造景を訪ねて
富山県下新川郡宇奈月町

黒部峡谷鉄道猫又駅から眺める黒部川第2発電所。右は目黒橋(撮影:伊達美徳1993)

 真夏、涼しさ美しさちょっぴり冒険の観光客たち、黒部峡谷鉄道のトロッコ列車は、緑の懸崖を縫いながら登ること約50分、トンネルをでて猫又駅の直前、右に見えてきたのが、わたしの訪ねる赤い鉄橋と白い建築である。
 真っ赤な鉄骨の橋梁は力強い曲線、真っ白な箱型の建物は端正で美しいプロポーション、その背景に深い緑と急峻な岸壁、手前には流れ下る激流。これらの厳しい自然とダイナミックな建造物とは、たがいに対峙して緊張感をもちなが美しい景観を創りだしている。
 この建築は、富山の建築百選にも選ばれている「黒部川第二発電所」である。戦前、日本の建築界ばかりか土木界でも評判となった名建築だし、わたしの師匠の作品なのだ。
 実はそのデザインには、担当の土木技師と設計した建築家の意欲と苦労が秘められている。

 「周囲の美観に合致するように配慮された優美な発電所」と、黒部峡谷鉄道パンフレットの黒部川第二発電所の解説にある。
 しかし、ほんとうにそうだろうか。むしろ意識して自然と対立するデザインをしたように、わたしには見える。
 この発電所ができたのは1936年、そのころ日本建築界の新風は、一切の装飾をとりはらって機能に素直かつ構成の美しい建築だった。まさにこの発電所がそれで、国際建築様式とよばれてヨーロッパから世界に広がっていった。なぜ、ここに最先端建築が生れたのか。
 この設計者・山口文象は、1932年ドイツ修業から帰国すると日本歯科医科専門学校病院の設計で一躍スター建築家となり、続いてこの発電所と小屋平堰堤のデザインで確固たる地位を築いた。
 日本電力技師長の石井頴一郎は、かねてから黒部では国立公園に適した土木デザインをしたいと考え、内務省復興局橋梁課長の田中豊に相談した。田中は、橋梁課嘱託技師として関東大震災復興の橋をデザインしていた山口文象を紹介したのだった。
 1924年、石井は山口を復興局兼務の嘱託技師とし、庄川水系ダム、黒部川第二発電所、小屋平堰堤等のデザインをさせる。1930年暮から32年夏まで、ダムの調査にドイツに行かせたたが、山口は、その機会を建築デザイン修業に活用したのだった。
 当時、バウハウスを去ってベルリンにいた世界的大建築家W・グロピウスのもとで建築修業すると共に、カールスルーエ工科大学のダム権威者からも水理学の指導を受けた。
 「デザインができて内務省に出したら、四角の建物は駄目というのだよ。発電所を茅葺屋根にしろとか、ダムは土橋みたいにして擬宝珠の欄干つけろとか、もう弱っちゃってねえ」
 これは30年も昔、わたしが山口から聞いた話で録音もある。気鋭の山口と石頭の内務官僚との景観論争は、裏から手を回して収めたとかで、今に見る日本の近代建築高揚期の典型的なデザインとなった。
 今見る人たちは、この発電所と橋をどう思うだろうか。「周囲と合致」していると言うには無理があるだろう。それでは美しくないかといえば、これが実に美しい風景だから、景観論は一筋縄ではいかない。
 山口の建築デザインの身上は、その抜群のプロポーションの良さである。だからこそ自然と対峙しても美しいのだ。
 発電所に渡る目黒橋も、二つ先の駅の小屋平ダムと水門塔なども山口デザインである。では、読者ご自身の眼力で美しい風景発見の旅へ、トロッコ列車でどうぞ。
   文=伊達美徳(都市計画家 元RIA役員)
【交 通】
黒部峡谷鉄道宇奈月駅から約50分の猫又駅対岸

山口文象は設計にあたって、デザインを確かめるため、また他の理解を求めるために、多様な完成予想図を何枚も描いている。(1933年ころ、水彩、竹村文庫所蔵)


No.40
2004.Aug
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