文庫たより」(竹村文庫の機関紙)に掲載した。
(注2)東急百貨店は井までは取り壊されて、オフィスビルになろうとしている(2001年)。
(注3)今は、普通のビルに建て替えられた(2001年)。
(注4)今では取り壊されて、その後に超高層ビルを建設中(2001年)。  


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