●中越山村4回目の春に想う

                  
                       伊達 美徳


1.雪国山村の春はブナが萌える
 中越山村の法末集落に春が来た。この冬は特に雪が少なくて、とうとう屋根から雪下ろしをすることもなかった。
 いつもなら、ふもとから雪が融けるのを追いかけるように山菜が出てくるのだが、今年はいっぺんに木の芽も山菜も出てきて、採取も忙しいと村人は言っている。
 ブナの林に行って見た。今はちょうど若葉がいっぱいに萌え盛る時である。春のそよ風に萌黄色の炎が陽に輝く。
 ブナ林の中にじっと座っていると、次から次へと小鳥たちがやってきて、さえずり交わすので、けっこう賑やかである。通り過ぎるだけでは静寂と思いがちだが、風にそよぐ葉ずれのささやきとともに、実は森には森の賑わいがある。
 処々にヤブツバキが濃い緑の葉の中に赤い花をいくつも咲かせ、コブシが白い花で春の装いをしている。

2.古老の話を聞いておきたい

 今年も棚田で米つくりをやろうと、仲間と畦直しをしてきた。2004年の中越地震のときに棚田の畦の法面が一部崩れたが、そのままにこれまで稲作をやってきたが、そこを治すことにしたのだ。
 段々になっている棚田だから、上の田の畦土が2mくらい下の田に崩れ落ちているのだが、その土を下から上の田に持ち上げるのである。けっこう重労働である。
 隣の棚田では、村の長老である90歳のS平さんが、ひとりで畦直しをしている。元気なものである。聞けば、田んぼのちょっと低くなっているところを土を入れるのと、そのあたりの畦を高くしているとのこと。
 米つくりの指導をして下さっているTさんもやってきて、隣の仕事をよく見習え、90歳のS平さんに負けるな、なんてハッパをかけられる。
 S平さんと一緒に休憩して、いろいろと昔話を聞く。日中戦争から太平洋戦争へと行ききりで、最後はビルマ戦線で捕虜となって、1942年に戻ってきたときは30半ばだったとのこと。
 S平さんばかりででなく、この村には超高齢者が多くいるのだから、その方たちの話をしっかり聞いて採集しておきたいと思う。今のうちに聞いておかないと、話す側も聞くこちら側も能力が衰える。さてどうしようか。

3.土地の形が変っていく

 わたしは雪国育ちでないので珍しいことばかりだったが、3年余も通っていると色々と分かってくる。冬の雪がすごいだけに春の明るさが引き立つのだ。いっせいに芽吹く今の明るさはどうだろう。
 ふもとの町や都会に出た人たちも、こんなときに一時帰郷して山に入るのは、そんな春のすばらしさが身に沁みているからだろう。もっとも、このところ大雪はめったになくなってしまったが、。
 村の地形・景観は時代とともに変ってきているのが、このあたりの山村の特徴である。地形が変るとは、小さな地崩れが常に起きているような地質の地なのだ。中越地震のような大きな地崩れが時々起こって大きな景観変化がおきる。大小の地崩れのたびに、棚田が増えたり減ったりしているらしい。
 だから実に複雑な地形であるのに、そこに棚田をつくると水を引かねばならないから、その水路も複雑になる。尾根に近い集落だから大きな谷はないのだが、あちこちに人がやっと通れるほどの大きさの素掘りの農用水専用のトンネルがある。そばには水流の見えない棚田でも、その横にそのトンネルが見えていることがある。どこかに互いにつながっているらしい。
 地震でそのトンネルが崩れると、棚田として使えなくなることが起きる。その系統の水路に頼ってきた棚田の一群が耕作放棄地となる。村を離れてしまった人の田も耕作放棄地となる。そこは自然の山に戻ろうとしているし、すでに戻ったところもある。
 かつて19世紀末には400人近く住んでいて、営々と何百年かにわたって変わる地形を棚田に生かしたり生産林として使い続けてきたこの山村も、いまや100人を切るありさまだ。人口減少社会に入った日本でここでもさらに減少になるから、楽観を許さない。
 そのような人と自然のかかわりの歴史を記録すると、何かが分かるような気がする。例えば人間がどう土地利用をしてきたか、それは今のような機械力のない時代には、まさに自然と折り合いをつけながら、今流の言葉ならば環境に配慮しながら生きてきた歴史であろう。土地利用と植生の変化をたどれば、環境問題への何かの視点が発見できそうに思うのである。

4.車のない頃の昔の道はどこに
 昔の道はどこも人の歩く道、あるいは馬か牛の歩く道だったが、今はどこの道も自動車の入る道となった。自動車の入らない道は自然消滅の運命をたどる。
 法末集落から最も近い隣の集落は、峠の東の小千谷市の若栃集落である。歴史的には当然そことの交流が最も多かったのだ。かつては小千谷縮をこの法末集落でもつく手いたことが記録にある。
 だが、今では自動車交通が便利になった小国との交流が多く、また市街地のある小千谷との交流が多いのは、当然の成り行きである。
 法末集落に公共交通でアクセスするには、長岡駅から小国車庫行きのバスで1時間、そこから法末まで6キロは歩くかタクシー、もうひとつは小千谷駅から若栃集落までバスで30分、そこから法末まで2キロを歩く。
 わたしはこの若栃から歩くルートが好きで何回も往復したが、そこも自動車の通る道となっているから、昔の人はもっと近道をしたはずと思っていた。案の定、聞いて見たらそうであった。
 最近、その昔の道を復活しようと、林を切り開いたのであった。名づけて「嫁入り街道」で、かつて若栃から法末に嫁入りしてくる人が多く、この道を通ったそうである。ロマッチクなものである。 

5.独自の地域文化を伝える
 こうやって消え去るもの、復活するものなどあり、だからこそこの山村の地誌、歴史、人物史を記録してみたいと思うのである。
 複雑に変化する自然地形とそこに降る豪雪のなかで、人々はどうそこで文化を築いて生きてきたのか、興味は尽きないのである。もう絶えたか絶えそうな芸能や行事も記録しておきたい。
 法末の西の小国町側の麓にある太郎丸集落の春の祭に、はじめて寄ってきた。
 この太郎丸の真福寺には、江戸後期の放浪の高僧・木喰上人(もくじきしょうにん)の木彫像が4体あって、一昨年に訪問してそのうち3体を見せていただいた。見ているとこちらが微笑みたくなる微笑仏の梨の木観音像と、門の両脇に構えるどこかユーモラスな仁王尊像である。
 ここで見た木喰仏に魅せられて、更に柏崎市の十王堂を訪ねて、ここでは閻魔様の像を拝観した。そしてこの春には、山梨県身延町にある木喰上人の生家にある5体の五智如来増を見にいってきた。
 その太郎丸の真福寺のそばにある神社の仮設舞台で、住民たちによる手踊りや村芝居と、郷土芸能の巫女爺人形踊りが、お祭に演じられている。
 巫女爺(みこじい)人形踊りは、このあたりの各地の集落にもある芸能らしい。巫女姿の等身大で立つ少女の人形と、座り込んだ年寄り人形を、それぞれ二人の使い手が扱って、地域の民謡に合わせて踊らせるのであった。中学生にも扱わせて、芸能の継承をしているのだった。
 素朴きわまる芸能であるが、この日の神社の境内には、神に芸を奉納する形式に則って、社殿に相対して架設舞台が作られており、境内や拝殿に陣取った大勢の住民たちが子供連れで楽しんでいる。
 舞台に登場するのは、地元の人々、学校生徒たちらしく、芸の最中に声がかかったり、おひねりがどんどんと投げ込まれている。ヤキトリや綿アメなど定番の屋台もでていて、子供が妙に多いのは、都市から子連れで帰郷した世代が大勢いるからだろう。
 わたしは田舎町の神社の生まれなので、少年時の思い出の中にあったなつかしい祭の風景であった。

6.2地域居住の先進地か
 その前の晩、法末のTさんの家で、山菜料理を肴に宴会をした。Tさんは遠く茨城県で働いていて、もうその家には住んでいないのだが、別荘として使っている。
 今は季節に応じて、勤め先や居住地の山歩き趣味の仲間たちと夫婦連れで一緒にやってきて、山歩きと共に山の手入れなどをボランティアでやっている。この地を去っても、そうやってたびたび訪れることで、山村を維持する模索をしているのだという。
 たしかに、ほかにも小千谷や長岡の町に住んでいて、通勤農業をしているもと住民あるいはその跡取りの人たちもいる。集落に住んでいても、いまやほとんど車で近くの田畑に通っているのだから、それが少し遠くなったとて、たいしたことはない。泊まる必要あるときは、元の家に泊まればよい。完全なる定住でなくても山村は維持できることを、現実が示している。
 中越震災でにわかに有名になった山古志にもいってみたが、震災前と比べて格段に道路がよくなったから、通勤農業がさらにやりやすくなっているようだ。定住か通勤かとなやむのではなく、半定住・半通勤の生活も可能になったと、私は震災復興の行く末を見たのであった。
 2地域居住なる政策を政府が出しているが、それはどうも都会のものを田舎のあきやにもすませるようにして、農村の維持をしようということらしい。
 だが、わたしにはそれはちょっと違うような気がする。そうではなくて農山村の者を都会にも住むような施策がいると思うのである。
 若いうちは農山村暮らしの時間がが多くて、歳をとるにつれて都市での暮らしが多くなるような2地域居住政策であるべきだ。安心して老後を展望しながら農山村で暮らすことができるのが、まずは採るべき政策の本筋のように思う。だれもが2地域居住で売る時代となったら、その逆の、つまり現在推し進めようとする施策もよいであろうと思うのである。
 中越山村に4回目の若葉の萌える春を眺めて、田植えの準備をしつつ思うのであった。(090504)
 
 

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