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景観再考(その3)歴史の景観 ー建設通信新聞19992年連載- ●都市から歴史が消える 都市から歴史的建造物が消えつつある。東京都発行の都市白書(1991年)によれば、東京都心五区(千代田、中央、港、新宿、台東)にあった歴史的な建造物として、日本建築学会「日本近代建築総覧」に1980年にリストアップされたものは1071棟であった。ところが90年には417棟になって6割以上がなくなった。 さて、ここでは東京駅の丸ノ内口にある赤れんがの駅舎をとりあげよう。 ![]() 東京駅とその周辺の土地を再開発して、東京都心の諸活動の需要に対応する施設を設けて高度有効利用を図るとする国の調査は、一応の結論をみて次の実務的な計画に向かっての検討に入ろうとしている。 対象としている範囲はJR2者の所有する東京駅そのものと、丸ノ内側及び八重洲側の駅用地に隣接する国鉄清算事業団用地、東京中央郵便局及び一部民有地を含んでいる。 発表された方針の中で画期的なことは、明治の意匠を残す赤レンガの丸ノ内本屋を「形態保全する」とした結論である。 開発と保全との調和を目指した概念が、公にうたわれた点が評価されるものである。ようやくに再開発の論理のなかに、保全の論理が登場してくる時代となったのである。 ●三菱ガ原から一丁ロンドンへ ここで丸の内から東京駅にかけての変遷を簡単にみよう。 東京駅を中心に丸ノ内の経緯を追うならば、その近代の出発点は1877年(明治10)に明治天皇が江戸城に移り、皇居となった時点となろう。この時から丸ノ内地区は江戸と訣別して日本の近代化都市へと歩み始めた。 1888年に東京市区改正条例が発布されて、丸ノ内地区は商業街区として位置づけられ、中央停車場の設置も決り、2年後の1890年に三菱社に一帯が払下げされた。 三菱はこの時既に、ロンドンのロンバードストリートのような街づくりをするというマスタープランをいだいており、今日の都心形成の基本はこの時に定まったと言えよう。 1890年に三菱ガ原の南に接する位置に東京府庁舎ができ、1899年には記念すべき三菱1号館が完成した。草ぼうぼうの野原は南から北に向かって順に開発が進められ、1911年にはいわゆる一丁ロンドンが出現した。 ●中央停車場・東京駅の誕生 ![]() 一方、東京駅は1890年に計画は決定していたが、日清・日露両戦争で財政事情が許さず伸び伸びになっていて、辰野金吾がその設計に着手したのは1906年であった。この年に辰野の代表作である日本銀行本店が竣工している。 1914年12月にようやくにして東京駅は開業となり、わが国の中央駅としての出発をしたのであった。その中央駅としての役割を負うために、この駅舎は駅としての単に交通機能が果せればよいとする建築であるわけにはいかなかった。 当時の鉄道院総裁の後藤新平からもできるだけ大きくという指示がでたり、その意匠も日本近代化のシンボルたらんとする意気込みをもって、いわゆる辰野式ルネサンス様式となる。 しかし、基本は駅舎であることにあるのでプランは単純極まるものであって、4か所の通り抜けできる巨大なゲートである。この単純さと巨大さの故に、その後80年間近くを存続でき得て来たのであろう。 ●近代日本の都市景観形成 東京駅はその華麗さをもって世間1般からは歓迎されて登場をした。オープニングは第1次世界大戦の好景気のなかで一大イベントであった。 しかし、専門家の間では必ずしも評価が高いとは言えない論調が当時の出版物に見られる。機能的な点では、停車場そのものの位置への都市計画的な疑問、出口と入口が南北に分断されているプラン、当時の繁華街 である京橋・日本橋の側(今の八重洲側)に出入り口がないという二重の不便さを指摘されている。また意匠的には、辰野も悩んだとみられるがその余りにも長大さをバランスよく納めることに果たして成功しているかについて異論があった。 だが、これをもって東京駅が価値を減ずるとするものではない。いつの世でも話題作を素直にほめる専門家は少ないものであることは、新都庁舎の例に見るごとくである。 当時の丸ノ内は南の一丁ロンドンの外はまだ野原であり、そこに立つ、というより横たわる東京駅は確かに異様な光景であったに違いない。だが、あえて江戸の旧市街に背を向けても皇居に向かい合う姿勢をとることに近代化のシンボルとしての意義があった。 駅前から皇居に至る行幸道路と呼ばれたブールバールは、市区改正道路の1等1類20間幅の2倍の40間の幅員を持つ特別な広さである。この道の堀端に海上ビル(1917) と郵船ビル(1923) がゲートをつくれば、その道の両エンドに位置する国家的象徴空間と合せて、ここに明治日本の近代化の都市景観ができあがった。 ●関東大震災と丸ノ内の発展 1923年の関東大震災が丸ノ内の本格的発展に力を貸したことになる。東京駅も丸ノ内のオフィスビルの多くも無事であった。アメリカ技術をとりいれた竣工直後の丸ビルは大被害を受け、2年後にやっと復旧完成、そして40間道路も内堀をこえての宮城内まで開通し、丸ノ内は近代日本から現代日本に足をふみいれた。 それまでの東京の都心であった日本橋や銀座から移転してくる企業も数多くなり、1928年には中央郵便局が完成して情報 中心性を高める。日本橋から銀座へ、そして日比谷から丸ノ内へと右まわりに都心は動いて、日本のビジネスセンターとして名も実も形もそなわって、三菱の意図したロンバード街を越える近代的街づくりは成功した。 ●姿の変った東京駅 丸ビルとならんで駅前の景観を整える新丸ビルも着工するのだが、時代は暗く展開して戦争により基礎工事でストップさせられ、そのまま防火用水になって戦後になるのであった。 太平洋戦争は1945年に丸ノ内にも空襲による大被害をもたらした。東京駅は屋根が抜けて焼けおち、無残な鉄骨をさらしたのであった。 だが場所が場所だけに、戦後の物不足じだいでも大急ぎに焼けたその年にはもう修復されたのであった。その姿は、南北にあった丸いドームは中央と同様の寄棟形になり、ドームとドームを結ぶ三階建の部分は上部1層を削って2階建になった。屋根の鉄骨は木造に、銅板ふきはスレートに変わる。デコレイティブなインテリアは復元すべくもないが、その巨大なスペースだけは残った。 しかしながら、3階建てを2階建てにしても屋根が変っても、その後半世紀近くもの間をなんとかしのいで来ることができた程に、後藤新平の巨大スペースは先見の明あるものであった。逆説的にいえば、東京駅の建築としての戦後の不幸は、この応急的復旧に耐えて生き長らえてきたことにあるのかもしれない。 ●丸ノ内美観論争 戦後の丸ノ内はまたもや日本のビジネスセンターとしての活気をとりもどして発展していくが、技術革新が新しいオフィス時代の到来を告げる。 1966年に東京海上ビルの超高層建築への建て替えが持ち上がり、これを機に建築行政側と建築業界側との間に一大問題が持上がった。一般に「丸ノ内美観論争」といわれる“事件”である。 旧市街地建築物法と旧建築基準法による31メートル(100尺)の軒高のスカイラインと、明治日本の近代化の象徴である様式建築とが、丸ノ内地区の特色ある都市景観を形成していた。その景観はこの建て替えによって大きく崩れることを意味するものであり、政治、行政、業界、建築家、文化人を含めて論争となった。 行政と政治の側は丸ノ内の景観を現在の形による方向に求めて、美観地区条例で対処しようとした。この美観派の声は、今 いうところの保存という次元ではなく、皇居という特別な環境を中心とする周辺の都市景観形成として、ボリューム論、高さ論であった。その裏には政治的、経済的な意図が働く面があって、いかにも保守派の論という様相を呈した。 これに対して建築界は、高度成長の波にのる超高層建築への開発指向もあって都市形成のダイナミズムこそ時代の要請であるとして、美の表現と建築デザインの自由を唱えて抵抗したのであった。一種の文化論の装いをまとっているが、保守派への反発と超高層建築に単純にあこがれる建築家の本能が働いていたとも見られる。 この頃、F・R・ライト設計の帝国ホテルの保存問題が大きな話題であったが、丸ノ内では建築の保存を正面切って言う声は聞こえなかった。当時の建築学会の機関誌には「丸ノ内には保存すべき建築は無い」とまで言切っている建築評論家もある。 ●超高層建築時代へ こうした論争と行政の動きの結果は、現在に見る様に軒高百メートルの東京海上ビルが建ち、その後、日本郵船、三菱銀行、第一銀行等の建築が建て替えられ、建築界の主張が通ったかにも見える。だが、妥協の産物となったというところが実状であろう。 こうした結果のもたらしたものが現在の丸ノ内の景観である。その評価が定まるにはまだまだ時間が必要であろうが、この事件が引金になって近代日本を代表する名建築のいくつかが消えたことは、少なくとも確実である。 そして西欧近代をトレースする時代には訣別したのであった。それはかつての政治原理ではなく経済原理の世界の表現となって、新たな世界都市東京の都市景観を生みだしつつあり、新しいコンフリトも生じつつある。 ●東京駅再生への動き 1977年に国鉄は東京駅の丸ノ内側と八重洲側一帯の所有地を再開発することを発表し、明確な案が示されてはいなかったが、都知事がこれを応援する。更に1981年には国鉄の案として、超高層ビル構想がだされた。国鉄財政再建のための策のひとつである。 だが、時代は低成長になり、改めて身の回りや地域の歴史を見直す一般的風潮が主流を占めており、赤れんがの駅舎を残せという保存再生論が新聞をにぎわわせる。 ![]() そして中曽根民活がおきる1986年から、東京駅を再開発して高度利用する方向が出される。一方、三菱も丸ノ内マンハッタン計画を発表して、にわかに騒然となった。 東京駅も丸ノ内も墓場の石塔群のようになって建てかえられ、歴史的建築は無くなってしまうと世間は思ったような時代であった。明治の栄光たる赤れんが駅舎を残せという声がおおきくなる。 一方、学者たちと各省庁関係者による国土庁主催の東京駅再開発委員会が設けられて、再開発の検討がすすめられた。その結果1988年、赤れんがの丸ノ内駅舎は「形態保全」の方針が打ち出され、同時に駅の上と隣接する街区を合わせての計画的再開発の方向が示されたのであった。 今、改めて都市景観が総合的に問われる時代になって、東京駅の駅としての機能性、東京都心の拠点としての立地性、国民的な中央停車場としての象徴性、丸ノ内の都心景観の方向性等を見極める必要があろう。 ●形態保全とはなにか ところで、いまの赤レンガ駅舎の姿は、太平洋戦争末期の空襲災害によって当初の姿を改変されているところが多い。この様な場合に「形態保全」とは何を意味するものであろうか考えてみたい。 「保全」とは、建築技術上の用語としては一般的にはメインテナンス、つまり建築物及びこれに関連する施設・設備類を良好な状態に保つことを指す意味に使われている。 ところが環境科学の自然保護の分野からの考え方と、歴史的建築修復の分野の考え方とから次第に発展してきた言葉としての「保全」とは、もっと複雑な様相を呈している。 “保つ”という意味に多くの段階があり、保つべき対象物と人間との関係について、保護」、「保存」そして「保全」というヒエラルキーを与える。 「保護」は、自然保護というようにサンクチュアリーとして、対象物に全くの人間の介入を許さない状況を形成することをいう。したがって、植生等の自然遷移によって景観の変化がおこることは当然であるが、これを止めることをしてはならない。 「保存」とは、犯罪現場保存のように対象物のある状態をそのまま変化しないように保つことである。人工的な介入による景観の改変を行ってはならないので、植生の自然遷移についても人工的介入でこれを止めることになる。 「保全」とは、保存をベースにしながらも対象物を人間が活用することで、ある程度の介入・変化を許容する状況を言う。ここでは保存ほどには徹底しないが、景観や環境のドラスティックな変貌は拒否しつつも、人間の行動との対応の中で漸進的に改変が進むことを認める。保存と改変とが同居しているといえよう。 この意味では建築保全はたしかに利用することに対応して、設備や間仕切り、仕上などの改変を行うのだから、「保全」という言葉は正しく使われているといえよう。 ところがこの場合、何を保存して何を変化するか、変化の度合いはどの程度なら認められるか等、対象物により使われかたによりそれぞれに異なる。特に歴史的評価や環境評価というような、絶対尺度よりも相対尺度による視点がこれに加わるときは複雑なことになる。 こうして“使うこと”と“保つこと”とが同居しており、歴史的評価と環境的評価が問われて、複雑な様相を呈したのが東京駅の丸ノ内赤煉瓦駅舎の保全の論理である。 東京駅が1914年に開設されて以来、東京のみならず全国の中央駅として多くの人々に、永い年月にわたって利用されてきた。これは当然のこととして一般から愛着を持たれ、これが無くなるあるいは姿を変えることに抵抗感が生じる。 そして保存運動を呼びおこすものとなり、それは「東京駅を愛する会」のような復元運動へとつながる。だが、特に声の大きな復元論も決して説得性ある論理を展開しているとは言い難い。 研究の必要があって調べているのだが、東京駅丸ノ内駅舎の保全には「復元」だけでなく、基本的な考え方がいくつか存在するのである。整理すると、「当初形態復元論」、「現在形態保全論」、「創造的保全論」に大別される。 ●当初形態復元論 まず第1の論は、保全とは当初の形に戻すこととする考え方である。すなわち1914年建設時の、あの三階建てのドーム群の姿に復元するのである。 この論の立場は、「東京駅を愛する会(三浦朱門氏ら代表)」の中心をなす意見である。明治の日本の勃興期を象徴する東京中央ステーションの華麗なドーム群の姿は、ひとつの時代を画した建築としてとらえるべきである。開業の時あたかも第1次大戦の戦勝凱旋記念に、この駅の開業式をあてるというイベントさえもあったのである。 皇居に向かって立ち、夕日が照らすと美しく映えたあの昔日の姿こそ、わが国近代化をおしすすめた偉大な明治の精神を具現するものである。今の姿は昭和の時代の不幸によって歪められたものであり、これを三階建てに戻し、ドームも復元すべし、という論である。 建築史学者藤森照信氏は、この建築がわが国建築界の育ての親である辰野金吾の3部作のひとつであり、様式建築の日本化を果したという評価を下して、復元こそ最も正しい形態保全の道とされている。 ただし復元は外部は忠実だが、内部まで全てを復元することを強調してはいない。主要な部分のみでもよいとして、新しい機能に対応する改変を許容するという柔軟さもある。 ●現在形態保全論 第2の保全の考え方として、今の姿すなわち、第2次大戦によって1945年に変った現在の形態を保全するべき、とする 意見もある。赤レンガ駅舎の当初の姿が保たれた期間は1914年から45年までは31年間、1945年から今の姿になって既に47年間を経ている。当然のことながら、今の姿のこの駅を利用し、この姿を東京駅と見ているた人々の方が、はるかに多く生きている時代になっている。 もしこれを当初の姿に戻したなら、それは多くの人々にとって愛着を持っている今の駅とは異なる姿となるだろう。それで良いだろうか。 また、当初の姿がいわば第1次大戦の戦勝記念碑ならば、現在の姿は第2次大戦の敗戦記念碑となり、その意味での価値は今の姿にも十分に重いものがある。特に東京都心において、第2次大戦を記念すべき建築物は全く失われたと見られるなかで、これほど貴重にして有効な建築物を失いあるいは改変することは大きな問題、とする。 もちろん、この論も今のままで「保存」するのでなく、耐力的な補強や機能的改善などを施すことは当然とする。少なくとも今の景観を昔の景観に戻すことは、それによって失うものも大きいとする論である。 ところで、現在の姿が確かに当初の形が破壊された時に、仮の姿で修繕されたには違いないにしても、その結果の姿はあの物資の極度に少ない時代に、よくぞここまで当初の姿を生かす努力をしたものと言わざるを得ない。 両サイドの内部のドーム天井(なんとジュラルミン製だ)はフラット に張っても1向に構わないだろう。その上の巨大な木組みの大屋根だって、トタン葺きの三寸勾配でも用は足りたはずだ。外壁は全部モルタルぬりの方がはるかに容易であったはずだ。現に裏側にあたる線路側はそうなっている。それを、あそこまでも凝った意匠にしたのだ。当時の国鉄の建築家の復興にかけた息吹が伝わってくる。復興設計のパースを見たことがあるが実に見事なものであり、うっかりすると辰野金吾設計案のひとつかとも見間違うものである。 これはこれで記念的建造物の保全的復元の模範ともいうべきものとなっていると評価できるのである。これを仮の姿ということで復旧したという当時の「事情」だけを理由に、簡単に変えてよいのだろうか。 若干の論の飛躍を承知でいえば、憲法改正論の、占領軍の押し付けだから、という理由の感じもある。 ●創造的保全論 第三の考え方は、当初の姿を復元することに基本的には賛成であるが、新しい創造活動として復元をとらえるべきとする論である。 その当時とは周囲の景観が大きく変化した現在では、単なる復元しただけではその明治の精神を生かすことは不可能といわざるを得ない。したがって、新しい現代の時代相を持った形での創造的な保全を図るべきとするのである。 創建時における日本の象徴となる建築をつくるという辰野金吾の心意気を、今の時代に新しい形で創造し直すことが、真の意味での保全であるとする論点に立っている。 たとえば、辰野金吾が明治の集大成とでもいうべき東京中央駅のデザインにおいて志向したものは、第1にあの華麗なるスカイランであり、町並みとしての建築であった。 三菱ガ原から皇居まで一望できる都市空間の中で、300メートルも続く長さと今の丸ビルよりも高い5つのドーム・尖塔群は、ほとんどこの建築だけで壮大な都市景観を形成していた。 この景観こそが東京駅の神髄であったのであり、いま周りに高層ビル群があるときに、単に当初の姿の復元では、これを真に復元するものとはならない。 建築は単なる回顧趣味ではなく、都市の景観を創造するものであり、それが歴史的な環境としての景観を必要とするなら、そのデザインの意図したところを今の時代に継承し、生かすことこそが復元であると考える。 この論は建築家丹下健三氏の提案に代表され、超高層建築のスカイランに創建時のドームと尖塔群を乗せた計画がある。 あるいはまた、辰野金吾のデザインを受継ぐところがあったとしても、新しい姿の東京のシンボルとなる建築物をつくるべきであるとする論もある。 ●保全論の行方 以上三つの論に整理してみたが、このほかに「別場所移築復元論」もある。 さて、どれが最も適切であり、何が歴史的評価に耐える方法か、読者のお考えはいかがであろうか。 参考までに、国土庁が発表した東京駅周辺地区総合整備基礎調査報告書(1988年)のなかの整備方針のうち丸ノ内駅舎に関する部分を抜粋しておく。
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